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汪 兆銘(おう ちょうめい、1883年5月4日 - 1944年11月10日)は中華民国の文人政治家[1]行政院長(第4代)・中国国民党副総裁[2]辛亥革命の父孫文の側近として活躍して党の要職を占め、国民党左派の中心人物として、独裁色の強い蒋介石とはしばしば対立した[2][3]

汪兆銘
汪精衛照片.jpg

任期 1932年1月29日1935年12月16日
主席 林森

任期 1940年3月20日1944年10月10日

任期 1940年3月20日1944年10月10日

任期 1925年7月1日1926年3月23日

Emblem of the Kuomintang.svg 中国国民党
初代副総裁
任期 1938年4月1日1939年3月28日
総裁 蒋介石

出生 1883年5月4日
光緒9年3月28日
清の旗 広東省広州府三水県
死去 1944年民国33年)11月10日
61歳
日本の旗 日本愛知県名古屋市
政党 Emblem of the Kuomintang.svg 中国国民党
配偶者 陳璧君1891年-1959年
子女 汪文嬰、汪文惺、汪文彬、汪文恂、汪文靖、汪文悌
汪兆銘(汪精衛)
職業: 政治家・革命家
各種表記
繁体字 汪兆銘(汪精衛)
簡体字 汪兆铭(汪精卫)
拼音 Wāng Zhàomíng (Wāng Jīngwèi)
注音二式 Wāng Jàumíng
和名表記: おう ちょうめい(おう せいえい)
発音転記: ワン ヂャオミン (ワン ジンウェイ)
ラテン字 Wang Chao-ming (Wang Ching-wei)
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季新精衛(中華圏では「汪精衛」と呼ぶのが一般的である)[注釈 1]

知日派として知られ、1940年3月、南京新国民政府を樹立し、同年11月には正式に主席となった。1944年名古屋市にて病死[2]

広東省の生まれ[1][2]。原籍は浙江省紹興府山陰県(現在の紹興市柯橋区)。著作に『汪精衛文存』などがある[2]

生涯編集

日本留学と革命運動への参加編集

 
汪(左)と陳璧君(新婚のころ、ペナン島にて。

光緒9年(1883年)、汪琡の四男、10人兄弟の末子として広東省三水県(現在の仏山市三水区)に生まれた。幼少時より俊秀さを謳われた人物である。

光緒30年(1904年)、科挙(中国の高級官吏任用試験)に合格[4]日露戦争中の同年9月、清朝の官費生として日本和仏法律学校法政大学(現在の法政大学の前身)に留学した[1][2][4]。同時期に法政で学んだ人物に胡漢民朱執信がいる[4][注釈 2]。留学中に孫文の革命思想にふれて興中会に入り、光緒31年(1905年)8月、孫文の来日を機に中国革命同盟会に合流した[1][2][4]。汪兆銘は同士とともに機関紙『民報』の編集スタッフを務め、この頃から「精衛」という号を用いるようになった[4][注釈 3]。この頃、イギリス領マラヤ(現、マレーシア)のペナン島の裕福な華僑出身で、のちに汪の妻となる陳璧君も革命運動に参加しており、『民報』編集にたずさわっている[4][注釈 4]。日露戦争について汪は「心から日本を支持する」と述べ、また、一東洋人として日本の勝利に歓喜した[3]

光緒32年(1906年)6月、法政大学法政速成科を卒業。官費留学の期限は切れたが、汪はそのまま法政大学専門部へ進み、革命運動を続けることとした。汪は、1907年に書いた「革命之決心」のなかで「革命の決心は、誰もが持っている惻隠の情、いうならば困っている人を見捨てておけない心情からはじまるものだ」とし、また、「革命を志す者は、自己の身体を薪あるいは釜として4億の民に満ち足りた思いを味わわせることをめざすべき」と唱えた[3][4][5]。『民報』は清朝からの依頼を受けた日本政府の取締りにより1908年に発行停止に追い込まれたが、汪はその後、編集責任者として秘密出版を行った[4]。『民報』は1910年の第26期をもって廃刊となったが、「革命之決心」はここに収載されている[4]

孫文は根拠地をフランス領インドシナ(現、ベトナム)の首府ハノイ、ついで英領マラヤシンガポールへと移した。汪は、孫文の一番弟子として強い信頼を得ており、終始彼と行動を共にした[5]。孫文がフランスへ去った後、汪はタイ王国以外は欧米の植民地支配下にあった当時の東南アジアにおける中国同盟会の勢力拡充に力を注いだ。1909年、汪兆銘を囲んで陳璧君、方君瑛曾醒黎仲実の4人が、同志として生死をともにすることを誓い合った[4]。この5人は、のちに広東省に共同の墓まで建てており、このころ、汪は陳璧君と名義上の結婚をしたと考えられている[4]

宣統2年(1910年)、汪は同志とともに革命運動を鼓舞するため、清朝要人の暗殺を計画した[2][4]北京で写真屋になりすまし、密かに時限爆弾を用意、醇親王載灃をねらったが発覚し、未遂に終わった[2][4]。4月16日、暗殺犯として逮捕された汪は死刑の宣告を覚悟していたが、尋問の際の堂々とした態度や供述書をすらすらと書いた様子から、その才能が惜しまれ、革命派との融和を図る民政部尚書粛親王善耆の意向もあって罪一等を減ぜられ、終身禁固刑に処された[2][4]

辛亥革命とその後の動向編集

宣統3年(1911年)10月に革命軍が蜂起して勢力を広げるなか、11月6日には汪兆銘に清朝政府からの大赦が下り、釈放された[2][4]。12月、革命軍は南京を占領した[6]。汪兆銘は清朝を倒すのに功績のあった逸材として脚光を浴びた[4]。ただちに陳璧君が駆けつけ、まもなく、胡漢民を司会、何香凝を花嫁側介添人として結婚式を挙げた[4]

1912年民国元年)1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が成立した[6]。このとき、中華民国建国宣言の文章を起草したのが汪であった。2月には宣統帝が退位して清朝が崩壊、始皇帝以来の専制王朝体制が終わりを告げた(辛亥革命[6]。汪兆銘と陳璧君は正式に結婚してフランスに渡り、文学社会学を学び、ときどき中国に帰国したもののほぼ5年間をヨーロッパで過ごした[4]。ヨーロッパには、陳璧君の弟陳昌祖、方君瑛とその妹方君璧、曾醒とその弟曾仲鳴などが勉学を兼ねて同行した[4]。また、長男の汪文嬰は1913年、長女の汪文惺は1914年、それぞれフランスで生まれている[4]

民国元年(1912年)3月、袁世凱が臨時大総統に就任したが、その後、「皇帝」への野心を持つ袁世凱と孫文らの対立が表面化した[2][6]。フランスに渡っていた汪はいったん帰国して、南北和議における南方派委員となり、袁世凱に深く接近して孫文との連携を画策した[1][2]。この動きはしかし、革命派のなかでは問題視されることもあった[1][2]。汪の工作は実らず、第二革命は失敗して、民国2年(1913年)、汪は再びフランスに渡り、孫文は日本に亡命した[2]。孫文は1914年6月、東京にて中華革命党を結成している。

民国5年(1916年)、外遊中の汪は当時、広東省で革命軍を指導していた孫文に招かれた[1][2][4]。民国6年(1917年)には長い旅行を終えて帰国し、孫文の下で広東政府の最高顧問を務めた[1][2][4]

民国7年(1918年)以降、袁世凱亡き後の北京政府の実権を握っていた北方軍閥の巨頭段祺瑞が、日本における原内閣の成立によって後ろ盾を失い、競争者である直隷派と争って敗れ、いったん失脚した[7]。ところが直隷派軍閥の曹錕が旧国会議員を買収して大総統となったことで国民の顰蹙を買って大混乱となり、張作霖率いる奉天軍が北京に入城したものの民心が服さず段祺瑞の再出馬を要請するという事態が生じた[7]。段祺瑞は広東にあった孫文を招請し、孫文は汪をともなって日本汽船に乗り込み、北京入りして提携を模索した[7]。孫文と汪は途中日本に立ち寄っている[7]

民国8年(1919年5月4日、北京で抗日学生による五・四運動が起こり、これを機に孫文は中国共産党と接触の度を深めた[4]。1920年、次女の汪文彬が生まれている。

民国12年(1923年)、孫文は「中国国民党宣言」を発表、またソビエト連邦より派遣されたコミンテルン活動家、ミハイル・ボロディンを広東の国民政府顧問として招いた[4]。こうして第一次国共合作が成立した[2]。こののちの汪兆銘は急進的な民族主義者として孫文にしたがい、国民党左派を率いて反帝国主義運動を積極的に推し進めた[2][4]。1923年、汪夫婦にとっては革命の同志であり、腹心曾仲鳴の夫人方君璧の姉でもある方君瑛が自殺した[4]。また、同年には学校設立のために在米華僑から募金を集めるためアメリカ合衆国に渡った汪夫妻は、その地で次男をもうけたが、1か月足らずで肺炎のため亡くしてしまった[4]

