折りたたみ式テンプレートの無効化 編集

テンプレートが無効となり、強制開示が行われているようなので、注進いたします。--白雪 2008年2月6日 (水) 15:14 (UTC)

「百科事典の記事として必要」の範囲 編集

私は「ネタバレ」については慎重であるべきと考えていますが、今までの議論の中で「百科事典の記事として必要であれば」が何を示すのかが議論されていないことが気になります。

ネタバレに慎重である理由(私のスタンス)
重要な展開やトリックは、作品全体の構成と一体となって初めて価値を持つものが少なくない(伏線を張っている場合など)。そのような作品で、重要な展開やトリックが単独で不用意に暴露されることは、作者、読者の両方にとってリスクや損害になる。作者にとってのリスクは、金銭面でのリスクのほかに、作品(および作者自身)が構成(および構成力)よりも瞬発的な展開やトリックでしか評価されなくなる恐れがあること。読者にとってのリスクは、ネタバレ記事を読むかどうか判断する時点で、ネタ以外の部分(作品全体の構成など)が優れている作品なのかどうかを事前に判断できないこと。その意味で、私は折りたたみ式のテンプレートを使用したとしても、極力ネタバレは慎むべきだと思う。
容認されるネタバレの例
  • ネタバレが著作物そのものや他の物事を説明する上で欠かせない場合
慎むべきネタバレの例
  • そもそもネタを暴露することが目的の場合
  • 単にあらすじや登場人物を紹介するためだけの場合

近頃は、ネタバレのテンプレートを免罪符に、ネタをどんどん暴露してしまっている記事(たとえばこの記事の出演この記事のストーリー、キャスト)が散見されます。もしこの部分を読んだ上で(故意ではなく、偶然目に入ってしまう場合も含む)該当作品のDVDを視聴したら、どう感じられるでしょうか?
もっと言えば、作品全体の構成など他の要素をさしおき、ネタを事細かく紹介して作品の面白みを半減させることが、百科事典の役割なのでしょうか?
私は、違うと思いますが。 --M.F 2008年1月9日 (水) 18:15 (UTC)

「作品の面白みを半減させないでPOV」はNPOVに反します。百科事典では一切考慮してはならないPOVです。そんなもんにいちいち配慮していたら、宗教団体とか政治団体の要望にすべて応える義務が生じます。「宗教的なおもしろさを損なわせるな」とか、「政治的なおもしろさを損なわせるな」とか。百科事典に不要な観点は、一切排除して中立を保たなければ言論の自由を保った中立的な百科事典にはなりません。英語版ではこのように[[1]]はっきりとネタバレを削除するような行為はPOVであると言われています。--125.15.40.222 2008年3月4日 (火) 12:46 (UTC)
わたしもM.Fさんの意見に賛成です。
以前からwikipediaの百科事典はネタばれ当たり前というスタンスには疑問符がついていました。
議論でも百科事典(wikipedia)はなぜネタばれが当たり前なのかということについては未だ不鮮明なままだと思います。
事典とはあくまで事物の説明をするものであって 説明≠ネタばれ なはずです。
ストーリー性を含む作品に対しては説明にとどめるべきです。
それがなぜネタばれが当たり前というスタンスにたどり着いてしまったのか、議論の空白があるように思えます。--Tkei 2008年1月30日 (水) 05:32 (UTC)
百科事典として作品の説明上必要な記述は、読み飛ばす必要も隠す必要もない程度だと思います。--Y-taro 2008年2月22日 (金) 09:32 (UTC)
ぼくもこれには同意です。確かに、百科事典としてそれを説明するに必要不可欠な(それを抜きにして語れないような)内容であるならそれを禁止も制限もすべきでは無いと思いますが、どうでもいいような内容を気軽に記述してしまうような人が多いことが少々気になります。その辺りの意味のはき違えによって、 Wikipedia の記事は質が悪くなるという感じがします。もっとも適切なネタバレとしてぼくは親指姫を例に出しておきます。これが究極の要約というものじゃないでしょうか。 --Mzm5zbC3 2008年2月22日 (金) 13:26 (UTC)

日本の法制下で著作権に厳しいとされるウィキペディア日本語版ですが、要約の扱いはどのようになっているのでしょう。Wikipedia:削除の方針では「同一、または類似した文章」ってことで、転載を想定している感じですが。--Y-taro 2008年2月23日 (土) 18:03 (UTC)

