鶴見数馬
鶴見 数馬(つるみ かずま、1860年2月7日(安政7年1月16日[1][2]) - 1926年(大正15年)1月2日[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級、功三級[3]。
経歴
編集のちの千葉県出身[2][3]。鶴見駿太郎の叔父[1]。陸軍士官学校に入学し(旧3期[2])、1879年(明治12年)12月、陸軍砲兵少尉に任官する[4]。東宮武官などを経て[1]、1901年(明治34年)6月、野戦砲兵第7連隊長に補され、1903年(明治36年)11月に大佐に進み[3]、日露戦争に従軍する[2]。203高地を含む旅順攻囲戦や奉天会戦で健闘した[2]。1907年(明治40年)2月、野戦砲兵第15連隊長に任じ、1910年(明治43年)3月、長崎要塞司令官となり、同年11月、陸軍少将に進級と同時に兵器本廠長に就任した[3]。1913年(大正2年)8月、予備役に編入した[2][3]。晩年は東京府豊多摩郡中野町(東京市中野区を経て現東京都中野区)に住んだ[1]。
栄典
編集- 位階
- 勲章
脚注
編集参考文献
編集- 人事興信所 編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年 。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。