民国13年(1924年)1月、中国国民党第一回全国大会で、汪兆銘は孫文の個人的連絡係のほか、国民党中央執行委員会委員・宣伝部長の要職につき、胡漢民とともに党の双璧となった[2][4]。汪はこのころ、覇権主義的な姿勢を強めた日本を「中国の災難、世界の不幸」とみなすようになり、「我々に残された唯一の道は、日本に抵抗することである」と述べ、日本に対して強い敵愾心をいだくようになっていた[3]。汪兆銘は、国民党にあっては孫文直系の位置にあり、配下の有力者である陳公博周仏海はともに中国共産党の設立にかかわった[2][注釈 5]。なお、1924年5月、蒋介石は孫文より黄埔軍官学校準備委員長を命じられたが、蒋をこの学校の校長にと強く推薦したのは汪の妻、陳璧君であった[4]。汪は、5月3日の開校式に出席し、講演をおこなっている[8]。1924年11月、孫文は来日し、神戸で「大亜細亜主義」の講演を行った[9]

汪兆銘は、民国14年(1925年)3月の孫文の死去に際しては、「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」との一節で有名な遺言を記した[4]。汪はこれを、病床にあった孫文から同意を得たと伝えられており、蒋介石の義兄にあたる宋子文、孫文の子息孫科呉稚暉、何香凝らが証明者として名を連ね、遺書には汪兆銘が「筆記者」として筆頭に記されている[4]

1925年8月、寥仲愷が暴徒によって暗殺され、その暗殺事件に従兄弟がかかわっていたとして胡漢民が自ら国民党内の役職から退いたため、汪兆銘は国民政府主席兼軍事委員会主席の地位に就き、名実ともに国民党の指導者となった[4]。なお、当時の蒋介石はまだ軍事委員会委員で黄埔軍官学校校長にすぎなかった[4]

対立と協力をくり返した両雄:汪兆銘と蒋介石編集

 
蒋介石と並び立つ汪兆銘(1926年)

広州国民政府時代の容共路線編集

孫文の死後、汪は広東で国民政府常務委員会主席・軍事委員会主席を兼任した[1][4]。この政府(広州国民政府)は国民党右派を排除したもので、毛沢東中国共産党の党員も参加していた[2]。中国共産党中央委員候補であった毛を国民党中央宣伝部長代理に任命したのは汪であった[10]。広州政府は、列国からの承認は得なかったものの、国民党が直接掌握し、政治・軍事・財政・外交を統括する機関として、来たるべき全国統一政権の規範となるものであった[11]。汪を委員長とする広州政府は、五・三〇事件から派生した香港海員スト(省港大罷工)の支援にみられるように民主的側面をもっており、汪は広州を国民革命の拠点とすることに成功した[2]。しかし、民国15年(1926年)3月、蒋介石戒厳令を布き、共産党員を逮捕し、ソビエト連邦顧問団の住居と省港ストライキ委員会を包囲する中山艦事件を起こすと、汪と蒋との間の対立は激化した[4][11]。この事件によって、蒋は国民政府連席会議において軍事委員会主席に選ばれ、党や軍における権勢を拡大させたため、汪は自ら職責を辞任してフランスに渡った[4][11]

1926年7月、蒋介石はみずから国民革命軍総司令となって、いわゆる「北伐」を開始した[2][4]。蒋を中心とする新右派は共産党抑圧を図ったが、共産党が蒋に譲歩して北伐に同意した[2][4]。また、すでに軍権を掌握した蒋介石は政権をも握ろうとして江西省南昌への遷都を図ったが、反蒋の左派と共産派はこれに抵抗し、民国16年(1927年)1月、湖北省武漢への遷都を強行した[2][4]。そして、武漢国民政府の第二期三中全会で総司令職を廃して蒋介石を一軍事委員に格下げし、国民党と政府の大権を汪兆銘に託して蒋介石に対抗しようとした[2][4]

容共から反共へ-武漢国民政府時代-編集

 
1927年以前の汪兆銘

党や軍での権力を確立したかにみえた蒋介石であったが、それまで党内業務に関係していなかった蒋が共産党員も内部にかかえた党を取り仕切るのは困難で、1927年、蒋は汪兆銘にフランスからの帰国を要請した[4]。蒋の招電に応じて4月3日に再帰国した汪は、中央常務委員、組織部長に返り咲いた[1]4月5日、汪は共産党の中心人物である陳独秀とともに「中国国民党の多数の同志、およそ中国共産党の理論およびその中国国民党に対する真実の態度を了解する人々は、だれも蒋総理の連共政策をうたがうことはできない」との共同声明を発表した[10][12]。この声明は、汪が国民党内でも蒋とのあいだに路線対立があることをなかば認め、共産党は汪との協力のもとで蒋排斥の立場にあることを示唆する内容であった[12]。しかし、4月12日、蒋介石は反共クーデター(上海クーデター)を断行し、共産党弾圧に再び乗り出した[10]。これは、3月に南京入城を果たした国民革命軍が日本やイギリスの領事館、アメリカ系の大学などに侵入して略奪や暴行をはたらいた南京事件の背後には、反帝国主義を掲げる中国共産党やソ連人顧問の暗躍があると判断し、危機感を持ったために引き起こされたものであった[10]

蒋はさらに4月18日江蘇省南京に国民政府を組織して、共産党の影響の強い武漢国民政府から離脱した[13]。汪は武漢政府に残ったが、やがて共産党との決別を決意し、武漢にて清党工作を進めることとなる[14]。これは、6月1日ヨシフ・スターリンからの新しい訓令が中国在留コミンテルンのインド人革命家マナベンドラ・ロイのもとにもたらされた件に端を発している[4][14]。ロイはこの秘密電報を汪兆銘に示し、訓令の承認をせまったが、汪はこの内政干渉を含む訓令を拒否して共産党排除に動きはじめたのである[4][14][注釈 6]。中国における革命運動の激化は、かえって汪兆銘をして共産党への警戒心を植え付けさせ、反革命の立場に立たせることとなった[1][4][14]7月13日、共産党は武漢政府から退去し、7月15日、中国国民党も従来の容共政策の破棄を宣言して第一次国共合作はここに崩壊した[14]

南京国民政府と反蒋運動編集

 
1930年頃の汪兆銘

「反共産党」の立場で汪と蒋の意見が一致したことから、武漢政府と南京政府の再統一がスケジュールにのぼり、蒋介石が下野することを条件に両政府は合体することとなった[14]。汪は南京の新政府で、国民政府委員、軍事委員会主席団委員等の地位に就いた[4]。また、張作霖爆殺事件によって日本への憤懣をつのらせた張学良も、汪・蒋の陣営に加わった[4]。しかし、汪は1927年12月11日の中国共産党による広州蜂起(広東コミューン事件)の混乱の責任をとるかたちで政界引退を表明、1928年、フランスに亡命した[4]。これには、反共に転じた汪兆銘に対する党内の批判の声もあったといわれる[4]

国内では、独裁の方向に動き出した蒋と、その動きに反発する反蒋派との対立が顕著になった[1][15]。祖国を離れた汪兆銘は情報にうとくなり、その影響力も弱まった[4]

民国17年(1928年)10月、国民党は中央常務委員会をひらき、立法・行政・司法・監察・考試の五院を最高機関とし、民衆運動を制限して一党独裁政治をおこなう国民政府を正式に発足させ、蒋介石が主席となった[15]。しかし、この政府は反面では新軍閥の不安定な連合にすぎなかった[15]。実際、広西派の軍閥が反旗を翻したのを皮切りに各地で反蒋運動が起こったのである[15]

 
汪兆銘と閻錫山(1930年9月9日)

外遊していた汪は反蒋派から出馬を請われて民国18年(1929年)に帰国した[15]。翌1930年9月、北平(北京)で閻錫山を主席とする新国民政府が樹立され、各地の反蒋の政客がぞくぞくと北平に集まった[15]。そのなかに汪兆銘のすがたもあったが、北京国民政府主席は戦局の不利を見てすぐに下野を表明し、政権は1日で瓦解し、汪は国民党から除名処分を受けた[15]

汪はその後も反蒋運動をつづけ、しばらく香港に蟄居したのち、民国20年(1931年)5月、反蒋派の結集する広東臨時国民政府に参画した[1][2][16][17]。南京政府には蒋介石、宋子文、張静江浙江財閥を背景にした一派が集い、広東政府には汪のほか、孫科、許崇智唐紹儀ら反蒋勢力が集まり、広西派の軍人も反蒋介石の動きを強めた[17]

満州事変と蒋汪合作政権編集

1931年9月、柳条湖事件を契機として満洲事変が起こると、汪は再び蒋政府と協力して日本に対峙する方針に転じた[1][4][18]。民国21年(1932年1月1日、汪と蒋を中心とし、孫科を行政院長とする南京国民政府(蒋汪合作政権)が成立した[1][2]。汪は蒋介石には軍事をまかせ、みずからは政務を分担した[2]