まず第一に、作品の社会的影響などを語る為に「ネタ」への言及が不可欠である場合には「必要」ですね。しかし実際にはこういうケースは極めて少なかったりもします。
二番目は「作品の内容を紹介する為に必要な場合」ですね。「作品記事においては、作品の内容を紹介する必要がある」という事には多分異論はあまり出ないと思いますが、「具体的かつ詳細な説明が常に必要である」と考える方も少数だろうと思います。一般的には、あらすじでは、初期設定をやや詳しめに書き、その後の展開の骨組みなどを一般的・抽象的な言葉で表現すれば充分だと思います(これはネタバレではないと考えます)。登場人物節は人物の特徴や位置付けを説明する為のものですので、ここにネタバレが必要となるケースもほとんど無いでしょう。実際には作品紹介のやり方は作品ごとに考える必要がありますが、「具体的かつ詳細な説明」が必要な場合というのはほとんど存在しないと思います。極論を言わせていただくと、「物語の本質をちゃんと掴んで、文章をしっかり推敲すれば、自然とネタバレではなくなる」ものだと思っています。
つまり「百科事典の記事としてネタバレが必要な場合」というのは極めて少数だと思います。しかしウィキペディアには「必要な事しか書いてはいけない」わけではないでしょう。詳しい説明には、多かれ少なかれ有用性があります。そういう「必要ではないが有用なケース」については、その有用性の程度と、「冗長なものはわかりにくい」「未読者の楽しみを削ぐ」などのデメリットとを勘案して、書くべきかどうかを決めてゆく事になるのだろうと思います。--Kickaha 2008年2月28日 (木) 13:21 (UTC)
最終的な記事としてはあまり差がないかもしれませんが、議論の立て方については、かなり違う意見を持っています。第一に、現状の「あらすじ」は、本来の意味のあらすじになっておらず単なる宣伝文句でしかないものが多いと思います。極論かもしれませんが、「結末がわからないものはあらすじになっていない」というのが私の意見です。第二に、ネタばれが問題になるのは、記事の対象が新しすぎるためだと思います。ウィキペディアの記事の対象としては、世間の評価がある程度確定してから書くべきであり、その時点ではネタばれが問題になることは少ないと思います。ここでも極論を言えば、ネタばれが問題になる間は記事にしないのが正しいスタンスではないでしょうか。第三に、ウィキペディアでは独自研究が禁止されているので、記事の内容はすでに公表されている内容しかないはずなのです。従ってウィキペディアの方針に従って書かれた記事であれば、ネタばれとして問題になることはなく、逆にネタばれとして問題になるような記事はそもそも書かれるべきではなかったはずです。ここで補足しておくと、どこかのWebサイトに書かれているだけでは「信頼できる情報源」とは言えず、検証可能性を満たさない、と考えます(現状の記事はそうなっていないだろう、という批判に対しては残念ながらその通りですね、としか答えられませんが)--アルビレオ 2008年3月2日 (日) 00:38 (UTC)
  1. 結末がわからないものはあらすじになっていない:これには逆の意見を持っています。ほとんどの作品では(ショートショートなどは別)、その結末に至る過程がどのように描かれるかが重要であって、「結果がどっちに転ぶか」はそれ程重要ではありません瑣末な問題です。結末まで書くべき作品もありますが、それは例外と言っていいでしょう。過程抜きで結末だけを書くような「あらすじ」は、いわゆる「ネタバレの為のネタバレ」として除去されるべき場合が多いと思います。(単なる宣伝文句でしかないものも多く、修正されるべきだという点には同意します)
  2. ネタばれが問題になるのは、記事の対象が新しすぎるため世間の評価がある程度確定(した)時点ではネタばれが問題になることは少ない:世間の評価というのは、何十年も経たねば確定しない訳ではありません。たとえば芥川賞を受賞した小説には記事が書かれるべきでしょうし、ネタバレは好まれないでしょう。(サブカルチャーなどで著名性の点から問題のある記事が多いという点には、個人的には同意します)
  3. 独自研究が禁止されているので……:原作自身が出典になりうる事は、最近もWikipedia:井戸端/subj/DVDや映画パンフレットは検証可能性を満たさない情報源かで、ほぼ合意されています。--Kickaha 2008年3月2日 (日) 09:42 (UTC)表現を修正--Kickaha 2008年3月2日 (日) 10:06 (UTC)
他の人の意見もほしいところですが、あまり待ってもいられないので私見を述べます。
  1. 結末がわからないものはあらすじになっていない、と書きましたが、「過程抜きで結末だけかくような」ものがあるとは思ってもいませんでした。過程がないものも当然あらすじになっていないと考えます。ただ、Kickahaさんの論法を進めると、あらすじがねたばれになるかどうかについても結末は瑣末な問題だ、ということになりませんか?
  2. 芥川賞などの受賞作については、作者と作品名が重要であり、ある程度の期間はあらすじを書かない、が落とし所かと漠然と思っていました。発表後1年位があらすじ禁止期間の目処かと思っていましたが、作品賞を受賞する場合、よく考えてみると発表からある程度時間が経っているのですね。かと言って受賞後1年とかすると、作品によってはいつまでも禁止期間が完了しなくなる可能性も出てきます。
  3. 合意されたのは、原作自身は検証性を満たす一次資料であることですよね。一次資料から直接記事にするのには条件があり、原作から直接あらすじを書き起こすことまでが合意されたとは思えません。むしろその議論では、「(1)専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説、(2)分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事、のような場合」が一次資料から直接記事を書く場合の条件である、ということに合意が取られており、原作からあらすじを書くことは分析、解釈なしにはありえないと考えます。なお、映像作品のパッケージや付録は二次資料とみなすべきという意見も出ていて、異論はなかったようですが、議論の終わりころに出た意見であり、合意が取られたというにはやや弱いと思います。(反対しているわけではありません)すくなくとも小説そのものからあらすじを書くことは、私がその議論を追った限りでは黒に近いグレーだと思います。--アルビレオ 2008年3月12日 (水) 13:40 (UTC)
1.そもそも「ネタバレ」の定義が人それぞれだという事が、この手の議論がいつも発散する最大の原因ですね。「問題とされるネタバレ」という事で考えればわかりやすいと思いますが、私は「未読者の楽しみを奪うような内容」という事で考えています。「結末」は、それ程重要ではないのに「未読者の楽しみを奪う」からこそ、ネタバレとして問題にされる訳です。「重要な内容」「物語の核心」という意味での「ネタ」ならば、隠すどころか記事冒頭での記述が望まれます。しかし何処がどのように重要かを良く考えて書けば、自然と未読者の楽しみを奪う事のない表現にできるでしょう。
3.先のご意見は「作品自体に基づいた記述は出来ない」という主張に読めたので、あのリンクを挙げました。「作品からあらすじを書き起こせるか」という問題でしたらこの辺に少し議論がありますが、私としては、(週間少年) ジャンプ自体を見て、ストーリーの概略を書くことは独自の研究にはならない。 というKs aka 98さんのコメントが信頼できると思っています。(この問題については、検証可能性や独自研究のノートで議論された方が良いと思います)--Kickaha 2008年3月13日 (木) 10:23 (UTC)

