衣笠貞之助

日本の俳優、映画監督、脚本家

衣笠 貞之助(きぬがさ ていのすけ、1896年1月1日 - 1982年2月26日)は、日本俳優映画監督脚本家。本名:小亀 貞之助(こかめ ていのすけ)。

きぬがさ ていのすけ
衣笠 貞之助
衣笠 貞之助
本名 小亀 貞之助(こかめ ていのすけ)
別名義 藤沢 守
小井上 春之輔
泉 治郎吉(筆名)
生年月日 (1896-01-01) 1896年1月1日
没年月日 (1982-02-26) 1982年2月26日(86歳没)
出生地 日本の旗 日本三重県亀山町大字東町(現在の亀山市本町)
死没地 日本の旗 日本京都府京都市右京区
職業 俳優映画監督脚本家
ジャンル 映画新派劇
活動期間 1918年 - 1966年
活動内容 1917年日活向島撮影所に入社
1920年:監督デビュー
1938年松竹から東宝へ移籍
1950年大映専属
配偶者 千早晶子(女優)
著名な家族 弟:衣笠十四三(映画監督)
主な作品
狂つた一頁』 / 『地獄門
 
受賞
カンヌ国際映画祭
グランプリ
1954年地獄門
ニューヨーク映画批評家協会賞
外国語映画賞
1954年『地獄門』
その他の賞
ロカルノ国際映画祭
金豹賞
1954年『地獄門』
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新派劇団を経て日活向島撮影所で女形スターとして活躍後、牧野省三の下で映画監督へ転身した。新感覚派の作家と組んで前衛映画『狂つた一頁』を製作後、松竹東宝大映長谷川一夫とコンビを組んで多くの時代劇映画を製作した。江戸や明治の情緒を新派劇の素養であでやかに描き出すことにかけては第一人者だった[1]1953年(昭和28年)公開の『地獄門』は、第7回カンヌ国際映画祭グランプリを受賞。上記以外の主な作品に『十字路』『雪之丞変化』など。妻は女優の千早晶子、弟は映画監督の衣笠十四三

来歴・人物 編集

女形俳優から映画監督へ 編集

 
1910年代

1896年(明治29年)1月1日三重県亀山町大字東町(現在の亀山市本町)に、煙草元売捌業の父・小亀定助と母・かめのの4男として生まれる[2][3]。長兄の衡一は後に三重県会議員を3期務めながら、第7代亀山町長を務めている[4]。幼い頃から芝居好きの母親に連れられて歌舞伎新派、曾我廼家喜劇などを見るようになった[2]

1910年(明治43年)、亀山男子尋常高等小学校(現在の亀山市立亀山西小学校)高等科を卒業[5]してから私塾の笹山塾に通い、1914年(大正3年)の修了後に役者を志すも両親に反対され、同年4月に家出をする[3][6][7]。汽車に乗って東京へ向かおうとした途中、大垣駅で停車中に「新派有無会」のポスターを見て汽車を降り、一座の宿を訪ねて女形に採用された[2][8]。その日の午後に一座の出演する宝生座に出かけたところ、「藤田芳美という立女形が新たに作る一座に加わらないか」と勧誘され、藤田芳美一座に加入することになった[2][8]藤沢守の芸名で各地を巡業後、中京成美団などを経て、1916年(大正5年)に京都静間小次郎[注釈 1]一座に加入[11]。一座の花形井上春之輔の名をとって小井上春之輔と名乗り[12]、女形として売り出した。

1917年(大正6年)、連鎖劇団の山崎長之輔一座に加わって大阪角座に出演中、日活大阪支店長の佐々野万寿男にスカウトされ、日活向島撮影所に女形俳優として入社[2][7][13][14]。芸名も衣笠貞之助に変え[注釈 2]、翌1918年(大正7年)1月13日公開の『七色指環』(小口忠監督)が第1回出演作品となった。以後、革新映画の第1作といわれる田中栄三監督の『生ける屍』を始め、田中・小口監督の『金色夜叉』、田中監督の『己が罪』『西廂記』など、5年間で約130本の作品に出演し、日活向島を代表する女形として活躍した[2][16]

1920年(大正9年)、この頃から映画界では女優の採用に踏み切り、女形新派の前途に限界を感じた[17]衣笠は監督に転向し、自身の脚本による『妹の死』で監督デビューする[注釈 3]。『妹の死』は、機関士が自分で運転する機関車で可愛がっていた妹を轢いてしまうという物語[18]で、藤野秀夫が機関士、横山運平が火夫を演じた[17]。主人公の妹役を演じたのは衣笠自らで、その女装のままカメラの脇に立って演出を行ったという[7]

