鍾毓 (満洲国)
鍾 毓[5](しょう いく、1879年10月28日 – 没年不詳)は、中華民国・満洲国の官僚・外交官。別号は輯五[4][6]。中華民国時代は奉天派の行政官僚・外交官をつとめた。満洲国では初代黒河省長となっている。
鍾毓 | |
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『省政彙覧』第三輯 黒河省篇(1936年) ※「鐘毓」とあるのは誤記 | |
プロフィール | |
出生: | 1879年(光緒5年)10月28日[1][2][3] |
死去: | 没年不詳 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区瀋陽県[1][2][4] |
職業: | 官僚・外交官 |
各種表記 | |
繁体字: | 鍾毓 |
簡体字: | 钟毓 |
拼音: | Zhōng Yù |
ラテン字: | Chung Yü |
和名表記: | しょう いく |
発音転記: | ジョン・ユー(チョン・ユー) |
事績
編集民国時代の活動
編集清末に日本へ留学し、1908年(光緒34年/明治41年)に法政大学法政速成科第五班政治部を卒業した[7]。
中華民国では黒龍江省呼蘭県知事、三姓正紅旗佐領を経て、1919年(民国8年)3月13日に外交部特派黒龍江交渉員署理に任命される。同年10月28日、同交渉員に正式に任命された。翌1920年(民国9年)2月5日、呼倫貝爾(ホロンバイル)善後事宜督弁(後に呼倫貝爾交渉員)に任命され、1921年(民国10年)2月17日までつとめた。同年5月8日、吉林全省警務処処長兼警察庁庁長(吉林督軍:孫烈臣)に任命されている[8]。
1924年(民国13年)4月25日に孫烈臣が死去し、28日に張作相が後任の吉林督軍となる。同年7月14日に鍾毓は外交部特派吉林交渉員に改任された。翌1925年(民国14年)1月7日から王嘉沢がこの地位に就いたものの、6月19日に鍾毓が署理として返り咲く[9]。1927年(民国16年)5月2日、同交渉員に正式に任命された[8]。
張学良による易幟直後の1928年(民国17年)12月31日、張作相を主席とする吉林省政府で鍾毓は省政府委員に任命された。翌1929年(民国18年)11月5日、再び外交部特派吉林交渉員を兼任している[8]。以後、省政府委員には満洲事変まで在任しているが、交渉員は短期で退任したと見られる[10]。
満洲国成立に際しては、煕洽の指示に従い建国準備事務に携わる。鶴崗煤鉱公司常務董事を経て[4]、1933年(大同2年)6月、黒龍江省民政庁長に就任した[11]。1934年(康徳元年)12月1日、黒河省成立と共に初代省長に就任した。1937年(康徳4年)7月1日、退任している[4]。以後、満洲電業株式会社監事や満洲鉱業開発株式会社副理事長、満洲採金株式会社常務理事を歴任しており、1940年(康徳7年)時点では後二者につき在任中であると確認できる[2]。
1941年以降における鍾毓の行方は不詳となっている。なお、『大衆人事録 第十三版 外地・満支・海外篇』(昭和15年刊行)、「満洲」76頁には鍾に関する記載があるものの、次版の第十四版(昭和18年11月刊行)から当該記載が脱落している。
注
編集- ^ a b 帝国秘密探偵社編(1940)、「満洲」76頁。
- ^ a b c 満蒙資料協会編(1940)、100頁。
- ^ 尾崎監修(1940)、21頁は「1875年生まれ」としているが、帝国秘密探偵社編(1940)と満蒙資料協会編(1940)に従う。
- ^ a b c d 尾崎監修(1940)、21頁。
- ^ 北京政府『政府公報』、『国民政府公報』などの表記に従う。鐘 毓(『省政彙覧』、『大衆人事録』など)や錘 毓は誤記。
- ^ 劉ほか編(1995)、1478頁。
- ^ 法政大学大学史資料委員会編(1988)、156頁。
- ^ a b c 中華民国政府官職資料庫「姓名:鍾毓」※同姓同名の人物(台湾の林業技官)が含まれることに注意
- ^ 劉ほか編(1995)、211-212頁。
- ^ 劉ほか編(1995)、959頁。
- ^ 劉ほか編(1995)、1193頁。