Wikipedia‐ノート:表記ガイド/表記の統一の指針関連2

Wikipedia‐ノート:表記ガイド/過去ログ5から転送)
最新のコメント:14 年前 | トピック:書き換え | 投稿者:Jms

「表記の統一」項目の独立と新ガイド文の提案 編集

「表記の統一」についても私の「原状回復提案」は目指したしがらみのない外部コメントが頂けず、膠着状態にあります。 しかし、そこでの議論を通じてガイドラインの理念についての深い理解が得られたのは収穫でした。 もともとこの提案は「原状回復」自身が最終目的ではなく、回復後に適切なガイド文を制定することが目標でしたので、この際、進行が滞っている「原状回復提案」を一旦取り下げ、改めて最終目標たるガイド文案を提示して皆様のご意見を伺うことにしました。

ここで次のことを提案します。

  1.  「表記の統一」を「その他」項目から独立した新しい項目とします。
  2.  「表記の統一」項目の文案
  •  表記はページ内で統一します。
  •  同じ意味・内容であっても文脈により使い分けられている表記は別の語であって、統一の対象にはなりません。 (例 「日本語としての関数はもともと「函数」と書く。」)
  •  ページを超えたウィキペディア全体での統一には過度にこだわる必要はありません。

以下、解説を加えます。

  •  「表記の統一」項目の独立は、そのテーマの大きさと内容の多さから見て適当と思います。
  •  ついで内容ですが、ガイドラインは執筆で判断を迷ったときに参照するものですから、一読して答が一意的に決まるものであるべきです。 ですから曖昧で一意的な答がなく、改めて執筆者の判断を要するような表現は極力さけるべきです。
  •  最初の文「表記はページ内で統一します」はまずこう言い切って基本方針を示すことが大事だと考えます。 そしてそれを実行するに当たって障害があればそれを取り除く方策を示して読者の期待に応えるのが筋だと思います。 もしも当然除外すべき例があるのであれば、最初からその対処法を書き加えておけばよいことです。 それを「原則として」というような、書く人の自由裁量に大幅に依存するような語句を最初に挿入して趣旨を曖昧化するのはガイドラインの本義に反します。
  •  次に「文脈により使い分けられている表現」については、今までは「暗黙のうちに」別の語であると了解していたので、例文のような文章を見ても何の違和感も持たなかったものです。 しかしそれではガイドライン原理主義者から文句が出るということであれば、このように「暗黙の了解」を明文化して表に出しておくことにも意味はあると考えます。
  •  これ以外にJms さんは「複数表記」に言及していますが、私はその具体例を知りませんので、ひとまず保留します。 その例をいくつかお教え下されば、それに対して第2項のような対処が必要かどうか考えますので、ご教示下さい。
  •  そしてそれでも対処出来ない突発的例があったときは、まさにWikipedia:表記ガイドの前文にある、「あなたの記事執筆の妨げになるときは、無理に従う必要はありません」を適用して文章を書き上げ、あとでまたそれへの対処法をここに書き足す必要があるどうかを考えればよいと考えます。
  •  第3項は「他のページとの統一に神経質になる必要はありません」との老婆親切を述べたもので、私の考えともよく合い、文章も適切と思いますので、ほぼ原文通り残しました。

以上です。 皆様のご意見を待ちます。 またこの提案をWikipedia:お知らせに公示します。 これからはそこをウオッチしていればガイドラインの変更提案は見落としなく全部わかるようになるとよいと思います。 --Midz 2009年8月18日 (火) 02:23 (UTC)

  • しがらみをなくすなら、#表記の統一関連文言を旧の文に戻し原状回復する提案でお答えいただいていない問いに答えていただく必要があるかと思います。取り下げたからなにもかもキャンセル、というのは理屈としては可能ではありますが、それならそれで取り下げた旨を#表記の統一関連文言を旧の文に戻し原状回復する提案で述べるべきでしょう。膠着状態というのも、ご自身で関係ないとおっしゃる提案をいつまでも続けるからであって、膠着というのとは違うでしょう。「もともとこの提案は『原状回復』自身が最終目的ではなく、回復後に適切なガイド文を制定することが目標でした」というのも、驚きです。内容に関する議論に対して「恐らくこういう議論になるであろうことは予見できていたので、…という一点に話を絞って皆様の判断を仰いでいます」と、手続き論に集中することを求めたのは他ならぬ Midz さんです。それを今更内容について議論しようというのは虫がよすぎるというものでしょう。ご提案の内容についても、すでに議論されていることをお読みでないか、ご理解いただけていないのではないかと思います。今回行った「原則」の挿入は広く受け入れられている表記方法と「表記ガイド」との間に実際に存在する齟齬を解消することが目的であり、それに対して具体的な問題が実在しないにもかかわらず原則を再度除去するというのは無意味でしょう。ほとぼりが冷めてからとは言いませんが、「原則」挿入による具体的問題点が生じてから再度提案してください。なお、原則除去に伴う原理的問題点については既に指摘した通りであり、ダブルスタンダードに基づくものですから、具体的問題点が生じた際の再提案ではその点の改善も含めて提案してください。大変申し上げにくいのですが、この件に関するこれまでの Midz さんの議論展開を拝見する限り、具体的問題なしに議論すべきではないと思います。--Jms 2009年8月18日 (火) 11:04 (UTC)
Jms さま
またまた、気に入らない議論は内容に立ち入らせないように門前払いする、という貴兄の性癖が現れ、面白く感じています。 それととも、これだけ長いコメントをお書きですから、私の提案を一度は読まれたと思いますが、それにしては内容の理解がなくて「原理的問題点」などと繰り返しているのは、ほんとに理解出来ないのだろうか、それとも解らない振りをしているだけなのだろうか、疑問に思いました。
Jms 文と私の案文との差は、主なところはJms 文の「原則として」を私の文案では省き、代わりに第2項「・・・文脈で使い分けられている表記は別の語であって、統一の対象にはなりません。」を挿入したことですから、もっぱらそこに焦点を当てます。  まず貴兄がつねに取り上げる「タケ/竹」についていえば、項目「タケ」に「漢字の「竹」は人文・産業的な文脈に限って用いる」とありますから、上記第2項の規定によって明らかに統一の対象にならないことが分かります。 また第2項で項目「関数(数学)」から引いた例「日本語としての関数はもともと「函数」と書く。」は文脈により使い分けられていることをはっきり意識しているからこそ違和感なしに読むことが出来ます。 そしてこれも第2項によって明確に保証されます。 「複数表記言及」も恐らくはこの第2項でカバーされると思いますが、具体例を知りませんので上記解説では保留してあります。 そしてJms氏が「原理的問題点」として引用している文章で問題にしているのはこのことだけですから、私の提案を読んでもなおそれを持ち出すのは、理解できないのか、解らない振りをしているだけなのか、判断に苦しむ訳です。 一般に人は表記は統一されていることを好むものです。 そしてその人が表記混在の文章を違和感なく読むときは、その背後に文脈による使い分けがあるのを感じ取っているからです。 従って上記第2項はそれらを充分カバーしており、それがあれば「原則として」の挿入は不要になります。 もしもカバーしきれていない例が見つかりましたら、第2項の文を吟味し直します。
さらに「原則として」を省いて第2項を挿入することには次の利点があります。 「原則として」では表記の混在は単に例外として許容しているだけと言われ、それに違和感を感じなかったことに多少の劣等感を伴いますが、第2項はそれに積極的理由付けを行い、それが正しい感性だと保証していることです。 この意味でも「原則として」を省き、第2項を入れることは正しい選択と考えます。
そして最後に「原則として」の詭弁的使い方の問題があります。 Jms氏はこの言葉の導入直後にWikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 数学/函数と関数に一つの議論[1]を持ち込み、ローカルルールの基本方針の第1項「ただし、項目内では必ずしも関数に統一する必要はないし、関数と函数が混在しても構わない」という文が表記ガイド#その他の条文「原則としてページ内の表記は統一します」で認められている「範囲内である」と「論証」しました。 その手品の種は「原則として」という語句の存在です。 しかし、このような「条文本来の方針・目的と正反対な内容が無制限に許される」という論理は明らかな詭弁で、「原則」の本来の意味にも反します。 この論理を使えば、どのガイドラインでも頭に「原則として」をつければそのそのガイドラインによる制約をまったくなくすことが出来、ガイドラインの役目を果たすことが出来なくなります。 この意味で、「原則として」という語句は不要であるだけでなく、有害です。 世の中にはこのような詭弁を弄する人は多くはないでしょうが、もともと不要でしかもこのような詭弁の種子となる語句は取り去るのが当然だと考えます。 ただし、上記「基本方針」は白駒さんの苦心の作品で、瑕疵はありますが当面の緊急避難措置として私も賛成していることを、念のため付け加えておきます。
それにしてもいろいろな詭弁に対処するため、これほどの煩瑣な議論をする必要があるのは残念なことです。 出来れば皆様の「常識と善意」がもっと有効に発揮されて、もっとまともで素直な論理で物事が進むWikipedia の世界が具現することを切に希望しています。 --Midz 2009年8月20日 (木) 00:08 (UTC)
門前払いという語の意味をわたくしが間違えているかと広辞苑を見ると、現代的な意味としては、「来訪者を、面会せずに追い返すこと」とありました。わたくしの理解と同じでした。さて、ご自身で関係ないとおっしゃる提案について適切な議論場所を提案することや、既に済んでいる議論について新規に具体的問題点があるのでなければ議論不要と応ずることは、内容をみないとできませんから、門前払いではないでしょう。また、議論の進め方としても妥当だと思います。それを、「気に入らない議論は内容に立ち入らせないように門前払いする、という貴兄の性癖」と属人的にとらえるのはわたくしには理解できませんし、Midz さんの印象でしかないことを「貴兄の性癖」などとあたかも事実であるかの様に表現するのは、既に抗議されている事と同様であり、議論進行を難しくすることはあっても資するところはないでしょう。「原則として」挿入による具体的な問題が実際に生じてからこの議論をなさることを再度おすすめします。これまでの Midz さんとの議論の経験上、こちらの問いにお答えいただけないことや、放言に終わることをわたくしは警戒しており、議論すること自体ためらわれますが、「原則」という表現をとりあえずは維持すべきという点だけ述べておきましょう。Midz さんは「原則」というのが「書く人の自由裁量に大幅に依存する」と仰せですが、Wikipedia:表記ガイドには他にも複数の「原則として」が登場しており、いずれも問題になっておりません。そこから考えると、Midz さんのご心配は杞憂ではないかと思います。Midz さんは「皆様の『常識と善意』」を信じていらっしゃるのに、表記統一に関する「原則」についてだけ信用しないというのは自己矛盾です。当該箇所の「原則として」挿入はすでに広く受け入れられていることの追認に過ぎず、またWikipedia:記事名の付け方#正式な名称を使うことで求めていることですらありますから、少なくとも実際に問題が発生するまでは心配する必要はないでしょう。現状では「原則として」という表現によって例外があり得ることを示唆すれば十分であり、Midz さん御提案の第二項のごとくホワイトリスト的に処理すべき段階にはないでしょう。個別記事で Midz さんも信じていらっしゃる「皆様の『常識と善意』」にに基づき必要に応じて対応すれば良い問題だと思います。繰り返しになりますが、既存の齟齬を解消するための現状追認の「原則として」挿入なのですから、具体的な問題が実際に生じてから再度検討すれば十分でしょう。Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 数学/函数と関数に関連させた詭弁云々は「条文本来の方針・目的と正反対な内容が無制限に許される」という誤読に基づくまったくの勘ぐりであり、痛くない腹はいくらさぐられても痛くはないのですが、くすぐったくておもわず吹き出して苦しいので、やめてください。「それにしてもいろいろな詭弁に対処するため、これほどの煩瑣な議論をする必要があるのは残念なことです。」というお言葉は、Midz さんの自覚あってのお言葉と受け取らせていただきます。「原則として」に由来する具体的問題点の提示と、ダブルスタンダードの解消をお待ちしております。--Jms 2009年8月20日 (木) 11:54 (UTC)
Midzさんはどうして自分の意見に賛成してくれる人があらわれないのかゆっくり考えてみてはいかがでしょうか。もしかしたらみや1229さんぐらいはまた賛成してくれるかもしれませんが説得力を持っている人なのかどうかは履歴をみれば分かるはずですよね。Midzさんは何か見えないものと戦っているような気がしてなりません。Midzさんにとっての常識と善意が他人にとっても常識と善意であるとはかぎらないのです。現在の内容を支持し提案には反対します。---210.231.87.178 2009年8月20日 (木) 19:51 (UTC)


