韓愈
韓 愈(かん ゆ、768年(大暦3年) - 824年12月25日(長慶4年12月2日))は、中国唐中期を代表する文人・士大夫である。字は退之(たいし)。孟州河陽県(現在の河南省焦作市孟州市)の人。鄧州南陽(河南省)の出身・弓高侯韓頽当(韓王信の子)の末裔であると自称した。唐宋八大家の一人。諡によって「韓文公」ともよばれる。 徳宗の貞元八年(七九二)、二五歳で進士に及第した。政治的には柳宗元より保守的であったが、中小地主層に対しても同情を示し、かなり複雑な官吏生活を送った。広東省に二度左遷され、二度目の「仏骨を論ずる表」で憲宗が仏骨を宮中に入れるのに反対した時などは、あやうく死刑になるところだった。しかしながら、その前にすでに刑部侍郎の職にあり、憲宗の死後には吏部侍郎になっているのであるから、朝廷の重臣として、世間の常識としては、ときめいていたように見える。たが、その晩年の韓愈の胸中は、詩文に表れたところから判断しても、必ずしも最後の安定の姿を示しているとは言い切れないようである。かれには解決すべき多くの問題が、なおも残されていたからである。 韓愈は普通、唐の四大詩人のひとりに数えられる。また、古文作家としては柳宗元とともに唐の二大家であるだけでなく、それ以降の文章、すなわち古文のもっともすぐれた作者として民国初年に至るまで、人びとが規範としてきた近世風の文章の開祖的存在である。同時にまた道学の先声として朱子学系統の人びとに影響を与え続けてきた。そして特に道の文学が尊重されてきた近世の士大夫の文学においては、柳宗元よりも高く評価されてきたのである。
韓愈 | |
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![]() 韓愈・『晩笑堂竹荘畫傳』より | |
各種表記 | |
繁体字: | 韓愈 |
簡体字: | 韩愈 |
拼音: | Hán Yù |
発音転記: | ハン ユー |
ラテン字: | Han2 Yü4 |
英語名: | Han Yu |
略歴編集
3歳のとき父の韓仲卿を、14歳のとき兄の韓会を失って兄嫁の鄭氏に養われ、育った。792年(貞元8年)に進士に及第する。その後、監察御史、中書舎人、吏部侍郎(この官によって「韓吏部」とも呼ばれる)、知京兆府事などの官を歴任した。
818年(元和13年)[1]、30年に1度のご開帳に供養すればご利益があるとして信仰を集めていた鳳翔の法門寺の仏舎利が、長安の宮中に迎えられ、供養されることとなった。819年(元和14年)、それに対して韓愈は、『論仏骨表』を憲宗に奉って極諌した。結果、崇仏皇帝であった憲宗の逆鱗に触れ、潮州刺史に左遷された。
翌820年、憲宗が死去して穆宗が即位すると、再び召されて国子祭酒に任じられた。その後は兵部侍郎・吏部侍郎を歴任し、824年に死去した。礼部尚書を追贈された。
作品編集
韓愈は、六朝以来の文章の主流であった四六駢儷文が修辞主義に傾斜する傾向を批判し、秦漢以前の文を範とした達意の文体を提唱し(古文復興運動)、唐宋八大家の第一に数えられている。この運動に共鳴した柳宗元は、韓愈とともに「韓柳」と並称される。
古文復興運動は、彼の思想の基盤である儒教の復興と表裏をなすものであり、その観点から著された文章として、「原人」「原道」「原性」などが残されている。その排仏論も、六朝から隋唐にかけての崇仏の傾向を斥け、中国古来の儒教の地位を回復しようとする、彼の儒教復興の姿勢からきたものであった。その傾向を受けついだのは高弟の李翺である。
詩人としては、新奇な語句を多用する難解な詩風が特徴で、平易で通俗的な詩風を特徴とする白居易に対抗する中唐詩壇の一派を形成し、孟郊・張籍・李賀・王建・賈島など「韓門の弟子」と称する詩人たちを輩出した。
詩人としてもある程度の名声を持っているが、より有名なのは散文の作家としてであり、中国の近い過去千年間の散文の始祖ともされる。
文集に『韓昌黎集』40巻、『外集』10巻がある。