鳥養牧鳥飼牧、とりかいのまき)は、摂津国島下郡(現在の大阪府摂津市)に置かれた平安時代左右馬寮が経営した近都六牧の一つで、安威川下流と淀川との間の沖積地に存在し、右馬寮に属した。

概要 編集

927年延長5年)に制定された『延喜式』巻四十八にみえるもので、畿内に所在した近都牧(きんとまき)6か所の1つである。当時の牧は、御牧(みまき、勅旨牧皇室の科場を供給するもの)、諸国牧(しょこくまき、兵馬・用役牛の飼育を目的とする)、近都牧(都の周辺に設けたもの)の3種類に分けられていた。牛馬はひき牛や乗馬用として利用され、大宮人にとって牛や馬は必要不可欠なものであった。近都牧では諸国から貢進された馬牛を飼育し、節会および行幸などの際に必要に応じて牧馬を送っている。

鳥養牧の所在地は、淀川本流にかつて存在した「馬島」・「本牧」(ほんまき)・「五久」(「御厨」、ごきゅう)といった地名から、前述の地域を中心にして鳥飼西部から淀川沿いに、上流の三箇牧(さんかまき、現在の高槻市)近くまでかなり広範囲にわたっていたようである。

大和物語』によると、鳥養牧には別業(なりどころ)地があって「鳥飼院」が営まれ、亭子の帝(ていじのみかど)が遊行しており、

あさみどりかひある春にあひぬれば かすみならねどたちのぼりけり (浅緑色にかすむ、生きがいのある春にめぐりあいましたので、霞ならぬ私ですが、春霞が立ちのぼるように、この御殿にのぼることができたのでございます)

という遊女の歌が掲載されている[1]

また、淀川の港津もあり、『土佐日記』には、承平5年(935年)、土佐国から帰洛途中の紀貫之一行が「なほ、川上(のぼ)りになづみて(行き悩んで)、鳥飼の御牧(みまき)というほとりに泊る」様子が記されている[2]

そのほか、永承3年(1048年)には関白藤原頼通が高野詣の帰路、同牧の辺に到着したことなどが知られている。

12世紀以降、鳥養牧は耕地化が進み、左馬寮領の荘園となり、鎌倉時代には西園寺家が所務職を管掌していたという。室町時代には同じ西園寺家流の洞院家菊亭家との間で係争があり、後者の管轄として解決している。

脚注 編集

  1. ^ 『大和物語』146段「鳥飼院」
  2. ^ 『土佐日記』2月8日条

参考文献 編集

  • 『岩波日本史辞典』p. 1067、監修:永原慶二岩波書店、1999年
  • 『角川第二版日本史辞典』p. 701、p. 889、高柳光寿竹内理三:編、角川書店、1966
  • 『竹取物語・伊勢日記・土佐日記』完訳日本の古典10、小学館、1983年
  • 『竹取物語・伊勢日記・大和物語・平中物語』新編日本古典文学全集12、小学館、1994年

関連項目 編集