Template‐ノート:和暦/利用実態調査/1334建武

説明 編集

  • 事象の説明を書く。
  • 記事の引用は変更してはいけない。
  • 検証したら年号と月日、検証に使った資料を書く。
  • 明治5年までは、記入する年号と月日は旧暦とする。なお、改元年は、参照した資料に応じて旧元号でも新元号でも可。
    • 月日を特定できる場合のみ、西暦も可。その場合「(西暦)」と注記する (特にユリウス暦の場合は「(ユリウス暦)」と注記する)。
    • その他の和暦または西暦の日付がわかるときは、同様に記入してよい。
  • 1873年 (西暦) 以降は、記入する年号と月日は西暦 (グレゴリオ暦) とする。
  • 年や日付に異説がある場合、両方を記入する (どちらかを除去することはしない)。
  • 見出しの年号や月日は記事に書いてあったものなので、正しいとはかぎらない。

略記できる資料 編集

以下の資料は略記する。ページ番号は不要。

新国史
『新・国史大年表』第3巻 一二八二〜一四五五、日置英剛編、国書刊行会、2008年、初版。

記載 編集

建武元年 編集

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『太平記』によれば1334年(建武元年)の秋、疫病が流行して病死者が多く出た頃、毎晩のように紫宸殿の上に怪鳥が現れ「いつまでも、いつまでも」と鳴いて人々を恐れさせていた。
以津真天 2010-10-09T13:29:05Z
〔…〕、遅くても1334年(建武元年)までには「御家人」の呼称は廃止された。
御家人 2010-08-24T06:13:22Z
1334年(建武元年) 師行は、糠部郡八森に城を構えた。
根城 2010-10-28T13:07:26Z
1334年(建武元年) - 南部氏分家の南部師行が根城を築いた。
根城 (八戸市) 2010-09-01T00:05:09Z

2月 編集

そのため文書類は焼失したようで1334年(建武元年)2月に吉水院が紛失状を出して所領の確認を願い出ている。
吉野城 2010-10-26T12:46:35Z

建武2年 編集

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正確な築城年代は定かではないが、古典『太平記』には、南北朝時代1335年(建武2年)に、南朝(吉野朝廷)側の北畠顕家軍に備えて六角氏頼が篭もったという記述があり、そのころには築かれていたと考えられている。
観音寺城 2010-11-09T07:40:52Z
1335年(建武2年) || 観音正寺を中心とした臨時の砦、城郭と呼べるものではなかった。
観音寺城 2010-11-09T07:40:52Z
1335年(建武2年)勢いづいた武敏は阿蘇惟直・秋月種道蒲池武久星野家能等を誘って多々良浜の戦いで足利方と戦ったが敗北し、菊池に逃げ帰った。
菊池氏 2010-11-28T11:31:01Z
1335年(建武2年)、足利尊氏より、後醍醐天皇新政への挙兵を要請され、また後醍醐天皇方からも足利尊氏謀反の綸旨を受けたが、直氏は後醍醐天皇方に与した叔父の熊谷蓮覚らと袂を分かち、本庄熊谷氏の熊谷直経に従って行動した。
熊谷直氏 2009-02-16T16:36:13Z
1335年(建武2年) - 大友氏泰
肥後国 2010-11-20T06:56:30Z
1335年(建武2年)〔…〕
肥後国 2010-11-20T06:56:30Z
1335年(建武2年)に北条時行らが起した中先代の乱にも参加、その後南北朝時代には安芸守護であった武田信武足利尊氏に属して各地で戦功をあげ、南朝方の政義を排して甲斐国守護となった。
武田氏 2010-11-26T12:26:05Z

8月1日 編集

馬頭観音が本尊であったが1335年(建武2年)8月1日に宇都宮城主の宇都宮公綱により不動明王が本尊として氏家勝山城から遷座された
多気山不動尊 2010-10-22T03:08:23Z

8月19日 編集

1335年(建武2年)8月19日 - 足利尊氏、片瀬原合戦で北条時行軍を破る。
片瀬 (藤沢市) 2010-11-27T11:43:35Z
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