1961年パリ虐殺 (1961ねんパリぎゃくさつ、フランス語:Massacre du 17 octobre 1961) は、1961年10月17日にフランスパリ郊外で警察官がアルジェリア系住民を大量虐殺した事件である。

概要

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事件は、アルジェリアフランスからの独立を目指したアルジェリア戦争の最中で、アルジェリア系のイスラム教徒だけに夜間外出禁止が課され、これに対して差別的だとした2万人以上がパリ郊外での抗議デモに参加した。

デモの参加者は武器の携帯を禁じられ平和裏に行われたが、パリ警視庁が身内に死傷者が出たとのデマを信じ、デモの参加者を弾圧した。12000人以上が逮捕され、一部は収容所で殴り殺されたり現場で射殺されるなどした。犠牲者は未だに定かとなっていないものの、少なくとも120人に上るとされている。[1]

また一部の遺体はセーヌ川に遺棄されたものの、その多くが未だ見つかっていない。

パリ警視庁は翌日アルジェリア人同士の衝突で死者が出たと発表したものの、死者数は3人と実態とは大きくかけ離れた発表だった。しかし、当時は政府による検閲が行われており、長い間事実が知られることはなかった。

一方で1958年8月25日、パリでアルジェリア民族解放戦線(FLN)の攻撃があり、13区のロピタル大通りで警官3人が死亡、ヴァンセンヌのカルトゥーシュリーの前でも警官1人が死亡する事件が、またFLNは1961年8月末にフランス警察に対する爆弾テロを再開することを決定し、1961年8月末から10月初めにかけて、パリとその近郊で11人の警官が殺害され、17人が負傷した。 これらの爆弾テロにより、パリ警視庁全体に恐怖が広がるだけでなく、社会全体のアルジェリア系住民に対する復讐と憎悪の感情を増大させる効果があった。

背景

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当時、アルジェリアはフランスの一部であり植民地支配をされていた。それに対して独立を目指したアルジェリアはアルジェリア民族解放戦線(FLN)などが組織され、独立を目指してフランスとのアルジェリア戦争が行われていた、

脚注

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  1. ^ 仏大統領、60年前のアルジェリア系住民虐殺事件の追悼に初参加:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル (2021年10月17日). 2024年7月30日閲覧。