長坂 信宅(ながさか のぶいえ、天文11年(1542年) - 慶長13年12月10日1609年1月15日[1])は、戦国時代武将[2]。通称は小十郎、ちゃ利九郎、彦五郎[2]。法名は玄心[2]長坂信政の子[2]徳川家康家臣[2]。妻は本多忠勝家臣・石原貞続の娘。子に長坂信吉(長男)、長坂忠尚(次男)、長坂一正(三男)、長坂信次(四男)、長坂信時(五男)らがいる。

生涯 編集

天文11年(1542年)、「血鑓九郎」の異名で呼ばれた長坂信政の子供として生まれる[2]

三河国の戦国大名・徳川家康に仕えて、各地(掛川城の戦い姉川の戦い長篠の戦い)を転戦。特に甲州征伐天正10年(1582年))の際は穴山梅雪調略して寝返らせ、この功績から大袖と黒馬を賜った[2]豊臣秀吉による小田原征伐(天正18年(1590年))では本多忠勝の指揮下で参戦し、続く九戸政実の乱陸奥国へ攻め込んだ際は鉄砲頭を務めた[1]。その後は忠勝の子・本多忠朝に仕えた。

慶長13年(1608年)に伊勢国桑名で死去した[2]。享年67[1]。墓所は桑名の長昌寺[2]

脚注 編集

  1. ^ a b c 寛政重修諸家譜』巻第二百二十一
  2. ^ a b c d e f g h i 『戦国人名事典』(阿部猛西村圭子編)567頁