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藤田 信吉(ふじた のぶよし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名下野西方藩初代藩主。

 
藤田信吉
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄2年(1559年
死没 元和2年7月14日1616年8月26日
改名 用土信吉→藤田信吉→源心(法名)→重信
別名 弥六郎(通称)、能登守(官途名)
戒名 休昌院一叟源心居士
墓所 栃木県栃木市西方町元の実相寺
幕府 江戸幕府
主君 北条氏邦武田勝頼滝川一益上杉景勝徳川家康秀忠
下野西方藩
氏族 藤田氏
父母 父:藤田康邦(異説あり)
兄弟 氏邦用土重連信吉、大福御前(氏邦室)
紅林紀伊守の娘、海野信親の娘、益木中務少輔の娘(吉江資堅の寡婦)
娘(杉原直秀室)

生涯編集

藤田(小野)康邦(右衛門佐、泰邦)の次男といわれているが、康邦は天文24年(1555年)8月13日、つまり信吉が生まれる4年前に死去しており計算が合わない。このため、康邦の孫または甥ではないかと思われる。また、藤田泰邦の一族である用土業国(新三郎、新左衛門尉)の子息とする説もある[1]

兄の用土重連藤田氏邦(康邦の養子)に謀殺されたことによりその跡を継いだ信吉は、はじめ用土氏・小野氏を名乗っていたが、天正8年(1580年)8月、旧知の間柄であったという武田家臣・真田昌幸の調略を受入れ北条氏から離反し、武田氏沼田城を引き渡した。その後、上州攻略で武功を挙げ、沼須城主となり、武田勝頼から5700貫の所領を拝領する。さらに藤田氏に復して勝頼から武田氏の通字「信」字を与えられ藤田能登守信吉と名乗り、海野信親の娘を娶った[2]

天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後、他の上州国人と同様に織田氏の重臣・滝川一益に仕える。同年6月の本能寺の変の後、上杉方の長尾伊賀守に通じ、5千の兵で滝川益重麾下4千の兵の守る沼田城を攻めたて水曲輪の一つを乗っ取るも、一益が小幡、安中、和田、倉賀野、由良、長尾(館林)、内藤を従え2万の兵で北上した為、信吉は沼田城攻略を諦め、6月13日夜、泣く泣く越後に落ちていったという[2]

上杉景勝から越後長島城を与えられた信吉は、以降上杉家中で数々の武功を挙げていく。特に新発田重家討伐戦では、新潟城沼垂城を調略によって降し、赤谷城救援に駆けつけた金上盛備率いる蘆名軍を撃破し、さらには五十公野城を攻略するなど、その功績は抜群であった。天正17年(1589年佐渡国本間氏討伐にも従軍し、天正18年(1590年)の小田原征伐では上杉軍の先鋒を務め、上野・武蔵の北条方の諸城を次々と攻略した。慶長3年(1598年)に上杉氏が会津に移封されると、景勝から越後津川城代として1万5,000石の所領を与えられた。

慶長5年(1600年)、信吉は景勝の代理として新年の祝賀のために上洛する。この際、徳川家康は信吉に銀子や青江直次の刀等を贈るなどして好意的に接している。しかし景勝の後に越後に入封した堀秀治が、上杉に叛意有りと訴えたことで上杉と徳川の間で緊張が高まった。上洛して申し開きをせよと迫る家康に対し、上杉家の権臣・直江兼続は露骨に家康に敵対する姿勢を見せた(そもそも堀と上杉の対立は、上杉が越後から会津に転封された際に、新領主の為に残して置くべき分の年貢を兼続が全て持ち去ったことに起因する)。

信吉は景勝に安易に挑発に乗らぬよう諫言するとともに、自らは大坂に赴いて家康に対して懸命に弁明して避戦に努めた。ところが、兼続が信吉は家康に買収されて内通していると讒言したため、信吉や大森城代の栗田国時ら避戦派は上杉家からの出奔を余儀なくされ、江戸徳川秀忠の許に逃れた(国時は兼続の追っ手により殺害された)。その後、信吉は京都の大徳寺に入って剃髪し、源心と号した。関ヶ原の戦いの後、信吉は家康に下野国西方に1万5,000石の所領を与えられたため、還俗して諱を重信と改めた。

慶長7年(1602年)、佐竹義宣常陸国水戸から出羽国秋田へ減移封されたとき、水戸城の接収を担当している。大坂の陣にも従軍したが、慶長20年(1615年)の夏の陣後に改易された。理由は榊原康勝軍の軍監を務めていたときの失態、戦功に対する不満からの失言など諸々の理由を挙げられている。

元和2年(1616年)7月14日、信濃国奈良井宿で死去した。享年58。死因は病死説もあるが、近年では自殺説が有力となっている。

末裔として、黒前村議藤田源七、同藤田源次などがいる。

評価編集

現在では信吉を保身に走った奸物とする評価が多い。歴史小説(司馬遼太郎関ヶ原』)などでも変節漢として扱われている。これは20世紀に入ってから兼続が礼賛されるようになったために、兼続の方針に異を唱えて上杉家を追われた信吉が、家康と秀忠に対して「上杉氏に謀反の疑いあり」と言上した悪党・奸物とされてしまったのである。

脚注編集

  1. ^ 平山優『真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る』(PHP新書、2011年)、p.139
  2. ^ a b 『管窺武鑑』