1922年(大正11年)9月、日活向島の総監督に就任した牧野省三に監督としての才能を買われ、向島在籍のまま牧野教育映画製作所で監督作を発表する[16]内田吐夢との共同監督による『噫小西巡査』や、菊池寛原作の『火華』などを同製作所で製作。この2作には自ら出演もしており、女形姿の衣笠が撮影技師の田中十三に「そこで絞って頂戴な」とカメラを指定したのは、後々まで話題となった[19]

マキノ映画時代 編集

 
1923年頃の写真

同年11月25日国際活映再建のための引き抜きで、衣笠は藤野、横山、島田嘉七新井淳東猛夫ら12名の俳優とともに日活を退社[16]。国活巣鴨撮影所で坂田重則監督の『鷲津村の娘』『老僧の恋』などに出演するが、1923年(大正12年)に国活を退社し、同志数人と連鎖劇団の衣笠貞之助一座を結成する[16][20]滝野川中里のオープンセットで自作自演の『悲しき結婚』を撮り、群馬県から愛知県を実演巡業した[21][22]。同年、名古屋で出演中に再び牧野に招かれ、創立したばかりのマキノ映画製作所に参加[16]。同製作所第1回作品の『二羽の小鳥』は『妹の死』の再映画化で、同社最初の封切作品の一本であった[19]。以後は監督専門となり、現代映画の監督はほとんど衣笠が一手で引き受けた[19]。大作『金色夜叉』は前後篇からなり、後篇のセット撮影中に関東大震災に遭遇[19]1924年(大正13年)に森岩雄のシナリオによる『恋』『寂しき村』を監督するが、前者は風俗上好ましくないとの理由、後者は馬車とタクシーの生存競争が社会的に刺激をあたえるとの理由で、地方では警察から上映禁止になるところもあった[19]。そのほか初の時代劇映画となった『桐の雨』[19]阪東妻三郎主演の『恋と武士』などを撮った。

1925年(大正14年)、直木三十五が設立しマキノと提携した連合映画芸術家協会の第1作で、沢田正二郎主演の『月形半平太』を監督。沢田の多忙なスケジュールの合間を縫って、不眠不休でわずか8日間のうちに撮影を完了した作品だが[23]新国劇の当り狂言の映画化ということもあり大ヒットした。続いて市川猿之助主演で『日輪』と『天一坊と伊賀之亮』を監督。前者は卑弥呼を題材としたものだが、卑弥呼は当時神功皇后天照大神だったという説があったため、右翼団体が「皇室を冒涜した」として不敬罪で告訴するという騒動が発生し上映が中止された。

松竹時代 編集

1926年(大正15年)、誰からも掣肘を受けず、自由に思いのままの映画を作ろうと決意した[24]衣笠は、マキノのもとを離れ、新感覚派の作家である横光利一川端康成片岡鉄兵岸田国士らと新感覚派映画聯盟を結成して『狂つた一頁』を製作した。日本映画初のアヴァンギャルド映画と呼ばれ、多重露光フラッシュバックなどを用いた斬新な映像表現が高く評価されたが、興行的には赤字となり、この1作限りで連盟は解散。負債返済のため、衣笠映画聯盟を名乗って松竹下加茂撮影所で時代劇映画の請負製作を行うことになった。1927年(昭和2年)に『お嬢吉三』で新人の林長二郎を起用し、以後林の主演で『鬼あざみ』『女夫星』『弁天小僧』『海国記』などの時代劇映画を発表した。『海国記』は、海外渡航禁制時代に南方へ渡った若者の悲恋を描いたエピック的傾向の作品で[25]、九州や北陸の海岸でロケを敢行し、数百人のエキストラを使って撮影した野心作である[26]

1928年(昭和3年)、「時代劇から剣を奪え」をスローガンに掲げた、実験的な時代劇映画『十字路』を製作。公開後の5月16日に松竹を退社し[27]、『十字路』のフィルムを携えて渡欧[28]。聯盟はこれを機に解消した[29]。ヨーロッパへの途次、衣笠はソ連に滞在し、プドフキンエイゼンシュテインらと会い、宮本百合子湯浅芳子亀井文夫らとも交流を深めた[28][30]。また、エイゼンシュテインとは市川左團次のモスクワ公演を一緒に見に行っている。1929年(昭和4年)2月、ベルリンに渡って千田是也の下宿に投宿[31]。同年5月、『十字路』はウーファ社直営の劇場「モーツァルト・ザール」で、『ヨシワラの影』という題名で上映された[28][30]フランスなど欧米各国にも配給されたこの作品は、海外の常設館で正式に上映され、国際的評価を得た最初の日本映画となった[30][32]

