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菟道稚郎子

日本の皇族

菟道稚郎子(うじのわきいらつこ/うぢのわきいらつこ、生年不詳 - 壬申[注 1])は、記紀等に伝わる古代日本皇族

莵道稚郎子
莵道稚郎子.jpg
莵道稚郎子(『前賢故実』より)
続柄 第15代応神天皇皇子
身位 皇太子
出生 不詳
死去 壬申
菟道宮
埋葬 壬申年?
宇治墓(京都府宇治市
配偶者 (記載なし)
子女 (記載なし)
父親 応神天皇
母親 宮主宅媛
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第15代応神天皇皇子(『日本書紀』では皇太子)で、第16代仁徳天皇の異母弟。

目次

概要編集

菟道稚郎子は、名前の「菟道」が山城国宇治(現在の京都府宇治市)の古代表記とされるように、宇治地域と関連が深い人物である。郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子の墓も宇治に伝えられている。

郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、『古事記』では単に夭折と記されている。

『古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である。

名称編集

表記は次のように文書によって異なる。本項では「莵道稚郎子」に統一して解説する。

これらのほか、『播磨国風土記』に見える「宇治天皇[原 9]も菟道稚郎子を指した表記と指摘される[1]

「ウジ」について編集

名前の「ウジ・ウヂ(莵道/宇遅)」は、京都府南部の地名「宇治」と関係する。「宇治」の地名は古くは「宇遅」「莵道」「兎道」などとも表記されたが、平安時代に「宇治」に定着したとされている[2]。『古事記』では母・宮主矢河枝比売が木幡村(現在の京都府宇治市木幡)に住まっていた旨が記され、郎子と当地との関係の深さが示唆される。なお現在も「菟道」という地名が宇治市内に残っているが、読みは「とどう」である。

地名「宇治」について、『山城国風土記』逸文では、菟道稚郎子の宮が営まれたことが地名の由来としている。しかしながら、『日本書紀』垂仁天皇紀・仲哀天皇紀・神功皇后紀にはすでに「菟道河(宇治川)」の記載があることからこれは誤りと見られ[3]、むしろ菟道稚郎子の側が地名を冠したものと見られている[3]。現在では、北・東・南を山で囲まれて西には巨椋池が広がるという地理的な奥まりを示す「内(うち)」や、宇治を中心とした地方権力によるという政治的な意味での「内」が、「宇治」の由来と考えられている[4][5]。実際、宇治はヤマト王権の最北端という影響の受けにくい位置にあることに加え、菟道稚郎子の説話や「宇治天皇」という表現からも、宇治に1つの政治権力があったものと推測されている[3]。なお、文字通り「兎(ウサギ)の群れが通って道になった」ことを「莵道」の由来とする南方熊楠による説もある[6]

「イラツコ」について編集

「イラツコ(郎子)」は、名前に付される敬称である。史書に「郎女(いらつめ/いらつひめ)」は頻出するが(『古事記』で43名[7])、「郎子」が使われたのは『古事記』では莵道稚郎子含め4名のみで[7][注 2]、一般に使われる「命(みこと)」や「王(おう/みこ/おおきみ)」のいずれでもない特異性が指摘される[7][注 3]。「郎子」の用法の性格には、愛称とする説と「郎女」の対とする説がある[7]。「郎女」の多くが皇女に用いられていることから「郎子」も皇子を指したものという見方が強いが、菟道稚郎子以外の3名はいずれも「王」とも表記されており、皇位継承者に付される「命」ではなく「王」に近い用法と考えられている[7]

なお、「郎子」の前の「ワキ」は「若(わか)」の転訛とされる[7]

系譜編集

古事記・日本書紀編集

(名称は『日本書紀』初出を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

『古事記』『日本書紀』によれば、応神天皇和珥氏(丸邇氏)祖の日触使主(ひふれのおみ、比布礼能意富美)の女 の宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)との間に生まれた皇子である[原 10]。同母妹には矢田皇女(やたのひめみこ、八田皇女/八田若郎女:仁徳天皇皇后)、雌鳥皇女(めとりのひめみこ、女鳥王)がいる。