別の方向の基準 編集

 基準は一種類でなく、複数の方向性の違う指針を組み合わせて用いるのがいいかと。
 その一つが、以下のもの。

  •  百科事典は一般の人々全体に広い知識世界を提供する入り口としての知識の交通整理であり、その読者はその分野の素人・初心者が中心となる。
 したがって、百科事典として必要な記事とは、古典については鑑賞以前に内容を知識として知ることが重要であることが多く、大衆娯楽文化についてはネタバレを避けることが第一に必要であることが多い。
 また初心者の利用を重視する立場から、中立を守ることが大切。
 これらは、‘内容を充実させようという編集欲求’以前の百科事典としての条件。
 以上から以下の3種に分けることを指針とするのが適当かと(事典としての論理で)。
  • 戦前以前の古典作品は全ネタバレOK、
  • 現代サブカルチャーの平均的一つ一つのネタバレ内容は、基本的に百科事典としての掲載価値がないので、ネタバレは削除的編集を歓迎、
  • 重要らしき作品については記述方法の具体性を減らす(かつ中立を守る)方向で調整。この場合、中立を守ることを重視すること。
  •  社会的考慮。
また、このような分け方は、製作者の営業の都合や著作権や常識ともなじみがいいと思います。 事典側の都合だけで製作者の都合を無視することをウィキペディアで決めるというのは非常識だと思いますし。ウィキペディアは目こぼしされるほど小さくもなく、編集者の趣味的意見は公的な価値と認められないでしょう。--Suuw 2008年12月14日 (日) 12:51 (UTC)
「大衆娯楽文化についてはネタバレを避けることが第一に必要であることが多い」というのが「‘内容を充実させようという編集欲求’以前の百科事典としての条件」という点、「現代サブカルチャーの平均的一つ一つのネタバレ内容は、基本的に百科事典としての掲載価値がないので、ネタバレは削除的編集を歓迎」という点には、賛成できません。残りの部分は意味がよく分かりませんので、コメントいたしません。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2008年12月14日 (日) 13:17 (UTC)
 「大衆娯楽文化・・・ネタバレを避け・・第一・・が多い」 というのは、初心者が趣味のために作品選びに利用することが基本想定なことと、数の上で重要作品は少ないということから、ネタバレが迷惑な場合が多いと想定すべきということです。決定的な表現ではなく注意の考え方です。
 「現代サブカルチャーの平均的一つ一つのネタバレ内容は・・・」という箇所は、ネタバレ問題が起きたときの指針であり、‘内容を充実させようという編集欲求’を戒めるものであって、教条的なものではありません。
 「指針」というのは、考えの方向性という意味で、硬直して利用するものではありません。
 意見の理由をお聞かせください。--Suuw 2008年12月14日 (日) 14:14 (UTC)
「‘内容を充実させようという編集欲求’以前の百科事典としての条件」(強調は引用者による)とおっしゃっておきながら、ひるがえって「決定的な表現ではなく注意の考え方」とおっしゃられては、正直申し上げて、何をおっしゃりたいのかよく分かりません。こういったことは表現上の揚げ足取りに聞こえるかもしれませんが、「~~の条件」というのはたんなる表現やニュアンスの強弱の問題ではなく、その言葉本来の語義として「決定的な表現ではなく注意の考え方」ととらえられるようなものではないだろうと思います。
「‘内容を充実させようという編集欲求’を戒めるものであって、教条的なものではありません」というのも、意味が分かりません。ウィキペディアにおいて「内容を充実させようという編集欲求」は健全で有益なものであり、それをなぜ戒める必要があるのでしょうか。
私は基本的にはいわゆる「ネタバレ」も書くべきだと考えています。このページの上のほうで、他の方の「『結果がどっちに転ぶか』はそれ程重要ではありません」という発言がありますが、私はこれに賛成しません。推理小説のトリック、ドラマの結末など「結果」は基本的に物語の重要な要素だと思います。そもそも、それが読者・視聴者にとって興味をわかないものであれば、読者・視聴者の楽しみを損なう心配をする必要があるように思えません(なるほど、仮に、それが作品にとって重要な要素でないのであれば、ウィキペディアに書かない、除去するという理由になりえます。しかし、同時に、読者の楽しみを奪うから、営業上の利益を損なうからといって抑制する理由にすることは自己矛盾でしょう)。
ですから、物語の内在的な説明としては、推理小説のトリック、ドラマの結末など、いわゆる「ネタバレ」は、必ずしも物語のもっとも重要な要素とまではいいませんが、百科事典において解説すべき内容であると私は考えています。もちろん、作品としては駄作であり、その内容を解説するまでもないが、社会現象としては意味がある、ということもあるでしょう。そういった場合は、物語の内在的な説明は、百科事典の解説としては全く不要かもしれません。しかし、そういった作品は多数派ではないでしょうし、いずれにせよ、読者の楽しみを奪うことや営業上の利益を損なうことを心配する必要はないでしょう。
「初心者が趣味のために作品選びに利用することが基本想定」というのも支持しません。百科事典は、鑑賞する作品を選ぶための作品ガイドではありません。ウィキアで、そういったページを作られてはいかがでしょうか。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2008年12月14日 (日) 15:05 (UTC)
以前にも申し上げたのですが、Suuw氏の提案は理解しにくい内容に思えます。私も全員が私の思ったとおりの受け取り方をしてくれるようなコメントは書けませんが、もうすこしわかりやすい文章でお願いしたいと思います。
まずひとつめに関しては、最初にあげられた目的部分については、概ねその通りだと思いますが、以下のまとめ+意見部分については、違う・誤解があると思います。初心者の作品選びにのためにここがあるのではありません。
ふたつめに関しては、繰り返しになりますが、ネタバレの範囲を決めるのは編集者の主観ではありませんが、製作側や楽しみを奪われたくない読者でもありません。信頼できる情報源が示す特筆性のとおりです。--春日椿 2008年12月14日 (日) 16:32 (UTC)

<前回の補足>
 「百科事典としての条件」を元に私は考えています。一方実際には、個別議論の余地は残す姿勢ということです。基礎から考えようとすることと、絶対的な強さで決めようとすることは、似ているようですが違うと思っています。
 ‘内容を充実させようという編集欲求’を戒めるとは、欲求の行き過ぎは否定するが、それ自体を否定しているわけではないです。‘充実’に‘主観的’をつけてください。or‘個人の作品紹介欲’と書けばよかったかな。
 私は、実はネタバレ隠しを有効にすべきだとも考えています。それと相まって実効が可能だと思っているので、この指針はけっこう柔軟なつもりですが。

<回答への意見>
0 >「初心者が趣味のために作品選びに利用することが基本想定」というのも支持しません。百科事典は、鑑賞する作品を選ぶための作品ガイドではありません。ウィキアで、そういったページを作られてはいかがでしょうか。
 ――根本的に全く反対の立場ですね。逆にそれをあなたに提案したいぐらい。あなたの想定する主要な読者はどんな人で、その項目はどんなものでしょうか? 私は古典と現代一般作とその中間に分けています。同様の具体的想定をしてほしかった。
 そもそも百科事典とは情報ガイドです。しかも、図書館のものでなくネット上です。項目に浸って楽しむのはおまけです。 →以下、6 でも。

<個別>
1 >読者・視聴者にとって興味をわかないものであれば、読者・視聴者の楽しみを損なう心配をする必要があるように思えません
 ――私は初心者のことを考えているから心配する必要があるのはわかるでしょう。あなたの想定例はなんでしょうか?
2 >読者の楽しみを奪うから、営業上の利益を損なうからといって抑制する理由にすることは自己矛盾
 ――矛盾とは何と何がでしょうか? 社会的に求められる書くべき価値のあることは書き、必要の少ないことはわずかな書きたい理由にこだわらずに他の条件要素に注意を払うのは自然なことだと思います。
3 >「結果」は基本的に物語の重要な要素
 ――なるほど。だとしたら根本的に違う立場なので、別の方向から両立を考えてみましょう。→4
4 「結果」を書くときの表示・編集はどうしますか? ネタバレ注意をしっかり有効にすることに賛成されるのでしょうか? ネタバレを他のことと混ぜて書いて、いやなら読むなという様式がいいとされるのでしょうか? 
5 >作品としては駄作であり、その内容を解説するまでもないが、社会現象としては意味がある、ということもあるでしょう。そういった場合は、物語の内在的な説明は、百科事典の解説としては全く不要かもしれません。
 ――意味がわかりません。あるいは私の意見を誤解しています。 古典で全ネタバレOKの理由は、一般知識として有効だからです。社会現象として意味があるなら書く意味があると考えます。ただし、それは結末の形が直接社会現象に関わる場合だと思います。そんな場合は少ないでしょう。
6 >百科事典は、鑑賞する作品を選ぶための作品ガイドではありません。
 ――しかし、ネタバレが問題になるような場合は、そのような読者が多いと思います。作品的にも記述内容としても。社会現象になる話題作ならば 上記5で書いたように。

 総じて、あなたの想定する読者対象がわかりませんが、読者がなんであれ 3のようなことがあなたの基本であるなら、4のような折衷方法の模索が必要ではないでしょうか?
 その両立が模索できないなら、どのような基礎の―読者対象―上に立ってられるかから、お聞きしたいと思います。

