Kヴァーゲン(カー ヴァグン、K-Wagen、Kolossal-Wagen、「巨大戦車」の意)、またはグロースカンプ(フ)ヴァグン(Großkampfwagen、「大型戦闘車輛」の意)は、ドイツ帝国超重戦車である。第一次世界大戦の終結時に2両の試作車がほぼ完成していた。

Kヴァーゲン
Kヴァーゲンの側面図。右側が車輌前部。
性能諸元
全長 13 m
車体長 13 m
全幅 6 m
全高 3 m
重量 120 t
懸架方式 緩衝機構無し
速度 7.5 km/h(整地
不整地
主砲 77 mm砲×4門
副武装 MG08/15 7.92 mm重機関銃×7挺
装甲 10~30 mm
エンジン ダイムラー 航空機用V型6気筒ガソリンエンジン×2基
各650 hp×2基、計1,300 hp
乗員 27 名
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「ワーゲン/ヴァーゲン」は「Wagen」の日本語における読み方の慣用表記であり、実際のドイツ語の発音は、片仮名を用いた近似的表現としては、「ワグン」「ヴァグン」に近い。これは単語の末尾から2文字目にある母音の発音が弱くなるという法則によるものである。

「ワーゲン/ヴァーゲン」は、原音からかけ離れており、ドイツ語の発音表記としては明らかに間違ってはいても、慣用表記として既に長年に渡って日本社会に浸透しており(例:「フォルクスワーゲン」「メーベルワーゲン」「キューベルワーゲン」「シュビムワーゲン」「パンツァーカンプ(フ)ワーゲン」など。おそらくタミヤの1/35 MMシリーズの影響が大きいと想像される)、これを一概に否定するのは難しい。

よって、慣用表記は、原音とは異なることを理解した上で、日本語の文章上における慣用として使い続けることもあり、とするのが賢明と考える。

本項目では日本語における慣用表記によって記述する。

経歴 編集

1917年6月、最初のA7V戦車が完成する以前、ドイツの国防省では戦線突破時に投入する新型の超重戦車の開発を計画していた。設計作業はヨーゼフ・フォルマーおよびヴェーガー大佐が実施した。フォルマーは予備役大佐であり、また陸軍の輸送技術試験局で働いていた技術者だった。

1917年6月28日、国防省は初期設計案を承認、10両の試作車を発注した。うち5両はベルリンの「リーベ・クーゲルラガー・ウント・ヴェルクツォイク・ファブリク有限責任会社(GmbH)」(リーベ・ボールベアリング工場)が、別の5両はカッセルヴェクマン社が製造することとされた。

この車輌の原型の重量は165tであるが、これはより現実的に減量させられ、全長を短縮して120tとなった。Kヴァーゲンの寸法と巨大さから行軍が不可能となったため、この車輌は区画ごとに分解し、鉄道輸送することが決定された。使用に際して車輌は前線後方で再度組立てられることとなった。

パウル・フォン・ヒンデンブルクの要請により試作車輌2両が製造され、戦争終了時にはほぼ完成していた。

説明 編集

 
Kヴァーゲンのイラスト。

Kヴァーゲンの車体は6区画のモジュールから構成され、これにより分解して鉄路輸送が可能となった。操縦室、戦闘室、機関室、変速機室、そして2箇所のスポンソン(張り出した砲郭)である。車長は電気による発光信号で搭乗員に指令を与えた。火器管制は駆逐艦のそれに相当しており、ドイツ側はこの車輌を本物の陸上艦とみなしていた。操縦手は外部の見えない状態でこの車輌の操向操作を行なっており、車長がこの操作を統御した。

Kヴァーゲンは4門の77mm要塞砲と7挺のMG08/15機関銃で武装し、搭乗員の数は27名である。車長1名、操縦手2名、信号手1名、砲兵士官1名、砲手12名、機銃手8名、機関員2名である。計画開始時、火炎放射器の搭載が考慮されたものの、後にこれは却下された。

休戦したドイツの状況下では戦車の保有が禁止されたため、Kヴァーゲンが作戦可能状態にまで至ったことはなかった。この車輌のうちの1両「リーべ」が戦争終了時に完成したものの、工場を出ることはなく、連合国国際監督委員会の監視の下で解体された。

関連項目 編集

参考文献 編集

  • Foss, Christopher F. (2003). The Encyclopedia of Tanks and Armoured Fighting Vehicles. Spellmount. p. 232. ISBN 1-86227-188-7 
  • Bass, Eric (2006). German Panzers 1914-18. Osprey Publishing. p. 232. ISBN 1-84176-945-2