高野常道
高野 常道(たかの つねみち)は、江戸時代中期から後期にかけての儒臣。越後長岡藩士。一般的には高野余慶として知られる。
高野常道(高野余慶) | |
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 享保14年(1729年) |
死没 | 文化12年2月13日(1815年3月23日) |
改名 | 常道→余慶(号) |
別名 | 通称:泰助 |
墓所 | 新潟県長岡市西新町の長福寺 |
官位 | なし |
主君 | 牧野忠寛→忠精 |
藩 | 越後長岡藩 |
氏族 | 高野氏 |
父母 | 父:高野永貞 |
生涯
編集享保14年(1729年)、やはり越後長岡藩士で儒臣であった高野永貞(栄軒)の長子として誕生[1]。
常道は、伊藤仁斎を私淑し、兵法に通じ[2]、旧典に詳しかったという[1]。
8代藩主・牧野忠寛に信任され、忠寛の子・忠精と忠義(後の有馬氏保)の侍読となる[1]。以降、忠精に近侍した[1]。常道の人物は、松平定信より「泰助(常道の通称)は君子なり」と称えられる程であったとされる[3]。藩主に46年仕えたうちの24年は江戸勤番であった[1]。
隠居後も、常に四書五経を講じ、兵書古礼を説き、馬術、水練、弓術、砲術等を究めたという[4]。『由旧録』『軍用家訓』『軍中職掌考』その他多数の著作がある[5]。常道の著であるとされる『昇平夜話』に見える、「東照宮上意に、郷村の百姓共は死なぬ様に、生ぬ様にと合点致し、収納申付様にとの上意」とのくだり[6]は、『本佐録』の「百姓は財の余らぬ様に、不足なき様に治むること道なり」と共に、江戸幕府の農民政策を示したものとして知られる[7]。
その他
編集脚注
編集- ^ a b c d e 『北越名流遺芳 第2集』17頁、『三百藩家臣人名事典 4』14頁
- ^ 常道は、北条氏長の門弟・片山良庵に学んだ長岡藩士・真柄安勝以来の同藩における北条流軍学の学統を受け継いだとされる(『日本兵法史 上』423-424頁)。
- ^ 『北越名流遺芳 第2集』18頁、『三百藩家臣人名事典 4』14頁
- ^ 『北越名流遺芳 第2集』17頁
- ^ a b 『北越名流遺芳 第2集』19頁、『三百藩家臣人名事典 4』14頁
- ^ 「昇平夜話附録」『日本経済叢書 第2巻』238頁
- ^ 『江戸時代の支配と生活』105頁
- ^ 『北越名流遺芳 第2集』19頁
- ^ 『長岡市史』164頁
- ^ 『史伝山本元帥』13頁