魚住樂處

江戸時代後期の儒学者

魚住 樂處(うおずみ らくしょ、文化6年9月(1809年) - 明治8年(1875年)2月[1])は、江戸時代後期の儒学者朱子学派)[2]。明治時代の教育者、政治家。名は明識[1](「名誠」との記載もあり)。(あざな)は明晶。通称は三郎八。樂處はその福岡藩藩儒[2]

経歴 編集

魚住明倫の子として筑前国に生まれる。藩校修猷館に学ぶ[2]

天保5年(1834年)修猷館指南加勢見習となり[2]、天保14年(1843年)郡代となる。嘉永3年(1850年)致仕する[1]

慶応元年(1865年)勤王の国事に奔走したため、志士と共に禁錮せらること3年[1]。明治2年(1869年)抜擢されて修猷館の文学教授兼伴読となり、明治4年(1871年)藩政に参画し、福岡藩権大参事に任ぜられる[2]

明治8年(1875年)没し、博多の円覚寺に葬られた[1]

出典 編集

  1. ^ a b c d e 『福岡県先賢人名辞典』(文照堂書店、1933年)10頁
  2. ^ a b c d e 笠井助治『近世藩校に於ける学統学派の研究 下』(吉川弘文館、1970年)1565頁