またまたJms 氏のお得意の論法で議論が脇道にそらされ、話を迷宮に導かれる恐れを避けるため、要点をはっきりさせます。

今度の提案は①「表記の統一」項目を独立させる、②現行のJms 文を提案の新文章で置き換える、の2つからなります。 これに対する回答は「賛成」と「反対」とに分けられます。 (ただし、提案が①と②とからなりますので、片方は「賛成」、もう片方は「反対」ということはあります。) そして「反対」回答には、提案者との討論を可能にするように、反対する理由を具体的・明確に書き添えてください。 今回のJmsさんの回答は「原則として」は残すべきだということですから明らかに「反対回答」に属します。 したがってこの語句を導入する理由として挙げられた「タケ/竹」問題などが提案の第2項により解消した現在、どうしてこの語句が必要なのかを具体例で示していただく必要があります。

ここでガイドラインの理念について、提案の解説で述べたことを再録します。「ガイドラインは執筆で判断に迷ったときに参照するものですから、一読して答が一意的に決まるべきものであるべきです。」。 ところでJms さんは今度の回答でご自分の主張の正当化の一環として、「Wikipedia 表記ガイドには複数の「原則として」が登場しており、いずれも問題になっていません」とお書きになりました。 私も見たところ確かに4箇所にありました。 その2つは「漢字」と「日本名以外の人名」で、確かに説明の主文には「原則として」が使われていましたが、それにすぐ続いて例外の場合の扱いについてホワイトリスト形式の詳しい指示が並び、読者は判断を交えずに答が見つかるようになっていて、まさに上述理念に沿ったものでした。 そして残りの2つが最近改訂された「学術用語」といま問題になっている「その他」の「表記の統一」文でこれらはいずれも「原則として」と頭にあるだけで、例外の場合の扱いはまったく読者の自由裁量に任されていました。 この後者2例は、「その他」はJmsさんがつくったもので、「学術用語」はJms さんが主導的に議論を引っ張って成立させたもので、いずれもJmsさんが深く関与した項目であることは象徴的です。 つまり、Jmsさんの関与した2つの項目はガイドラインの理念を離れ、周囲からかけ離れた特異な姿をした存在なのです。

今回の私の提案は、提案の例文で与えたような文を今までは「暗黙の了解」のもとで何の違和感なく読んでいたものを、一歩進んで「了解」を明文化してホワイトリストとしてのせることで、この特異の姿をした「表記の統一」項目を、一読してその文の正当性の根拠が明確に理解される、ガイドライン本来の姿に引き戻すものです。

皆様多数の「賛成」あるいは「反対」の表明と、「反対」の場合は反対理由の具体的で明確な提示をお待ちします。 --Midz 2009年8月21日 (金) 09:14 (UTC) --Midz 2009年8月21日 (金) 10:58 (UTC)(推敲)

「反対理由の具体的で明確な提示」を求めるなら、「原則として」による実在の具体的問題をまず提示なさるべきでしょう。話はそれからです。--Jms 2009年8月21日 (金) 12:24 (UTC)
 私は「原則として」の排除を提案の理由にしていません。 上で示した通り、ガイドラインとしては特異な姿をしている「表記の統一」項目をガイドライン本来の姿に戻すことを求めているだけです。 ですから私が提案理由に入れてないものの問題点を私がさがしてくるいわれはまったくありません。 Jmsさんについてもこの提案にある理由で反対で、ということであればその反対理由の具体的で明確な提示をいただいてそれについて論議を行いましょうということです。 反対理由の明確な提示なしにただ「反対」というだけでは話が停まってしまうからです。 よろしくお願いします。 --Midz 2009年8月21日 (金) 13:15 (UTC)
結果として「原則として」を排除するのですから、同じ事です。そういうのこそ詭弁というのではありますまいか。「ガイドラインとしては特異な姿をしている『表記の統一』項目をガイドライン本来の姿に」というのは、Midz さんの考える特異や本来の姿であって、それについて合意があるわけではありません。現在の条文で問題がないにもかかわらず改訂することは、必要性がありませんから、改訂そのもに反対しています (というのは説明しているのですが、読み取れませんか)。改訂の必要性を示すために、実在の具体的問題を求めています。それがあれば、Midz さんの考えるガイドラインの理念や何が特異かということや本来の姿について合意を得る必要はありません。また、具体的文案に反対する理由も既に述べました。ああ、一つ忘れていました。今の「原則として」の方が、シンプルで短く良いと思います。Midz さんの改訂議論に含まれる自己矛盾についても既に指摘しました。「話が停まってしまう」のは、Midz さんの議論展開に問題があるからであって、問題のある議論展開がとまってしまうのは当然でしょう、筋が悪いのですから。どうしても議論したいなら、まずは現在の規程では困る実在の具体的問題を示してください。話はそれからです。--Jms 2009年8月21日 (金) 13:30 (UTC)
表記の統一というのは表記に一貫性を持たせる一つの方法ではありますしまた一貫性の一側面でしかないので、「表記の統一」を「表記ガイド」の一項目とするのは必ずしも屋下屋を架すもとだとまでは言えないのですが、「表記ガイド」の変遷を調べるに、当該部分の位置づけは表記統一の行き過ぎに対する戒めでしょう (初版未分類節からその他節へ「過度に」の挿入とその前提議論)。その意味で当該部分を「表記の統一」という節にするのはミスリーディングですし、また記述として現在のものはむしろ適切と言えるでしょう。現在のもので具体的問題が生じたならば、再度検討するのはもちろんですが、それまでは現行のままとすべきです。--Jms 2009年8月22日 (土) 01:16 (UTC)

