郭 貫(かく かん、 1250年 - 1331年)は、大元ウルスに仕えた官僚。字は安道

概要 編集

郭貫は保定路の出身で、才覚を認められて枢密院に抜擢され、広西道提刑按察司判官などの職を歴任した。至元27年(1290年)、監察御史の地位に就き、この時淮西宣慰使のアンギル父子の専権を弾劾している。至元30年(1293年)、僉湖南肅政廉訪司事の地位に移った[1]

大徳年間の初め(1290年代末)には湖北道に移ったが、この頃現タイ王国北部のラーンナー(八百媳婦国)に対する軍事遠征が行われており(モンゴルのラーンナー侵攻)、郭質はラーンナーを「炎瘴万里不毛之地」と表現し、この遠征を「国に益なし(無益於国)」と述べて侵攻を批判している。大徳5年(1301年)、江西道に移り、そこから更に御史台都事に入った。大徳8年(1304年)、集賢待制に移って翰林直学士となり、遼陽行省平章政事のチェリク・テムルとともに高麗に赴任している。大徳11年(1307年)、再び中央に召喚されて河東河東廉訪副使に任命された[2]

至大2年(1309年)、皇太子アユルバルワダ五台山に至った時に「廉訪使のメルギテイはどのように善政を行っているのか」と周囲の者に尋ねた所、「みな副使の郭貫が教示する所によるものです」と回答した。そのため、アユルバルワダは瑪瑙数珠・金織文幣を郭貫に賜り、郭貫は治書侍御史の地位を与えられた。至大4年(1311年)、アユルバルワダがブヤント・カアンとして即位すると、郭貫は礼部尚書の地位を授けられ、ブヤント・カアンは自ら書をしたためてその官位を授けたという[3]

皇慶元年(1312年)、淮西廉訪使に任命されたものの、留任されて翰林侍講学士の地位に移った。翌皇慶2年(1313年)には淮西廉訪使に移り、常平倉を置くことを建言したという。延祐2年(1315年)、中央に呼び戻されて中書参知政事に任命され、その翌年には中書左丞に昇任となった。延祐5年(1318年)、太子詹事に任命されたため、「皇太子(シデバラ)は金宝を受けて既に3年であり、冊礼を行うべきである」と建言して採用されたという。延祐6年(1319年)、更に太子賓客の号を加えられている[4]

ブヤント・カアンが亡くなってその息子のシデバラがゲゲーン・カアンとして即位した後、至治元年(1321年)には再び集賢大学士に起用されたが、間もなく職を辞した。その後、ゲゲーン・カアンが南坡の変で暗殺されてイェスン・テムル・カアンが即位すると翰林学士承旨に任命されるも実務には耐えず、至順2年(1331年)に82歳にして亡くなった。郭貫は博学なことで知られ、元代の冊宝碑額は多くが郭貫の手になるものであったという[5]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻174列伝61郭貫伝,「郭貫字安道、保定人。以才行見推択、為枢密中書掾、調南康路経歴、擢広西道提刑按察司判官、会例格、授濟南路経歴。至元二十七年、拝監察御史。承詔分江北沿淮草地、劾淮西宣慰使昂吉児父子專権、久不遷調、蠹政害民。三十年、僉湖南肅政廉訪司事」
  2. ^ 『元史』巻174列伝61郭貫伝,「大徳初、遷湖北道、言『令四省軍馬、以数万計、征八百媳婦国、深入炎瘴万里不毛之地、無益於国』。五年、遷江西道、賑恤饑民、有惠政、入為御史台都事。八年、遷集賢待制、進翰林直学士、奉詔与遼陽行省平章政事別速台徹里帖木児往鎮高麗。十一年、召為河東廉訪副使」
  3. ^ 『元史』巻174列伝61郭貫伝,「至大二年、仁宗至五台山、貫進見、仁宗因問『廉訪使滅里吉歹何以有善政』。左右対曰『皆副使郭貫之教也』。因賜貫瑪瑙数珠・金織文幣、入為吏部考功郎、遂拝治書侍御史。四年、除礼部尚書、帝親書其官階曰嘉議大夫、以授有司」
  4. ^ 『元史』巻174列伝61郭貫伝,「皇慶元年、擢淮西廉訪使、尋留不遣、改侍御史、俄遷翰林侍講学士。明年、出為淮西廉訪使。建言『宜置常平倉、考校各路農事』。延祐二年、召拝中書參知政事。明年、陞左丞、加集賢大学士。五年、除太子詹事。貫言『皇太子受金宝已三年、宜行冊礼。又、輔導之官、早宜選置』。従之。六年、加太子賓客、謁告還家」
  5. ^ 『元史』巻174列伝61郭貫伝,「至治元年、復起為集賢大学士、尋致仕。泰定元年、遷翰林学士承旨、不起。至順二年、以疾卒、年八十有二。贈光禄大夫・河南行省平章政事・柱国、追封蔡国公、諡文憲。貫博学、精於篆籀、当世冊宝碑額、多出其手云」

参考文献 編集

  • 元史』巻174列伝61郭貫伝