鳥山 精俊(とりやま きよとし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将旗本三河国代官を務めた。

 
鳥山精俊
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正元年(1573年
死没 慶長15年1月6日1610年1月30日
別名 丹波
戒名 洞意
墓所 愛知県豊田市の法泉寺
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家康
氏族 鳥山氏
父母 父:鳥山与七郎
兄弟 精信精俊
正勝鳥山精明
養子:精明鳥山精信子)
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生涯 編集

鳥山氏は『寛政重修諸家譜』では清和源氏新田氏庶流とされている。

天正元年(1573年)、鳥山与七郎の次男として誕生。父は松平義春に仕え、兄・精信小笠原氏に仕えていた。天正3年(1575年)父と分かれて出家していたが、後に還俗して西三河東条に住んでいたという。その後、徳川家康に仕えた。

天正18年(1590年徳川氏の関東移封に従って所領を与えられたが故あってこれを固辞し三河へ戻った。慶長5年(1600年関ヶ原の戦いの際には三河吉田で家康軍に合流して再出仕し、慶長6年(1601年)三河代官に任じられた。

嫡男・正勝がいたが病弱であったために嗣子に立てられず、兄・精信の子である精明が婿養子として相続した。以後鳥山氏は、精明-精元-精永と4代に渡って三河代官を務めた。

出典 編集