1月28日、汪は南京国民政府の行政院長となり、鉄道部長も務めた[2][19]。同日、第一次上海事変が勃発した[19]。蒋介石は、これに対し、「世界平和のために暴力を否定する」と宣言するとともに長期抵抗の方針を示し、対日交渉を開始すると同時に河南省洛陽への遷都を決定した[19]。汪は1月31日に蒋介石の方針を支持する講話を発表し、遷都は、日本の暴力に屈したのではなく、有効な抵抗を図るためであると国民に説明した[19]。同時に、日本との国交断絶には断固として反対しており、この方針を「一面抵抗、一面交渉」と表現した[4]。上海事変の停戦協定は、蒋介石率いる第十九路軍が善戦したことと汪兆銘を中心とする交渉が順調に行われたことにより、中国側に有利にはたらき、結果として日本軍が撤退した[4]

2月15日、汪は「一面抵抗、一面交渉」と題する講演を行い、対日方針を全面的に開示し、断交などをともなう過激な徹底抗戦主義も、戦わないで降伏しようとする敗北主義も、ともに批判した[4][19]。汪兆銘の考え方は、抵抗の裏付けがあってはじめて交渉も有効にはたらくというものであり、その点から張学良の無抵抗主義には反対し、張が兵を挙げないならば彼への財政的援助も打ち切ると言明した[4]。実際的にも、国内の統一がなされていない状態では交渉もできないというのが汪の考えであった[4]。この年の3月、汪は、事変調査のために南京をおとずれたリットン調査団の一行と面会している[20]

各省の省長が割拠して中央の指令にしたがわないようでは国家としてのまとまりがつかず、抵抗も交渉も成り立たないと考えていた汪は、無抵抗政策を掲げる張学良に圧力をかけ、北平綏靖公署主任を辞めさせたが、このとき蒋介石は張に救いの手をさしのべている[4]。蒋は張の取り込みを図ったのであるが、これに憤慨した汪兆銘は8月5日に行政院院長を辞任して、2か月後に病気療養として渡欧した[4]

民国22年(1933年)3月、汪は帰国して行政院院長に復職し、外交部長をも兼任した[2][4]。3月26日、汪と蒋介石は剿共(全力で共産党を滅ぼす)を決定した[4]

同年5月、汪は関東軍熱河作戦にともなう塘沽停戦協定の締結にかかわった[21]。実際に協定を締結したのは華北政権であったが、これは汪や孫科の承認のもとに結ばれたのであった[21]。この協定は、実質的に満洲国の存在を黙認する要素を含んでいたが、これは汪の唱える「一面抵抗、一面交渉」の現れでもあった[4][19]。しかし、抗日派による汪兆銘批判はかえって激しさを増していった[4]。1933年5月1日、汪兆銘は抗日の方が反共よりも重要であるという見方を批判し、もし、共産匪賊が勢いをえて長江流域まで侵してきたなら、いずれ中国は列強各国の管理下におかれ、日本による侵略よりもいっそう悲惨なことになるだろうと述べた[4]

対日宥和路線と汪兆銘狙撃事件編集

 
タイムの表紙を飾る汪兆銘(1935年3月18日号)

汪はその後、政府内の反対派の批判を受けつつ、「日本と戦うべからず」を前提とした対日政策を進めた。日本側からすれば、広田弘毅外務大臣重光葵を外務次官とする和協外交は、「日満支三国の提携共助」によって対中国関係の改善を進めて平和を確保しようとする方向性をもっていた[22][注釈 7]。行政院長兼外交部長であった汪はこれに応じ、南京総領事の須磨弥吉郎に対し、満洲国の承認には同意できないまでも、赤化防止の急務を高調して中国国民に満洲問題を忘れさせる以外にないと語るまでに対日妥協姿勢を示した[22]

民国24年(1935年11月1日、汪兆銘は、国民党六中全会の開会式の記念撮影の際、カメラマンによって狙撃された[23]。汪は南京中央病院に搬送され、妻の陳璧君と女婿の何文傑はすぐさま駆けつけた[23]。汪は2人に対し、「心配はいらない。死ぬほどのことではないから」と述べた[23]。汪は耳の上、左腕、背中に3発の弾を受けたが急所は外れており、生命に別状はなかった[23]。ただし、このとき体内から摘出できなかった背中の弾が、のちに骨髄腫の原因となり、汪の死期を早めたとされる[23]。犯人は晨光通訊社の記者としてその場にいた孫鳳鳴で、第十九路軍の排長(小隊長)だった人物である[23]。事態の急変のなかで、いち早く犯人に駆け寄って犯人を蹴り倒したのは張学良だった(汪は、これに感謝し、のちに張学良にステッキを送っている[23])。その後、汪の護衛兵が犯人を撃ち、ただちに捕らえたが、翌日犯人は死亡しており、背後関係は今もって謎のままである[23]。汪の対日外交への不満が犯行動機とされている[23][24]

療養のため汪は、民国25年(1936年)2月にヨーロッパへ渡り、ドイツで療養を行い、政府関係者とも交流を持って、翌年の民国26年(1937年)1月、中国に帰国した[23]。この旅では、汪は陳璧君をともなっておらず、彼女に留守中の情報収集をまかせ、腹心の曾仲鳴を同行させた[23]。また、この旅は、日本・中国・ドイツの反共同盟の可能性を探るのも目的のひとつであった[23]。この間の対日交渉は蒋介石に委ねられたが、そのさなかの1936年12月12日西安事件が起こっている[23]。帰国前、汪兆銘は「安内攘外」(まずは共産勢力をおさえて国内の安定を確保してから、外国に抵抗し、対等に和平を話し合う)の声明を発した[23]。しかし、西安で張学良に連行されたのちすぐに釈放された蒋介石は、すでに連共抗日路線に鞍替えしていたのであった[23]。帰国した汪には国民党のポストはなかったのである[23]

日中戦争と汪兆銘工作編集

民国26年 (昭和12年、1937年)7月、日中戦争(シナ事変)が始まった。徹底抗戦を貫く蒋介石に対し、汪は「抗戦」による民衆の被害と中国の国力の低迷に心を痛め、「反共親日」の立場を示し、和平グループの中心的存在となった[2][3][23][25]。日本は、つぎつぎに大軍を投入する一方、外相宇垣一成がイギリスの仲介による和平の途を模索していた[23][26]。しかし、宇垣工作は陸軍の出先や陸軍内部の革新派からの強い反対を受け、頓挫した[23][26]

11月20日、国民政府が南京から四川省重慶への遷都を通告し、一部部署は湖北省武漢に移転が図られた。12月13日、日本軍は国民政府の首都であった南京を占領した[23]。翌14日には、日本軍の指導で北京に王国敏を行政委員長とする中華民国臨時政府が成立している[23]

トラウトマン工作の失敗を受けた近衛内閣は、軍部の強硬論の影響もあって、1938年1月に「今後は蒋介石の国民政府を交渉の相手にしない」という趣旨の近衛声明(第一次)を発表した[23][27][28]。南京占領後、日中戦争は徐州作戦武漢作戦広東作戦を経て戦争は長期持久戦となっていった[23][27]

民国27年(1938年)3月から4月にかけて湖北省漢口で開かれた国民党臨時全国代表大会では、はじめて国民党に総裁制が採用され、蒋介石が総裁、汪兆銘が副総裁に就任して「徹底抗日」が宣言された[23]。すでに党の大勢は連共抗日に傾いており、汪兆銘としても副総裁として抗日宣言から外れるわけにはいかなかったのである[23]。一方、3月28日には南京に梁鴻志を行政委員長とする親日政権、中華民国維新政府が成立している[23]。こうしたなか、この頃から日中両国の和平派が水面下での交渉を重ねるようになった[29]。この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」へと発展した[23][25][26][29]

その中心となったのは、当初、国民政府外交部アジア局日本課長の董道寧、南満州鉄道南京事務所長の西義顕、同盟通信社上海支局長の松本重治らであった[29]。西、松本は董道寧の日本行きに賛成し、董道寧の日本でのスケジュールを陸軍参謀本部第八課長の影佐禎昭大佐に依頼した[29]。1938年2月末、董道寧は西の部下である伊藤芳男を同行して来日し、影佐大佐と会った[29]。影佐は、董道寧を時の参謀次長の多田駿中将、第二部長の本間雅晴少将、支那班長の今井武夫中佐らに紹介している[29]3月27日、董道寧、董道寧の上司高宗武、西、伊藤、松本の5人は香港で会談を行い、和平工作を進めた[29]

汪兆銘は、早くから「焦土抗戦」に反対し、全土が破壊されないうちに和平を図るべきだと主張していた[25]。1938年6月、汪とその側近である周仏海の意を受けた高宗武が渡日して日本側と接触、高の会談相手には多田参謀次長も含まれていた[26][29]。高宗武自身は日本の和平の相手は汪兆銘以外にないとしながらも、あくまでも蒋介石政権を維持したうえでの和平工作を考えていた[29]