<追加参考>
7 ところで、枝葉ならば無視してもらってもいいですが、参考に。――ウィキペディア基準になければ他は知ったこっちゃないというのは、独立した論拠がほしいところ。 また、提案を3つのタイプに分けているように、いろんな基準条件を合わせたバランスを提案しているはずですが、そういう理解でないかのようにもとれますが・・。  --Suuw 2008年12月15日 (月) 14:05 (UTC)

Suuwさんの文章が、私には意味不明です。申し訳ありません。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2008年12月15日 (月) 15:16 (UTC)
私もわかりません。一応、Wikipediaが想定する(といより最優先するべき)読者は、百科事典を調べものの入り口として利用する、その項目に対する初心者です。そのために、主題に対して理解してもらえるように、わかりやすく記述する必要があるということです。--春日椿 2008年12月15日 (月) 17:35 (UTC)

 回答の根拠が私には十分納得できません。
1) ウィキペディアの基準としては言葉のりくつだけはわかるものの、実際の場合、主として問題となる分野において主として想定されるのは、私の言うような読者のはずです。これへの考慮を無視することの理由が必要でしょう。
2) ウィキペディア内の理屈だけで、世に対する態度を決定していいとは思いません。ネット世界においてウィキペディアの比重は以前より高まっていて、このさき10~20年先を見通せば、ウィキペディアの支配力を考えて自重すべきです。それを無視することは危険です。
3) また、そのように相容れない立場であるなら理念議論はおいといて、上記、3→4 のようなこと(タグやテンプレートのような中間領域の実効が上がることを望むかどうか、またその方法)に話の焦点を移してみるべきかと思いますが、それはどうなのでしょう。--Suuw 2008年12月16日 (火) 09:45 (UTC)

<補足>
 私自身整理せずにいたことが読みにくさの原因かもしれません。
 つまり、もし折りたたみのように完全に隠せて読み手の選択次第になっていれば、書くべきことは遠慮せずに書いて、一見しては隠せばいいわけです。
 ろくに隠さないならば、替わりにネタバレ注意を重視すべきだということです。
 それを含めると、ネタバレは、A 項目の性質による読者の違い、B 項目の性質による一般知識としての必要の違い、 C どこまでうまく分けて表示できるか、 という3要素が関係するということです。
 考え方を理解してもらった上で、A×BとCとはそれぞれ別のツールとして、個々の項目でうまく組み合わせればいいと思います。 --Suuw 2008年12月17日 (水) 10:07 (UTC) (追加。不要な部の文章を省略)--Suuw 2008年12月18日 (木) 10:33 (UTC) <挿入追加>
 折りたたみと書きましたが、折りたたみは一応廃止なので、現在最もいいのは一カ所に集めて目次欄からわかるようにしてスキップさせることだろうという提案をしているわけですが。
 「隠してあるという側面」については下の方で別に提案しているわけで、「結局見えてしまっている」という側面についての基準を提案しているわけですね。
 なお、ネタバレ以外のことで隠したりスキップさせたりすることはないと思っていて、ネタバレ問題以外は想定していません。
 (議論途中の両論併記はふつうに可能だし、ノートの決着がつかないのに書かずにおれないなら「ノートを参照」にすべきだし。)--Suuw 2008年12月19日 (金) 09:53 (UTC)

もうちょっと、噛み砕いて質問・主張をお願いします。回答の根拠がわからないといわれるのは、私がSuuwさんの言われていることを理解できておらず何も答えていないのと同じだからでしょう。先の0~7で言われていることが全く分からないので答えようがありませんし、次の主張・提案にもそれがわからないことには答えられない部分があります。
あと、基本的な部分なのですが、空白を多用されると文章が見ずらいです。--春日椿 2008年12月18日 (木) 11:30 (UTC)
mizusumashiです。私の想定する利用者について、説明いたします。
まず、一般論として、想定する読者というのはそのサイトの目的から決まるのであって、そのサイトを訪れる多数の読者がどのような人であるかというのは、せいぜい、抽象的にだいたいこの範囲とされた想定する読者の具体像を明らかにするために役立つものであっても、抽象的に設定する想定する読者の変更を迫るようなものではないと思います。例えば、私が哲学者ヴィトゲンシュタインの議論を深く解説するWikiサイト「箱の中のカブトムシ」を立ち上げたとしたら、そのサイトにアクセスする圧倒的多数の読者はヴィトゲンシュタインの解説などは求めておらず、たんに昆虫の生態の情報を求めているのかもしれませんが、だからといってそのサイトに昆虫の生態の解説を書かなければならないということにも、書いてよいということにさえもなりません。ヴィトゲンシュタインについて関心をもって読みに来る読者が、先行する哲学者プラトンやカントの議論を知っているかとか、形式論理学の記法を知っているかとか、そういった情報は想定する読者の具体像を明らかにする有益な情報ですが、昆虫の生態の解説を求めてくる読者が何を考えているかなど、どうでも良いことです。
そして、百科事典の想定する読者とは「初心者」だとは、私は考えていません。「初心者」とは、なんからの分野について「熟練者」「碩学」となっていないが、それについて学ぶ意欲を持ち、初等的な技能・知識を持っている人のことでしょう。しかし、そういう人は教科書や専門の事典の類を読むべきであって、百科事典などから知識を得てそれでよしとするべきではないと思います。
むしろ、私が想定する百科事典の読者とは、その分野にふだん専門的な関心がない人です。例えば、新聞のコラムに「原子力が、人類にとって『知恵の実』となるのか、プロメテウスの火となるのか、いまだ明らかではない」という文があった場合に、それを調べれば、原子力技術が20世紀中葉に実用化されたものであり、兵器に応用されて甚大な被害をもたらし、他方で発電にも利用されて日常生活にエネルギーを供給しており、「知恵の実」とはキリスト教などの神話にでてくるものでそれを得たために人類が劇的な罰を受けることになったものであり、プロメテウスとはギリシア神話に登場に登場する人類に火を与えた神のことである、ということが分かるのが百科事典でしょう。
マンガ、ゲーム、ライトノベルといったサブカルチャーで例を構成すれば、殺人事件の容疑者が『ひぐらしのなく頃に』を所有していたという報道があったときに、それは何なのか、どのようなゲームなのか、どういったストーリーなのか、なるほど同人ゲーム(同人誌のようなものか?)だが大ヒットして商業ベースに展開されたパソコンゲームで、正確にはいわゆるテレビゲームのようなものではなくて、絵本か、マンガのようなものなんだな、日本の寒村を舞台にしたストーリーで、猟奇的な展開があるものの、他のマンガなどと比較してとくにそうなのかはよく分からない、といったことを、いわば「一般の人」が分かるためののものが、百科事典だろうと思います。
対して、鑑賞する作品を選ぶための作品ガイドとしてウィキペディアを利用したいが、しかしその作品を楽しめなくなる情報は伏せて欲しいという読者は、そういう需要があること自体は理解していますし、その欲求を非難もしませんが、ウィキペディアの想定する読者ではない、と私は考えています。なぜなら、百科事典は鑑賞する作品を選ぶための作品ガイドではなく、事項についての解説であり、その対象について知識を得るためのものだからです。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2008年12月18日 (木) 16:40 (UTC)
 どうにもわからないということがわからないということがわからないと・・・という変な感じです。対立しているというより、私から見ると、閉鎖している気がします。あなた方のいうのは、ウィキペディア内部としては基本・初歩だと思いますが、しかし「考慮を全く無視する」とか「ウィキペディア外のことへの考慮をしないとか」いう理由がわからないのです。 ネタバレ・著作権・名誉毀損などは百科事典外への考慮のはずです。 別のルールの例では、他人の書いたノートの記録を消さないというのは、ウィキペディアというより一般的不文律であるというように書かれてもいます。どうして、「ウィキペディアとしてこう考えられる=それだけでいい」ということになるのか理解できません。
 また、それなりの初心者が中心であるということは共通しているはずなのに、その中で比重の高いであろう想定読者を、‘それがすべてでない’というだけで、読者への配慮を無視・・無視するとさえ言わず、ただ沈黙してわからないとだけ言うことで無視する・・というのが理解できません。--Suuw 2008年12月19日 (金) 09:53 (UTC)
いい加減にしてください。
第一に、私は、読者や作品の製作者の権利や利益の「考慮を全く無視する」とか「ウィキペディア外のことへの考慮をしないとか」は、書いていません。
第二に、「現在最もいいのは一カ所に集めて目次欄からわかるようにしてスキップさせることだろうという提案をしているわけですが」とおっしゃっていますが、少なくとも2008年12月19日まで、Suuwさんはこの節ではそのような提案をされていません。むしろ、「ネタバレは削除的編集を歓迎」という提案をされていたのです。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2008年12月19日 (金) 10:22 (UTC)
>をしないとか」は、書いていません。
 書いているとは述べていません。私が繰り返し書いていることについて、近いところに来ているのにそこで止まってしまって、わからないとしか続けないのは実に不思議だということです。
> 2008年12月19日まで、・・をされていたのです。
 こちらも未整理であったことはお詫びします。だから<補足>の冒頭でそう書いています。また、もともと他の節で同時に書き込んでいるわけですが、mizusumashiさんが初めの書き込みにおいて『残りの部分は意味がよく分かりませんので、コメントいたしません。--』と書かれたのは、他の節の提案も知っていた上でのことかと思っていました。 もちろん、提案自体は独立した別のツールのつもりですが、私が柔軟性に欠ける提案をしていると思われているのではないかと思って言及しているのです。
 別のことですが、行き違いのヒントになるかもしれません。私は情報ガイドと書いています。作品ガイドと書いていません。情報(調査され続ける知識)の案内をするガイドであり、いかめしいものでなく、便宜を供するものだということです。 --Suuw 2008年12月19日 (金) 10:47 (UTC)