1930年(昭和5年)8月に帰国[33]。松竹下加茂撮影所に帰属し[28]、『黎明以前』が帰国第1作となった。この作品は、由比正雪事件にからむ権力者への抵抗を描き[34]、エイゼンシュテインの『全線ロシア語版』のモンタージュを活用しているが、「遅刻した傾向映画」と評された[35][36]1932年(昭和7年)には自身初のトーキー映画となる『生き残った新選組』を発表。同年、松竹オールスターの大作『忠臣蔵』は大ヒットを記録。林主演作でも、『二つ燈籠』『鯉名の銀平』『一本刀土俵入り』などの話題作を次々と発表し、1935年(昭和10年)公開の『雪之丞変化』は、松竹創立以来最高の配収をもたらす空前のヒット作となった[1]1936年(昭和11年)、松竹下加茂の女優で、衣笠作品にも出演していた千早晶子と結婚。1937年(昭和12年)、約1年もの撮影期間を費やした[1]大坂夏の陣』を発表。同年に新築地劇団キノドラマ第1作『嗤う手紙』を千田是也と共同演出し、実験精神を発揮した[1]

東宝移籍以後 編集

1938年(昭和13年)11月、海軍のペン部隊に映画人代表として参加し、広東などへ従軍[37][注釈 4]。帰還後の1939年(昭和14年)5月、松竹を退社して東宝へ移籍する[39]。2年前に東宝へ移籍した林長二郎改め長谷川一夫と再びコンビを組み、『蛇姫様』前後篇、『川中島合戦』を発表。戦中は国策もの2本を製作するにとどまった。

1946年(昭和21年)、明治開化期の鉄道建設を巡る利権争いを、東宝オールスターで描いた喜劇映画或る夜の殿様』が戦後第1作となり、翌1947年(昭和22年)に島村抱月松井須磨子の恋愛事件を描いた『女優』、オムニバス映画の『四つの恋の物語』第4話を監督後、東宝を退社してフリーとなる[37]。同年、長谷川と山田五十鈴が設立した新演伎座の顧問となり[37]、同座製作で『小判鮫』を製作するも、東宝争議もからんで不評となり、『甲賀屋敷』を大映との提携で製作してヒットしたことから、1950年(昭和25年)に長谷川と共に大映の専属となった[1]

『紅蝙蝠』『月の渡り鳥』『修羅城秘聞』『大佛開眼』などの娯楽時代劇を次々と発表した衣笠は、1953年(昭和28年)にイーストマン・カラーを日本映画で初めて使用し、華麗な色彩美で描いた歴史映画『地獄門』を監督。第7回カンヌ国際映画祭グランプリ第27回アカデミー賞名誉賞衣裳デザイン賞第20回ニューヨーク映画批評家協会賞外国語映画賞を受賞し、国際的にも高く評価された。

1956年(昭和31年)3月、大映の重役に推挙され[40]、以後は重役監督として年間2、3本の作品を発表していく。『新・平家物語 義仲をめぐる三人の女』『月形半平太 花の巻・嵐の巻』といった大作時代劇を製作する一方、ミス日本から大映に入社した山本富士子を起用して、泉鏡花原作の『婦系図 湯島の白梅』『白鷺』『歌行燈』『みだれ髪』で彼女をスターに育て上げた。特に『白鷺』は第12回カンヌ国際映画祭で特別表彰を受け、その日本的情緒は世界的にも評価が高かった。山本に対して衣笠は、女形出身の経歴を生かしてシーンごとに自分で演じてみせるなど事細やかな指導を行った[41]

1966年(昭和41年)、大映とソ連のゴーリキー撮影所ロシア語版との合作になる『小さい逃亡者』でモスクワ国際映画祭児童映画部門金賞を受賞するが、これを最後に映画監督を引退する。引退後は『鯉名の銀平』『沓掛時次郎』など東宝歌舞伎の演出にあたった[1]

1982年(昭和57年)2月26日脳血栓のため京都府京都市右京区の自宅で死去[42]。86歳没。没後、遺品は東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈され、一部は展示室で公開されている。墓は等持院にある。

受賞・受章歴 編集

作品の現存状況 編集

衣笠の監督作品全118本[45]の内、戦後期の作品は殆どが現存するが、戦前期の作品で現存するのは11本(うち断片3本)のみである[46][47]