応神天皇と仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命)との間に生まれた大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、大雀命:仁徳天皇)は異母兄にあたる。また関連する名前の人物として、宮主宅媛の妹の小甂媛(おなべひめ、袁那弁郎女)から生まれた菟道稚郎女皇女(うじのわきいらつひめのひめみこ、宇遅能若郎女)がいる。

なお、菟道稚郎子の妻子に関して史書に記載はない。

 
 
 
 
 
 
豊城入彦命
 
毛野氏族]
 
 
 
 
 
10 崇神天皇
 
 
11 垂仁天皇
 
12 景行天皇
 
日本武尊
 
14 仲哀天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
倭姫命
 
 
13 成務天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 彦坐王
 
丹波道主命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 山代之大
筒木真若王
 
迦邇米雷王
 
 息長宿禰王
 
神功皇后
(仲哀皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15 応神天皇
 
16 仁徳天皇
 
17 履中天皇
 
市辺押磐皇子
 
飯豊青皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18 反正天皇
 
 
 
 
 
 
24 仁賢天皇
 
手白香皇女
(継体皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
菟道稚郎子皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23 顕宗天皇
 
 
25 武烈天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19 允恭天皇
 
木梨軽皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20 安康天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21 雄略天皇
 
22 清寧天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
春日大娘皇女
(仁賢皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
稚野毛
二派皇子
 
 意富富杼王
 
 乎非王
 
彦主人王
 
26 継体天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忍坂大中姫
(允恭皇后)
 
 


 

先代旧事本紀編集

先代旧事本紀』では、饒速日命物部氏祖)九世孫の物部多遅麻連(もののべのたじまのむらじ)の女の山無媛連(やまなしひめのむらじ)を母とする[原 7]。また『古事記』『日本書紀』同様、山無媛連は矢田皇女と雌鳥皇女の母でもあるとしている[原 7]

この記載と関連して、後述のように、菟道稚郎子の御名代との関係がうかがわれる宇治部氏や宇治氏は、物部氏一族とされている。これらが物部氏を称したのは『先代旧事本紀』の伝えるように菟道稚郎子の外戚が物部氏であったことに基づくと推察して、母を和珥氏とする『古事記』『日本書紀』の記述は誤りの可能性があるという指摘もある[8]

記録編集

日本書紀編集

 
菟道稚郎子と大山守皇子は宇治川で争ったと伝わる。

日本書紀』によれば、百済から来朝した阿直岐王仁を師に典籍を学び、父天皇から寵愛された[原 11]。応神天皇28年には、高句麗からの上表文に「高麗王、日本国に教ふ」とある非礼を指摘し、これを破り捨てている[原 12]。応神天皇40年1月に皇太子となった[原 13]

翌年に天皇が崩じたが、郎子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合った。そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが太子に立てなかったことを恨み、郎子を殺そうと挙兵した。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知して郎子に伝え、大山守皇子はかえって郎子の謀略に遭って殺された。その際、大山守皇子の遺骸に向けて次の歌を詠んだという[9]

ちはや人 菟道の渡に 渡手に 立てる 梓弓檀 い伐らむと 心は思へど い取らむと 心は思へど 本方は 君を思ひ出 末辺は 妹を思ひ出 苛なけく そこに思ひ 悲しけく ここに思ひ い伐らずそ来る 梓弓檀
ちはやひと うぢのわたりに わたりでに たてる あづさゆみまゆみ いきらむと こころはもへど いとらむと こころはもへど もとへは きみをおもひで すゑへは いもをおもひで いらなけく そこにおもひ かなしけく ここにおもひ いきらずそくる あづさゆみまゆみ

