辺 章(へん しょう、? - 186年または187年)は、中国後漢末期の武将。涼州金城郡出身。元の名を辺允という。

生涯 編集

霊帝の時代、韓約と共に西方で高く評価された(『三国志』魏志「武帝紀」が引く『典略』)。184年、涼州で羌族や枹罕・河関の盗賊、宋建・王国らが反乱を起こし、北宮伯玉・李文侯を将軍として擁立した。彼らは金城郡まで来ると降参した振りをして、辺允・韓約ら数十人を人質に取り、護羌校尉の伶徴・金城太守の陳懿を殺害した。しかし彼らは辺允・韓約を釈放し、擁立した上で軍政を委ねたという。このため隴西郡では辺允・韓約が賊徒になったという噂が飛び交い、涼州が両人に対して懸賞首をかける事態となった。この時に辺允は辺章という名に改め、韓約も名を韓遂と改めたという(『後漢書』「霊帝紀」・『後漢書』「董卓伝」・「董卓伝」が引く『献帝春秋』)。なお、「武帝紀」が引く『典略』では、宋揚・北宮伯玉らが反乱を起こし、辺章・韓遂を擁立したとある。

辺章らは州郡を焼き払い、185年3月には三輔地方に侵入した。朝廷は皇甫嵩董卓を討伐に派遣したが、皇甫嵩が成果を挙げられなかったため罷免し、8月に改めて張温に諸郡の郡兵を率いさせ美陽に駐屯させた(「霊帝紀」・「董卓伝」)。まもなく辺章らも美陽に着陣したという。辺章らは張温・董卓らと戦って勝利を収めたが、11月に董卓らに大敗し楡中へ敗走した(「董卓伝」)。翌年に張温が召し返されると、韓遂は辺章・北宮伯玉・李文侯を殺し、軍勢を擁して隴西を包囲した。なお、「武帝紀」が引く『典略』では、辺章が病死したため、韓遂が盟主になったとある。