馬 廖(ば りょう、生年不詳 - 92年)は、後漢外戚は敬平。本貫右扶風茂陵県馬防馬光明徳馬皇后の兄[1]にあたる。

経歴編集

馬援の長男として生まれた。父の蔭官により若くして郎に任じられた。60年永平3年)[2]、妹の馬皇后が立つと、馬廖は羽林左監・虎賁中郎将に任じられた。

後に軍司馬の鄭衆とともに車師を攻撃した[3]

明帝が死去すると、遺詔により馬廖は禁門をつかさどることとなり、趙熹に代わって衛尉となって、章帝に尊重された。

馬廖は明徳皇太后に徳政をおこなうことを勧める上疏をおこなった。

馬廖は性格が誠実慎重で、権勢や名声を好まず、毀誉褒貶に囚われなかった。封爵を受けるのを辞退し続け、ようやく79年建初4年)に順陽侯に封じられた。特進として官を引退し、邸に隠居した。賞賜あるたびに、辞退して受け取らなかった。

92年永元4年)、死去した。は安侯といった。

子孫編集

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  • 馬豫(歩兵校尉)
  • 馬遵(後嗣、程郷侯)

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  • 馬度(潁陽侯、馬豫の子)

脚注編集

  1. ^ 後漢書』楊終伝に「太后兄衛尉馬廖」という。
  2. ^ 『後漢書』明帝紀
  3. ^ 『後漢書』鄭衆伝

伝記資料編集

  • 『後漢書』巻24 列伝第14