話を迷宮入りさせないためにまず次のことを述べておきます。

  •  私の提案はJms 文から「原則として」を排除することを読者に提案しているのではなく、「Jms文と新しい文案とを比較して、どちらがウィキペディアの理念に適合するよい文章であるかを総合的に判断してください」、という選択をお願いしているものです。 ですから以前に述べた「原則として」の詭弁的使用など具体的問題もありますが、それを出す出さないはここの選択とは無関係です。
  • そして皆様が上記選択をする際の参考として、次を付け加えておきます。
  • 私の提案では「統一」でJmsさんが「原則として」を導入する根拠とされた表面的問題は新文案で採用したホワイトリストで完全に解消されていて、この語句はまったく不要になっています。
  •  提案が趣旨とするところは、ガイドラインの理念に反し表記ガイドの諸項目の中で特異なJma文を、理念に沿ったガイドライン本来の文章に戻すことです。 「特異」であることは読者が表記ガイドの他項目と比較するとすぐに解ることで、ひとり一人がそれを選択の参考にすればよいことです。 合意云々などという話ではありません。
  •  独立項目とすることはその内容・量からみて妥当と思います。 ただし、その名称は「表記の統一」が強すぎるとお考えであれば「表記の統一について」としても差し支えありません。 --Midz 2009年8月22日 (土) 09:10 (UTC) --Midz 2009年8月22日 (土) 09:49 (UTC)(推敲)
具体的問題点がないにもかかわらず、合意されてもいない Midz さんの主張する理念を検証する必要はないでしょうし、具体的問題があるなら、Midz さんの主張する理念にかかわらずその具体的問題を解消する様に「表記ガイド」の内容を検討すればよいことです。 Midz さんの主張する理念云々は、前回の差し戻しの論拠が Midz さんの主張する理念であったと同様、不要です。
「表面的問題は新文案で採用したホワイトリストで完全に解消されていて」というのは事実ではありません。何が問題点であるか、御理解いただいていないのでしょう。すでに説明しているので、くりかえし説明はしませんが。
具体的問題点が生ずるまでは、シンプルな現状で十分です。「迷宮入りさせない」つもりなら、理念を持ち出すべきではないでしょう。--Jms 2009年8月22日 (土) 09:19 (UTC)
上記Jmsさんのコメントの最初の段落はいつもの持論と論法のくり返しで新味はありませんので、そのままおきます。 しかし、第2段落での「「・・・」は事実ではありません」とのご主張は、きちんと検証できる可能性がありますので興味があります。
私のホワイトリストで解消したのはJms さんが「原則として」を導入するために挙げた「タケ/竹」のような表記に文脈による使い分けがある場合の問題です。この場合は完全に解決されています。 また「「Wikipedia:記事名の付け方#正式な名称を使うこと」で推奨されている複数表記言及」もそこに示されている例文「正式には~と称すが、本項では~で記述する」は上記「文脈による使い分け」で完全にカバーされています。 しかし、それ以外は問題になる具体例を知りませんので検証はしていません。 私がJms さんが頭のなかでお考えの問題点を全部は知らないのは事実でしょうから、上で解決された以外の問題点がありましたら具体的、明確にご提示ください。 「すでに説明している」のであってもここでもう一度明示してくださることをお願いします。 そうすればそれが上記ホワイトリストでカバー出来るかどうか検証し、出来ないときはそれが出来るようなホワイトリストを考えます。 私の信念は問題点はホワイトリストを適正につくれば必ず解決し、単に例外扱いするための「原則として」という語句は必要ない、ということです。 --Midz 2009年8月22日 (土) 12:04 (UTC)  
記事内で複数表記を用いる必要がある場合を包括的に想定しての「原則として」挿入であり、「文脈による使い分け」ですべてカバーできる訳ではないでしょう。「文脈による使い分け」というのが「正式には~と称すが、本項では~で記述する」をも包含するというのはわたくしには到底理解できませんので、Midz さんにとっては「文脈による使い分け」ですべてカバーできるのかもしれませんが…。その意味では、わたくしにとって既に説明済みで Midz さんの案では解決できていないものも、Midz さんにとっては「上で解決された以外の問題点」には含まれないのかもしれません。「問題点はホワイトリストを適正につくれば必ず解決し」というのは、網羅的列挙に必要なコストを無視すればの話でしょう。例外として扱える程度の頻度のものにそこまでの手間をかけるのは現実的はありません。さて、Midz さんの想定する理念はさておき、現行規程では具体的に何か問題があるのでしょうか。未だにそれを示していただけておりませんが、それがないなら改訂の必要はないでしょう。Midz さんの想定する理念の実現のために議論を続けるのはやめてください。--Jms 2009年8月22日 (土) 13:14 (UTC)

具体的問題がないなら改定の必要はないのあれば2009年7月4日 (土) 10:50の改定は差し戻すべきという主張になりますがそれはMidz氏の最初の提案なので何を遠回りなって気がします。お二人とも同じ結果を望んでいるのだから細かいことは棚に上げてまずは差し戻してどう改定するかの議論に移りましょう。--60.254.224.210 2009年8月22日 (土) 15:06 (UTC)

改訂以前の文面での具体的問題は20090627T1048Zならびに20090708T1133Zで既に指摘済みです。--Jms 2009年8月22日 (土) 15:20 (UTC)
そこに書かれている問題はJmsさんがこういう問題が起きるであろうという想定を示しているにすぎない。これはMidzさんの意見となんら変わらないレベルの話です。だから、7月4日版は差し戻してお二人の想定する問題を出し合って改定すべきだと思います。こういう文章は常に変化するものなのだから柔軟に行きましょう。--60.254.224.210 2009年8月22日 (土) 16:03 (UTC)
いいえ。たとえば、イギリスアメリカ合衆国ワンセグ日本放送協会日本音楽著作権協会国際連合児童基金関数 (数学)といった項目をご覧ください。また、Wikipedia:記事名の付け方#正式な名称を使うことの最終段落もご覧ください。--Jms 2009年8月22日 (土) 16:16 (UTC) 例示追加 --Jms 2009年8月22日 (土) 16:18 (UTC)
複数の表記があることへの対処のために改定したとの主張のようですが。それならばその問題とMidzさんのあいまいな表現だと混乱するという問題の双方を解決する方策を探りましょうよ。--60.254.224.210 2009年8月22日 (土) 16:41 (UTC)
「記事名の付け方」との整合をはかる、というのもあります。わたくしが示したのは実際に存在し、かつ、可読性も一貫性も損なってはいない記述です。混乱するというのなら、混乱する具体例がないと、どう混乱するのか、わたくしには想像がつきません。ページ内の表記は原則として統一する、例外については個別に検討する、それで十分でしょう。それでやってみて、実際にダメな例 (「原則として」がある故に記事がを書けなくなる/書きにくくなる例) が出てきたらら、その時に考えれば良いことです。「あいまいな表現だと混乱する」というのは Midz さんの主張なので少なくとも Midz さんは混乱なさるのでしょうが、「原則として」で混乱する記事執筆者は実際どれほどいるのでしょうか。実例と混乱する蓋然性を示すべきでしょう。--Jms 2009年8月22日 (土) 17:07 (UTC)

今まで内容に踏み込んだコメントはこちらでは控えていたのですが、なんだか以下の点が見過ごされているようなので書いておくことにします。

  • 「表記の統一」に関わる部分は(すくなとも現在の状態では)執筆者に対する手引きというより、記述を整理する編集者的な作業における手引きの性格が強いものにみえます。普通文章を書くときにinterchangeableないくつかの言葉をランダムにちりばめるということはしないもので、「一つの文書内でおなじものをさす言葉は一つに統一する」ということは執筆者にとっては言わずもがなの注意でしょう。
    • 部分的な加筆をする人に対して文書のほかの部分と表記の整合性をはかってほしい、ということなのか、あるいは表記の統一だけを目的とした編集をする人に対してそれを控えてほしい、ということのどちらを言おうとしているのか、または両方なのかについて行き違いがあるようにも見えるし、それについてははっきりさせた方がよいと思います。この条項の目的をはっきりさせないまま、ルールをどう表現するかに拘泥していても議論は平行線をたどるだけに思えるのですが。
  • 日本語版では単独で文書化されていないかもしれませんが、en:Wikipedia:If_it_ain't_broke,_don't_fix_itという立場があります。これの根拠は、表層的な問題にかかずらっていてもウィキペディアの向上に寄与しないばかりかいらぬ争いまで起きてしまいかえってよくない、というような所でしょう。Wikipedia:ウィキプロジェクト 数学/函数と関数もそのような動機により作られたものです。

