陳熊
生涯
編集陳鋭の子として生まれた。1503年(弘治16年)10月、平江伯の爵位を嗣いだ[1]。1508年(正徳3年)5月、運河の水運を監督するため出向した。劉瑾が金銭を求めたが、陳熊は応じなかったので、その恨みを買った。1509年(正徳4年)12月、事件に連座して、逮捕されて獄に下され、一兵士として海南衛に流され、誥券を剥奪された[2]。陳熊はもともと収賄にいそしんでおり、淮南にあって民衆を傷つけていたため、劉瑾に陥れられたにもかかわらず、同情する者もいなかった。1510年(正徳5年)、劉瑾が処刑されると、陳熊は赦令を受けて平江伯の爵位を回復した。1511年(正徳6年)12月、死去した[3]。
子はなく、再従子の陳圭が後を嗣いだ。
脚注
編集参考文献
編集- 『明史』巻153 列伝第41