馬 光(ば こう、生年不詳 - 94年)は、後漢外戚は叔山[1]本貫右扶風茂陵県明徳馬皇后の兄にあたる。

経歴編集

馬援の三男として生まれた。69年永平12年)、兄の馬防とともに黄門侍郎となった。78年建初3年)、越騎校尉から執金吾に転じた。79年(建初4年)、許侯[2]に封じられた。80年(建初5年)、衛尉となった。

83年(建初8年)、兄の馬廖の子である馬豫が政治を誹謗したことから、馬防と馬光の兄弟は御史の弾劾を受けて免官され、封国へ下向することになった。馬光は気配りの行き届いた性格であり、母の喪にあっては哀哭のほどが礼の規定を超えていた。このため章帝は特別に馬光に目をかけ、復位させて特進とした。90年永元2年)、馬光は太僕となった。

92年(永元4年)、竇憲が粛清されると、馬光は竇憲と親しかったことから再び免官され、封国へ下向することになった。94年(永元6年)[3]、竇憲の奴が馬光と竇憲は反乱を計画していたと誣告したため、馬光は自殺し、家族は右扶風に帰された。

子女編集

  • 馬康(黄門侍郎、侍中、馬光の死後に右扶風で殺された)
  • 馬朗(合郷侯)

脚注編集

  1. ^ 東観漢記
  2. ^ 黄山『後漢書集解校補』は洪亮吉の説を引いて「許陽侯」と作るべきとした。
  3. ^ 『後漢書』和帝紀

伝記資料編集

  • 『後漢書』巻24 列伝第14