陳光耀(チャン・クアン・ジェウ、ベトナム語Trần Quang Diệu / 陳光耀、?-1802年)は、西山朝で活躍したベトナムの人物。武文勇・武廷秀・阮文雪・黎文興・李文宝・阮文禄と並んで「西山七虎将ベトナム語版ベトナム語Tây Sơn thất hổ tướng)」と称された。

ビンディン省タイソン県、光中博物館の陳光耀像

生涯 編集

若い頃については不明な点も多く、生まれはビンディン省ホアイアン県クアンガイ省モードゥク県ダナンの3説がある。

1771年、阮文岳ベトナム語版阮文侶ベトナム語版阮文恵の三兄弟が西山党の乱を起こすと陳光耀も駆けつけたが、途中で虎に襲われ、まさにその危急のとき裴氏春に助けられたという。ふたりはそのまま西山党の乱に参加し、阮文岳が媒酌人となって夫婦となった。以降ふたりは西山党の名将として名を馳せることになる。

1789年、ドンダーの戦いに出陣、阮文恵のもとで作戦に当たる。清朝の軍を撃退したあと、陳光耀は乂安(ゲアン省)の総督に任じられる。1792年、朝貢を怠った哀牢(現在のラオス)を攻めるために派遣された際には多くの財宝・馬・象などを持ち帰った。

1792年、阮文恵が世を去ると、子の阮光纘がわずか10歳で帝位を継いだため、少傅に任じられ、太師の裴得宣、大司徒の武文勇を輔けた。陳光耀と武文勇が戦のために軍を率いると、裴得宣が政務を独占した。

1795年には陳光耀は延慶城を包囲。広南阮氏の将の武性ベトナム語版の勇戦に苦しめられ、城を落とすには至らなかった。このころ朝廷では、裴得宣が武文勇の兵権を抑えようとして、逆に武文勇に殺される事件が起こった。陳光耀はこれを知ると朝廷に戻り武文勇に対抗したが、後に阮光纘によって講和。陳光耀も入朝し、武文勇・阮文訓・阮文名(阮文賜とも)とともに四柱大臣として政務を摂った。

1799年、阮福暎の軍が大挙して帰仁城(クイニョン)に進攻すると、陳光耀と武文勇は前線支援を任じられた。戦いでは阮文誠が倒れ、武文勇の軍が大敗したため、帰仁城は陥落した。阮光纘はこの敗北を知ると、茶曲(現在のクアンガイ省チャーボン県)で督戦したが、敗北に伴い帰朝した。陳光耀と武文勇は廣南(クアンナム)で守りを固めた。

1800年、陳光耀と武文勇は帰仁城を攻めたが、立てこもる敵は攻略できなかった。1802年、阮光纘が昇龍(現在のハノイ)へ退いたあと二人は帰仁城の攻略を諦め、阮光纘と合流するために北上の準備に取り掛かった。陳光耀と武文勇は哀牢を通り、香山(現在のハティン省フオンソン県)を突破して昇龍へと北上しようとしたが、乂安(ゲアン)も陥落し、陳光耀はついに裴氏春とともに清彰(現在のハティン省タインチュオン県)に落ち延び、夫婦共に捕虜となった。

西山朝の滅亡後、陳光耀は富春(現在のフエ)に連行され、他の将軍たちとともにさらし首にされた。彼はベトナムの歴史上もっとも優れた英雄の一人とされ、クイニョン市には彼の名前を冠したがあり、ベトナムの多くの都市に彼の名を冠した通りがある。

関連項目 編集