駒塚古墳

奈良県斑鳩町にある古墳

駒塚古墳(こまづかこふん)は、奈良県生駒郡斑鳩町東福寺にある古墳。形状は前方後円墳。斑鳩町指定史跡に指定されている。

駒塚古墳

墳丘(右に前方部、左奥に後円部)
所在地 奈良県生駒郡斑鳩町東福寺1丁目
位置 北緯34度36分50.50秒 東経135度44分44.18秒 / 北緯34.6140278度 東経135.7456056度 / 34.6140278; 135.7456056座標: 北緯34度36分50.50秒 東経135度44分44.18秒 / 北緯34.6140278度 東経135.7456056度 / 34.6140278; 135.7456056
形状 前方後円墳
規模 墳丘長49m以上(推定復元60m)
高さ5.5m(後円部)
埋葬施設 不明
出土品 埴輪・二重口縁壺・土師器
築造時期 4世紀後半
史跡 斑鳩町指定史跡「駒塚古墳」
地図
駒塚古墳の位置(奈良県内)
駒塚古墳
駒塚古墳
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本項目では駒塚古墳の南にある調子丸古墳(斑鳩町指定史跡)についても解説する。

概要 編集

奈良県西部、斑鳩町東部の平坦地に築造された古墳である。古墳名は、聖徳太子の愛馬「黒駒」を埋葬したという伝承に由来する(『古今目録抄』・『大和名所記』、ただし古墳の築造時期には対応しない)[1][2]。これまでに墳丘周囲が大きく削平を受けているほか、2000-2002年度(平成12-14年度)に発掘調査が実施されている[3]

墳形は前方後円形で、前方部を南方向に向ける。墳丘は2段築成[4]。墳丘外表では葺石円筒埴輪列が認められているほか、二重口縁壺・土師器が検出されている[4]。埋葬施設は明らかでなく、発掘調査では後円部において墓壙(南北9.4メートル・東西6メートル)が検出されているが未調査である[4]

築造時期は、古墳時代前期の4世紀後半頃の築造と推定される(発掘調査以前は中期古墳と想定された)[2]。斑鳩地域では早い段階の古墳として注目されるとともに、古墳周辺の東福寺遺跡では土坑群が検出されており、関連性が指摘される[2]

古墳域は斑鳩町指定史跡に指定されている[5]

墳丘 編集

墳丘の規模は次の通り[4]

  • 墳丘長:49メートル以上(推定復元約60メートル[2]
  • 後円部 - 2段築成。
    • 直径:34メートル
    • 高さ:5.5メートル
  • 前方部 - 2段築成。
    • 長さ:18メートル以上
    • 幅:22メートル以上
    • 高さ:2メートル
  • くびれ部
    • 幅:約14.5メートル
全天球画像
 
墳丘(西)
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墳丘(東)
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調子丸古墳 編集

調子丸古墳
 
墳丘(左奥に駒塚古墳)
別名 丸山塚古墳
所在地 奈良県生駒郡斑鳩町東福寺1丁目
位置 北緯34度36分46.66秒 東経135度44分46.33秒 / 北緯34.6129611度 東経135.7462028度 / 34.6129611; 135.7462028 (調子丸古墳)
形状 円墳
規模 直径14m
埋葬施設 不明
出土品 埴輪
築造時期 5世紀中葉
史跡 斑鳩町指定史跡「調子丸古墳」
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調子丸古墳(ちょうしまるこふん)は、駒塚古墳の南約100メートルにある古墳。形状は円墳。斑鳩町指定史跡に指定されている。

古墳名は、聖徳太子の愛馬の黒駒を世話した「調子麿」を埋葬したという伝承に由来する(『大和名所記』、ただし古墳の築造時期には対応しない)[1][2]。墳形は円形で、直径約14メートルを測る[2]。墳丘表面では円筒埴輪・形象埴輪が検出されている[2]。築造時期は古墳時代中期の5世紀中葉頃と推定され、築造背景の集落遺跡として酒ノ免遺跡が知られる[2]

なお、2000年度(平成12年度)の墳丘北側における発掘調査では、精巧な造りの土馬(時期不明)が出土している[3]

文化財 編集

斑鳩町指定文化財 編集

  • 史跡
    • 駒塚古墳[5]
    • 調子丸古墳[5]

脚注 編集

参考文献 編集

(記事執筆に使用した文献)

  • 斑鳩町歴史的風致維持向上計画 (PDF)』斑鳩町、2014年。 
  • 「駒塚古墳」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490301 
    • 刊行後版(ジャパンナレッジ収録)、2006年

関連文献 編集

(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 『駒塚古墳発掘調査写真図録』斑鳩町・斑鳩町教育委員会、2002年。 

外部リンク 編集