 以下のように書けばどうですか。
 読者対象の実質の違いがわかりません。
 「現代の一般娯楽作品の場合」
・ 作品に興味を持つ初心者
・ 作品の情報に興味を持つ初心者
・ 作品を鑑賞したい初心者
・ なんとなく調べに立ち寄った初心者
 ―――の間に明確な線など引けるものでしょうか?
 一般的な知識としての視点から有用な関心を持たないとき、作品への関心も持たないとき、しかも創作世界内の情報に過ぎないとき、それはトリビアのような情報に過ぎず、そんなもののために迷惑な場合があることを考慮しなくていいのでしょうか?
--Suuw 2008年12月19日 (金) 13:27 (UTC)

非常に不思議なのですが、「明確な線など引け」なかったら、どういう理路、結論になるとおっしゃるのでしょうか?--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2008年12月19日 (金) 14:21 (UTC)
 つまり、入門志望者と初心(不慣れな)者を区別して、想定にない人々の迷惑を無視するなどということは、発想の始めからできないということです。 実際、。‘ふだん関心のない人に、虚構世界のその作品内だけのものである結末まで読ませるべきで、作品に触れる価値を激減させてもいい'、――というが、どんな価値があるというのでしょう。

 体調不良なので、しばらく書けない可能性があります。また 急いで書き込み合うと混乱の因かもしれないので、一週間は次の書き込みをしないでおきます。--Suuw 2008年12月20日 (土) 09:07 (UTC)

以前のコメントへの返答に対して、詳しく書こうと思います。「百科事典であるウィキペディアでは、想定する読者の中で一番考慮すべきはその項目に対する知識のない読者である」ということは、Suuw氏もわかっておられるということだと思いますが、ここで重要なのは「知識のない読者=ネタバレが嫌な読者」だけではない、ということです。これが言いたいのは、対象やに関する知識を持っている人ならば分かっている部分の解説を省略するべきではない、ということであり「ネタバレを見せるべきではない」と言っているのではないです。--春日椿 2008年12月20日 (土) 14:24 (UTC)

テンプレはどの程度の内容までで付記すべきなのか 編集

一応、Wikipedia:井戸端/subj/「Wikipedia:ネタばれに注意」は何を考慮すべきとしているのかなどを読んだ上での質問なのですが、「過程のネタバレ」と「結末のネタバレ」の議論はあるんですが、話の導入部はどういう扱いなんでしょうか?
長期連載・放映のマンガやドラマ、アニメなどに関しては尺が長くなるので、そのあらすじを説明するということにおいては、それが核心部分であるか無いかに関わらず、必然的にある程度に踏み込んだ情報も書かざるを得なくなるでしょう。それがネタバレ扱いになるかどうかは別として。しかし、ごく短い物、例えば映画、また、マンガやアニメ、ドラマでも単話である物などはそれ自体の尺が短いので、基本的に結末を書かない場合には、過程というよりあくまで導入部のみの記述となります。
それで、(特に映画関係なのですが)あらすじやストーリの項目で、あくまで導入部のみが記述されてる物に関してネタバレのテンプレを付記すべきなんでしょうか?
私の考えでは、例えば雑誌やテレビなんかで宣伝する場合には、当然、ある程度に映画の中身が説明され、普通、これは話の導入部、舞台背景などが出てくるわけですが、社会通念上、これをネタバレと呼ぶ人はいません。なので、普通、雑誌やテレビなどで宣伝として出てくる程度の情報、導入部に限っている場合はテンプレはいらないと思うのですが(より具体的に言えば、一般に広く公開されている情報にまでテンプレを付記することはやりすぎではないかと)。--EULE 2008年3月15日 (土) 17:36 (UTC)
少なくとも「話の導入部」には{{ネタバレ}}テンプレートは不要ですね。本当は導入部というよりも、「物語を語る上での初期設定にあたる部分」は{{ネタバレ}}以前の冒頭部分で説明すべきなのだと思います。極端な例ですが、『タッチ (漫画)』の記事を私が書くとしたら、中心人物の一人が死んでしまう事を{{ネタバレ}}の前に書くべきだと私は(本音では)思います(現実には「何処からがネタバレか」の判断には個人差がある事を考慮して、やはり死の前に{{ネタバレ}}を貼るでしょうが)。
その一方、実際に私が書いた記事で言うと、風子のいる店男大空では{{ネタバレ}}を貼らずに物語全体を書いています。結局は「書き方の問題」や「作品の性質による違い」が大きいので、「どの程度の内容まで」について一般的かつ具体的な基準を設ける事は難しそうです。
「一般に広く公開されている情報にテンプレートを貼る必要はない」という点にも賛成です。ネタバレの記事に書かれているように、簡単に入手可能な程度の情報(本の帯や広告に書いてあるものなど)は、普通ネタバレとは見なされない未読(未視聴)者の楽しみを奪うこと(が問題とされる)、という2点から作品ごとに判断するべきなのだろうと思います。--Kickaha 2008年3月16日 (日) 03:59 (UTC)
本文を補足しました。--Kickaha 2008年3月19日 (水) 13:02 (UTC)