僕としてはこの条項は機械的に表記の統一のみをするような編集を抑制するためにおかれるべきだと思います。記事のほかの部分と異なった表記をつかって加筆してしまうことも好ましくないことではあるのですが、そのような加筆をする人に表記ガイドを周知するのはとても難しく、ここで何らかのルールをおいたからといって抑制できることでもないでしょう。そして、そのようなほかの部分と比べてちぐはぐな状態で加筆された文章について、一つの文書としての整合性をはかるというのは機械的に言葉をそろえただけでは達成できず、文章の内容に踏み込んで整理を行う必要があるのが普通です。表記をそろえるだけの編集というのはしばしば、記事の質の向上に大して寄与しなかったり、悪い場合には編集合戦を誘発してしまうものです。--Makotoy 2009年8月23日 (日) 02:32 (UTC)

議論の進行上節を分けました。当該項目の位置づけ、目的についての議論は#表記統一項の目的でお願いします。--Jms 2009年8月24日 (月) 17:48 (UTC)

「文脈による使い分け」条項詳説 編集

節をわけました。--Jms 2009年8月24日 (月) 17:48 (UTC)

申し訳ありませんがちょっと割り込ましていただいで、1つの論点の整理を済ませておきたいと思います。 それは私の「文脈による使い分け」条項で「表面的問題は完全に解消」したという主張に対し、「それは事実ではありません。 何が問題点であるかご理解いただけていないのでないでしょうか」とさも他にも問題があると匂わせていたJmsさんの主張のことです(Jms200908220919)。 そこで私は「それを具体的にご提示ください」とお願いしましたが(Mids200908221204)、遂に言を左右にして具体的な答はありませんでした(Jms200908221413)。 そしてそのあとの60.254.224.210さんとの議論でJmsさんは改訂以前の文面での「問題点」をいくつか挙げていますが、これらはすべて「文脈による使い分け」条項で解消する問題です。
これはある意味で当然のことです。 つまり、それらはみな「文脈により使い分けられている表記は別の語であるから統一の対象にならない」という「暗黙の了解」のもとでなんら違和感なしに読まれていた文章ですから、「ガイドを機械的に適用すると統一すべきとなる」と問題提起されたときには「暗黙の了解」を明文化した条項を付け加えれば問題は解消するわけです。 そして背景にこういう事情がありますから、2つの表記が混じっていても違和感なく読める文章で「文脈にとる使い分け」条項でカバー出来ない問題はないであろうと考えています。
こうしてJmsさんが「事実ではありません」と言って反対されてもそれを示す具体例の持ち合わせがなかったことで、「「原則として」を導入する根拠とされた表面的問題点は「文脈による使い分け」条項で完全に解消され、したがってこの語句まったく不要になった」という事実が確認されたと考えます。 このことは当提案とJms文との選択に対して1つの大きな要因となりますので、ここで確認しておきます。--Midz 2009年8月23日 (日) 03:28 (UTC)
その Midz 説は、語と表記と指示対象の関連について適切に整理されている指示モデルに基づいているとは到底思えませんが、「表記ガイド」の範疇を逸脱するので指摘しておりません。ここでその議論をしたら、それこそ迷宮でしょう。興味があればまずは『論理哲学論考』あたりをお読みください (まだお読みでなければ)。Midz 説の当否は置くとしても、かかる韜晦的説明が単純さの点で「表記ガイド」に適切だとは思いません。また、文脈依存でない (文脈によらず互換ないし同一文脈内で互換な) 表記については、Midz 説はカバーできません。その実例は既に示しました。それが表記の問題ではなく語の問題だとお考えならば、「表記ガイド」というのが何についてのガイドなのかという点からして意見が異なるのでしょう。--Jms 2009年8月23日 (日) 03:50 (UTC)
「その実例はすでに示しました」でそれをここに再記しないのがまさにJms流ですが、私にはまったく心当たりがなく、興味がありますので、もう一度ここに明記して下さい。--Midz 2009年8月23日 (日) 04:24 (UTC)
参照。文脈依存の使い分けだと明確に言えるのはその後追記したの場合だけでしょう。アメリカ合衆国の記事に「アメリカ」と「アメリカ合衆国」が混在し、ユニセフの記事に「国際連合児童基金」と「ユニセフ」ならびに「国連」と「国際連合」が混在していたら、本当に混乱するのですか? --Jms 2009年8月23日 (日) 04:40 (UTC)
Jmsさんに付け加えさせてもらえば、「最小上界」と「上限」など全くおなじ意味をもちどちらかがもう一方の省略形ではないような学術用語、そのほかWikipedia:ウィキプロジェクト 数学#用語・表記の曖昧さにあげられているような例もあります。後者は現在も「表記を自分の好みのものに変更するだけの編集は好ましくない」とはっきり書かれているものです。--Makotoy 2009年8月23日 (日) 04:53 (UTC)
他にも…などと続けると本当に枚挙に暇がありませんのでやめます。単調さを避けるために同じ意味の異なる表現を単一文脈で用いるというのは文書作成上よく使われるテクニックだと思いますが、Midz さんの提案はそういった書き手の工夫も否定するものとなっています。それでも、「原則として」ではどうしても困るという実例があるなら、何らかの手を打つ必要もあるかもしれませんが… Midz さん、そういう実例はありますか。--Jms 2009年8月23日 (日) 05:10 (UTC)
提示された例について私の見解を述べます。
「アメリカ合衆国」記事のなかでの「アメリカ合衆国」とその通称「アメリカ」とはあきらかに文脈による使い分けがなされています。  つまり、まぎれが少ない文脈では短い通称「アメリカ」が、紛れが起こる恐れのある文脈や国としてのアメリカを強調したい文脈では「アメリカ合衆国」が使われています。(例 「アメリカ合衆国では、在来種だけで約17,000種の植物が確認されており」(アメリカ大陸全体との紛れ回避)、「アメリカ合衆国は50の州、1の地区で構成されるが」(国の構成)。 もちろん使い分けは機械的ではなく、人が違和感なく読める範囲でゆらぎがありますが、「文脈による使い分け」で統一の必要のないことが保証された複数表記であることは確かです。 「ユニセフ」についてはその項目内ではほとんどの文脈で紛れが少ないので短縮形「ユニセフ」が使われ、冒頭の導入のような文脈では正式名「国際連合児童基金」が使われて、これまた文脈による使い分けが見事になされています。 ですからこれらはいずれも「文脈による使い分け」で併存が保証されている例です。 そしてこれらが「原則として」により例外的に許容されているのではなく、それ自身「文脈による使い分け」で正当な使い方であることを保証されていることが重要です。
「最小上界」と「上限」は少し話が違います。 よく調べていませんが、この2つの表記が混在している記事例はほとんどないのではないかと思います。 1つの記事内で「「最小上界」は「上限」とも云う」というような「文脈による使い分け」による文章以外でこの2つが混在するときは、おそらく統一の対象にすべきだと思います。 
「単調さを避けるため同じ意味の異なる表現を単一文脈で用いるテクニック」は「異なる表現」の中味が実例をみないとよく分かりませんが、これが「異なる表記」を用いることをいうのであれば、それはWikipediaに相応しくないと思います。 いずれにしても実例をお示しください。 --Midz 2009年8月23日 (日) 08:32 (UTC)
Midz さんの仰る「文脈による使い分け」というのを、例示によらずに説明していただけますか。どうも「文脈による使い分け」という意味を共有していない様です。「単調さを避けるため同じ意味の異なる表現を単一文脈で用いるテクニック」は、結果としてアメリカ合衆国国際連合児童基金での混在の如き文章を生じます (当該文がそれを意図しているかどうかはわかりませんが)。そうお読みにはならなかった、ということは、「文脈」という言葉を Midz さんとわたくしとは共有していないということなのではないかと思います。「文脈による使い分け」の説明の際に、「文脈」についての定義もお願いします。--Jms 2009年8月23日 (日) 09:37 (UTC)

Jmsさんが「文脈による使い分け」条項をまったく理解出来ていなかった、ということが本当だったと、今度のやり取りでよく解りました。 でも理解しようという意欲はお持ちのようですし、それが問題点をほぼ完全に取り除いていて私の提案が現実に有効だときちんと理解していただければ話が進展する望みもありますので、出来るだ解りやすく詳しく説明することを試みます。 この説明は第三者にも大いに参考になると思います。