その11本の内、『忠臣蔵』『蛇姫様』『川中島合戦』『進め独立旗』は完全尺で現存し、『月形半平太』は14分尺、『弁天小僧』は11分尺、『大坂夏の陣』は8分尺の断片がそれぞれ存在する[46][47]。『十字路』は、東京国立近代美術館フィルムセンターが4つのバージョン(16mmの65分尺、35mmの88分尺、16mmと35mmの87分尺)と、47分尺のサウンド版を所蔵している[46]。『雪之丞変化』は、97分尺の総集篇が現存している。『天一坊と伊賀之亮』と『狂った一頁』は、1970年代に発見されたそれぞれのフィルムを衣笠自らが再編集したもののみが現存し、フィルムセンターが前者の44分尺、後者の59分尺(ニュー・サウンド版)のフィルムを所蔵している[48]。また、泉治郎吉名義で脚本を執筆した『三味線武士』もほぼ完全な形で現存している[49]

フィルモグラフィ 編集

監督作品 編集

Category:衣笠貞之助の監督映画参照。

脚本作品 編集

出演作品 編集

  • 七色指環(1918年、日活
  • 女気質(1918年、日活)
  • 犠牲(1918年、日活)
  • 雪枝夫人(1918年、日活)
  • 毒煙(1918年、日活)
  • 二人娘(1918年、日活)
  • (1918年、日活)
  • 捨てられた母(1918年、日活)
  • 生ける屍(1918年、日活) - サーシャ
  • 金色夜叉(1918年、日活) - お宮
  • 桜の園(1918年、日活)
  • 続金色夜叉(1918年、日活)
  • 黒水晶(1918年、日活)
  • 乳姉妹(1918年、日活)
  • 兄と弟(1918年、日活)
  • 父の涙(1918年、日活)
  • 侠艶録(1918年、日活)
  • 子煩悩(1918年、日活)
  • 月魄(1918年、日活)
  • 乃木将軍(1918年、日活)
  • 恋の浮島(1918年、日活)
  • 不如帰(1919年、日活)
  • 己が罪(1919年、日活)
  • 復活(1919年、日活) - フヨードシヤ
  • 西廂記(1920年、日活)
  • 散りゆく花(1920年、日活)
  • 八幡屋の娘(1920年、日活)
  • 尼港最後の日(1920年、日活)
  • 妹の死(1920年、日活)
  • 恋の緋鹿の子(1921年、日活)
  • 碑文谷美談(1922年、日活)
  • 噫小西巡査(1922年、牧野教育映画製作所)
  • 火華(1922年、牧野教育映画製作所)
  • 緑の牧場(1922年、日活)
  • 鷲津村の娘(1922年、国際活映
  • 老僧の恋(1923年、国際活映)
  • 若き妻の死(1923年、国際活映)
  • 愛情の極み(1923年、国際活映)
  • 不知火(1923年、牧野教育映画製作所)
  • 露子の一念(1923年、日活)
  • 盗まれた花嫁(1923年、マキノ映画製作所)