1938年10月12日、汪はロイター通信の記者に対して日本との和平の可能性を示唆、さらにそののち長沙の焦土戦術に対して明確な批判の意を表したことから、蒋介石との対立は決定的なものとなった[25]。日本では、11月3日に近衛文麿が「善隣友好、共同防共、経済提携」の三原則から成る「東亜新秩序」声明を発表していた(第二次近衛声明[9][28][30]。これは、日本が提唱する東亜新秩序に参加するならば、蒋介石政権であっても拒まないことを示しており、第一次声明の修正を意味していた[28][30]。一方、陸軍参謀本部の今井武夫によれば、汪は11月16日の蒋との話し合いで、蒋政権からの離脱を決心したと伝えられる[31]

11月、上海の重光堂において、汪派の高宗武・梅思平と、日本政府の意を体した参謀本部の今井・影佐との間で話し合いが重ねられた(重光堂会談)[29]11月20日、両者は「東亜新秩序」の受け入れや中国側による満洲国の承認がなされれば日本軍が2年以内に撤兵することなどを内容とする「日華協議記録」を署名調印した[26][28][29][31]。そして、日華防共協定がむすばれるならば、日本は治外法権を撤廃し、租界返還も考慮するとされたのである[28][29]

この合意の実現のため、汪側は、「汪は重慶を脱出する。日本は和平解決条件を公表し、汪はそれに呼応する形で時局収拾の声明を発表し、昆明雲南省)や四川省などの日本未占領地域に新政府を樹立する」という計画を策定した[26]。汪兆銘は、このまま戦争が長引けば必ずや亡国に至るであろうと判断して重大な決断を下したのであるが、それでもなお、最終的な調印条件がもたらされた後になって、急にこれまでの決定をすべて覆して検討したいと述べるなど、その決断には大きな動揺をともなった[26]。なお、日本軍の南京占領以降も南京に住んでいた妻の陳璧君は曾仲鳴の用意した小さな軍艦で重慶にうつり、金陵大学(現、南京大学。当時は四川省成都に疎開)を卒業した女婿の何文傑もまた陳璧君の誘いに応じて重慶の汪兆銘のもとに集まった[32]

12月18日、汪はついに重慶からの脱出を決行した[26][28][32][33]。行動をともにしたのは、陳璧君、何文傑、腹心の曾仲鳴、末端秘書の陳常燾、ボディガードの連軒であった[32]。脱出にあたって汪は、蒋介石にあてて長文の書簡をしたためたが、その末尾には「君は安易な道を行け、我は苦難の道を行く」と書かれていた[32]。汪の一行は、重慶から昆明に向かい、雲南省政府主席の竜雲と協議の場をもった[32]。重光堂の会談では、汪が重慶を脱出したら、竜雲の雲南軍がまず呼応することになっており、竜雲自身もまた汪の和平工作に大きな期待をかけていた[32]。しかし、結果として竜雲は汪一行の脱出に便宜をあたえたにとどまった[32]

汪一行は昆明に1泊し、12月20日仏領インドシナの首府ハノイに着いた[26][28][32][33]。周仏海は、昆明で汪一行に合流し、ともにハノイに渡った[32]。陳璧君の弟陳昌祖は昆明の空港で働いていたが、のちにハノイに移った。竜雲は、蒋介石に対し、汪のハノイ行きを正直に打電している[32]。汪の脱出に前後して、陳公博、陶希聖梅思平らの汪グループも、それぞれ重慶から脱出した[33][32]

しかし、汪グループにとって期待はずれだったのは、昆明の竜雲はじめ、四川の潘文華第四戦区(広東・広西)の司令官張発奎将軍などの軍事実力者たちが、誰ひとりとして汪の呼びかけに応じなかったことである[25][28][32]。さらに打撃だったのが、12月22日、汪の脱出に応える形で発表された近衛声明(第三次近衛声明)である[28][32]。声明は、汪と日本側の事前密約の柱であった「日本軍の撤兵」には全く触れておらず、日中和平に尽力した西や松本、衆議院議員の犬養健らを嘆かせ、汪グループもこれに強い失望をいだいたのであった[32]

12月29日、汪は通電を発表し、広く「和平反共救国」を訴えた[28][34]。これは、韻目代日による「29日」の日付をとって「艶電」と呼ばれる[28][33][34]。ここで汪は「もっとも重要な点は、日本の軍隊がすべて中国から撤退するということで、これは全面的で迅速でなけらばならない」と述べ、それ以前の日本側との交渉内容を踏まえ、約束の履行を求めたものではあったが、汪に続く国民党幹部は決して多くなく、日本軍撤退もなかった[28][34]。蒋政権はこれに対し、ただちに汪を国民党から永久除名し、一切の公職を解いた[28][33][34]。日本では、民国28年(1939年)1月、近衛文麿が突然首相を辞任し、汪の構想は完全に頓挫してしまった[28][34]

当初の構想に変更を余儀なくされた汪は、しばらくそのままハノイに滞在した[34]。民国28年(1939年2月26日、長女汪文惺と何文傑の結婚式がハノイのメトロポリタンホテルでひらかれている[34]。1939年3月21日、暗殺者がハノイの汪の家に乱入、汪の腹心であった曽仲鳴を射殺した[34]。蒋介石が放った刺客は汪をねらったが、たまたま当日は汪と曽が寝室を取り替えていたため、曽が身代わりに犠牲になったものだった[34]。これに先だって、汪兆銘の(姉の息子)で民兵と深いつながりのあった沈次高が蒋介石一派により暗殺され、汪兆銘派の首脳で宣伝を担当していた林柏生も香港で暴漢に襲われた[34]

汪兆銘は、3月28日付の雲南省と香港の新聞に、和平工作は汪個人の主張ではなく、本来的に蒋介石の了解事項であったことを訴えた[34]。トラウトマン工作についても、汪のみならず蒋も和平案を認め、納得していたことを暴露したうえで、政権内で工作するわけにはいかないから、汪があえて政権外に出て政府の意思の実践に着手したのであり、その彼を裏切り者呼ばわりするのはまことに不当であると批判した[34]

日本側は、ハノイが危険であることを察知し、汪をハノイから脱出させることとした[34][35]。陸軍大臣板垣征四郎は、汪兆銘の意思を尊重しつつ安全地帯に連れ出すことを命令し、これを受けた影佐禎昭は陸軍のみならず関係各省の合意が必要であると主張して、須賀彦次郎海軍少将、外務省・興亜院からは矢野征記書記官、国会議員の犬養健らを同行させることを条件に、この工作に携わった[35]。山下汽船北光丸に乗り込んだ影佐らは4月14日に仏領インドシナのハイフォンに入港し、秘密裏にハノイの汪に接触した[35]4月25日、汪はハノイを脱出してフランス船をチャーターしてトンキン湾を北上、汕頭沖で北光丸に乗り換えて5月6日上海に到着した[33][35]。この頃、次女の汪文彬(1938年に上海の大同大学付属高中を卒業)は、医学を学ぶため香港に向かっていたが、藍衣社(蒋介石政権側の秘密結社)によってあやうく誘拐されかけた[36]。そのため、汪兆銘は次女を日本に送り、帝国女子医学専門学校で医学を学ばせることとした[36]

吹っ切れた汪兆銘は蒋介石との決別を決意した一方、蒋介石は、汪の和平工作に反対して「徹底抗戦」を訴えるとともに竜雲・李宋仁唐生智といった、かつて汪兆銘に親しかった人物の切り崩しを工作した[34]。ここに至って、両者は修復不能な関係に陥ったのである[34]

新国民政府の成立編集

一時は新政府樹立を断念していた汪だったが、ハノイでの狙撃事件をきっかけに、「日本占領地域内での新政府樹立」を決意するに至った[35][37]。これは、日本と和平条約を結ぶことによって、中国・日本間の和平のモデルケースをつくり、重慶政府に揺さぶりをかけ、最終的には重慶政府が「和平」に転向することを期待するものだった[35]。汪兆銘は影佐に対し、新政府を設置しても自分は政権に執着しないと述べており、蒋介石に百歩譲っても基本的に中国を二つに割りたくないこと、戦火によって民衆の犠牲をできるだけ避けたいことを訴えている[35]

 
南京国民政府国旗

上海に移った汪は、ただちに日本を訪問し、新政府樹立への内諾を取り付けた[38]5月31日、汪とかれの配下であった周仏海、梅思平、高宗武、董道寧らは神奈川県横須賀市の海軍飛行場に到着した[38]。日本側は、板垣征四郎が汪兆銘政権が青天白日満地紅旗を用いることに難色を示し、これに対しては汪兆銘側にとっても譲れないところであったので、青天白日旗に「和平 反共 建国」のスローガンを書き入れた黄色の三角旗(瓢帯)を加えて和平旗とすることで折り合いがついた[38]。また、日本側は北洋軍閥の呉佩孚を加えて汪・呉の合作による和平工作とすることも検討し、土肥原賢二中将もこれを呉に打診したが、呉からは合作の条件として日本軍撤退を持ち出され、この案は立ち消えとなった[38]