まずこの条項は、普通は表記は統一されていることを当然と考える普通の人が表記の混在する文章を違和感なく読めるのは何故か、というところから始まります。 そしてそれはそれらがおかれている情況により使い分けられている複数表記なので、統一の必要を感じないことに起因することに気が付きます。 この事実を明文化したものがこの条項です。 ですから人が違和感なしにすらすら読める複数表記を含む文章ではつねにこの条項が作用しているので、Wikipediaの記事のなかでこの条項でカバーできないケースはよほど意想外の条件がある場合に限られ、ほぼないと言ってよいと思います。

この条項はこのような性格のものですから、それによって複数表記の問題はほぼ完全に解決していると言ってよいと思いますが、それは現在の条項の文章の完全性とは別の話ですから、次にこの文章が適当かどうかを吟味します。 まず使われている「文脈」という言葉ですが、これをヤフーの「辞書」で引くと「大辞林」所載として

「ぶん‐みゃく【文脈】
1 文章の流れの中にある意味内容のつながりぐあい。多くは、文と文の論理的関係、語と語の意味的関連の中にある。文章の筋道。文の脈絡。コンテクスト。「―で語の意味も変わる」「―をたどる」2 一般に、物事の ... [さらに]」

とあります。 ですから「文脈による使い分け」はその表記がそれを含む文章の中でどういう関連性を求めて使われようとしているかを判断して、その情況にもっとも適切な表記を選ぶことを意味します。  例えば「日本語としての「関数」はもともとは「函数」と書く」では「文脈」によって片方は「関数」、もう一方は「函数」と書くという2つの表記の選択がなされ、その併存がこの条項で保証されます。

なお「アメリカ合衆国」記事のなかの「アメリカ」と「アメリカ合衆国」の使い分けはお説のような「単調をさけるためのテクニック」ではなく、「文脈による使い分け」によるものです。 ですから中の「アメリカ」という表記は大体は短かさで選ばれたので「アメリカ合衆国」で置き換えても多少読みにくくなるだけですが、「アメリカ合衆国」という表記は多くは文脈で求められて選ばれたもので、「アメリカ」に置き換えると意味が曖昧になるなどの弊害が起こります。

このようにして「文脈による使い分け」条項の現在の文章は充分妥当性をもつと思いますが、よりよい文章があればそれに変えることにやぶさかではありません。 以上です。 ご納得いただけましたでしょうか。 --Midz 2009年8月24日 (月) 06:39 (UTC)

折角お答えいただきましたが、例示によらない説明をお願いしたのに、例が含まれている様です。「かんすう」についての例、「あめりか」についての例は、説明を理解する上で必須のものでしょうか、それとも存在しないものとして説明だけ読んでも理解は変わらないでしょうか。もし必須であるならば、例示の意図する内容を例示によらずにご説明ください。そうでなければ、その旨表明願います。なぜ例示を避けようとしているかというと、例示から Midz さんの意図せざるなにものかをわたくしが読み取ってしまうのを防ぐためです。例示なしに内容を理解した上でなら、例を見ても誤解する可能性は低いかと思います。その意味では説明よりは「文脈による使い分け」の定義をお願いすべきだったかもしれません。納得したかとの問いについては、お願いしたのは「文脈による使い分け」の説明ですから、結果は理解したかどうかであって、納得するかどうかはまた別問題であり、お答えいたしかねます。理解したかどうかは、現段階では理解できたとは言えないと思います。--Jms 2009年8月24日 (月) 10:28 (UTC)
また案の定、議論の進め方がJms流になってきたした。 「かんすう」の例はこれがなくても説明は閉じています。 そしてその説明は「・・・ことを意味します。」との文章で解るとおり、すでに定義の形をとっています。 ただその説明は抽象的過ぎて理解できない、と文句を言うのであれば、説明にケチをつける前に参考として例文をお読み下さい。 また「アメリカ」の例はJmsさんが「これを「単調さをさけるため」の例として持ち出されたので、誤解が広がるのを避けるために、そうではなくこれも「文脈による使い分け」であることを説明したものですから、本来の説明と無関係で、これがなくても本文の説明は影響を受けません。 理解出来ないところは具体的に質問して下さればいくらでも説明しますからよろしく。 --Midz 2009年8月24日 (月) 11:40 (UTC)
前提の共有からして疑われる以上、ひとつひとつ確認してゆくのが一見効率は悪そうでも結局は早道だと思います。さて、「その表記がそれを含む文章の中でどういう関連性を求めて使われようとしているかを判断して、その情況にもっとも適切な表記を選ぶこと」という説明の、「どういう関連性」というのは、何と何の関連性でしょうか。表記ともう一方の表記でしょうか、それともある表記とある文章に含まれる複数の文脈のうちの一つずつでしょうか。辞書による文脈の定義にある「文と文の論理的関係、語と語の意味的関連」を受けているのではないかとも想像しますが、もしそうだとすると、「それを含む文章の中でどういう関連性を求めて」というのを、「それを含む文脈の中でどの様な意味で」と言い換えても意味は変わらないでしょうか。「その情況に」というのは、「その文章のうちのある文脈の意味内容に照らし合わせて」と言い換えても意味はかわらないでしょうか。--Jms 2009年8月24日 (月) 11:53 (UTC) 語句補 --Jms 2009年8月24日 (月) 17:48 (UTC)
このような 現場の必要を離れた机上の哲学論議へのお誘いは辞退します。 もともとこの条項を理解するには「文脈」については「文の脈」という程度の知識で充分で、私の与えた説明もJmsさんのたっての願いに応えただけのものです。 このような不必要で不毛な論議はすぐに止めて、早く「表記の統一」項目のまともな議論に入ってくださることを希望します。--Midz 2009年8月25日 (火) 02:49 (UTC)
現場の必要を離れた、というのは Midz さんがそう思っているという事でしかないでしょう。もともとこの条項を理解するには「文脈」については「文の脈」という程度の知識で充分、というのは、あくまで、Midz さんが考える範囲でそうだというだけの話で、実際にそうかどうかは検証してみないことにはわかりません。現時点では、わたくしが「文脈による使い分け」条項をまったく理解出来ていない、という御指摘があり、それへの対応として「文脈による使い分け」条項が何を意味しているのかを確認しているのであって、議論以前の段階でしょう。「文脈による使い分け」条項が何を意味しているのか「わかっている」Midzさんには不必要な説明でも、「理解できていない」者に理解させるには必要な説明だと思います。それをしないのであれば、共通理解なく内容を検討するというそれこそ不毛な状況に陥るのではないでしょうか。理解できているかどうか、というのも一つの側面ですが、それはまたMidzさんの述べようとしていることがあの条項では伝わらなかった、ということでもあります。伝わらなかったのが受け手の問題なのか、書き方の問題なのか、内容の問題なのか、それを検討することが不毛だとはわたくしには思えません。もしそれが不毛だと仰るなら、そもそもの提案が不毛だということではありますまいか。理解の様態は人それぞれですから、Midzさんの理解のしかたとは違う理解のしかたをする人もいるわけで、そうした状況でも共通理解に到達できる表現でないと、ガイドライン類はうまく機能しません。「文脈による使い分け」条項が一見単純に見えるにもかかわらずどうも全く異なる理解がなされているらしい状況というのは、暗黙の前提が共有できていない場合にしばしば起こることです。従って、前提の確認からするのは当然のことでしょう。哲学議論になるのは、Midz さんの提案が指示理論に関係する以上、やむを得ないことだと思います。正確には名指しに代表される指示の問題であって、哲学というよりは言語の話です。表記の話をしているのですから、言語は避けて通れないでしょう。それが嫌なら、「同じ意味・内容であっても文脈により使い分けられている表記は別の語」などという表現はすべきではないでしょう (といっても、それが何を述べようとしているのか検証中なので現時点ではよくはわからないのですが)。提案内容について問われているのにその説明を拒否なさるなら、それは提案取り下げと等価だと思います。どう関連するのかMidzさんには見えてこないから「不必要で不毛な論議」だとお考えなのかもしれませんが、条項の内容が通じていないのですからこそどう関連するのかが見えてこないのですし、逆に、関連が見えているならそもそも内容が通じないなどということはないでしょう。「どういう関連性」とは具体的に何と何の関連性を言うのか、というのも、「それを含む文章の中でどういう関連性を求めて」を「それを含む文脈の中でどの様な意味で」と言い換えても意味は変わらないか、というのも、いずれも具体的な問いです。「理解出来ないところは具体的に質問して下さればいくらでも説明しますからよろしく」とのことですので、どうぞよろしくお願いします。--Jms 2009年8月25日 (火) 11:15 (UTC)
このような条項はうまく機能することが役目ですから、定義を厳密に理解しないと使えないというものではなく、まずは常識で理解し、実例を数多く読んで慣れ親しんで使うものです。 ですから『この例では判断がつかない』もしくは『期待されている判断をしてくれない』という現場での具体例を示していただければいくらでも議論に応じます。 ご提起の哲学論議から現場で有用な情報が生まれるとは考えられません。--Midz 2009年8月26日 (水) 05:24 (UTC) --Midz 2009年8月26日 (水) 05:46 (UTC)(小加筆)
不必要で不毛な議論というのをつらつら考えるに。現行の規程で具体的な問題が生じているわけでもなく、その例示を求めても未だに示されておりません。その状況下では今回の提案は不必要なものですし、それに付随するやりとりもみな不必要なものでしょう。その不必要な提案のご本人が、提案内容に関連した質問に対して不必要と宣言なさるのは、まさしく不毛なことではないかと思います。「期待されている判断をしてくれない」というためには、そもそも期待されている判断が何かというのを知る必要がありますし、またその「期待されている判断」というのが本当に提案されている条文から期待されていると読み取れるのかという点も検討せねばならず、そのためには定義についての問いは至極妥当なものだと思いますが、それにすら答えていただけないというのでは、やはりそもそもの提案が不必要であったのだと考えざるを得ません。お答えいただけないなら、提案を取り下げてください。取り下げないなら、答えてください。どちらか一つです。わたくしは、Midz さんの条文と例示から、定義を厳密に理解しないと使えない条項だと考えています。というのは、「まずは常識で理解し」た結果が Midz さんとわたくしで食い違ったからです。もしまだお読みでなければ、210.231.87.178さんのコメントもご覧ください。--Jms 2009年8月26日 (水) 09:35 (UTC)
追記。念のため指摘しておきます。「このような条項はうまく機能することが役目」だからといって、提案されている条項が「定義を厳密に理解しないと使えないというものではな」い、という保証はないでしょう。「こうあるべきだ」は「こうである」を意味しません。出来の悪い条項だったら「まずは常識で理解し、実例を数多く読んで慣れ親しんで使うもの」などとはならないでしょう。したがって、「ですから『この例では判断がつかない』もしくは『期待されている判断をしてくれない』という現場での具体例を示していただければいくらでも議論に応じます。」というのは導けません。--Jms 2009年8月26日 (水) 18:17 (UTC)

