長好連
日本の安土桃山時代~江戸時代初期の武将。加賀藩年寄長連龍長男で、長家22代当主(加賀八家長氏2代当主)。能登福水城主
長 好連(ちょう よしつら)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。長連龍の嫡男。長家第22代当主。弟に長連頼。妻は高源院福(前田利家の娘)[3][4]。能登福水城主。なお、「好連」という名は父の連龍も初名で名乗っていた[2][5]。
悦叟寺所蔵 | |
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 天正10年(1582年)[1] |
死没 | 慶長16年9月16日(1611年10月11日)[1][2] |
改名 | 熊松(幼名)[2]→好連 |
別名 | 仮名:十左衛門[1][2] |
戒名 | 南涌院[1] |
墓所 | 東嶺寺(石川県七尾市) |
官位 | 安芸守[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 前田利家→利長 |
藩 | 加賀藩 |
氏族 | 長氏 |
父母 | 父:長連龍、母:新(神保氏張妹) |
兄弟 | 好連、連頼、豕子(浅賀作左衛門室)、栗(南嶺院、前田利常側室)、竹(前田直知室) |
妻 | 室:福(高源院、前田利家八女)[3][4] |
子 | なし[2] |
経歴
編集天正10年(1582年)、長連龍の嫡男として誕生する。幼名は熊松[2]。
慶長3年(1598年)に、前田利家から娘の福(後の高源院)を嫁がせる旨を受け、 入輿、婚礼を整える[6]。 慶長5年8月3日(1600年6月25日)、前田利長の大聖寺攻城に19歳で初陣を飾り、父連龍とともに出馬する。慶長11年(1606年)、連龍が老年を理由に隠居したため、好連が24歳で家督を相続する[1][2][5]。 慶長12年(1607年)の駿府城普請の際、利長の名代として駿府へ赴き、御用を勤めた。 慶長15年(1610年)に尾張名古屋城普請の御用を任されるが、自身は病気のため辞退した。
慶長16年9月16日(1611年10月11日)、父に先立って死去し、田鶴浜の東嶺寺に埋葬された[1][2]。享年30。法号は南涌院。子はなく、弟に連頼(当時6歳)がいたが、家督は父の連龍が復帰して継いだ[2][5]。また、未亡人となった福(高源院)は後に中川光忠と再婚した[4]。
脚注
編集参考文献
編集- 石川県編『石川県史 第二編』
- 『史籍集覽 第187巻』近藤瓶城
- 長連三『長氏家譜大要』、1893年
- 『加賀藩史料:自天文7年至慶長10年』石黒文吉、1929年
- 『尾張群書系図部集(下)』八木書店、1997年
- 『戦国軍師人名事典』学習研究社、2009年