馬皇后(ばこうごう)は、後漢明帝の皇后。は徳で、諡号としては夫の諡を重ねて明徳皇后(めいとくこうごう)。武将として光武帝の漢朝再興に貢献した馬援の娘である。

馬皇后
後漢の皇后
『続列女伝』馬后
在位 建武中元2年2月5日 - 永平18年8月6日
57年3月29日 - 75年9月5日

別称 明徳皇后(諡号
出生 建武16年(40年
死去 建初4年6月30日
79年8月16日
埋葬 顕節陵
配偶者 明帝
氏族 扶風馬氏
父親 馬援
養子 章帝
テンプレートを表示

概要 編集

13歳で当時皇太子であった劉荘(後の明帝)の後宮に入り、明帝即位後に貴人となる。陰皇太后らの推薦で皇后に立てられた。永平18年(75年)に明帝が崩御し章帝が即位すると皇太后となった[1]

太宗長孫皇后光武帝の皇后陰麗華と共に、歴代でも屈指の賢夫人の一人とされ、政治に対しての介入は一切せず、親類が外戚として権力を振るうことを押さえ込んだ。ゆえに光武帝・明帝の2代には後漢朝の通弊である外戚禍がほとんどなかった。ただその馬皇后も一度だけ権力を私的に使ったことがある。前漢の時代に反乱を起こした一族の馬何羅のことを『漢書』に載せないで欲しいと班固に頼んだのだが、班固はこれを断った。ただし、『漢書』で馬何羅を「莽何羅」と記していることが多いのは、馬皇后らとの関係を隠蔽しようとしたからである可能性がある。

まだ貴人だった頃、明帝の五男劉炟(後の章帝、生母は賈貴人)を養子にする。そのため、即位後の章帝は馬太后に母のように孝行した。それに対して、賈貴人は母扱いされなかった。その親族はいかなる官位も得られなかった。馬太后が崩御した後も、賈貴人は皇太后になれず先帝の高位の妃嬪程度の待遇を受けただけだった。その後の賈貴人は消息不明となった。

脚注 編集

  1. ^ 岡崎 他、p. 264 - 265

参考文献 編集

  • 岡崎由美・王敏 監修 『中国歴代皇帝人物事典』 河出書房新社、1999年