鈴木宗言
鈴木 宗言(すずき そうげん、1863年3月24日(文久3年2月6日[1][2]) - 1927年(昭和2年)2月24日[2])は、明治から大正時代の司法官僚。台湾総督府官僚。実業家。名古屋地方裁判所長。台湾総督府覆審法院長。大審院検事。位階は正三位。旧姓は柴野。
経歴
編集柴野宗八の弟、中村是公の兄として安芸国[2](現広島県)に生まれ、1873年(明治6年)9月、鈴木正言の養子となったのち分家する[1]。柴野家の墓は現在でも広島県佐伯区五日市の光禅寺にある。1888年(明治21年)7月、帝国大学法科大学法律学科を卒業し[3]、判事補となり1890年(明治23年)判事に進む[1]。以来、横浜地方裁判所判事、同部長、東京控訴院判事、同部長、名古屋地方裁判所長、台湾総督府法院判官、覆審法院部長、同法院長などを歴任し、1907年(明治40年)8月、大審院検事に任じた[1]。退官後、旭薬品工業を創立した[2]。墓所は雑司ヶ谷霊園の1-8-9にあったが、現在は撤去されている。
栄典
編集著作
編集- 述『商法総則』専修学校、1895年。
- 述『破産法』東京専門学校、1899年。
- 述『商法総則』日本法律学校、1901年。
- 『台湾律令論 : 内地及台湾間に於ける法律律令の効力に就て』台湾日日新報社、1905年。
親族
編集脚注
編集参考文献
編集- 人事興信所 編『人事興信録 第3版 く之部-す之部』人事興信所、1911年 。
- 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496。