表記統一項の目的 編集

「表記の統一」に関わる部分の目的が何かを明確にしてから内容を検討すべきだ、とMakotoyさんから指摘がありました。全くその通りだと思います。他の議論との混乱を避けるため、節を分けてその点を検討したいと思います。引用が前後しますが、「一つの文書内でおなじものをさす言葉は一つに統一する」ということは執筆者にとっては言わずもがなの注意であり執筆者に対する手引きというより、記述を整理する編集者的な作業における手引きの性格が強いという指摘もその通りだと思います。それを確認した上で、当該部分の意図として

  • 部分的な加筆をする人に対して文書のほかの部分と表記の整合性をはかってほしい
  • 表記の統一だけを目的とした編集をする人に対してそれを控えてほしい
  • その両方

のいずれなのかというのを検討するのが良いと思いますが如何でしょう (…と、ほとんどMakotoyさんの書いた内容そのままですが)。--Jms 2009年8月24日 (月) 10:28 (UTC)

Makotoy さん。 いつもお骨折りご苦労様です。 私はMakotoy さんとはカール・フリードリヒ・ガウスでの「高木貞治:近世数学史談」の取扱い以来のお付き合いですが、いつもどうも多少食い違った立場で会うようなのは妙なものです。 そしてこの度は問題ご提起の文章のすぐ後に他の話題を割り込ませて申し訳ありませんでした。
ところでMakotoyさんは「この条項は機械的に表記の統一のみをするような編集を抑制するためにおかれるべきだ」との立場を表明しておられますが、私はこれには賛成致しかねます。
Makotoyさんは「関数/函数」問題を頭においておられると思いますが、そこで「表記」を巡って編集合戦が起きたのは、私はウィキペディアではきわめて希な出来事であろうと考えています。 この他には2年前に「放物線」で多少の編集合戦があったという以外には聞いていません。 そしてこれは数学界に50年前の学術用語集編集をめぐる葛藤があったという特殊事情があったための現象で、同種の問題が他分野で多発するとは考えられません。 ですから「表記を巡る編集合戦」対策はウィキぺディア全体の問題として持ち出すのではなく、現状通り数学分野のローカルルールで対処するのがよいと考えます。
「表記の統一」も表記ガイドの他の項目と同様、執筆者・編集者の双方への手引きとなるガイドラインで、やはり「常識」を明文化したものとの性格を持たせるのがよいと思います。 そしてそのためにはやはりまず「表記はページ内で統一します」という大原則を掲げておくことは重要です。 Makotoyさんは「普通 文章を書くときにinterchangeableな言葉をランダムにちりばめるということはしない」から「言わずもがな」の注意だと言われますが、一般世間では、たとえば文学作品では印刷で見た目を重視して同じ「さくら」でも平仮名表記と漢字表記とをバランスよく配置することなどは普通に行われていることです。 こういうこともありますから、百科事典であるウィキペディアではそれを取らないことを明確にする大原則を最初に掲げることは意味があることです。
それから、「機械的な表記の抑制」は表記ガイドに持ち込んでも難しいことは、Makotoyさんがすぐ上で「「ほかの部分の表記と異なった表記を使って加筆すること」がここ(「表記ガイド」)でなんらかのルールがあったからと言って抑制出来るものでもないでしょう」と言われているのとまったく同様です。 その意味でも「表記ガイド」には不適で、やはり数学分野でローカルルールに則って地道に対処していくのが最善だと思います。
「関数/函数」問題に関しては、私の現在の考えは、2年前の井戸端論議の巻尾を飾ってMakotoyさんが述べられた「「関数」を主とし、「函数」は記事内での注やリダイレクトにとどめることに賛成です。 現在の日本の数学(教育でも研究でも)では「関数」が主として用いられているというのは確かのように思えるからです。」とまったく同様です。 普及度について今年の井戸端論議を通じて「圧倒的な」差ということがはっきりした現在ではますますその感を強くします。 ただ現実対応としては機械的統一には反対で、せっかくローカルルールとして「現行方針」が出来、その第1項で部分的にでも「関数」の優位性が公認されたので、当面はその効果を見極めるのがよいと思っています。 というのは私は過去の編集合戦は「関数」の優位性が「公認」されていなかったことが最大の原因だと考えているからです。 ご参考になれば幸いです。 --Midz 2009年8月26日 (水) 08:09 (UTC)
Midzさんのおっしゃっていることからは、Jmsさんや僕が上で例示したような場合を含め、なぜ「統一すべし」ルールをおいた方がよいのかがよくわかりません。僕が指摘したのは、どちらに統一した方がいいのかにわかにはわからない表記ぶれが現実に存在し/これから追加される見込みがあって、そのような案件についてみだりに表記変更のみの編集を行うべきではないという運用上の知恵がWikipedia:ウィキプロジェクト 数学をはじめとしてボトムアップで蓄積されてきている、ということです。文学的な表現としての表記ぶれを控えてほしいということを「表記の統一ルール」の目的にされたいということであれば、そのようなケースが実際に起きていることなのか、どれくらいの問題があるのかを知るために主立った事例なりそのような案件に関する議論の記録なりを示していただけませんか。--Makotoy 2009年8月28日 (金) 13:06 (UTC)

提案者の論点・主張の整理 編集

またまた議論が長引き、輻輳してきて、論点が見にくくなりましたので、改めて整理した形で提示します。

まず最初に問題の文章について、原文、Jms改訂文、Midz提案文を並べておきます。 (Midz提案文のうち、「表記の統一」項目を独立させる部分は形だけの問題で内容の論議に直接には関係しませんので、ここでは記載を省きます。)

Ⅰ 原文

表記はページ内で統一します。 ウィキペディア全体での統一には過度にこだわる必要はありません。

Ⅱ Jms 改訂文(以下ではこれを「Jms文」と呼びます。)

原則としてページ内の表記は統一しますが、ウィキペディア全体での統一にこだわりすぎないでください。

Ⅲ Midz提案文(以下ではこれを「Midz文」と呼びます。)

  •  表記はページ内で統一します。
  •  同じ意味・内容であっても文脈により使い分けられている表記は別の語であって、統一の対象にはなりません。 (例 「日本語としての関数はもともと「函数」と書く。」)
  •  ページを超えたウィキペディア全体での統一には過度にこだわる必要はありません。

