鄧州(とうしゅう)は、中国にかつて存在した隋代から民国初年にかけて、現在の河南省南陽市一帯に設置された。

魏晋南北朝時代 編集

北魏により設置された荊州を前身とする。

隋代 編集

隋初には、荊州は4郡9県を管轄した。583年開皇3年)、隋が郡制を廃すると、荊州の属郡は廃止された。587年(開皇7年)、荊州は鄧州と改称された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、鄧州は南陽郡と改称され、下部に8県を管轄した[1]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。

隋代の行政区画変遷
区分 開皇元年 区分 大業3年
荊州 南陽郡
新野郡 南陽郡 武関郡 順陽郡 穣県 新野県 南陽県
課陽県 臨湍県 冠軍県
菊潭県 順陽県
穣県
棘陽県
上宛県 涅陽県
臨湍県 冠軍県
武関県
酈県
清郷県

唐代 編集

619年武徳2年)、により南陽郡は鄧州と改められた。742年天宝元年)、鄧州は南陽郡と改称された。758年乾元元年)、南陽郡は鄧州の称にもどされた。鄧州は山南東道に属し、穣・新野・南陽・向城・臨湍・内郷・菊潭の7県を管轄した[2]

宋代 編集

北宋のとき、鄧州に武勝軍節度が置かれた。鄧州は京西南路に属し、穣・南陽・内郷・順陽・淅川の5県を管轄した[3]

1128年天会6年)、の完顔允蹈(世宗の子)が鄧州を占領した[4]。鄧州は南京路に属し、穣・南陽・内郷の3県と順陽・新野・穣東・板橋・張村・峡口の6鎮を管轄した[5]

元代 編集

のとき、鄧州は南陽府に属し、穣・内郷・新野の3県を管轄した[6]

明代以降 編集

のとき、鄧州は南陽府に属し、内郷・新野・淅川の3県を管轄した[7]

のとき、鄧州は南陽府に属し、内郷・新野の2県を管轄した[8]

1912年中華民国により鄧州は廃止され、鄧県と改められた。

脚注 編集

  1. ^ 隋書』地理志中
  2. ^ 旧唐書』地理志二
  3. ^ 宋史』地理志一
  4. ^ 金史』太宗紀
  5. ^ 『金史』地理志中
  6. ^ 元史』地理志二
  7. ^ 明史』地理志三
  8. ^ 清史稿』地理志九