鳥屋城 (紀伊国)
鳥屋城(とやじょう)は、和歌山県有田郡有田川町中井原にあった日本の城(山城)[1]。
鳥屋城 (和歌山県) | |
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別名 | 石垣城[1] |
城郭構造 | 山城 |
主な改修者 | 畠山尚順[2] |
主な城主 | 畠山氏 |
廃城年 | 天正13年(1585年)? |
遺構 | 曲輪、堀切、土塁、石積み[1] |
位置 | 北緯34度3分45秒 東経135度16分12秒 / 北緯34.06250度 東経135.27000度座標: 北緯34度3分45秒 東経135度16分12秒 / 北緯34.06250度 東経135.27000度 |
地図 |
概要
編集鳥屋城は鳥屋城山に築かれた山城で、標高305m、比高255mに位置する[1]。東西に細長く続く曲輪群からなり、西の曲輪群と東の曲輪群とに分けられる[3]。
鳥屋城のあった石垣荘は中世の武士団・湯浅党の拠点の一つであり、後に守護・畠山氏の所領となった[1]。
永正17年(1520年)に畠山尚順が内衆・野辺慶景や国人の湯河氏・玉置氏に広城を追放されたが[4]、それを機に畠山氏の拠点が広城から鳥屋城に移ったといわれる[1]。
天正13年(1585年)3月、羽柴秀吉が紀州攻めを行い、鳥屋城は仙石秀久・中村一氏・小西行長らにより落城した[5][6]。この戦いで、畠山式部太輔・村上六右衛門親子3人・柏原父子・根来寺法師蓮蔵院以下多数が討ち取られた[7][5][6]。
今に残る遺構については、縄張が単調で、羽柴軍に備えて整備されたものと考えにくいことから、天正13年以前のものと推測される[8]。
鳥屋城の西2kmの地点には、畠山氏またはその被官・神保氏の館と伝わる金屋土居があった[9]。金屋土居は東西120m、南北100mの堀を持つ守護所にふさわしい規模の館であり、詰城となる鳥屋城に対する居館であったとも考えられる[9]。
脚注
編集- ^ a b c d e f 和歌山城郭調査研究会 2019, p. 38.
- ^ 和歌山城郭調査研究会 2019, p. 18.
- ^ 新谷 2017, p. 24.
- ^ 弓倉 2006, pp. 207–209; 新谷 2017, pp. 21–23.
- ^ a b 和歌山県史編さん委員会 編『和歌山県史 中世』和歌山県、1994年、652頁。全国書誌番号:94039163。
- ^ a b 弓倉 2006, pp. 125–128; 新谷 2017, pp. 23–24.
- ^ (天正13年)3月25日付小早川隆景宛羽柴秀吉書状(「小早川家文書」)。
- ^ 新谷 2017, p. 26; 和歌山城郭調査研究会 2019, p. 39.
- ^ a b 新谷 2017, pp. 26–27.
参考文献
編集- 新谷和之 著「紀伊国における守護拠点の形成と展開」、小谷利明; 弓倉弘年 編『南近畿の戦国時代 躍動する武士・寺社・民衆』戎光祥出版〈戎光祥中世史論集 第5集〉、2017年。ISBN 978-4-86403-267-4。
- 弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究』清文堂出版、2006年。ISBN 4-7924-0616-1。
- 和歌山城郭調査研究会 編『戦国和歌山の群雄と城館』戎光祥出版〈図説 日本の城郭シリーズ12〉、2019年。ISBN 978-4-86403-311-4。