(しのびごと)とは、 日本古代以来、貴人の死を哀悼し、生前の功績・徳行をたたえ、追憶する弔辞。誄詞(るいじ)とも呼ばれる。大王(天皇)には殯宮で奏され、功臣の棺前にも賜ったものである。

概要編集

「偲ふ(偲ぶ)」は「忍ぶ」とは別の語であり、「賞美する」・「おもひ慕う・懐かしむ」という意味で、「しのひこと」とは、寿詞(よごと)に通じるものであった。

日本書紀』巻第二十によると、敏達天皇崩御の時に、

天皇、病(みやまひ)弥留(おも)りて、大殿に崩(かむあが)りましぬ。是の時に、殯宮(もがりのみや)を広瀬(ひろせ、大和国広瀬郡、現在の北葛城郡広陵町付近)に起(た)つ。馬子宿禰大臣(うまこ の すくね の おほおみ)、刀(たち)を佩きて(しのびこと)たてまつる。物部弓削守屋大連、听然而咲(あざわら)ひて曰はく、「猟箭(ししや)(お)へる雀鳥(すずみ)の如し」と言ふ。次に弓削守屋大連(ゆげ の もりや の おほむらじ)、手脚(てあし)(わなな)き震ひてたてまつる搖震は、戦(ふる)ひ慄(わななく)なり。馬子宿禰大臣、咲(わら)ひて曰はく、「鈴(すず)を懸(か)くべし」といふ。是によりて、二(ふたり)の臣(おみ)、微(やうやく)に怨恨(うらみ)を生(な)す。[1] (天皇は病が重くなり、大殿で崩御された。この時、殯宮(もがりのみや)を広瀬にたてた。馬子宿禰大臣は刀を佩(お)びて死者を慕う(しのびごと)を述べた。物部弓削守屋大連(もののべ の ゆげ の もりや の おおむらじ)はあざ笑って、「猟箭(ししや、けものを射る大きな弓)で射られた雀のようだ」と言って(小柄な身に、大きな大刀を帯びた馬子の不恰好な姿を)笑った。次に弓削守屋大連は手足を震わせわなないて(しのびごと)を読んだ。馬子宿禰大臣は笑って、「鈴をつけたら面白い」といった。ここから、二人の臣はだんだん怨(うらみ)を抱き合うようになった)訳:宇治谷孟

とあるのが、史料における初見である。

その内容は、皇位継承の次第から氏族の奉仕の由来にまでわたり、当初は追悼の辞というよりも、故人の伝記の一部を語るようなものであった。豪族から部曲まで各階層の代表者がそれぞれ誄を奏してきた。大王(天皇)の場合には「誄詞奏上」の一環として和風諡号が献呈された。

功臣への誄として、『続日本紀』巻第二十七にある、天平神護2年正月(766年)の称徳天皇の詔によると、藤原鎌足藤原不比等への「志乃比己止乃書」(しのひことのふみ)が与えられたことが伝わっている。この詔により、大納言藤原永手右大臣に任じられ、白壁王(のちの光仁天皇)と藤原真楯が後任に任じられている[2]

また、646年大化の薄葬令には、

或いは亡人(しにたるひと)のために髪を断(き)り股を刺して誄(しのびこと)す。此(かく)の如き旧俗(ふるきしわざ)、一(もはら)に皆悉(ことごとく)に断(や)めよ。

とあり、誄が民間においても行われていたことが窺われる[3]

そのほかの服喪の儀礼として、挙哀(発哀)の礼があり、『書紀』巻第第十一によると、日本では菟道稚郎子の自死の際に大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)が行ったのが最初とされているが、『書紀』巻第二十六によると、661年の『斉明天皇』の崩御の際に飛鳥の川原で9日間発哀したとあり[4]、また巻第二十九によると、天武天皇の殯宮の儀礼に

戊申(つちのえさるのひ)に始めて発哭(みなたてまつ)る。則(すなは)ち殯宮(もがりのみや)を南庭(みなみのおほば)に起(た)つ。辛酉(かのととりのひ)に、南庭に殯(もがり)す。即(すなは)ち発哀(みねたてまつ)る。(中略)甲子(きのえねのひ)の平旦(とらのとき)に、諸(もろもろ)の僧尼(ほふしあま)、殯庭(もがりのみや)に発哭(みねたてまつ)りて乃(すなは)ち退(まか)でぬ。

とある[5]。同様の記事は678年十市皇女薨去の記事[6]があり、納言宮内卿五位の舎人王薨去の記事でも、「天皇、大きに驚きたまひて、高市皇子川嶋皇子を遣す。因りて殯を隣(みそなわし)て哭(みね)したまふ。百寮(つかさつかさ)の者、従ひて発哀(ねつか)ふ」とも載っている[7]。天武天皇の場合は、続けて誄の記事が延々と続くのであるが、誄とは、この「哭泣して哀しむ」発哀の礼とともに、王権を強化する役割をも果たしていた。

しかし、『続日本後紀』巻第十二によると、嵯峨天皇の、財を費やした手厚い葬儀は古の賢人が避けたものであり、薄葬を行った前漢武帝文帝に見習うべしとする遺詔が出されてから、誄諡が停止され、誄の奏上は行われなくなった[8]

脚注編集

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  1. ^ 『日本書紀』敏達天皇14年8月15日条
  2. ^ 『続日本紀』称徳天皇 天平神護2年1月8日条
  3. ^ 『日本書紀』孝徳天皇 大化2年月22日条
  4. ^ 『日本書紀』斉明天皇7年11月7日条
  5. ^ 『日本書紀』天武天皇 朱鳥元年9月11日条、24日条、27日条
  6. ^ 『日本書紀』天武天皇7年4月14日条
  7. ^ 『日本書紀』天武天皇9年7月26日条
  8. ^ 『続日本後紀』承和9年7月15日条

参考文献編集

  • 『岩波日本史辞典』p394、p542、監修:永原慶二岩波書店、1999年
  • 『日本書紀』(二)・(四)・(五)、岩波文庫、1994年 - 1995年
  • 『日本書紀』全現代語訳(上)・(下)、講談社学術文庫宇治谷孟:訳、1988年
  • 『続日本紀』3 新日本古典文学大系14 岩波書店、1992年
  • 『続日本紀』全現代語訳(中)・(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年、1995年
  • 『続日本後紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫、森田悌:訳、2010年

関連項目編集