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趙 㮙(ちょう がく、1110年 - 1132年)は、北宋徽宗の第15皇子(夭逝を除いて第11皇子)。

経歴編集

美人王氏(後に貴妃を授された)の子として大観4年(1110年)4月に生まれた。同母妹に申福帝姫がいる。

同年5月、冀国公の位を授けられた。宣和6年(1124年)、河間郡王を再授された。宣和7年(1125年)7月、沂王を加授された。

靖康の変後、に連行された。金の天会10年(1132年)夏、趙㮙は劉文彦(趙㮙の異母姉の趙巧雲の前夫)と共に、徽宗の謀逆を告発した。五国城の総監・習古国王はただちに兵を派遣して徽宗らを勾留し、金の太宗呉乞買に報告した。徽宗は召喚されたが、ショックのあまり回答を拒否した。また多くの抑留者が出廷、証言させられたが、蔡鞗(趙㮙の異母姉の趙福金の前夫で、蔡京の子)と趙植(趙㮙の異母兄)は徽宗を弁護し、面と向かい合って趙㮙や劉文彦を問い質した。3日の審理の後、趙㮙と劉文彦は誣告を認めた。金は2人を死刑に処した。

家族編集

  • 正室:梁春先 - 金で斜也(太宗呉乞買の弟)の側室となった。

伝記資料編集

  • 『靖康稗史箋證』
  • 『宋会要輯稿』
  • 『三朝北盟会編』
  • 金史