提案: 項目を別ける 編集

情報の量や詳しさのレベルを読み手がコントロールできるシステムの導入を提案します。その前段階として、洗練され合意が得られている情報と、未整理で雑多ではあるが生の情報を項目で別けることを提案します。 私は、この提案の前提として「ネタバレは個人の主観に依る」「執筆は善意ととる」を重視しました。その上で理想の百科事典を考えてみました。「どんな人でも知りたい情報だけを全て知る事ができる」これが理想の百科事典ではないでしょうか。そのために必要なものは、読み手が知りたい情報を選べる仕組みと無限の資源だと思います。もちろん無限の資源はありませんが、読み手が情報を選べる仕組みは、メールのフィルターや検索エンジンなどで実現されており、可能なように思います。そして、有限な資源を効率よく利用するためには、情報の格付けをし格付けの低いものを削除することが必要になります。最終的には、情報を評価し必要度や情報の種類で読み手が取捨選択できるようにします。それまでは別項目に別けるという運用で対応してはどうでしょうか。 具体的には、「Wikipediaの憂鬱」という項目があったとしたら「ネタバレ:Wikipediaの憂鬱」のような項目を作り、執筆者は全ての情報をまずそこに書き込みます。提案と他の人の議論や検証を経て、合意が形成されたら本項目に移します。反対意見が出たら、差し戻し議論を重ねます。また、初心者がいきなり本項目に書き込んだときは、ネタバレに移し誘導します。これにより、執筆をいきなり消されるという屈辱を味わうことなく、情報の取捨選択が可能となります。複数に別けるデメリットもありますが、既に長大になり過ぎた項目を分割するという運用は行われており問題は無いものと考えます。 この提案の目的は、不毛な論争による資源浪費を減らすことです。ノートとの大きな違いは「掲載」と「削除」の間にワンクッション置くところです。それにより、平和的な議論が推進され、一部の人を切り捨てることなくWPの発展ができると考えます。--うるるーの 2008年3月19日 (水) 10:23 (UTC)

 わかりますが、ウィキペディアの現状からすると、「ぜいたく」ということで反対されそうな気がします。確かに、現ウィキペディアとは別にネタバレウィキペディアとでもすれば、ウィキペディアをコピーしている他の事典で参照されるのを防げるので、それは長所でしょうが・・。とりあえず、以下に「一つの節にまとめる」という提案を出しておきます。--Suuw 2008年12月14日 (日) 12:51 (UTC)

提案:記事にする作品自体を出典とすることを不可とする 編集

ネタバレに関するルール提案です。「記事にする作品自体を出典とすることを不可とする」ことにしてみてはどうでしょう?小説であれば、その小説に関する評論、それもきちんとした形で世間に発表されたものに出典を限定させるのです。--サトシ・ラドグリフ 2008年5月21日 (水) 10:16 (UTC)

面白い提案ではあると思います。実際サブカル系ではたいした特筆性もない記事がどんどん立項されて歯止めのきかない状態になっていますし、現行の方針だけでも全てを忠実に守っていけばあのジャンルの記述は6割くらい消えてなくなりますからね。
ただ、いきなりそこへもっていくのはハードルがあまりにも高すぎるとも思います。コミュニティーの混乱は必至ですので、今はまだいきなり天守閣を責めるのではなくて外堀から埋めていったらどうでしょう。最初は個別の記事で協力者・理解者を増やし、自身も経験を積んで、そのノウハウをもって各ウィキプロジェクトへ、その次はガイドラインへ、さらには方針へといった感じで少しづつ全体の意識改革を行っていくということです。
最初から大革命を起こそうとすると高い確率で失敗してしまいます。それなりの時間と労力が必要です。--KM-0901 2008年5月21日 (水) 10:42 (UTC)
賛成できません。小説にせよ何にせよ、評論されない作品は多くあります。そしてそれらの大部分は、評論が行われなかったからと言って特筆性がないということは決してない、と私は思います。また、評論が行われた作品でも、作品自体に頼って記述するしかない部分もあります。該当記述を削除されたらそれらもサブスタブレベルに堕ちてしまうこととなり、結果としてほとんどプラスがないのではと考えます。
余談のようなものですが、この提起ですと独自研究検証可能性に話題が転がっていきそうな……。--産業スパイ 2008年5月21日 (水) 11:04 (UTC)
「ネタバレに関して、作品自体を出典とすることを不可とする」という提案には反対です。どういう理由でのご提案かが良くわかりませんし、検証可能性からも問題ないと思います。逆に「作品内に明示されていない情報についての出典なしの記述」の除去を徹底したい所です。「独立した二次資料を持たない作品は立項しない」という意見には個人的には賛成ですが、ここでする話ではないでしょう。--Kickaha 2008年5月21日 (水) 11:48 (UTC)

提案:一つの節にまとめる・・ことを一方法として紹介する 編集

 ネタバレ折りたたみタグが廃止されましたが、この廃止は、折りたたみ内に不要な記述が入り込みすぎるということが大きな理由だったと思います。  用途を間違わず、折りたたみの中にあるのは「初心読者に対しては隠すが、そうでない人には伝えるべきと認定した知識」である、という基準が明確なら、タグはそのままでよかったと思います。
 そしてネタバレ防止の方法は現在ではまだ不十分に見え、スキップも目次欄からは目立たない形で置かれています。
 私としては、項目中一カ所にまとめて使用できる方がいいと思います。そうすろことで、他の情報と混ぜて読ませられることが防げます。 また、消すか残すかの中間領域を一カ所にまとめることで、消す判断・表現の工夫がしやすくなると思います。
 必要に応じてこのような方法も取れる ことをこの項目の本文に追加することを提案します。少なくとも現在のネタバレテンプレートの実効の虚しさよりは良くなるでしょう。
 さらに、ネタバレ基準が固まったらあらためて折りたたみか白反転をそこに応用できるとなおいいと思いますが。--Suuw 2008年12月14日 (日) 12:51 (UTC)

ノート:少女革命ウテナでも発言しましたが、ネタバレを目的とした節を作成することには反対します。現在多くの記事では、本来あらすじやストーリーに書くべき内容を、登場人物の説明として記載している例が多くあり、目的はちがえどそれを解決するためのひとつの方法としては賛成できるところではあるのですが、節分けに「ネタバレか否か」を基準とすること、可能であるとしても読み物としておかしな白反転や折りたたみテンプレートを使用することには反対です。--春日椿 2008年12月14日 (日) 16:32 (UTC)
 それは、「何らかの形で集約することは、一方法として利用に賛成する」、「しかし、ネタバレを基準とするという形は、実際上可能でない」、「可能でない理由は、編集合戦の元になると想像するから」ということでしょうか?  

