加藤与次兵衛
(野村行一から転送)
加藤 与次兵衛(與次兵衞、かとう よじへえ、1859年(安政6年1月[1][2]) - 1922年(大正11年)2月6日[2])は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。福井銀行重役[3]。
経歴
編集越前国足羽郡(のち福井県足羽郡六条村→足羽村→足羽町、現・福井市)生まれ[1]。1882年(明治15年)泊園書院に入塾し漢学を学ぶ[4]。今立郡稲荷村外六ヶ村戸長、六条村長、福井県会議員、福井銀行取締役となる[2]。
1892年の第2回衆議院議員総選挙において福井1区から弥生倶楽部所属で立候補して当選する[5]。衆議院議員を1期務め、1894年3月の第3回衆議院議員総選挙は不出馬。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では無所属で立候補したが得票数が1票で落選した[6]。1898年8月の第6回衆議院議員総選挙では再び無所属で立候補したが落選した[7]。1922年に死去した。
家族
編集- 父・加藤信近(加藤与次兵衛) ‐ 福井県足羽郡天王村平民(大庄屋)[3][8]
- 母・ムラ(1842-) ‐ 福井・高島茂兵衛の三女[3]
- 弟・高島茂平(1867-)[8]
- 弟・野村勘左衛門 (1870-1951) ‐ 旧名・加藤良三。福井県多額納税者、農業、衆議院議員。先代野村勘左衛門の養子。[9]
- 弟・野村行一 (1884-1957) ‐ 昭和の官僚、東宮大夫兼東宮侍従長(1949-1957)。兄とともに野村勘左衛門の養子。東京帝国大学卒業後、四高教師、1924年より学習院高等科教授、1926年から3年間欧州留学後、東宮職御用掛就任。教え子には皇太子明仁のほか、四高時代に杉山産七、中野重治、学習院時代に三島由紀夫、入江相政らがおり、杉山は野村のことを「紳士で背が高く色白、清純で上品」、入江は「堂々としていて清純」と評している。子に東大教授・野村琢一。[10][11][12]
- 二男・加藤恂二郎(与次兵衛、1893-1975) ‐ 松江高等学校教授、福井県立図書館長。[13]
脚注
編集- ^ a b 衆議院 編『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年、120頁。NDLJP:1278238。
- ^ a b c 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』164頁。
- ^ a b c 加藤与次兵衛『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 『泊園書院に学んだ実業家たち 東畡・南岳叙位祝賀会の発起人に着目して』338頁。
- ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』8頁。
- ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』20頁。
- ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』31頁。
- ^ a b 『福井を伝えて一世紀: 福井新聞百年史, 第1巻』福井新聞社, 2000 44ページ
- ^ 野村勘左衛門『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
- ^ 野村行一『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
- ^ 野村行一コトバンク
- ^ 皇太子明仁への教育方針瀬畑 源、一橋大学大学院社会学研究科・社会学部博士論文 「象徴天皇制の形成過程―宮内庁とマスメディアの関係を中心に」2010
- ^ 旧制松江高校教授であった「加藤恂二郎(恂次郎)」の生没年が知りたいレファレンス協同データベース