許継祥
許 継祥(きょ けいしょう)は、中華圏の人名。中華民国において同姓同名の2人の著名人が存在する。
- 許継祥 (福建) - 中華民国の軍務官僚。本記事において詳述する。
- 許継祥 (江蘇) - 中華民国の講談師(1899 - 1943)。
許継祥 | |
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『最新支那要人伝』(1941年) | |
プロフィール | |
出生: | 不詳 |
死去: | 1942年(民国31年)4月8日 |
出身地: | 清福建省福州府(現在の閩侯県) |
職業: | 官僚 |
各種表記 | |
繁体字: | 許繼祥 |
簡体字: | 许继祥 |
拼音: | Xŭ Jìxiáng |
ラテン字: | Hsü Chi-hsiang |
和名表記: | きょ けいしょう |
発音転記: | シュー ジーシアン |
許 継祥(きょ けいしょう) は中華民国の軍務官僚。北京政府・護法軍政府・国民政府で海軍の軍官僚として活動し、後に汪兆銘政権に参加した。字は翥屏。
事跡
編集福州華英学院を卒業。辛亥革命が勃発すると許継祥は革命派に参加し、1911年(宣統3年)11月に上海の滬軍都督府で顧問官に任ぜられた。1914年(民国3年)7月、北京政府で海軍部軍法司司長に任命される。護法運動が開始されると、許は南下して孫文(孫中山)らの護法軍政府に参加し、1917年(民国6年)9月、大元帥府参議となった。その後、全国海道測量局局長、全国海岸巡防処処長を歴任している。[1][2][3]
国民政府成立後の1928年(民国17年)12月、軍政部海軍署海政司司長、軍需署営造司司長に任ぜられた。1930年(民国19年)2月、海軍部の成立・改組を経て海政司司長に留任する。[4][2][3]その後、1938年(民国27年)1月に海軍部が改組されて海軍総司令部となるまで、一貫して許継祥はこの地位に留まった。[5]1936年(民国25年)9月、海軍少将の位を授与されている。[6]
その後、許継祥は汪兆銘(汪精衛)に合流し、1940年(民国29年)3月の汪兆銘政権の成立とともに海軍部常務次長に任ぜられた。[3]翌年には軍事参議院参議にも任ぜられている。[4]1942年(民国31年)4月8日、在職のまま死去。[7][2]
注
編集参考文献
編集- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。