 
臨時政府行政委員会委員長の王克敏
 
維新政府行政院長の梁鴻志

中国に戻った汪兆銘は、1939年8月28日より、国民党の法統継承を主張すべく上海で「第六次国民党全国大会」を開催、自ら党中央執行委員会主席に就任した[38]。このときの大会宣言で汪は、去る1938年12月の近衛声明(第二次声明)に呼応して対日「和平」を決意したと述べ、これが孫文の「大亜細亜主義」にもとづくものであるとして国民党政権としての正統性を主張したのである[9]。そして、日本占領地内の傀儡政権の長であった王克敏、梁鴻志と協議を行い、9月21日、中央政務委員の配分を「国民党(汪派)が三分の一、王克敏臨時政府梁鴻志維新政府が両方で三分の一、その他三分の一」とすることで合意に達し、彼らと合同して新政府を樹立することとなった[37]

次いで10月、新政府と日本政府との間で締結する条約の交渉が開始された[38]。しかし日本側の提案は、従来の近衛声明の趣旨を大幅に逸脱する過酷なもので、汪工作への関わりが深い今井武夫が「権益思想に依り新たに政府各省から便乗追加された条項も少くなく、忌憚なく言って、帝国主義的構想を露骨に暴露した要求と言う外ない代ろ物であった」[39]と回想し、影佐禎昭も「十月初興亜院会議決定事項として堀場中佐及平井主計中佐の持参せる交渉原案を見るに及び自分は暗然たるを禁じ得なかつた。…堀場中佐は自分に問ふて曰く『この条件で汪政府が民衆を把握する可能性ありや』と自分は『不可能である』と答へざるを得なかつた」とふりかえるほどであった[38][40]

あまりの過酷な条件である華日新関係調整要綱に、汪自身もいったんは新政府樹立を断念したほどであった[38]。汪兆銘は『中央公論』1939年秋季特大号(10月1日発行)に「日本に寄す」と題する思い切った論考を発表し、「東亜協同体」や「東亜新秩序」という日本の言論界でしきりに用いられる言葉に対する疑念と不信感を表明し、日本は中国を滅ぼす気ではないかと訴えた[38]。さらに汪兆銘は、華日新関係調整要綱に示された和平案に対し白紙撤回を申し出てもいる[38]。これに対して、支那問題の権威として盛んに東亜新秩序を美化し東亜協同体論を提唱していた朝日新聞出身のソ連スパイ尾崎秀実は、『中央公論』昭和14年11月号に「汪精衛政権の基礎」を発表、日本の当局者に向かって「汪精衛運動が支那再建の唯一の方策であり日本としては全力を挙げてこれを守る以外に良策なきこと、あらゆる問題の中で何が一番大切かといえばともかくも多くの困難なる条件によって発展の可能性を縮小されている汪精衛政権の誕生と発展とをはからなければならない」ことを力説し[41]、尾崎と同じく近衛文麿の最高政治幕僚にして汪政権樹立工作の主務者であった西園寺公一も、『中央公論』昭和14年十12月号に「汪兆銘への公開状」を発表し、汪兆銘に向ってあくまで愛国者として初志貫徹を貫くよう呼びかけた[38]

民国29年(1940年)1月には、汪新政権の傀儡化を懸念する高宗武、陶希聖が和平運動から離脱して「内約」原案を外部に暴露する事件が生じた[38]。最終段階において部下が裏切ったことに汪兆銘はおおいに衝撃を受けたが、日本側が最終的に若干の譲歩を行ったこともあり、汪はこの条約案を承諾することとなった[38]。その一方で、陳公博は正式に汪兆銘の側に身を寄せた[38]

2月2日、これがもとで後に除名処分を受ける立憲民政党斎藤隆夫議員が有名な「反軍演説」を行っている[38]。斎藤はそのなかで、容共抗日の蒋介石と反共親日の汪兆銘が簡単に合流できるはずもないと分析し、日本政府が「対手とせず」といったはずの蒋介石を対手とする動きを強め、その一方で基盤の弱い汪兆銘の新政権を根回ししている矛盾を厳しく批判している[38]。これに対し、この頃の汪兆銘は、日本が蒋介石と交渉するのならばそれでもよいという潔さを見せている[38]

 
汪兆銘を支持する政権側の標語

民国29年(1940年)3月30日南京国民政府の設立式が挙行された[1][27][30][37][42][43]。汪兆銘政権は、国民党の正統な後継者であることを主張するため、首都を重慶から南京に戻すことを示す「南京還都式」の形式をとった[37][43]。汪はまた、重慶政府との合流の可能性をも考慮して、当面のこととして新政府の「主席代理」に就任し、重慶政府の林森を名目上の主席とした[37][43]。蒋介石はこの日、南京国民政府77名への逮捕令を発した[43]

新政府では妻の陳璧君も重要な役割を果たし、陳璧君の義弟の褚民誼、臨時政府の王克敏、維新政府の梁鴻志、林柏生などの「公館派」と周仏海や特務機関の丁黙邨や李子群なども「実力派」として名を連ねた[43]。また、女婿の何文傑は汪の私設秘書を務めた[5]。なお、戦後日本の総理大臣を務めた福田赳夫は汪兆銘政権の財政顧問であり、のちに中華人民共和国主席となった江沢民の父(江世俊)は、汪の南京国民政府の官吏であった。

汪兆銘政権は、1940年11月30日日華基本条約(日本国中華民国基本関係に冠する条約)と日満華共同宣言に調印した[37]。日本が南京政府を正式に承認したのは、「還都式」より8か月を経過したこのときであった[43]。汪兆銘は、その日、礼服を着て阿部信行特派全権大使の一行が到着するまで悲痛な顔で待ちつづけ、孫文を祀った中山陵をしばらく眺めながら、やがて落涙し、突然、両手で髪をつかんで声を荒げて「恨(ヘン)! 恨(ヘン)!」と叫んだといわれる[43]。同時に汪兆銘は、南京国民政府の「主席」に就任したが、これは日華基本条約調印の資格として主席の肩書が必要だったからであった[44]。ただし、汪兆銘自身にとって、このことは必ずしも本意ではなかった[44]。なお、それに先立つ11月27日、汪兆銘は蒋介石に対し、それまでの経緯と自身も還都に踏み切った決意を伝え、今後の協力を期待するという内容を打電している[44]

新政権は誕生したものの、結局は汪の意図したような「重慶政府との和平」は実現せず、蒋政権と日本の戦争状態はつづいた[2][44]。南京政府での汪兆銘の演説中の写真などには、必ずといってよいほど、背景には孫文の顔写真が掲げていることが確認できる[5]

民国30年(1941年2月1日、汪兆銘は前年より中国各地で高揚していた東亜連盟運動を推進し、自ら東亜連盟中国総会を主宰して会長に就任し、直接運動を指導した[9][注釈 8]

還都1周年が過ぎた1941年5月、南京政府では汪兆銘の日本公式訪問が立案された[44]6月16日、上海から神戸港に上陸し東京駅に着いた汪一行を、日本国民は熱烈に歓迎した[44]。汪兆銘は元首待遇として昭和天皇に拝謁し、天皇から日中間の「真の提携」を願うとの言葉をかけられている[44]。汪兆銘は、近衛文麿首相、松岡洋右外相、杉山元参謀総長、永野修身軍令部総長、東条英機陸相らと面談し、6月19日にはレセプションが開かれ、6月23日には近衛首相とで共同宣言を発表した[44]。この訪日を機に、日本から国民政府に対し3億円の武器借款が供与され、中部シナにおける押収家屋と軍管理工場の返還がなされた[44]

1941年7月1日、汪兆銘政権はドイツとイタリアから承認を受け、両国とのあいだに外交関係をひらいた[37][44]。また、この年の秋、汪兆銘は満洲国を訪れ、皇帝溥儀張景恵国務総理と会見した[44]。一方、還都宣言のあと期待した4省が名乗りを挙げてこなかったことから、南京国民政府は自前の軍隊を持つべく動き、数十万の兵士が集まったといわれている[44]

太平洋戦争と汪政権編集

アメリカとの対立を深めていた日本は、1940年11月、野村吉三郎を駐米大使として和平交渉にあたらせたが事態は好転しなかった[45]。民間においても日米和平が模索され、アメリカが日本軍の中国からの撤退と満州国承認を前提に汪兆銘・蒋介石両政権の合流をはかるという案には近衛も陸軍も賛成したが、アメリカ政府はこれに合意をあたえなかった[45]

1941年8月28日、日本政府はアメリカに、近衛文麿首相とフランクリン・ルーズヴェルト大統領との会談を申し入れたが実現しなかった[44]。事情を知らない汪兆銘は日米会談が実現した場合を想定して、近衛首相あてに書簡を送り、アメリカは日華基本条約の修正を求めてくると思われるが、もし安易に修正に応じれば親米反日の傾向の強い中国民衆はいっそうその傾向を強め、結果としてアジアの不利を招くこと、また、修正の成功をアメリカが独自に重慶に知らせれば、重慶政府は自らの成果であると喧伝し、民衆も惑わされ、汪政権が信用を失うことにつながりかねないとして、もし条約の修正が不可避の場合は事前に汪政権に相談してほしい旨を伝えた[44]

また、近衛はアメリカに対し日米開戦を回避しようという趣旨の「申入書」の案を練り、9月3日の「大本営政府連絡会議」で提案する予定であったが、これも実行できなかった[44]。近衛は10月18日に首相の座を東条英機にゆずった[44]