この後、郎子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年に及んだ。永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ郎子は互譲に決着を期すべく、自ら果てた。尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、郎子は蘇生して妹の八田皇女を後宮に納れるよう遺言をし、再び薨じたという[原 14]

古事記編集

古事記』では、叙述を宮主矢河枝比売(宮主宅媛)から始めており、応神天皇が木幡村(現在の京都府宇治市木幡)に住まう比売と出会い、郎子が生まれるまでが描写される[原 1]

その後は『日本書紀』と概ね同様の所伝を記す。大山守皇子の遺骸に向けて詠まれた歌も、ほぼ同じものが収録されている[10]。一方皇位継承については、単に宇遅能和紀郎子(菟道稚郎子)が早世したため、大雀命(仁徳天皇)が即位したと記している[原 1]

風土記編集

山城国風土記』逸文では、菟道稚郎子が住んだ宮は「桐原日桁宮(きりはらのひげたのみや)」と記載される。また「宇治」の地名の由来はこの宮が営まれたためとし、それ以前の当地は「許乃国(このくに)」と言ったとする[原 3]

播磨国風土記』には「宇治天皇の世」という記載があり[原 9]、事績は見えないがこの「宇治天皇」は菟道稚郎子を指すと見られている[1]

万葉集編集

万葉集』には、挽歌として次の歌が見える[原 15]

挽歌 宇治若郎子宮所歌一首
 妹らがり 今木の嶺に 茂り立つ 嬬松の木は 古人見けむ
 いもらがり いまきのみねに しげりたつ つままつのきは ふるひとみけむ

柿本朝臣人麻呂之歌集出、『万葉集』巻9 1795番

このうち第5句の「古人」とは「故人」、すなわち菟道稚郎子を指すとされる[11]

その他編集

菟道稚郎子について言及したその他の史書は、以下の通り。

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菟道宮(桐原日桁宮)伝承地。

菟道稚郎子は菟道宮(うじのみや:『日本書紀』)または桐原日桁宮(きりはらのひげたのみや:『山城国風土記』逸文)に住んだといい、その地は京都府宇治市宇治上神社位置)または宇治神社位置)に比定されている[注 4]。両社は合わせて『延喜式神名帳に「山城国宇治郡 宇治神社二座」と記されている式内社で、明治に分かれるまでは一社として「宇治離宮明神」と称していた[12]

また『山城国風土記』逸文によると、この郎子の宮が営まれたことが「宇治」の地名の由来という。しかしながら前述のように、この記述には疑問が呈されている。

なお『万葉集』には「兎道乃宮子(宇治のみやこ)」という記載が見られるが[原 16]、これはこの歌を詠んだ額田王が近江に行幸する際に泊まった仮宮を指したものである[13]

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菟道稚郎子尊 宇治墓
(京都府宇治市)

は、宮内庁により京都府宇治市莵道丸山にある宇治墓(うじのはか、位置)に治定されている[14][15][16]。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「丸山古墳」。

記録編集

菟道稚郎子の葬送に関する記載として、まず『日本書紀』では「菟道山上」に葬られたと記載されている[15]

また『続日本後紀承和7年(840年)の記事には、郎子は遺命して散骨させたという伝承が見られる[原 6]

延長5年(927年)成立の『延喜式諸陵寮諸陵式)では「宇治墓」の名称で記載され、山城国宇治郡の所在で、兆域は東西12町・南北12町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する[原 8][15]。この12町(約1.3キロメートル)四方という記載は、仁徳天皇の百舌鳥耳原中陵(大仙陵古墳に治定)の8町(約870メートル)四方を大きく上回るものになる。

