駱俊
中国後漢末期の武将
概要
編集若くして文武両道の才に富んでいたことから、郡吏となった。まもなく、孝廉に推挙されて尚書郎に任命された。その功績を称えられ、後に陳国の相となり、陳愍王劉寵に仕えた。
建安2年(197年)正月、袁術は仲家皇帝を偽称し、また異母兄の袁紹との争いも続けていた。そのため天下は乱れて、各地に反乱が起こった。陳国付近でも騒然とした状態となり、四方に奸悪な賊衆が蠢いていた。
これを危惧した駱俊が、劉寵に上奏して富国強兵を奨励したため、奸悪な賊衆たちは陳国に侵入することができなかった。また彼が万民に慈悲をもって接し、その身の安全を保障したため、陳国は天災事変に遭遇せず豊かであった。
これを見た袁術は食糧が欠乏したので、使者を派遣して劉寵および駱俊に対して、食糧を輸送するよう要請した。しかし上記の出来事などがあり、駱俊は袁術のことを快く思っていなかったので、断固としてこれを拒んだ。
袁術は戻った使者から駱俊の態度を聞いて激怒し、刺客を派遣して劉寵と駱俊を暗殺させるとともに[1]、その食糧を奪い陳国を併呑した。