--Suuw 2008年12月15日 (月) 13:42 (UTC)

1つ目はその通りです。2は全然違います。「ネタバレを基準とするのは百科事典的におかしい」ということ。3についてはそのようなことは言っていません。--春日椿 2008年12月15日 (月) 14:07 (UTC)
 「ネタバレを基準とするのは百科事典的におかしい」とは、「運用として、文脈などの他のまとまりを破って、ネタバレだからと別にまとめてしまうことはおかしい」ということですか? 「運用と別に、ネタバレ対応という名前や設定がおかしく見える」ということですか?
 おっしゃる形を総合すると、具体的な提案の方法としては、「ネタバレは独自研究にも関係しやすく、それらの防止などの意味から、その問題の生じやすい要素(ストーリーなど)を一つの節としてまとめて編集することも、ひとつの技法として考えられます」 という文になりそうですが。 --Suuw 2008年12月15日 (月) 14:38 (UTC)
百科事典がすベきは、記事の主題に関する解説です。ネタバレかどうかは全く関係がありません。
全部全く私が言っていないことです。「それらの防止などの意味から」まとめたから防止できるわけでもありません。--春日椿 2008年12月15日 (月) 17:35 (UTC)
 つまり、考え方として百科事典としての内部的な考え以外は尊重項目に入れないということのようですね。それはここでなく、上述の方で語るべきかと思いますので、ここではやめます。
 後半はそちらの意図の確認ではなく、提案をどうしようかという打診です。春日さんは、私の提案をどうしたらいいと思われるのでしょうか? ノートの議論に止めて本文には出さず、個別項目で考えるべきだという立場でしょうか?--Suuw 2008年12月16日 (火) 09:28 (UTC)
そういう意味でも違います。「ストーリーの解説と登場人物の説明を分ける」ということ、独自研究に繋がりやすいのはネタバレだけではありませんし、「一つにまとめること」は独自研究の防止策にはなりえないでしょう。--春日椿 2008年12月18日 (木) 11:30 (UTC)
いやそれはわかっています。とにかく私はここの本文に、「こういうやり方もある、ということを記述する」という提案をしたわけです。その書き方として、ネタバレを基準にするという形はおかしいと言われるわけですから、では迂回した表現でなら本文に書けるかと聞いているわけです。--Suuw 2008年12月19日 (金) 10:21 (UTC)
ストーリーに関わるあらゆる記述は全てネタバレ、或いはネタバレと指摘される可能性があります。例えば「平凡な学生として生活していた主人公が、ひょんなことから巨大ロボットに乗って戦う/超能力者同士の戦いに巻き込まれる/痴情のもつれから流血の惨事に巻き込まれる」といった導入の作品の場合、「ひょんなことから」以降の展開について説明するのは、Wikipediaの読者から「学園コメディかと思っていたら意外な展開に驚いた」というサプライズを奪うことになり、ネタバレです。そのような作品においてネタバレを避けるということは、このような作品について、その作品がロボットアニメである、超能力者バトル漫画である、サスペンスであることを伏せるということであり、このような作品の記事を書くためには、Wikipediaは百科事典であることを放棄して、読者に「この作品は学園コメディである」と誤解させるように仕向けるような、嘘八百の情報を書かなければなりません。そんな馬鹿な、と思われるかもしれませんが、往々にして娯楽作品においては、作品公開前の事前情報やプロローグの段階で情報を制限し作品のジャンル自体を偽ることで、受け手へのサプライズを仕掛けようとする作品が少なくありません(個人的な経験では、そのような作品の記事ではネタバレの範囲を巡って意見が分かれやすくなる傾向も見受けられます)。
多かれ少なかれ、ストーリーというものはサプライズの連続であり、ネタバレを避けつつ作品の内容に踏み込むことは不可能です。どの程度のネタバレなら許容範囲か、という判断は人それぞれですが、人それぞれだからこそ基準を設けることが困難です。しかし、そのような現実を踏まえた上でなお、「一つにまとめてネタバレを読んでしまうことを避けさせる」方法があります。簡単なことです。ストーリーや登場人物に関する記述を最初から最後まで丸ごと {{ネタバレ}}{{ネタバレ終了}} で囲ってしまえば良いのです。これは既に多くの項目で実現されていることであり、つまりは本項目のガイドラインを現状維持することで、上記の提案は実現されます。個人的には、何も現状から変えることはないと考えます。--Kanohara 2008年12月19日 (金) 13:16 (UTC)
Kanohara氏の意見に賛成だ。これ以上Suuw氏の議論に付き合う必要はないと思う。--Afaz 2008年12月19日 (金) 15:35 (UTC)
 要するに、「各項目において意見の調整は難しいから、調整を放棄するのがベスト」、ということのようですが、私はそのようにせよと提案しているのではなく、「まとめる方法を選択肢に入れて紹介する」ことを提案しているのですが。 あるいは、収まっていた項目で隠したがる人が出てきて面倒が増えるということでしょうか? それなら、そういう立場だとわかりますが。  しばらく休みます。--Suuw 2008年12月20日 (土) 09:54 (UTC)
そんなことは言ってませんが、Suuwさんの提案文にある「初心読者に対しては隠すが、そうでない人には伝えるべきと認定した知識」なるものの基準を機械的に定義することが(ストーリー関係の記述を全部隠す、という解決法以外には)不可能であるという現実の上に、「このような方法も取れる(=取らなくても良い)」という玉虫色の提示を重ねれば、仰る通りに意見の調整は困難を極めるでしょうし、一時期議論が解決していたはずの項目でネタバレを隠したがる人も出てくることも必然でしょう。それに加えて「ネタバレを項目中一カ所にまとめる」という方法は、ネタバレに含まれる内容こそを必要としている閲覧者、或いはネタバレを気にしない閲覧者にとって記事を読みにくくし、利便性を損なうという問題点もあります。これらは少なくとも、執筆者各自のちょっとした気配りやマナーで皆が納得できるという種類の解決策でないのは疑いようがなく、果たして、そこまでの犠牲やデメリットを払ってでも断行すべき改革なのでしょうか。私にはそうは思えません。個人的には現状の、ストーリー全体を丸ごと {{ネタバレ}}{{ネタバレ終了}} で囲うという対処法は決して「解決の放棄」などではなく、様々な利便や利害を考慮した上での最善の解決であると考えます。かつてのSpoilerタグは「どこからどこまでがネタバレか」という意見の対立を緩衝する上では優れたツールでしたが、優れていた故に乱用された経緯を顧みれば、廃止も止むを得なかったと思います。提案にあるような「まとめる方法を選択肢に入れて紹介する」ことがWikipediaの方針として是とされてしまえば、多かれ少なかれSpoilerタグの時と同じような問題が発生することでしょう。--Kanohara 2008年12月20日 (土) 18:26 (UTC)