 
東條英機と汪兆銘(1942年12月)

民国30年(1941年)12月8日、日本は真珠湾作戦を敢行し、太平洋戦争が始まった[46]。事前に日本の開戦について知らされていなかった汪は驚き、「和平」の実現がますます遠のいたことを悟ったと思われる[44]。ただし、日米交渉がことごとく不調に終わったことは汪も知悉しており、虚を衝かれたというほどではなかった[44]。汪自身は日本の国力では米英に対抗できないとの判断から開戦には反対だったが、12月8日付で「大東亜戦争に関する声明」を出した[44]。汪は、米英帝国主義を批判したうえで、国民政府としては日本とこれまで結んだ条約を重んじ、アジア新秩序の建設という共同目的達成のために日本と苦楽をともにすべきこと、かつての辛亥革命の精神にもとづいて孫文の大アジア主義を遂行し、和平、反共、建国の使命を全うすべきことを民衆に訴えた[44]

日米開戦の日、蒋介石率いる重慶政府は日本・ドイツ・イタリアに対し、宣戦布告を行った[44][47]。汪兆銘は、もはやかつての「一面抵抗、一面交渉」方針はどうみても不可能な情勢であると判断し、日本の影佐禎昭少将(当時)に対して南京政府は日本側で参戦する意思があると伝えたが、慎重な影佐は、満洲国が日ソ中立条約を考慮して宣戦していないのに、南京政府があえて参戦することは必ずしも合理的でないとしてむしろ汪の気持ちを宥めた[44]

1942年、特命全権大使として南京に赴任した重光葵1月12日、汪兆銘に国書を奉呈し、翌日より数度にわたって南京の汪公館にて重光と汪の会談がおこなわれた[44][48]。汪の発言は、従来の思慮深い彼からするときわめて大胆かつ強硬なものであり、「大東亜戦争が勃発したことで、ある種の新鮮な感覚が生まれた」「新時代を画する大展開であり喜ばしい」「中国の立場としては、当然、日本の勝利を願いつつも、政府としてどのように協力すればいいのか苦慮している」、さらに「重慶に反省を促し、もし反省しないなら彼らを壊滅させるよう努力する」というものであった[44]。そして、当初は蒋介石打倒などということは毛頭考えなかったが、重慶政府が米英と結んでビルマにまで出兵するにいたった以上、和平工作は放棄する以外になく、もし重慶が希望するように日本が敗れるならば、中国は滅亡し、東アジア全体が欧米植民地に転落してしまうだろうと述べた[44]。彼としては、孫文における「三民主義」を脇に置いてでも、その一方の主張である大アジア主義(「大亜州主義」)を前面に掲げ、白人帝国主義に対抗する姿勢を示すと同時に、第二次世界大戦が終結する前に日中戦争を解決することが肝要だと考えていたのである[44]3月25日、日本政府は広東のイギリス租界を汪兆銘政権に移管した[49]。6月1日、汪兆銘政権の特使として褚民誼が来日し、昭和天皇に拝謁した[50]

1942年6月5日ミッドウェー海戦を機に日本は敗勢を強めていったが、汪政権はもとより日本国民の多くも大敗の真相は知りえなかった[44][50]7月7日タイ王国は汪兆銘の南京国民政府を承認している[47]7月28日日本銀行は南京政府の通貨制度が混乱し、危機に陥っているのを救援するため、周仏海の中央儲備銀行に対して1億円の借款供与契約を結んでいる[51]9月1日、日本政府は閣議で「大東亜省」の設置を決定したが、東郷茂徳外相は二元外交の原因になりかねないとしてこれを批判し、結果として辞職した[52]。後任は置かず、東条首相が外相を兼務した[52]

1942年9月22日平沼騏一郎有田八郎永井柳太郎が特使として南京を訪れた[53]。汪兆銘は、重慶政府との和平工作はすでに限界に達しており、南京政府の和平地域に所在する住民ですら、和平にも抗日にも倦み疲れている実情を説明し、南京政府を強化させる手立てとして、

  1. 南京政府の管掌下にある地方組織に対し、日本側から頭越しに直接指示するなどして治安を妨害しないこと。まして、所属官吏の任免を日本がつかさどるのは論外であり、必ず大使館を通じて南京政府と相談すること。
  2. 中国にとっても、現下の日本にとっても中国の農業工業商業の発達は急務であり、その発達を阻害するような規制や束縛は、日本政府の文書によって撤廃されてしかるべきこと。

の2点を求めた[53]。のちに傀儡政権として断罪された汪兆銘政権であったが、日本占領地域に居住する中国民衆の暮らしには最大限の気遣いを示していたのである[53]

11月1日、興亜院が廃止されて大東亜省が正式に発足した[53][54] 。12月25日、訪日中だった汪兆銘は総理官邸で東条英機と会談をもち、日本占領下の上海や南京でいかに汪政権が民衆から信頼されにくいかを訴え、日本側の善処を求めた[53]。なお、汪はこの訪日時に大勲位菊花大綬章を授与されている。

結局、汪政権も枢軸国側として参戦することとなった[53][55]。民国32年(1943年1月9日、汪兆銘を首班とする南京国民政府は米英に対し宣戦布告した[53][55]。同時に日本は汪兆銘政権との間に租界還付、治外法権撤廃の協定を結び、米英もその直後、蒋介石政権との間で不平等条約による特権を放棄する新条約を結んだ[53][55][56]。これにより中国は、中立国とフランスのヴィシー政権以外のあいだに結ばれていた不平等条約をすべて解消することとなった[53][55][56]。日本政府はまた、南京駐在のヴィシー政府代表に連絡して上海の共同租界の行政権を南京政府に還付させることに成功した[53]。汪兆銘は2月2日付の訓令で、青天白日旗の上につけていた「和平 反共 建国」の三角標識を撤去するよう指示した[53]

なお、3月には延安に拠点のあった中国共産党が汪兆銘政権と合作すべく秘密裏に接触してきている[53]。これは、毛沢東の指示のもと劉少奇が共産党員の馮竜を使者に任じ、上海において周仏海に面会させたものであった[53]。この合作は実現しなかったが、馮竜の叔父の邵式軍が中央儲備銀行の監事だったところから周仏海と親しい一方、日中戦争の際には共産党にひそかにつながっており、共産党に資金を流していたところから、この面会は邵式軍が手配したものとみられる[53]

1943年9月9日、汪兆銘の信頼の厚い李子群が暗殺される事件が起こり、9月22日には汪が訪日して昭和天皇に拝謁し、東条首相と面談している[53]。敗色の濃くなった日本は、この年の8月にビルマ、10月にフィリピン自由インド仮政府をそれぞれ承認し、同時に各国と同盟条約を結んだ[53][57][58]。汪兆銘政権とは10月30日日華同盟条約を結び、付属議定書では戦争状態終了後の撤兵を約束した[2][53][57][58]

 
大東亜会議に参加した汪兆銘(左から3人目、1943年)
 
日本よりの滑空指導者を紹介され挨拶を受ける汪兆銘。陳璧君も同席。

1943年11月5日から6日まで、東京では大東亜会議が開かれた[2][53][57][58]。汪兆銘は南京国民政府代表(ただし、肩書きは行政院長)としてタイやビルマ、フィリピン、満州国、自由インドなど、他のアジア諸国の首脳とともに出席した[2][53][57][58]。上述の独立承認・同盟条約締結の措置は、ここで調印・発表された大東亜宣言の前提をなすものであった[53][57]。なお、島本真の備忘メモによると、大東亜省ならびに中華民国国民政府の要請により、南京、上海蘇州において中華民国滑空士指導者講習会も行ったという。

汪兆銘の死とその後の南京国民政府編集

 
南京国民政府前に立つ汪兆銘(1943年)。「忠孝 仁愛 信義 和平」の字が刻まれた扁額がみえる。

1943年12月19日、日本陸軍の南京第一病院(原隊は名古屋陸軍病院)で、5年前の汪兆銘狙撃事件のとき摘出できなかった弾を取り出す手術がおこなわれた[53]。下半身にしびれを感じ、歩行がおぼつかなくなったためであるが、経過は順調で翌日には退院した[53]

民国33年(1944年)に入ると、1月上旬に左下肢、次いで右下肢が麻痺して歩行困難となり、1月下旬には下半身不随の重体となった[53][59]。汪兆銘の歩き方から察すると、手術の後遺症とは考えられなかったが、若い頃から体質的な糖尿病を病んでおり、これが症状をさらに悪化させていた[53]。2月、東北帝国大学の黒川利雄教授が汪公館を訪ねて診察し、名古屋帝国大学の斎藤真教授に応援を依頼、斎藤教授は診察を終えると、即座に汪兆銘に来日して入院するよう指示した[53]