後世の治定編集

上記の記録があるものの、江戸時代の時点では墓の所在は不明となっていた。享保18年(1733年)には、『日本書紀』の記述に基づき、古墳が存在していないものの朝日山(宇治上神社後背)の山頂が墓所と見なされて墓碑の建立が行なわれた(位置[17][18]。上記の丸山古墳に治定されたのは明治22年(1889年)で、以後現在まで宮内庁の管理下となっている。この地は宇治川東岸にあり、明治以前は「浮舟の杜」と呼ばれる円丘であった。これは「山上」とする『日本書紀』の伝承とは異なるという指摘もあったが、前方後円墳状に成形されて「宇治墓」とされた[15]

また上記の治定の際には、付近の小墳が賀陽豊年という人物を埋葬した陪塚と定められている[15]。賀陽豊年は、『日本後紀弘仁6年(815年)の記事にその死に関する記載がある人物である。その中で、豊年は宇治に居た時に仁徳天皇と菟道稚郎子の話を聞いて感動して「地下之臣」になることを望んだといい、勅により「陵下」への埋葬が許可されたと記されている[原 4]。陪塚の治定はこの記事の「陵」を郎子の墓にあてたことによるが[15]、一方で仁徳天皇の陵とする解釈もある[19](通常「陵」は天皇陵、「墓」は皇族墓を指す)。

郎子が散骨されたという伝承に関しては、前記した『続日本後紀』で中納言クラスの藤原吉野が把握していることが見えるものの、それ以外の史書には記載がなく真偽は明らかではない[20][21]。記事中では、郎子が自身の散骨を命じて「後世之に倣う」と記されているが、これを「後で命じられた通りにした」と解する見方[22]と「郎子を流例として散骨が広まった」と解する見方[20]がある。

なお、持統天皇5年(691年)には有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある[23]。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・彦五瀬命墓(紀伊)・五十瓊敷入彦命墓(和泉)・菟道稚郎子墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある[23]

考証編集

史書の菟道稚郎子に関する人物描写では、大山守皇子に対して謀略を用いる場面もあるものの、『日本書紀』の自殺の美談に特に顕著であるように、全般に儒教的な色彩が極めて濃いという評価がなされている[24]。また、母が和珥氏出身であること、「郎子」という特殊な呼称、天皇即位をほのめかす多くの表現等から、描写の特異性が指摘される[7]

これらについて、夭折(『古事記』)・自殺(『日本書紀』)という表現は潤色であるとし、仁徳天皇に攻め滅ぼされたとする説が古くより提唱されており、背景に和珥氏・葛城氏の争いがあったという意見がある[25]。この「仁徳天皇による謀殺説」には多くの説が従っているが[7][26]、中でもこの争いが記述された意味に対して、菟道稚郎子の物語は和珥氏の伝承が由来であって、郎子を顕彰するという和珥氏の要請を果たしつつも聖帝たる仁徳天皇の構築のために結び付けられた叙述であるという見方がなされてきている[27]

このように菟道稚郎子を仁徳天皇の脇役とする見方に対して、再評価する動きもある。その中で、『古事記』では「郎子」が皇位継承者の「命」とは異なる用法(前述)である一方、天皇として即位していた扱いの表現もまた見られることから[注 5]、「皇統譜と並行してありえた天皇」であるとし、記紀に対して「別の古代」の存在が指摘される[7]。似た事例としては「飯豊天皇」と称される忍海郎女(おしぬみのいらつめ)が見られ、描写法の関わりが考えられる[7]。またこの菟道稚郎子の記事により、皇統の父子継続から兄弟継続への変化(右図参照)が合理的に実現されているとも指摘される[28]

記紀以外では、『播磨国風土記』にある「宇治天皇」の記載からも皇位に就いていたとする指摘がある[29][30]