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 静間小次郎(1868年 - 1938年)は、川上音二郎門下を経て1899年(明治32年)に一座を結成し、関西新派の草分け的存在となった人物である[9]。人気が凋落した晩年は松竹京都撮影所人事課長を務めており、没後の告別式では衣笠が葬儀委員長を務めた[10]
  2. ^ 衣笠貞之助の衣笠の名は、衣笠山の見える下宿にいたことから思いついたという[15]
  3. ^ 『妹の死』は阪田重則の監督作となっているが、『日本映画監督全集』(『キネマ旬報』増刊号)「衣笠貞之助」の項によると、衣笠自身のコメントで、「1920年に日活向島撮影所にて自身の脚本作『妹の死』を初めて監督した。後日活向島のミスで阪田が監督と記された、阪田はこの映画には全く関与していない」と記されている。映画評論家の田中純一郎も本作を衣笠の第1回監督作と認知しており、実際的には衣笠の監督・脚本家デビュー作である
  4. ^ ペン部隊に派遣されたのは、衣笠、長谷川伸土師清二中村武羅夫甲賀三郎湊邦三野村愛正菊田一夫北条秀司清瀬英次郎小石清小山寛二、天野雉彦、関口次郎、中川栄三の15名である[38]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f 佐藤2007、p.202
  2. ^ a b c d e f キネマ旬報1979、p.190
  3. ^ a b 鈴木2001、p.34
  4. ^ 初代社長 小亀衡一、亀山市歴史博物館、2015年3月20日閲覧
  5. ^ れきし散歩「衣笠貞之助、いつも見ていた故郷」、2015年3月20日閲覧
  6. ^ キネマ旬報1976、p.134
  7. ^ a b c 佐藤2007、p.201
  8. ^ a b 衣笠1977、p.7-8
  9. ^ 静間小次郎、20世紀日本人名事典、コトバンク、2015年3月20日閲覧
  10. ^ 近代歌舞伎年表京都篇』、国立劇場(編)、八木書店、p.282
  11. ^ 衣笠1977、p.9
  12. ^ 鈴木2001、p.32
  13. ^ 鈴木2001、p.47
  14. ^ 長谷川一夫『舞台・銀幕六十年』、日本経済新聞社、1973年
  15. ^ 衣笠1977、p.4
  16. ^ a b c d e キネマ旬報1979、p.191
  17. ^ a b キネマ旬報1976、p.134
  18. ^ 衣笠1977、p.29
  19. ^ a b c d e f キネマ旬報1976、p.135
  20. ^ 衣笠1977、p.184
  21. ^ 鈴木2001、p.62
  22. ^ 『日本映画史大鑑 映画渡来から現代まで・86年間の記録』、文化出版局、1982年、p.82
  23. ^ スターと監督 長谷川一夫と衣笠貞之助「月形半平太」東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年3月21日閲覧
  24. ^ 衣笠1977、p.59
  25. ^ 筈見恒夫『映画五十年史』、鱒書房、1947年、p.128
  26. ^ 田中1980、p.70
  27. ^ 『日本映画事業総覧 昭和5年版』、国際映画通信社、1930年、p.96
  28. ^ a b c d 衣笠1977、p.185
  29. ^ 『円谷英二の映像世界』、竹内博・山本真吾(編)、実業之日本社、2001年、p.74
  30. ^ a b c 今村1986、p.106
  31. ^ 千田是也『劇白千田是也』、藤田富士男(監修)、オリジン出版センター、1995年、p.175
  32. ^ 大島渚『日本映画を読む パイオニアたちの遺産』、ダゲレオ出版、1984年、p.221
  33. ^ 岡田晋『日本映画の歴史』、三一書房、1957年、p.143
  34. ^ 田中1980、p.175
  35. ^ プロレタリア映画世界大百科事典 第2版、コトバンク、2015年3月21日閲覧
  36. ^ 『現代映画用語辞典』、キネマ旬報社、2012年5月28日、p.44
  37. ^ a b c 衣笠1977、p.186
  38. ^ 桜本富雄『文化人たちの大東亜戦爭 PK部隊が行く』、青木書店、1993年、p.37
  39. ^ 松竹下加茂撮影所、京都映像文化デジタル・アーカイヴ マキノ・プロジェクト、2015年3月21日閲覧
  40. ^ 田中純一郎『永田雅一』、時事通信社、1962年、p.170
  41. ^ 『女優が語る私の人生』、NHKラジオセンター、2012年
  42. ^ 『演劇年鑑』、二松堂書店、1983年、p.197
  43. ^ 鈴木晰也『ラッパと呼ばれた男 映画プロデューサー永田雅一』、キネマ旬報社、1990年、p.245
  44. ^ 牧野省三賞、東映京都ナビ、2015年3月23日閲覧
  45. ^ 衣笠貞之助日本映画データベース、1015年3月21日閲覧
  46. ^ a b c 衣笠貞之助、東京国立近代美術館フィルムセンター 所蔵映画フィルム検索システム、2015年3月21日閲覧
  47. ^ a b 主な所蔵リスト「劇映画=邦画篇」マツダ映画社、2015年3月21日閲覧
  48. ^ スターと監督 長谷川一夫と衣笠貞之助「天一坊と伊賀之亮」、東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年3月21日閲覧
  49. ^ 泉治郎吉、東京国立近代美術館フィルムセンター 所蔵映画フィルム検索システム、2015年3月21日閲覧

参考文献 編集

  • 『日本映画監督全集』、キネマ旬報社、1976年。 
  • 衣笠貞之助『わが映画の青春 日本映画史の一側面』、中央公論社中公新書〉、1977年。 
  • 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年。 
  • 田中純一郎日本映画発達史Ⅱ 無声からトーキーへ』、中央公論社(新版)、1980年。 
  • 今村昌平『講座日本映画2 無声映画の完成』、岩波書店、1986年。ISBN 4000102524 
  • 鈴木晰也『人生仕方ばなし 衣笠貞之助とその時代』、ワイズ出版、2001年。ISBN 4898301193 
  • 佐藤忠男『日本の映画人 日本映画の創造者たち』、日外アソシエーツ、2007年。ISBN 9784816920356 

外部リンク 編集