別の方向の基準と、一つにの節にまとめる、について 編集

プロジェクトアニメから来ました。上の二つの議論についてコメントを。

suuw氏の発言が要領を得ないので分かり辛いのですが、要は、

ネタバレは書かないほうがいい、なぜならネタバレしてしまうとその作品の楽しみがなくなってしまうから。スキップのテンプレートもあるけど小さくて見辛いし、もし書くなら隠すか一つにまとめてネタバレを読んでしまうことを避けさせるべきだ。

ということでしょうか。

私も以前、ネタバレが事細かに書いてある記事を読んでしまって、「しまった!」と思ったことがあります。しかし、ガイドラインにもあるように、基本的にはネタバレは注意文と共に記載され、読むか読まないかは閲覧者に委ねているもの、と今は考えています。

そして、上の二つの案の「別の方向の基準」「一つの節にまとめる」についてですが、前者はガイドラインの前提を覆してしまっていますし、後者も記事の体裁としては奇妙なものに思えます。

結局は、Mizusumashiさんや春日椿さんの言っていることに尽きると思います。--風の旅人 2008年12月18日 (木) 15:07 (UTC)

 ガイドラインの前提、ですか。どうしても書くべきことであれば別だとは思います。ただ、書くべきと思いこんで書いただけで、端から見るとそうでないことは多い気がします。読みたくないことというのは、多くがそういうことではないでしょうか。私はかたくなな基準を提案している気はないわけで、議論が混乱しないガイドとして考えたのですが、・・・そもそも、どんなふうにうまい調整が可能だと・実現していると思われるのでしょう? 
 「記事の体裁として奇妙」ということが、私は多くの編集者の間違いだと思います。ウィキペディアはネット上に存在する情報ガイドであり、そのための質のありかたによって百科事典たり得るものです。調整がうまくつくというのはネット上の百科事典として当然の品質基準だと思います。紙の百科事典の感覚を引きずった美意識で整えようというのは、りくつ抜きの主観的な支配欲に見えることがあり、それがなければ調整がつくだろうにと思うことがあります。--Suuw 2008年12月19日 (金) 10:15 (UTC)

百科事典でネタバレに配慮する必要はない。百科事典は結末まで記述することが要求されるものだ。ウィキペディアが情報ガイドだというSuuw氏の認識が誤っている。あくまで百科事典なのだから百科事典の標準で物事を考えるべき。したがってSuuw氏の意見には全く賛成できない。--Afaz 2008年12月19日 (金) 10:52 (UTC)

 それはつまり、自分の基準が基本に合っていれば、それ以上のことは他の迷惑を(程度問題ながら)配慮しなくていいということですね。まあ、『百科事典は結末まで記述することが要求されるものだ』というのが基本に正しいかどうかは、論拠を提出していただいてその検討結果ということになりますが。断言だけでは無根拠と同じことです。
 それと、そういう・・・「他の要素を考慮する必要はない」という根拠を示してくれてないとか、それでは現状程度のネタバレ警告・著作権・名誉毀損という事柄は無視していいことになるではないか、・・・などという問題は、上記の「別の方向の基準 」の節でやっていますので、そちらをご参照ください。--Suuw 2008年12月19日 (金) 13:37 (UTC)
この「Wikipedia:ネタばれに注意」の英語版、ドイツ語版、スペイン語版およびフランス語版を読んでごらん。そう書いてあるから。Wikipedia:井戸端/subj/文学作品の記事のネタバレについてでも検討されており、基本的に百科事典では結末まで記述するべきことが確認されている。ちなみに英語版では"Articles on the Internet sometimes feature a "spoiler warning" to alert readers to spoilers in the text, which they may then choose to avoid reading. Wikipedia has previously included such warnings in some articles on works of fiction. However, since it is generally expected that the subjects of our articles will be covered in detail, such warnings are largely considered unnecessary. Therefore, Wikipedia no longer carries spoiler warnings, except for the content disclaimer and section headings (such as "Plot" or "Ending") which imply the presence of spoilers."(en:Wikipedia:Spoilerより)と書かれており、以前はテンプレートでネタバレ注意していたが、そのようなことは必要でないと考えられるのでやめた。という結論になっている。これはドイツ語版でも同様で、英語版、ドイツ語版ともにもうネタバレ注意テンプレートは廃止されている。だからテンプレートを廃止しろ、という提案ではないが根拠にはなるだろ。--Afaz 2008年12月19日 (金) 14:38 (UTC)
 英語版の事情はよく知りませんし、‘確かな根拠をどうつなげた結論なのか’示してもらわないのでは意味がない。また、紹介の日本の例では古典の場合ばかり取り上げて議論の途中のようですね。だいたい「文学作品の記事」と書いてある以上、古典文学に限定するはずなのに、そこで現代娯楽全体のことを語って決められるというのはずるいですよ。

 ここに書き込むつもりだったのをそっちに書き込みを回しました。 要するに、紙の百科事典を元に考えれば、ネタバレ問題の対象になる記述・項目自体が始めからありえないということです。ネタバレが問題になっているのは、そのような項目が日本に多いという事情ではなかったですか? 春日さんもネタバレを理由にすることに反対はしても、簡略に書く考えのはず。調整の方法は必要だと思います。私は品質を高くする提案をしているのであって、低きに流れる強引なやり方はよくないと言います。 体調からしばらく休養します。
--Suuw 2008年12月20日 (土) 09:26 (UTC)

ええと、また発言してないことが出てきましたね。
上の例に関する反論については、Afaz氏の提示されたものだと思いますが、どこに「古典文学に限定する」とあるのでしょうか。フィクションとあるだけで、サブカルチャーを含まない文学という意味は、ないはずです。
また、Suuw氏が問題視されている、「製作陣への不利益」というのは、著作権・名誉毀損などとは全く違う次元の話である、ということはわかりますか。後者は申告制ですが明らかなる犯罪です。前者については、不法行為に当たる可能性というのは、限りなく低いと考えます。結末がウィキペディアに書かれていることが、相手の不利益につながったという因果関係の証明は成立しないでしょう。--春日椿 2008年12月20日 (土) 14:24 (UTC)
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