錦織剛清
錦織 剛清(にしごり たけきよ/ごうせい、1855年(安政2年) - 1921年(大正10年)[1])は明治時代の旧士族(旧相馬中村藩士))で、旧藩主家の相馬氏に仕えていた人物であり、相馬事件との関わりで知られている。
来歴編集
錦織は、旧中村藩主・相馬誠胤(そうま ともたね)が親族の申し入れにより癲狂院に入院させられているのは、関係者がお家乗っ取りを図るためだと疑い、いわゆる相馬事件を引き起こし、一時は忠義者として世間に名を馳せる。明治18年(1885年)、明治19年(1886年)と2度に渡って癲狂院に侵入し、不法侵入の罪でそれぞれ1か月投獄される[1]。誠胤奪還の際は支援者であった後藤新平は自宅に二人を匿い、誠胤の診察もした[1]。
明治25年(1892年)10月25日には、「神も仏もなき闇の世の中」という相馬事件に関する本を発行し、当時のベストセラーになった。誠胤病死後は後見役らを謀殺の容疑で告訴したが、証拠不十分で免訴となり[1]、反対に明治27年(1894年)、誣告罪で訴えられ、事件に関連して逮捕・起訴され、重禁錮4年の刑に処される。このとき共謀者として後藤も訴えられ半年間収監されたが、無罪で放免された[1]。
人物編集
著書編集
- 『神も仏もなき闇の世の中』 錦織剛清、1892
補注編集
関連項目編集
- 後藤新平 - 錦織の支援者の一人で事件に連座した。