金沢正夫
金澤 正夫(かなざわ まさお、1889年(明治22年)10月25日 - 1969年(昭和44年)6月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
金沢 正夫 | |
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1944年5月頃の撮影[1] | |
生誕 |
1889年10月25日 日本 山口県厚狭郡高千帆村 |
死没 | 1969年6月24日(79歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1912年 - 1945年 |
最終階級 | 海軍中将 |
除隊後 | 会社社長、東郷会副会長[2] |
経歴
編集山口県出身。神職百済忠敬の二男として生れ、金沢家に養子に入った。山口中学校を経て、1911年7月、海軍兵学校(39期)を卒業し、1912年12月、海軍少尉に任官。1918年12月、海軍砲術学校高等科を卒業。「山城」分隊長、「樫」乗組、砲術学校教官などを経て、1923年10月、海軍大学校(甲種21期)を卒業した。
その後、「比叡」副砲長、「浅間」砲術長、「多摩」砲術長、軍令部参謀を歴任し、1927年12月、海軍省副官兼海相秘書官となり岡田啓介大臣に仕えた。さらに、ロンドン軍縮会議随員、「那珂」副長、軍令部参謀、「天龍」艦長、連合艦隊参謀、軍令部第1部第2課長、「霧島」艦長などを経て、1938年11月、海軍少将に進級。大本営海軍報道部長、中国大使館付武官、横須賀鎮守府参謀長などを歴任。
太平洋戦争では、第4艦隊司令部付として出征し、第8根拠地隊司令官などを経て、1942年5月、海軍中将となった。海軍施設本部長を経て、1945年5月、呉鎮守府司令長官就任。司令長官在任中には、呉軍港空襲に遭う。同年11月、予備役に編入された。
戦後、公職追放の仮指定を受け[3]、その後は東郷平八郎を祀った東郷神社の責任役員、東郷会副会長を務め、『東郷神社復興史』を編纂した[4]。
栄典
編集親族
編集- 兄 百済文輔(内務官僚)