辺 章(へん しょう、? - 中平3年〈186年〉または中平4年〈187年[1])は、中国後漢末期の武将。涼州金城郡の人。元の名を辺允という。涼州で著名な人物であり[2]中平元年(184年)に当地で生じた大規模な反乱、通称「辺章・韓遂の乱」を主導した[3]

略歴

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後漢末の霊帝の時代、辺允(辺章)は韓約(韓遂)と共に涼州で名を知られ、「涼州大人」と称された[4]弘農郡新安において県令を務めた過去がある[5][6][注釈 1]中平元年(184年)11月[9]、涼州で先零羌(羌族の一種)や枹罕宋建王国らが反乱を起こし、湟中義従胡(に帰順した異民族)の北宮伯玉中国語版・李文侯を将軍として擁立した[10][11]。反乱参加者の多くは、かつて中国西北部の辺境における羌族討伐に大いに貢献した段熲の元部下であり、高い作戦能力を有するとして脅威と見なされていた[12][13]。この頃、漢陽長史蓋勲阿陽まで防戦に駆り出されていたことから[14]、反乱に対して呼応する動きが同郡内でも拡大しつつあったと見られる[15]

金城郡まで到達した反乱軍は降参した振りをして、督軍従事を務めていた辺允[16]・韓約に面会を求めた。金城太守陳懿中国語版が会いに行かせると、反乱軍は彼ら数十人を人質に取り、護羌校尉中国語版泠征中国語版を殺害した[4]。次いで彼らは辺允・韓約を脅し、両者に軍政を委ねると、共に陳懿を殺害し、さらに州郡を焼き払った[10][17]。このため隴西郡では辺允・韓約が賊徒になったという噂が飛び交い、涼州が両人に対して懸賞金をかける事態となった。この頃に辺允は辺章、韓約は韓遂と改名したという[6][18]

辺章らは東進し、漢陽郡の郡治である冀県において、涼州刺史左昌中国語版を包囲した[19]。左昌はかつて金城郡が襲撃された際、蓋勲から救出に向かうよう提案されたが、それに従わなかった[20]。そしてこの包囲時、左昌の救援要請に応じて到来した蓋勲に謀反の罪を咎められると、辺章ら一同は「左使君[注釈 2]がもし早々にあなたの提言を容れ、兵をもって我々に臨んでいたなら、もしくは改めることができたかもしれない。〔しかし〕今となってはもはや罪は重く、投降することはできない」と言って左昌への不信を示し[22]、包囲を解いて撤退した[19][23]。横領の咎で解任された左昌に代わり、新たな涼州刺史として扶風人の宋梟が赴任した[24]。現地の状況について、彼は「涼州は学に乏しい」と述べ、反乱の原因を教化の不足に帰した[25]。そして、現地の人々に経書の一つである『孝経』を学ばせて教化し、道義を知らしめるべきだと発言した[26]。蓋勲の反対を押して己の考えを実行に移した宋梟は、朝廷からの詰責を受け、職を解かれた[26][27]

中平2年(185年)3月、辺章らは三輔に侵入した[15]。この頃、司徒崔烈が涼州放棄論を提示したが、傅燮の強い反対を受けたために却下された[28][29]。涼州は以前から度重なる羌族の反乱への対処に追われ、それにより生じた莫大な戦費が国庫に負担をかけていた。その結果、涼州放棄論が事あるごとに挙げられる事態となっていた[30]

車騎将軍皇甫嵩は朝廷より賊軍討伐を命じられ、長安に駐屯した。しかし成果を挙げられず、7月に罷免された[31][32][33]。反乱軍の勢いは増すばかりであった[34]。この局面が一転したのは、同年8月、司空張温が車騎将軍に任じられてからのことである[35]。皇甫嵩の副将を務めていた董卓中郎将・破虜将軍となり[15]周慎は盪寇将軍となって従軍した[36]。また公孫瓚烏桓突騎を率いて参じたほか[37][38]陶謙孫堅も討伐軍に参加した[25][39]。諸郡の歩騎あわせて10万余りに及ぶ大軍を率いて、張温らは右扶風の美陽に駐屯した[31]。同じく美陽に着陣した辺章らは張温・董卓と戦い、はじめは勝利を収めたが、11月に董卓・鮑鴻中国語版の攻撃を受けて大敗し、楡中へ敗走した[40][41][42][43]