宇治部編集

菟道稚郎子の御名代の部、すなわち菟道稚郎子の名を冠した朝廷直轄のとしては、宇治部(うじべ、宇遅部)が指摘される[31]。この宇治部の伴造氏族としては、宇治部氏(宇遅部氏、)が史書上に見える[31]。『新撰姓氏録』には河内国神別と和泉国神別に記載があり、饒速日命の六世孫・伊香我色乎命(伊香我色雄命)の後裔と伝えている[原 17]。これら2氏一族の人名は他の史書上には見えないが[31]、直(あたい)姓・無姓の者は、武蔵国常陸国[注 6]下野国近江国越前国備前国讃岐国筑前国といった全国に及んでいる[31]。なお『先代旧事本紀』では、饒速日尊七世孫の多弁宿禰命が宇治部氏の祖と伝えている[原 7]

なお、宇治部自体は菟道稚郎子の御名代部としての確証には至っておらず、『国史大辞典』では「確かな御名代部名」には挙げられていない[32]。また、他の「宇治」を冠する氏族として宇治部氏と同じ物部氏系を称する宇治氏(姓は連のち宿禰)があり、宇治部の管掌氏族とする説がある[33]

脚注編集

注釈

  1. ^ 壬申年は応神天皇41年(崩御時)の2年後で、仁徳天皇元年(即位時)の前年にあたる(いずれも『日本書紀』による)。
  2. ^ 他の3名は、応神天皇孫の大郎子(意富富杼王)、仁徳天皇皇子の波多毘能大郎子(大日下王・大草香皇子)、継体天皇皇子の大郎子(大郎皇子)。
  3. ^ ただし現在、宇治神社等においては郎子・命を重ね「菟道稚郎子命」という表記も見られる。
  4. ^ 宮阯は、宇治上神社(平凡社) & 1981年で宇治上神社、宇治(国史) & 1982年で宇治神社とする。
  5. ^ 出生以前から記す扱い、天下を譲られたという表現、「百官」「崩」という表現が指摘される (金澤 & 2007年)。
  6. ^ 『続日本紀』養老7年(723年)2月13日条、『続日本紀』天応元年(781年)正月15日条には、いずれも常陸国那賀郡大領として「宇治部直荒山」「宇治部全成」の名が見える。また、茨城県水戸市大井神社は郡領の宇治部氏の奉斎と伝えている(大井神社<茨城県神社庁>)。

原典

  1. ^ a b c 『古事記』応神天皇記。
  2. ^ 『日本書紀』応神天皇紀。
  3. ^ a b 『山城国風土記』逸文「宇治」(『詞林采葉抄』所収)。 - 武田祐吉編『風土記』(岩波書店、1937年、国立国会図書館デジタルコレクション)139コマ参照。
  4. ^ a b c 『日本後紀』弘仁6年6月27条。
  5. ^ a b 『類聚国史』所収『日本後紀』逸文「渤海使」(天長3年3月1日条)。 - 『国史大系 類聚国史』(経済雑誌社、1913年、国立国会図書館デジタルコレクション)663コマ参照。
  6. ^ a b c 『続日本後紀』承和7年5月6日条。
  7. ^ a b c d e f 『先代旧事本紀』「天孫本紀」。 - 『国史大系 第7巻』(経済雑誌社、1897年-1901年、国立国会図書館デジタルコレクション)152コマ参照。
  8. ^ a b c 『延喜式』諸陵寮 宇治墓条。 - 『延喜式 第4』(日本古典全集刊行会、昭和4年、国立国会図書館デジタルコレクション)90コマ参照。
  9. ^ a b 『播磨国風土記』揖保郡大家里条。 - 武田祐吉編『風土記』(岩波書店、1937年、国立国会図書館デジタルコレクション)102コマ参照。
  10. ^ 『古事記』応神天皇記、『日本書紀』応神天皇2年3月条。
  11. ^ 『日本書紀』応神天皇15年8月条、応神天皇16年3月条。
  12. ^ 『日本書紀』応神天皇28年9月条。
  13. ^ 『日本書紀』応神天皇40年1月条。
  14. ^ 『日本書紀』仁徳天皇即位前条。
  15. ^ 『万葉集』巻9 1795番。 - 09/1795(万葉集検索システム<山口大学>)参照。「柿本朝臣人麻呂之歌集出」は1796番において、1795番1首と1796番4首の「右五首」に対する左注として記載のもの。
  16. ^ 『万葉集』巻1 7番。 - 01/0007(万葉集検索システム<山口大学>)。
  17. ^ 『新撰姓氏録』河内国 神別 宇治部連条、和泉国 神別 宇遅部連条。

