31式60ミリ迫撃砲中国語: 三一式60公釐迫擊炮)は日中戦争の時期に50兵工廠で生産された迫撃砲アメリカ合衆国製のM2 60mm 迫撃砲をモデルにして開発されたものである[1]中華民国政府が台湾に移転した後、陸軍が迫撃砲生産の必要性に迫られたが、50兵工廠は台湾に移転しておらず、やむなく61兵工廠(後に202兵工廠と改称)が模倣し製造を続けた。 31式とは民国31年(1942年)に由来している。

三一式迫撃砲
種類 迫擊砲
運用史
配備期間 1941-1980年代
配備先 中華民国の旗 中華民国
中華人民共和国の旗 中国
関連戦争・紛争 第二次世界大戦
国共内戦
朝鮮戦争
開発史
開発者 中華民国の旗 中華民国五十兵工廠
開発期間 1940/7-1941
製造業者 五十兵工廠第十兵工廠
四四兵工廠九十兵工廠
製造期間 1941 - 1952
製造数 32000門以上
諸元
重量 18Kg(砲身5Kg、砲架8Kg、底板5Kg)
全長 67.05mm
銃身 60.1cm(11口径長)
要員数 2人

砲弾 60.75mm
砲架 方型底板式三脚砲架
仰角 +45 - +85度
旋回角 中心線左右5.5度
発射速度 18 発/分,最大射速32発/分
初速 133m/秒
最大射程 1,333/1,444m(1444為61兵工廠版本)
弾頭 榴弾1.5kg
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61兵工廠の前身は兵工署駐滬修理処戦車製造廠であり、台湾移転後に61兵工廠と改称されたものである。元来砲火兵器の製造能力に欠如しており、31式迫撃砲の関連図面も全て中国大陸にあったため、61兵工廠では実物をスケッチする方法で生産を開始した。工作機械が不十分な状況下であったが、約1ヶ月で製品を完成させている。

50兵工廠で生産された型のベースプレートは鉄板を手作業で叩いて製造したが、60兵工廠では量産化させるためにこの工程を省略している。1949年8月に試作品が兵工署の検収合格後に量産が開始され、1952年までに2,113門が製造された。

また朝鮮戦争においては、不足がちな榴弾砲を補完して、山岳浸透戦術の際の直接支援火力として重宝された。

生産数
工廠 1941 1942 1943 1944 1945 1946 1947 1948 1949 1950 1951 1952 総数(門)
五十廠 200 800 900 1,500 2,200 4,500 8,390 18,490
十廠 2,770 8,515 11,285
四四廠 50 50
九十廠 450 450
六一廠 2,113 2,113

出典 編集

  1. ^ 三野正洋・深川孝行・仁川正貴『朝鮮戦争兵器ハンドブック』朝日ソノラマ、1996年8月、286-287頁頁。ISBN 4-257-17309-2