辺章の死については諸説ある。『後漢書』によれば、翌年の中平3年(186年)冬に張温が召し返された後、辺章は北宮伯玉・李文侯と共に韓遂によって殺害されたという[44][45]。一方、『三国志』武帝紀に引く『典略』では、辺章は病死したとある[44][注釈 3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『古文苑』所載の衛覬「漢金城太守殷君碑」によれば、光和元年(178年)に金城太守の殷華が死去したとき、碑文製作に携わった人物として「辺竺・江西・韓遂」の3人が挙げられている。この「辺竺」という人物を辺章だとする解釈がある[7][8]。また『古文苑』は碑文の作成者を酈炎とするが、酈炎の没年は熹平6年(177年)である。
  2. ^ 左昌。「使君」は刺史に対して用いる敬称[21]
  3. ^ 『三国志』董卓伝の注に引く華嶠中国語版『漢書』によれば、董卓は初平元年(190年)、遷都に関する協議で、難色を示す楊彪に対し「辺章・韓約から書状が来た」と言い、彼らの脅威にかこつけて、長安への遷都を正当化しようとした[46]。しかし辺章はこの時点より以前において、すでに死亡しているはずである[47]

出典

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  1. ^    (中国語) 『資治通鑑』巻58中平四年, ウィキソースより閲覧, "韓遂殺邊章及北宮伯玉、李文侯,擁兵十餘萬,進圍隴西,太守李相如叛,與遂連和。" 
  2. ^ de Crespigny 2007, p. 21.
  3. ^ 飯田 2022, p. 91.
  4. ^ a b 飯田 2022, p. 92.
  5. ^ de Crespigny 2018, pp. 147, 149; Haloun 1949, p. 120.
  6. ^ a b    (中国語) 『後漢書』巻72董卓伝注引『献帝春秋』, ウィキソースより閲覧, "涼州義從宋建、王國等反。詐金城郡降,求見涼州大人故新安令邊允、從事韓約。約不見,太守陳懿勸之使往,國等便劫質約等數十人。金城亂,懿出,國等扶以到護羌營,殺之,而釋約、允等。隴西以愛憎露布,冠約、允名以為賊,州購約、允各千戶侯。約、允被購,『約』改為『遂』,『允』改為『章』。" 
  7. ^ de Crespigny 2007, p. 21; Haloun 1949, p. 120.
  8. ^    (中国語) 『古文苑』巻19「漢金城太守殷君碑」, ウィキソースより閲覧, "[]君諱華,字叔時[...]光和元年九月乙酉,卒官。生有嘉休,終則鼎銘。於是故吏邊竺、江英、韓遂等追送遐丘,刊石勒勛。" 『全三国文』巻28衛覬「漢金城太守殷華碑」
  9. ^    (中国語) 『後漢書』巻8霊帝紀, ウィキソースより閲覧, "[中平元年]十一月,[...]湟中義從胡北宮伯玉與先零羌叛,以金城人邊章、韓遂爲軍帥,攻殺護羌校尉伶徵、金城太守陳懿。" 
  10. ^ a b    (中国語) 『後漢書』巻72董卓伝, ウィキソースより閲覧, "[中平元年]冬,北地先零羌及枹罕河關群盜反叛,遂共立湟中義從胡北宮伯玉、李文侯為將軍,殺護羌校尉泠征。伯玉等乃劫致金城人邊章、韓遂,使專任軍政,共殺金城太守陳懿,攻燒州郡。" 
  11. ^ 飯田 2022, p. 95; 森本 2012, pp. 153–154.
  12. ^ 飯田 2022, p. 115; 森本 2012, p. 154; 渡邉 2015, p. 9.