出典

  1. ^ a b 菟道稚郎子皇子(国史) & 1982年.
  2. ^ 井上満郎「宇治」(『日本古代史大辞典』大和書房、2006年)。
  3. ^ a b c 宇治(角川) & 1982年.
  4. ^ 『宇治市史 1』(宇治市役所、1973年)pp. 204-205。
  5. ^ 宇治市(平凡社) & 1981年.
  6. ^ 南方熊楠「兎に関する民俗と伝説」(『十二支考』岩波文庫、1994年、青空文庫より(大正四年一月、『太陽』21巻1号))。
  7. ^ a b c d e f g h i j 金澤 & 2007年.
  8. ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』(角川書店、1963年)「宇治部」 11 宇治部連項。
  9. ^ 訓読・仮名の解釈は、小島憲之ほか校注・訳『日本書紀 2』(小学館、1996年)による。
  10. ^ 訓読・仮名の解釈は、倉野憲司校注『古事記』(岩波文庫、1963年)による。
  11. ^ 小島憲之ほか校注・訳『萬葉集 三』(小学館、1978年)pp. 433-434。
  12. ^ 宇治神社(平凡社) & 1981年.
  13. ^ 小島憲之ほか校注・訳『萬葉集 一』(小学館、1978年)p. 68。
  14. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)10コマ。
  15. ^ a b c d e f 宇治墓(国史) & 1982年.
  16. ^ 『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、p. 403。
  17. ^ 宇治墓(平凡社) & 1981年.
  18. ^ 莵道稚郎子伝説(【2007年1月19日掲載】 京都新聞)。
  19. ^ 『日本後紀 中 全現代語訳』(講談社学術文庫、2006年)p. 372。
  20. ^ a b 喜田貞吉「火葬と大蔵 -焼屍・洗骨・散骨の風俗-」初出:「民族と歴史 第三巻第七号」1919(大正8)年6月(『先住民と差別 -喜田貞吉歴史民俗学傑作選-』河出書房新社、2008年、青空文庫より)。
  21. ^ 中山太郎『本朝変態葬礼史』初出:「犯罪科学 増刊号 異状風俗資料研究号」1931(昭和6)年7月(河出書房新社、2007年、青空文庫より)。
  22. ^ 『続日本後紀 上 全現代語訳』(講談社学術文庫、2010年)p. 348。
  23. ^ a b 仁藤敦史 「記紀から読み解く、巨大前方後円墳の編年と問題点」『古代史研究の最前線 天皇陵』 洋泉社、2016年、pp. 13-16。
  24. ^ 『宇治市史 1』(宇治市役所、1973年)p. 210。
  25. ^ 神田秀夫による説 (金澤 & 2007年より)。
  26. ^ 三浦佑之『口語訳 古事記 完全版』」(文藝春秋、2002年) p. 248 注(40)。
  27. ^ 吉井巌による説(金澤 & 2007年より)。
  28. ^ 金澤和美「ウヂノワキイラツコと「古代」」の博士論文要旨 (昭和女子大、2009年)。
  29. ^ 菟道稚郎子(古代氏族) & 2010年.
  30. ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』(角川書店、1963年)「宇治部」 1 山城の宇治部項。
  31. ^ a b c d 宇治部氏(古代氏族) & 2010年.
  32. ^ 国史大辞典』(1980年)名代・子代項の「御名代部名一覧(ほぼ確かなものに限る)」表に記載がないことに基づく。
  33. ^ 宇治氏(古代氏族) & 2010年.

参考文献編集

関連書籍編集

関連項目編集