Jms 文は、「常識の範囲内の複数表記併存」(これを以下では「慣用的併存」と呼びます)も厳密に言えば統一条項「表記はページ内で統一します」に反する、という問題を提起し、「それを解決する」という名目で原文に語句「原則として」を挿入したものです。

提案者の主張は、「Midz文がこの問題に対処するガイドライン文章として、以下の理由により Jms文よりはるかに優れている」というものです。

  1.  Midz文はJms文が改訂の名目とした「慣用的併存」問題を完全に解決しています。 Jms文もこの問題を解決していますが、解決の質においてMidz文はJms文よりはるかに優れています(次項参照)。
  2.  Midz文は「慣用的併存」の例に「正しい使い方」というお墨付きを与えます。 それに対してJms改訂文では同じ例を「厳密に言えば「表記の統一」条項に違反するが、「原則として」に基づきそれを例外として「許容」する」だけで、これは「常識の範囲内の正しい使い方」だとする一般の感覚と大きく異なっています。
  3.  ガイドラインはものごとの判断の際に参照するものですから、正しい結果にたいしてはその場で明示的に保証することが望ましいと考えます。Midz文は「慣用的併存」例に対し、それが正しいと明示します。 しかし、Jms文は外から文句が出たとき「例外」として救済される可能性があることを示すだけです。
  4.  MIdz文は「慣用的併存」例を過不足なく網羅し、その使用は導入目的とされたものに自動的に限定され、逸脱の心配がありません。それにたいしてJms文では「原則として」は無制限包括的で、導入の目的からいくらでも逸脱して使われる危険を有します。 目的に対して「過不足なく」というのはガイドラインの要諦の一つです。
  5.  ガイドラインは物事判断の基準を与えるものですから、それにより物事が明確に定まり、さらなる判断を必要としない文章が望ましいと考えられます。実際、「表記ガイド」では現在、「学術用語」と「その他」のJms文を除いてすべてそうなっています。それに対し、「学術用語」とJms文は冒頭に「原則として」をおいて自由裁量で無制限に「例外」を認める構造になっており、それを適用するには、それがどうして「例外」として許容されるかを改めて判断する必要があることになります。ですからこれらは「表記ガイド」の多数の項目の中できわめて異質な存在です。Midz文においては再び多数項目と同じ構造に復帰して自然なガイドラインとなっています。

以上のようにガイドライン文としてMidz文とJms文とでは優劣に大きく差があります。そこでもうしばらく様子をみて、上で述べたMidz文の優位性を覆すに足る有力な反対意見がなければこれを根拠にMidz文への書き換えを行いたいと思います。もしも反対の方が居られましたら反対意見を明確な根拠とともにお示し下さい。 また同時に「表記の統一」項目の独立も行いたいと思いますので、反対意見があればそれも明確な理由付けをしてご提示下さい。

それでは本提案に対する賛成意見、反対意見の提示をお待ちします。 --Midz 2009年8月28日 (金) 01:25 (UTC)

仕切りなおしたところで、問われている事に答えなければ問題が解消するわけではありません。当該個所の目的についてさえ意見が分かれている状態で、Midz さんの考えたに過ぎない理想を根拠に優劣を論じたところで無意味でしょう、そんなのは目的次第なのですから。手続き上の不備という主張を取り下げた、すなわち現行規定を認めたにもかかわらず、現行規定を Jms 文などとことさら書く意図をはかりかねます。具体的問題がないにもかかわらず改訂を提案なさったのですから、それに関する議論が抽象的にならざるを得ないのは当然ですし、根本的なところで理解がなされていないと指摘なさったのですから、その根本の部分についての確認作業から始まるのは当然のことです。にもかかわらず、問いに答えず仕切りなおすという、一種の誤魔化しともとられかねない展開をなさるなら、合意する意思なしと判断せざるを得ませんし、合意する意思がないのなら、議論のための提案と判断せざるを得ません。かかる提案は無意味ですから、問われていることにお答えいただけないのなら、提案を取り下げたと考えざるを得ません。問われている事に答えるか、取り下げたと見なされるか、どちらかです。--Jms 2009年8月28日 (金) 09:38 (UTC)
Jmsさんに同じく、この節のMidzさんの提案は時期尚早だと思います。--Makotoy 2009年8月28日 (金) 13:06 (UTC)
Midzさんはもっと簡潔に書いてほしい。それとJmsさんも細かなところを問うてそれに自分が納得するまで議論に入らせまいとしているように読めます。だいたい、Jmsさんも問題が起きていたわけでもないのに改定したわけで今回の議論を否定するならダブルスタンダードだと思います。まぁこのように細かな点をグダグダと書き連ねていれば誰も議論に入ってこれないでしょう。--60.254.225.117 2009年8月28日 (金) 14:07 (UTC)
「原則として」の挿入は、実際に行われている表記や「記事名の付け方」の指示内容に「表記ガイド」を追従させるために行いました。その点で Midz さんの提案とは異なります。現状で「原則として」が挿入されていないならダブルスタンダードといわれるのも理解できなくはありませんが、現実はそうではありません。わたくしが納得するまで云々、というのは Midz さんが答えるべき問いに答えないからそう見えるだけではないかと思います。細かなところを問うている様に見えるのは、相違点、疑問点をひとつひとつ解消しようとしているからではないでしょうか。Midz さんの主張が「原則として」の内容を完全に包括しているというものである以上、議論が細かくなるのはやむを得ないでしょう。そういう議論をせずに済むというのが「原則として」のメリットの一つです。--Jms 2009年8月28日 (金) 15:24 (UTC)
それでは「原則として」の挿入の必要性があったのか、そしてあったとすれば「原則として」という表現が適切であったかの検証が必要ですね。--60.254.225.117 2009年8月28日 (金) 15:48 (UTC)
「必要性があったのか」「適切であったか」という過去の出来事の是非を問うのは不適当だと思います。すべきは「必要かどうか」「適切かどうか」という内容についての検討でしょう。必要性については#表記の統一関連文言改訂提案で検討した通りです。「原則として」という表現が適切かどうか、という点については、Midz さんの今回の提案との比較検討ということになるかと思いますが、そのために Midz さんの文案が何を意味しているのかを検討しようとして Midz さんにお答えいただけない状況が生じていおります。なお、表現が適切であったかどうか、という点は、表記の統一節をわけるかどうかというのとは独立して議論できるはずなので、同時提案にしても分割して (必要に応じて逐次的に) 検討する方が良いのではないかと思います。--Jms 2009年8月28日 (金) 15:59 (UTC)

(インデント戻す)Midz さんの今回の提案は「原則として」という表現に問題があるということがその発端だと思います。だから以前の改定の検証は避けられないでしょう。では議論に入らせていただきます。まず、「記事名の付け方」の指示内容に「表記ガイド」を追従させるためという改定理由ですが、その解決策として「原則として」というあいまいな表現を挿入することはちょっと不自然な感じがします。やるべきことはそういった付け焼刃的な対処ではなく「記事名の付け方」と「表記ガイド」の矛盾点の解消ではないでしょうか?いずれにせよ前改定が不十分なことは明白だと思います。だから、Midzさんの提案を検討しましょう。--60.254.225.117 2009年8月28日 (金) 16:18 (UTC)

「前改定が不十分なことは明白」とは思いません。「前改定が不十分なことは明白」と言えるだけの事例が現時点では存在せず、何がどう不十分なのか、なにを満たせば十分といえるのかを具体的に検討する材料がありません。そこが今回の提案の本質的問題だと思います。が、それはさておき。材料なしに提案なさっているのですから、理論的に検討せよという意味だと思いますが、その改定案の検討をしている過程で、Midz さんは提案についての問いに答えずに仕切り直しをし、そのことによりすでに進行している検討作業を途中放棄している状態です。ですので、「だから、Midzさんの提案を検討しましょう」といわれましても…。--Jms 2009年8月28日 (金) 16:26 (UTC)
しかし現時点では前改定の必要性の十分な事例が存在しません。つまり、前改定はやらなくていい改定であったといえます。違うのなら前改定の必要性の十分な事例を示していただけませんか?それもしないでMidzさんの議論を必要がないとするのはダブルスタンダードだと指摘しておきます。--60.254.225.117 2009年8月28日 (金) 17:10 (UTC)
もしまだお読みでなければ、60.254.224.210さんへの返答をお読みください。Midz さんはこの例示について今回の提案でカバーできるという主張をなさっていますので、この具体例について Midz さんとわたくしの間に齟齬はないと理解しています。--Jms 2009年8月28日 (金) 17:30 (UTC)
Midz さんはこの例示について今回の提案でカバーできるという主張をなさっていますということは前改定の不十分な点をMidz案が補充するということだと理解します。ということはMidz案は審議する価値があるということだと思います。--60.254.225.117 2009年8月28日 (金) 18:04 (UTC)
その理解は誤りです。Midz さんの提案がカバーできる、ということは、現行「原則として」条項がカバーできない、ということを意味しません。提案を審議する価値があるかどうかという点については、提案内容の理解の後にのみ可能な判断です。従って、内容理解のための質問に提案者が答えないならば、審議不能でしょう。--Jms 2009年8月28日 (金) 18:16 (UTC)
でも「原則として」という表現が曖昧であるという問題があるという提起がなされているのだからどうすべきかの議論に移るべきでしょう。審議する価値があるかどうかという点については、提案内容の理解の後にのみ可能な判断ですということは少なくとも僕にはMidzさんの提案内容の一部は理解しています。したがって審議移行が可能ですよね(というよりJmsさんが決めることじゃないと思います)。--60.254.225.117 2009年8月28日 (金) 19:20 (UTC)
「原則として」という表現が曖昧であるという点については具体的にどこで困るのか問うていますが具体例の提示がないので検討できません。現状では対案についてわたくしが理解していないという指摘が提案者からありましたので、提案者の意図している内容を問うている段階です。理解していないと明に指摘した以上どこをどう理解できていないかは指摘した方が示すべきでしょう。その場合、理解させるまでの現実的な労力は払うべきでしょうし、またその過程で提案のどこが理解されにくいのかがわかるはずです。それを途中放棄なさったのでこちらは困っています。中途半端な理解で内容の是非について議論しても時間の無駄ですから、まずは内容の確認を優先すべきでしょう。--Jms 2009年8月28日 (金) 20:38 (UTC)

