鬼の間
鬼の間(おにのま)とは、京都御所において仁寿殿の西、後涼殿の東にある清涼殿の中の南西隅の部屋。すなわち清涼殿の裏鬼門の位置にある。[1]
概要
編集平安遷都(延暦13年・794年)時の内裏、清涼殿の一間に大和絵師・飛鳥部常則、康保元年(964年)が、壁一面に鬼を退治する白沢王像を描いたとされる[1]。壁に描かれていた王は、一人で剣をあげて鬼たちを追う勇姿であり、その名を白沢王といい、古代インド波羅奈国(はらなこく)の王であり、鬼を捕らえた剛勇の武将である[2]。現行の京都御所(鬼の間)に、白澤王の絵は描かれていない[2]。なお、順徳天皇が著した『禁秘抄』(きんぴしょう)(御抄)(みしょう)を解釈した[1]明治時代の関根正直の『禁秘抄講義』3巻上に引用される江戸中期の随筆『夏山雑談』には、白沢王は李将軍、「白澤王」としても記されている[2]。江戸時代の国学者屋代弘賢などにより神獣白沢との関連も示唆されている[3][4]。 また、京都御所はGHQの管理下でありながら、昭和21年11月に一般公開[2]されているが、現在でも鬼の間は一般公開されていない[2]。
古来から日本に伝わる家相では、鬼門、北東を忌み嫌う言い伝えがある。[5] それは京都御所、築地塀の「猿ヶ辻」が基になっており、[5]築地塀、北東「猿ヶ辻」の塀が、敷地内に凹んだ形に造られていることから、「御所が鬼門を避けている」「除けている」と考えられ、それが後世まで鬼門を除ける手法とされてきた。[6] 現代でも人々は縁起を担いで鬼門とされる住宅の北東部分に魔除けとして柊や南天、万年青を植えたり、鬼門や裏鬼門(南西)から水回りや玄関を避けて家作りをするなど、鬼門を恐れた家相を重視する社会通念は根強く残っており[7]、東京芸術大学、東京工業大学名誉教授 清家清の著書『現代の家相』において「家相の教え通りに猿ヶ辻を凹ませている」と述べられている[6]。事実、京都のNPO法人が2015年に行った調査では、京都市内中心部だけでも、ビルや店舗、一般住宅など約1100か所に、四角く囲って玉砂利を敷いたり、柊や南天を植えたりした「鬼門除け」があることが判明している[7]。
しかし京都御所、清涼殿内部には鬼の間が存在していた。これについて、家相を研究する小池康寿は著書(小池康寿 2015)において、京都御所や天皇家が、神の祟り(自然災害、火災、疫病の蔓延)を恐れて築地塀を凹ませて避けていたと考えるより、庶民に災厄が及ばぬように皇室が一手に凹み(猿ヶ辻)で受けとめ、御所内部、清涼殿、鬼の間に神の祟り、災い事を導き、鬼にみたてた災い事を切り倒すことで世の安泰を願っていた(宮中祭祀)を行っていたと解釈した方が自然であると論じ[2]、外から見た御所の塀の凹みのみに注目した庶民の単純な考えが、現代まで続く、鬼門除けの発想に繋がったと考えるのが理に適うとしている[8]。
参考文献
編集- 小池康寿『日本人なら知っておきたい正しい家相の本 : 本当は間取りを変えずに鬼門は避けられる』プレジデント社、2015年11月。ISBN 9784833421492。全国書誌番号:22668323 。
- 清家清『現代の家相』新潮社〈とんぼの本〉、1989年。ISBN 4106019671。 NCID BN03393958。全国書誌番号:89021077。
脚注
編集- ^ a b c 小池康寿 2015, p. 30.
- ^ a b c d e f 小池康寿 2015, p. 31.
- ^ 熊澤美弓「神獣「白澤」と文化の伝播」『愛知県立大学文字文化財研究所年報』第3巻、愛知県立大学文字文化財研究所、2010年3月、47-69頁、CRID 1390290699554515456、doi:10.15088/00001353、ISSN 1884-8958、NAID 120005335499、2023年9月29日閲覧。
- ^ 岡部美沙子「[学界動向] 白澤研究の現状と課題」『史泉』第115巻、関西大学史学・地理学会、2012年1月、A40-A55、CRID 1050569567959360384、hdl:10112/00023673、ISSN 03869407、NAID 40019208183、2023年9月29日閲覧。
- ^ a b 清家清 1989, p. 46.
- ^ a b 清家 1989, p. 46.
- ^ a b 小池 2015, p. 28.
- ^ 小池康寿 2015, p. 32.
関連文献
編集- 関根正直著 『禁秘抄釈義. 上巻』 明34.2 p.42. 鬼の間記述
- 同上 『禁秘抄講義 : 3巻 上』 1927年 p.54-5