鈴木 晰成(すずき あきなり、1917年10月19日 - 2010年1月29日[3])は、日本の映画プロデューサーノンフィクション作家である。元大映京都撮影所長[2]

すずき あきなり
鈴木 晰成
本名 鈴木 炤成[1]
別名義 鈴木 炤成
鈴木 晰也 筆名
生年月日 (1917-10-19) 1917年10月19日
没年月日 (2010-01-29) 2010年1月29日(92歳没)
出生地 京都府
職業 映画プロデューサー作家
ジャンル 映画
活動期間 1937年 - 2010年
活動内容 1937年 新興キネマ入社[2]
1948年 大映入社[2]
1965年 大映京都撮影所長就任[2]
1971年 大映倒産
主な作品
悪名
釈迦
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本名は鈴木 炤成(炤は火偏に召)[1]。作家としてのペンネームは-晰也(読み同)である[2][4]

人物・来歴 編集

京都に生まれる。父の鈴木吉之助は衆議院議員であったが京都の映画興行会社・京都土地興業の役員も務めており、その影響から幼少の頃より映画に親しんだ[1]

京都府立一中学を卒業[1]後、10代のころに映画雑誌の記者になり、また映画の興行・配給の現場の経験を踏んだ後[2]、1937年(昭和12年)に新興キネマに入社した[2]。大阪・道頓堀朝日座宣伝係、同社関西支社宣伝課長、松竹京都撮影所左京区下鴨宮崎町)宣伝課長を歴任した[2]日本統治時代京城府(現在の大韓民国ソウル市)にあった京城出張所に所長として在任時の1943年(昭和18年)、現地で第二次世界大戦の召集を受ける[2]

終戦後の1948年(昭和23年)、大映に入社する[2]。大映京都撮影所の予算課を振り出しに、配給畑の同社関西支社営業課を経て撮影所に戻り、同撮影所製作部長、企画部長を歴任した[2]田中徳三三隅研次らの作品に「製作」あるいは「企画」としてクレジットされるのは、1960年 - 1962年のこのころである[5]。1960年(昭和35年)公開の2作品のクレジットは本名の「鈴木 炤成」名義であるが、翌1961年(昭和36年)3月16日公開の『好色一代男』を機に「鈴木晰成」と改名[6]、以降のクレジットは同表記で定着した[5]。1963年(昭和38年)、私家版として『6ペンスの雑記帖』を出版している[2]

のちに関西支社長に就任し取締役となり、48歳となる1965年(昭和40年)、大映京都撮影所長に就任した[2]。1971年(昭和46年)11月29日、全従業員に解雇通告がなされ大映は倒産となり、撮影所は閉鎖された。

1990年(平成2年)、大映全盛時代を牽引した社長・永田雅一を描く人物伝『ラッパと呼ばれた男 映画プロデューサー永田雅一』をキネマ旬報社から、鈴木晰也のペンネームで上梓した[2][4]。2001年(平成13年)には、映画監督衣笠貞之助を中心にその同時代を描く『人生仕方ばなし 衣笠貞之助とその時代』をワイズ出版から同ペンネームで上梓した[2][4]。2010年1月29日、脳梗塞のため死去[3]

フィルモグラフィ 編集

ビブリオグラフィ 編集

国立国会図書館所蔵作品ほか[2][4]

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  1. ^ a b c d 室岡まさる(インタビュー・構成) 『市川雷蔵とその時代』 徳間書店、1993年、376頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「鈴木晰成」(#外部リンク)、立命館大学、2009年10月9日閲覧。
  3. ^ a b 『現代物故者事典2009~2011』(日外アソシエーツ、2012年)p.320
  4. ^ a b c d NDL-OPACの検索結果、国立国会図書館、2009年10月9日閲覧。
  5. ^ a b 「鈴木晰成」(#外部リンク)、日本映画データベース、2009年10月9日閲覧。
  6. ^ 本人の説明によると、家が火事で燃えたことがあり、そのことを知った市川雷蔵に「火を召すは駄目や、変えた方がええ」と勧められ、改名した。雷蔵は姓名判断に凝っていて、鈴木によると大映京都撮影所内には雷蔵の勧めで改名した者が2、30人はいたという。(村松友視 『雷蔵好み』 集英社〈集英社文庫〉、2006年、235-236頁。)

外部リンク 編集