  13. ^    (中国語) 『後漢書』巻57劉陶伝, ウィキソースより閲覧, "是時天下日危,寇賊方熾,[]陶憂致崩亂,復上疏曰:「臣聞事之急者不能安言,心之痛者不能緩聲。竊見天下前遇張角之亂,後遭邊章之寇,每聞羽書告急之聲,心灼內熱,四體驚竦。今西羌逆類,私署將帥,皆多段熲時吏,曉習戰陳,識知山川,變詐萬端。[...]」" 
  14. ^    (中国語) 『後漢書』巻58蓋勲伝, ウィキソースより閲覧, "中平元年,北地羌胡與邊章等寇亂隴右,刺史左昌因軍興斷盜數千萬。勳固諫,昌怒,乃使勳別屯阿陽以拒賊鋒,欲因軍事罪之,而勳數有戰功。" 
  15. ^ a b c 飯田 2022, p. 94.
  16. ^ 『三国志』巻1武帝紀注引『典略』
  17. ^ 飯田 2022, p. 93.
  18. ^ Haloun 1949, p. 120.
  19. ^ a b 飯田 2022, p. 94; de Crespigny 2007, p. 316.
  20. ^ de Crespigny 2007, p. 1180.
  21. ^ 使君」『デジタル大辞泉』https://kotobank.jp/word/%E4%BD%BF%E5%90%9Bコトバンクより2025年3月10日閲覧 
  22. ^ 飯田 2022, p. 127.
  23. ^    (中国語) 『後漢書』巻58蓋勲伝, ウィキソースより閲覧, "邊章等遂攻金城,殺郡守陳懿,勳勸昌救之,不從。邊章等進圍昌於冀,昌懼而召勳。勳初與從事辛曾、孔常俱屯阿陽,及昌檄到,曾等疑不肯赴。[...]勳即率兵救昌。到,乃誚讓章等,責以背叛之罪。皆曰:「左使君若早從君言,以兵臨我,庶可自改。今罪已重,不得降也。」乃解圍而去。" 
  24. ^ 森本 2012a, p. 156; de Crespigny 2018, p. 149.
  25. ^ a b 森本 2012a, p. 156.
  26. ^ a b 森本 2012a, pp. 156–157; de Crespigny 2018, p. 149.
  27. ^    (中国語) 『後漢書』巻58蓋勲伝, ウィキソースより閲覧, "[]昌坐斷盜征,以扶風宋梟代之。梟患多寇叛,謂[]勳曰:「涼州寡於學術,故屢致反暴。今欲多寫孝經,令家家習之,庶或使人知義。」勳諫曰:「[...]今不急靜難之術,遽為非常之事,既足結怨一州,又當取笑朝廷,勳不知其可也。」梟不從,遂奏行之。果被詔書詰責,坐以虛慢征。" 
  28. ^ 森本 2012, p. 155; 渡邉 2015, pp. 9–10.
  29. ^    (中国語) 『後漢書』巻58傅燮伝, ウィキソースより閲覧, "會西羌反,邊章、韓遂作亂隴右,征發天下,役賦無已。司徒崔烈以為宜棄涼州。詔會公卿百官,烈堅執先議。[]燮厲言曰:「斬司徒,天下乃安。」[...]帝以問燮。燮對曰:「[...]今牧御失和,使一州叛逆,海內為之騷動,陛下臥不安寢。烈為宰相,不念為國思所以弭之之策,乃欲割棄一方萬里之土,臣竊惑之。若使左衽之虜得居此地,士勁甲堅,因以為亂,此天下之至慮,社稷之深憂也。若烈不知之,是極蔽也;知而故言,是不忠也。」帝從燮議。" 
  30. ^ 森本 2012, p. 149; 渡邉 2015, pp. 1, 4–5.
  31. ^ a b 飯田 2022, p. 94; 森本 2012, p. 155.