3月3日、南京を出発した汪兆銘は、陳璧君夫人と何文傑夫妻、通訳、医師らを同行し、国民政府の後事を立法院院長の陳公博と行政院副院長の周仏海に託して岐阜県各務原飛行場に到着[59]。そのまま名古屋帝国大学医学部附属病院に入院した[59]。医師団は、名古屋帝大から斎藤真(外科)・名倉重雄(整形外科)・勝沼精蔵(内科)・田村春吉(放射線科)・三矢辰雄(放射線科)、東北帝大から黒川利雄(内科)、東京帝国大学から高木憲次(整形外科)という、当時としては各分野のトップクラスが集められた[59]。病名はのちに多発性骨髄腫と診断され、体内に残った弾を摘出したものの弾が腐蝕して悪影響を及ぼしたのが原因と考えられた[59]。患部には腫れがあり、周囲を圧迫するところから、入院翌日には第4および第7胸椎の椎弓を切除する手術がなされ、これには成功した[59]

見舞客としては、東条英機・近衛文麿・石渡荘太郎青木一男小倉正恒杉山元小磯国昭・阿部信行・柴山兼四郎後宮淳天羽英二・重光葵・松井太久郎らの名があり、中国人では、方君璧・褚民誼・周仏海・蔡培鮑文樾らが見舞った[59]。最後の見舞客は、宮崎滔天子息の宮崎龍介であった[59]

東条は、汪兆銘のために防空壕が必要だとして首相命令で突貫工事をおこない、7月には完成した[59]。汪兆銘がはじめて防空壕に入ったのは8月11日のことであった[59]11月5日空襲警報が発令され、このときも防空壕に入った[59]

汪は身体の激痛に耐えながら闘病生活を続け、夏ごろには一時回復したが、11月10日、そのまま名古屋にて客死した[59]。61歳。遺体を陸軍小牧飛行場から飛行機に乗せて送り出す際には、小磯国昭首相・重光葵外相ら当時の政府閣僚、近衛文麿・東条英機ら重臣が見送りに訪れた[59]

南京では空港から汪公館までの沿道に民衆がつめかけて棺を迎えた[59]。街は半旗を掲げて静まりかえっており、南京市民が汪兆銘を敬慕していたことをうかがわせる[59]。葬儀委員長は陳公博で、11月18日、中央政治委員会で汪の国葬が決まったが夫人の陳璧君はこれを拒否し、故郷の広東でひっそりと葬儀を行いたいと希望した[59]。しかし、陳公博が南京は故人が生涯をかけて設置した国民政府のある場所だから初代主席の葬儀はお膝元でおこなうのが当然であり、重慶との合体がかなったならば正式な国葬をおこなうとしても、とりあえず経費を切り詰めた質素な仮国葬のかたちにしてはどうかと説得した[59]。夫人はこれに従い、南京郊外の梅花山に埋葬することとしたが、墓を暴かれる恐れから、棺はコンクリートで覆われた[59]。夫人の陳璧君は「魂兮帰来(祖国に帰ってきた魂)」の4字を書いて、夫の霊に捧げた[3]

汪の後任の南京国民政府主席には汪の渡日以来主席代理を務めていた陳公博が就任した[59]。しかし、陳公博もまた汪兆銘同様、対外的な必要のあるとき以外は「主席」を名乗らず、「行政院院長」の肩書を使用した[59]

国民政府は、ポツダム宣言受諾が公表された翌日の1945年8月16日に解散した[9]。日本占領下で治安維持にあたっていた南京国民政府の要人は、蒋介石によって叛逆罪として処刑された[60]。そのなかの一派は、姓名を変えて共産軍へと走った[60]。汪兆銘の妻、陳璧君は無期懲役刑に処せられ、蘇州の獅子口監獄に収監され、のちに獄中で死去している[36]

日本敗戦後の民国35年(1946年1月15日、国民党第七四軍は汪の墓を被覆したコンクリートの外壁を爆破、汪の棺を取り出した[59]。遺体はまもなく火葬された後、遺灰は原野に廃棄されたという[59]。「漢奸」(対日協力者)の墓を残すわけにはいかないとの考えからとみられる[59][61]

人物像編集

若い頃の汪兆銘は童顔で長身の美男子であり、スーツを好んで着こなし、女性からの注目を集めた[62]

満洲事変後、リットン調査団に同行したハインリッヒ・シュネーが南京国民政府の行政院長だった汪兆銘と会見した印象を書き残している(「満州国」見聞記)[20]。それによれば、汪の経歴を調べたシュネーは、会う前には断固たる決意をもった狂信的革命家であろうと想像していたのに反し、実際に会ったら、親しみやすく、柔和かつ魅力的な紳士であり、弁論、文学、芸術の才能をもった「理想的タイプの人間」という印象をもった[20]。そして、「このような人物から、使徒殉教者、また場合によっては宗教の創始者が出てくるのではないか」とさえ記して、その人柄に惚れ込んでいる[20]。さらに、汪が清朝要人暗殺の罪状で死刑が下されたのち、罪一等が減じられたのも、その周囲の好感を呼ぶ人柄、また、理想に燃えた、素質のすぐれた人物であることが影響したのではないかと推定している[20]

長男汪文嬰は父のことを、「清廉潔白な紳士であり、優れた文人ではあったが、政治家としては失敗者」「権力の座につきながら権力を使いきれない知識人」と評している[62]。「政治というものは結果がすべて」と考える汪文嬰は、志が良かろうが状況が悪かろうが、そうしたことは評価の対象外とすべきであり、何を成しえたかだけを問うべきとし、結果として父は何も成しえなかったと評価した[62]。そして、汪兆銘は非常な決断力に欠け、蛮勇をふるうということのできる人ではなかったし、政治家としての資質に欠けるところもあったが、むしろ、その部分が誇らしいと思うこともあったとしている[62]。その点、女婿の何文傑は汪兆銘の志を賛美し、その目的を尊いものとしており、長男とは大きく異なっている[62]。ただし、汪文嬰もまた、父が家族の団欒も自身の名誉も犠牲にして民衆を戦火から守った愛国者であったことは疑いないとしている[62]

汪文嬰はまた、息子の目からみて父親はまちがいなく妻一筋で、他の女性には目もくれずに生涯を終えたと断言している[62]

戦後、妻の陳璧君は、蒋介石政府に逮捕され、漢奸裁判にかけられたが、汪の愛国心を強調して堂々と反論し、周囲の努力により夫の非を認めれば釈放するという約束をとりつけたものの、それを一言のもとに却下し、釈放されることよりも獄死を選んだ[63]。最晩年に病室が一緒だった梁淳白の残した手記『陳璧君の最後の2日』によれば、彼女は、若い頃の汪兆銘の詩を聞いて「彼は美男子だった」と2度くり返して口にしたという[63]。そして、汪兆銘は彼女の「才」と「財」とを認めたのだと語り合った[63]

一方、中国国民党の陳立夫は、汪兆銘は自他ともに認める領袖中の領袖であったが、抗日戦争に勝利する自信のない根っからの敗北主義者であったとし、頭脳明晰ではあったが人の上に立ちたがる欠点があったと自らの回想録(『成敗之鑑』)に記している[33]

政治上のライバルであった蒋介石は、南京に日本の傀儡政権をつくった汪兆銘について、1938年12月22日付の日記に軽蔑の念をこめて「図らずも、汪精衛のでたらめと卑劣さはここに至った。まことに救うべき薬はない」と記している[33]

家族編集

  • 妻:陳璧君:気丈で潔癖な性格で女傑型。家族評によれば、政治的には汪兆銘に従っていたが、それ以外では自立心・自己主張がともに強すぎる女性であった[62]纏足はしていなかった[63]
  • 子女:3男3女にめぐまれたが、1923年生まれの次男はアメリカ合衆国で夭逝している。
  • 妻の兄弟姉妹
    • 陳耀祖(陳璧君の弟):広東省主席。
    • 褚民誼(陳璧君の妹陳舜貞の夫):駐日大使、広東省主席。
    • 陳昌祖(陳璧君の弟):汪兆銘の祖国脱出を追ってハノイに行き、以後ともに行動。

評価編集

中国では、大陸にあっても台湾にあっても、対日協力政権に関わったり、日本側に協力したりした人物を「漢奸」と呼称し、民族の裏切り者、売国奴として扱われるのが一般的であり、汪兆銘はその典型的な例、すなわち「日本に寝返った最悪の裏切り者」とされる[3][64][65]。さらに、汪兆銘の政権は、日本の完全な傀儡政権とみられており、中国においては「偽」の字を冠して「汪偽政権」のように表記されることが多い[64][注釈 9]。中国出身の歴史学者劉傑は、「日本人が汪兆銘を愛国者と評価することはもちろんのこと、彼に示した理解と同情も、中国人から見れば、歴史への無責任と映るのかも知れない」と述べている[66]

ただし、劉傑は一方では中国の国力の低迷を嘆いて日本軍占領地での「和平工作」にすべてを賭けた彼を、「現実的対応に徹した愛国者」として評価しており、このように、少数ではあるが中国出身の人々のなかにも汪政権を肯定的にとらえる見方がないわけではない[3][36]

