阿直岐(あちき)は、『日本書紀』『古事記』によれば、応神天皇の時代に百済から日本に貢上されたとされる人物。『古事記』には阿知吉師と登場し、応神天皇のとき、百済王が馬2匹を阿知吉師につけて貢上したとあるが(貢上=「貢物を差し上げる」)[1]、吉師は一種の尊称であり、阿知は阿直岐の略称とみなせることから、阿直岐と同時代の人物の阿知使主を同一人とする説もある[1][2][3]。一方、「実在したか否かは不明」という指摘があり[1]津田左右吉は、後人の造りごととしている[4]

概要 編集

日本書紀』によれば、応神天皇15年に百済王から良馬二匹と共に貢上されたといい、みずから大和の軽坂上厩で飼養した。良馬の貢上は、仁徳56年頃に朝廷が百済の要請に応じて、最初の朝鮮大出兵を行なったことへの返礼という指摘がある[1]

『日本書紀』では百済王の名を記していないが阿花王(阿莘王)の時代と推定される。菟道稚郎子の師となり、自分よりすぐれた学者として王仁を推薦し、王仁を百済から渡来させたとされるが、以上の史実性は確かめえない[1]

一方、『古事記』では阿知吉師と表記し、応神天皇の時代に百済の照古王(近肖古王)から雄馬雌馬各一匹と共に貢上されたという。

阿自岐神社の祭神であり、子孫が始祖を祀ったとも考えられている。

記紀における記述 編集

日本書紀 編集

十五年秋八月壬戌朔丁卯,百濟王遣阿直岐,貢良馬二匹。即養於輕阪上厩。因以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處曰厩阪也。阿直岐亦能讀經典。及太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰,如勝汝博士亦有耶。對曰,有王仁者。是秀也。時遣上毛野君祖荒田別・巫別於百濟,仍徴王仁也。其阿直岐者阿直岐史之始祖也。

十五年秋八月、壬戌朔の丁卯(6日)に、百済王は阿直岐を遣わして、良馬二匹を貢いだ。そこで、軽(現在の奈良県橿原市大軽町の辺り)の坂の上の厩で飼わせた。そうして阿直岐に任せて飼わせた。それゆえ、その馬を飼った所を名付けて厩坂という。阿直岐はまた、経典をよく読んだ。それで、太子・菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)は、阿直岐を師とされた。ここに、[応神]天皇は阿直岐に問うて言われた。「もしや、お前に勝る学者は他にいるのか」。答えて言った。「王仁という人がいます。すぐれた人です」。そこで上毛野君祖(かみつけのきみがおや、)荒田別(あらたわけ)、巫別(かむなぎわけ)を百済に遣わせ、王仁を召しださせた。その阿直岐は、阿直岐史(あちきのふびと)の始祖である。 — 日本書紀、巻第十、応神紀

古事記 編集

亦,百濟國主照古王,以牡馬壹疋・牝馬壹疋付阿知吉師以貢上。〔此阿知吉師者 阿直史等之祖〕

また、百済国王の照古王は、牡馬一匹、雌馬一匹を阿知吉師につけて、貢上した。 — 古事記、中巻、応神天皇

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 阿直岐』 - コトバンク
  2. ^ 馬渕和夫出雲朝子『国語学史―日本人の言語研究の歴史』笠間書院、1999年1月1日、17頁。ISBN 978-4305002044 
  3. ^ 酒井忠夫野口鐵郎 編『道教の伝播と古代国家』雄山閣〈選集 道教と日本〉、1996年12月5日、80頁。ISBN 9784639014126 
  4. ^ 中村新太郎『日本と中国の二千年〈上〉―人物・文化交流ものがたり』東邦出版社、1972年1月1日、53頁。