  32. ^    (中国語) 『後漢書』巻8霊帝紀, ウィキソースより閲覧, "[中平二年]三月,[...]北宮伯玉等寇三輔,遣左車騎將軍皇甫嵩討之,不剋。[...]秋七月,[...]左車騎將軍皇甫嵩免。" 
  33. ^    (中国語) 『後漢書』巻71皇甫嵩伝, ウィキソースより閲覧, "會邊章、韓遂作亂隴右,明年[中平二年]春,詔嵩回鎮長安,以衛園陵。章等遂復入寇三輔,使嵩因討之。" 
  34. ^ 森本 2012, pp. 154–155.
  35. ^ 森本 2012, p. 155.
  36. ^ 方詩銘「董卓対東漢政権的控制及其失敗」『史林』第2期、1992年、9–16、p. 15。
  37. ^    (中国語) 『後漢書』巻73劉虞伝, ウィキソースより閲覧, "後車騎將軍張溫討賊邊章等,發幽州烏桓三千突騎,而牢稟逋懸,皆畔還本國。" 
  38. ^    (中国語) 『後漢書』巻73公孫瓚伝, ウィキソースより閲覧, "中平中,以[公孫]瓚督烏桓突騎,車騎將軍張溫討涼州賊。" 
  39. ^ 『三国志』巻8陶謙伝注引韋昭呉書』、巻46孫堅伝
  40. ^ 森本 2012, p. 156.
  41. ^ 張継剛『漢末豪傑与豪傑暴動——董卓進京問題的再思考」『甘粛社会科学』第6期、2021年、125–132、p. 126。
  42. ^    (中国語) 『後漢書』巻8霊帝紀, ウィキソースより閲覧, "[中平二年]八月,以司空張溫爲車騎將軍,討北宮伯玉。[...]十一月,張溫破北宮伯玉於美陽,因遣盪寇將軍周慎追擊之,圍榆中[...]。" 
  43. ^    (中国語) 『後漢書』巻72董卓伝, ウィキソースより閲覧, "明年[中平二年]春,將數萬騎入寇三輔,侵逼園陵,託誅宦官為名。詔以卓為中郎將,副左車騎將軍皇甫嵩征之。嵩以無功免歸,而邊章、韓遂等大盛。朝廷復以司空張溫為車騎將軍,假節,執金吾袁滂為副。拜卓破虜將軍,與蕩寇將軍周慎並統於溫。并諸郡兵步騎合十餘萬,屯美陽,以衛園陵。章、遂亦進兵美陽。溫、卓與戰,輒不利。十一月,夜有流星如火,光長十餘丈,照章、遂營中,驢馬盡鳴。賊以為不祥,欲歸金城。卓聞之喜,明日,乃與右扶風鮑鴻等并兵俱攻,大破之,斬首數千級。" 
  44. ^ a b de Crespigny 2018, p. 152; Haloun 1949, p. 121.
  45. ^    (中国語) 『後漢書』巻72董卓伝, ウィキソースより閲覧, "[中平三年]冬,徵[]溫還京師,韓遂乃殺邊章及[北宮]伯玉、[]文侯,擁兵十餘萬,進圍隴西。" 
  46. ^ 飯田 2022, p. 97.
  47. ^ 飯田 2022, p. 122.

参考文献

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日本語文献

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  • 飯田祥子「後漢後期・末期の西北辺境漢族社会——韓遂の生涯を手がかりに——」『漢新時代の地域統治と政権交替』汲古書院〈汲古叢書〉、2022年、89–128頁。ISBN 9784762960772 
  • 森本淳「後漢末の涼州の動向」『三国軍制と長沙呉簡』汲古書院、2012年、149–174頁。ISBN 9784762929922 
  • 渡邉義浩後漢の羌・鮮卑政策と董卓」『三国志研究』第10号、2015年、1–15頁。 

英語文献

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