「政治家としては失敗者」と父を酷評した長男汪文嬰もまた、汪兆銘を「政治的には大して取り柄のない人であったかもしれないが、その精神は愛国心に満ち満ちていた」「あの時代に地獄をおちるのを承知しながら民衆を戦火から守るべく割の悪いコースを選んだ汪兆銘が、どうして漢奸であろうか」と述べている[62]

そして、実際上も汪兆銘政権が米英に宣戦布告したことが、日本側さらに米英の不平等条約解消につながるなど中国の主体性確保と国際的地位の向上に寄与した一面もある[36][55]。汪兆銘政権の経済関係省庁の文書をみると、水利建設などでは一定の主導性を有しており、また、日本は中華民国に対し宣戦布告はしなかったことから、日本国内の華僑のほとんどは汪兆銘政権の管轄下にあり、東南アジアにおける日本占領下の地域に住む中国籍の人びとについても同様だった[67]。汪兆銘政権が傀儡政権であるにしても、単なる「傀儡」ではなく、「政権」としての内実をともなっていたことには注意が必要である[67]

著作編集

  • 『汪兆銘全集』(和訳:河上純一訳、東亜公論社、1939年)
  • 『汪主席和平建国言論集』中央書報発行所、1940年
  • 『中国の諸問題と其解決』(和訳:日本青年外交協会研究部訳編、日本青年外交協会出版部、1939年)
  • 『日本と携へて』(和訳:黒根祥作訳、朝日新聞社、1939年)
  • 『汪精衛自敍伝』(和訳:安藤徳器編訳、講談社、1941年)
  • 『全面和平への道』(和訳:東亜聯盟中国総会編、改造社、1941年)
  • 『汪主席訪日言論集』上海特別市政府秘書処、出版年不明
  • 『双照楼詩詞藁』

伝記編集

  • 森田正夫『汪兆銘』(興亜文化協会 昭和14年(1939年))
  • 山中徳雄『和平は売国か  ある汪兆銘伝』(不二出版 平成2年(1990年))
  • 杉森久英 『人われを漢奸と呼ぶ 汪兆銘伝』(文藝春秋 平成10年(1998年))
  • 上坂冬子 『我は苦難の道を行く 汪兆銘の真実』(各(上・下)、講談社 平成11年(1999年)、文春文庫 平成14年(2002年))

脚注編集

 
マレーシアにて
後列左から2人目が汪、その左が陳璧君
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注釈編集

  1. ^ 戦前・戦中期の日本でも、「汪精衛」の呼称を使用する例は決して少なくなかった。東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社(昭和16年)や『写真週報』などの出版物、さらに週間ニュース映画「日本ニュース」などでも「汪精衛」と表記している。
  2. ^ 朱執信は、孫文の忠実な協力者で、朱執信の父親が汪兆銘の従姉妹を妻としていた。1920年死去。死後、朱の名を冠した朱執信学校が広東に設立され、汪兆銘の長女汪文惺やその夫何文傑はここで学んだ。上坂(1999)上巻pp.90-91
  3. ^ 「精衛」は、海で溺死した炎帝の娘の化身とされた伝説上の小鳥。怨み深き海がいつか埋め尽くされることを夢見て、小石を嘴にくわえて飽きることなく海に運び落としたとされる。上坂(1999)上巻pp.96-99
  4. ^ 陳璧君と汪兆銘が知り合ったのは、汪が孫文にしたがって革命資金を集めるべくペナン島に講演旅行をしたときであった。上坂(1999)上巻p.92
  5. ^ 陳公博と周仏海は、のちに国民党に転向して、さらに汪兆銘とともに「漢奸」として非難された。
  6. ^ 革命軍将校の土地を除いて土地革命を遂行しせよ。信頼できない将校を一掃し、2万人の共産党員を武装し、5万人の労農分子を選抜して新しい軍隊を組織せよ。国民党中央委員会を改造し、古い委員を労農分子に交代させよ。著名な国民党員を長とする革命法廷を組織して反動的な将校を裁判にかけよ、というのがコミンテルンからの訓令であった。小島・丸山(1986)p.119
  7. ^ 広田の和協外交は、列強の勢力を中国から排除する指向をもっていたと同時に、陸軍の中国政策に単純に追随するものではなく、政府による外交の自主性を保持しようというものであった。有馬(2002)p.199
  8. ^ 日本人による東亜連盟運動の嚆矢は石原完爾の信奉者たちであり、中国人では繆斌をそのさきがけとしている。北平新民会を脱会した繆斌が1940年5月に北平で中国東亜連盟協会、林汝珩が1940年9月に広東で中華東亜連盟協会、周学昌が1940年11月に南京で東亜連盟中国同志会をそれぞれ結成した。しかし、1941年1月14日、日本政府が日本国内の東亜連盟の解散を閣議決定し、日本側の活動は停滞を余儀なくされ、中国側もその影響を受けたが、一方で日本側の草の根の同調者が真剣であることが中国側の運動者に理解されたのであった。
  9. ^ 日本敗戦後、中国では日本軍民に対する戦犯裁判とは別に、中国人の漢奸を摘発して「漢奸裁判」を行い、汪兆銘政権の要人はその多くが銃殺刑に処せられた。川島(2018)p.148

出典編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 里井(1975)p.155
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  66. ^ 【世界史の遺風】(62)汪兆銘 「漢奸」と断罪された「愛国者」4/4(木村凌二)
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参考文献編集

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  • 大門正克『日本の歴史第15巻 戦争と戦後を生きる』小学館、2009年3月。ISBN 978-4-09-622115-0
  • 影佐禎昭「曾走路我記」『現代史資料13 日中戦争』みすず書房、1966年。ASIN B000J9I1DA
  • 上坂冬子『我は苦難の道を行く 汪兆銘の真実 上巻』講談社、1999年10月。ISBN 4-06-209928-4
  • 上坂冬子『我は苦難の道を行く 汪兆銘の真実 下巻』講談社、1999年10月。ISBN 4-06-209929-2
  • 川島真「「傀儡政権」とは何か-汪精衛政権を中心に-」『決定版 日中戦争』新潮社〈新潮新書〉、2018年11月。ISBN 978-4-10-610788-7
  • 小島晋治丸山松幸『中国近現代史』岩波書店岩波新書〉、1986年4月。ISBN 4-00-420336-8
  • 小林英夫『日中戦争と汪兆銘』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2003年6月。ISBN 4642055584
  • 『あの戦争 太平洋戦争全記録 上』産経新聞社集英社、2001年8月。ISBN 4-8342-5055-5
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  • ハインリッヒ・シュネー『「満州国」見聞記』金森誠也訳、講談社〈講談社学術文庫〉、2002年10月。ISBN 4-06-159567-9
  • 里井彦七郎「汪兆銘」『日本歴史大辞典2 え―かそ』日本歴史大辞典編纂委員会、河出書房新社、1979年11月。
  • 保阪正康『蒋介石』文藝春秋文春新書〉、1999年4月。ISBN 4-16-660040-0
  • 宮崎市定『中国史 下』岩波書店〈岩波全書〉、1978年6月。
  • 森武麿『日本の歴史20 アジア・太平洋戦争』集英社、1993年1月。ISBN 4-08-195020-2
  • 劉傑『中国人の歴史観』文藝春秋〈文春新書〉、1999年12月。ISBN 4-16-660077-X
  • 劉傑「汪兆銘」『朝日クロニクル 週刊20世紀-1944(昭和19年)』朝日新聞社、2000年8月。
  • 劉傑『漢奸裁判――対日協力者を襲った運命』中央公論新社中公新書〉、2000年。

関連項目編集

外部リンク編集

   中華民国(国民政府)国民政府
先代:
胡漢民
(広東大元帥府大元帥)
広州国民政府主席委員
1925年7月 - 1926年3月
(1926年、譚延闓代理)
次代:
(武漢国民政府主席に
改組)
先代:
(広州国民政府から改組)
武漢国民政府主席
1926年12月 - 1927年8月
次代:
(南京国民政府に合流)
先代:
集団指導制:胡漢民ら4名
南京国民政府常務委員
1927年9月 - 1928年1月
(集団指導制:譚延闓胡漢民
蔡元培李烈鈞
次代:
集団指導制:汪兆銘ら9名
先代:
集団指導制:汪兆銘ら5名
南京国民政府常務委員
1928年1月 - 2月
(集団指導制:譚延闓胡漢民
蔡元培李烈鈞于右任蒋介石
孫科林森
次代:
集団指導制:譚延闓ら5名
先代:
(創設)
広東国民政府常務委員
1931年5月 - 1932年
(集団指導制:唐紹儀古応芬
鄧沢如孫科
次代:
(廃止)
先代:
孫科
行政院長
1932年1月 - 1935年12月
1932年8月 - 1933年3月
宋子文代理、
1935年7月 - 12月孔祥熙代理)
次代:
蒋介石
先代:
羅文幹
外交部長(署理)
1933年8月 - 1935年12月
次代:
張群
   南京国民政府(汪兆銘政権
先代:
(創設)
主席
1940年3月 - 1944年11月
(1940年11月まで代理)
次代:
陳公博
先代:
(創設)
行政院長
1940年3月 - 1944年11月
次代:
陳公博