(インデント戻す)内容理解のための質問に提案者が答えないならば、審議不能でしょう。この態度が間違いであることを指摘しておきます。つまり、議論参加者が提案者の意図を理解できないことはよくあることです。だからといって審議不能として議論に入らせまいする態度は誤りではないでしょうか?わからなければ反対意見を述べればよいだけだと思います。--60.254.225.117 2009年8月28日 (金) 19:44 (UTC)

内容理解なしにどうやって審議するのですか? 「わからなければ反対意見を述べればよい」というのは「わからないから反対」と述べろということですか? 内容を理解するための説明に答えない、端的に言えば提案者が自己の主張を説明なく繰り返し合意に至る手順を拒否するという状態で、審議不能だと判断することのどこが「間違い」なのでしょうか。--Jms 2009年8月28日 (金) 20:38 (UTC)
想定している議論の進め方について伝わっていないかもしれないので、書いておきます。最終的にどうすべきかというのは、当該条項がそもそも「表記ガイド」の中で何を意図しているかに依存します。従って、内容の是非についての議論を始める前にその点を明らかにしておくほうが、議論が迷走しにくいでしょう。一方、提案条項の意味するところに通じにくい部分があれば、当該条項の意図とは独立に、提案条項の内容について質疑応答を経て、場合によってはその意味がよりわかりやすい様に修正できるでしょう。この修正は提案条項の意図がより伝わる様にする修正であって、その内容の是非を問う作業ではありません。この二つ、つまり、当該条項のそもそもの意図の検討と、提案条項の内容確認という作業は独立ですから、並行して行えます。当該条項の意図について合意した上で、内容確認済の提案条項について、その是非を検討し、必要に応じ当該条項の意図に沿う形で修正するという進め方をわたくしは想定しています。そのために当該条項の位置づけの議論と、提案内容の確認の二つに節を分けました。で、そのいずれも済まないうちに仕切り直しの上一体議論とされているので、困惑しているわけです。--Jms 2009年8月28日 (金) 23:29 (UTC)
私の提案はガイドラインとしての優劣を論じて最善の文案を選択しようとするもので、今度の要点整理もそれで閉じていて、議論に必要なデータは今までの議論で揃っています。 Jmsさんがまた持ち出された「問いかけ」は本題に無関係との印象で内容は記憶に残っていませんが、Jmsさんのお考えは他の人々にも興味あることがらでしょうから、それをもう一度ここに、それだけ読んで解るように閉じた明確な文章の形で再提示してくださいませんか?。 そうすれば応える意味があるかどうかを一応検討してお応えします。 よろしく。 --Midz 2009年8月29日 (土) 04:30 (UTC)
記憶になければ読み返せばよいことであり、資源を無駄に使うこともありませんので、20090824T1748Zの編集の1921行からの部分をご覧ください。こちらは確認のために問うているのに、それに答える意味がないと判断なさるなら、説明の意思がないと理解せざるを得ません。ものごとのとらえかたは人それぞれですから、内容を理解させるには相応の手間はかかるでしょう。--Jms 2009年8月29日 (土) 04:50 (UTC)

  コメントまず、解決しようとする問題はガイドラインが「原則として」と例外があることを前提に記載されているが、その例外についての具体的な解釈が指示されておらず執筆者に任せているためどうにでも運用できるものになっていることだと思います。つまり、現ガイドラインは機能しないという問題があると判断します。そこで提案についてですがまず独立した項目にすることは積極的な必要性を感じませんが反対はしません。次に文案ですが、「文脈により使い分けられている」はわかりにくいような気がします。それならば「引用の場合」など具体的に列挙したほうがよいと思います。どこに記載すべきか迷いましたので適当なセクションがあれば移動してください。--みや1229 2009年8月29日 (土) 06:57 (UTC)

あまり議論を精読せずに意見投下。「原則として」の語句があるために、「どうにでも運用できる」=「ガイドラインが機能しない」との意見に反論します。少なくとも、「原則として」があるためにガイドラインが無意味になるということはありません。原則に基こうとする方は、その理由を説明する必要がないのに対し、原則に反しようとする方は、それなりの説明が必要となるからです。そもそも私は、方針類を抜け道が無いようにかっちりと定めることは、百害あって一利なしと考えています。さまざまなケースがあり得るのですから、「方針類を見さえすれば、何も考えずに自動的に対処法が定まる」ことを目指すのは間違いです。さて、Midz さんの改訂案は、無用に規定を複雑にしているだけで本質的な部分は何も明らかにしておらず、はっきりと改悪であると私は見ます。ほぼ同じ意味の語句であっても、表記が異なる以上はニュアンスや内包する語感など全く同じであることはあり得ず、「文脈により使い分けられている」という部分が指す正当な使い分けが何であるのか、Midz さんの主観以上のものはありません。表記が揃っていないとキモチワルイ、というのは何となく分かりますが、ウィキペディアは不特定多数のユーザが参加するのであって、トップダウンには馴染まない、という事情を考慮して頂けませんか。某所の繰り返しになりますが、「意見が合えば揃える。意見がどうしても合わなければペンディング」でよいではありませんか。--白駒 2009年8月29日 (土) 09:45 (UTC)

Jmsさんの「問いかけ」に私が答えないのが審議入りしない理由だという主張に対し、「問いかけ」がJmsさんがポインターをつけた文章だとして私の見解を述べます。

 これは「文脈による使い分け」という語句で、Jmsさんのお求めにより私が「文脈」の説明をした文章からJmsさんご自身が個々の語句を取り上げてその意味を事細かに質したものです。 しかし、もともと「文脈による使い分け」という語句はこれを素直に読めば常識のある人ならその意味を容易に感じ取ることが出来るもので、このような机上の哲学論議には馴染みません。 実を言えば、「常識ある人がすなおに読んで違和感を感じない複数表記併存の文章」が「無意識のうちに文脈による使い分けがなされている文章」だ、といえばもっとも的を射た説明になっているのかも知れません。 ですから、具体例であれば常識に基づいて「どういう文脈によりどう使い分けられたか」を説明出来、実際、Jmsさんが持ち出された例はことごとくきれいに説明されています。 それに対し、私達素人が一般論としての哲学論議に入り、しかも一方がまとめる気持を持たない場合は、おそらく議論は輻輳するだけで出口に達することはないでしょう。 ですからお答えすることを辞退したのです。  

要するに、「文脈による使い分け」は世間一般で使われる言い回しですから、普通の人が普通に読めば容易に理解するものです。 もし最初は解りにくい気がしても、実例での説明を数多く見れば自然に感得するものです。 ですからこれに関する哲学論議はまったく必要がありません。 Jmsさんが『自分は哲学論議を経ないと理解出来ない』と主張なさるのは勝手ですが、それを理由に提案の審議入りを妨害して他の人々による審議まで阻害するのは止めて欲しいと考えています。

以上、説明が長くごたごたして申し訳ありませんが、Jmsさん相手だとこのくらい慎重にしないとすぐに議論を脇道に引き込まれますので、なにとぞご容赦ください。 --Midz 2009年8月29日 (土) 11:01 (UTC)

例示にある「日本語としての関数はもともと「函数」と書く。」が「文脈による使い分け」である、というのはわたくしにはすんなりとは理解できませんし、アメリカ合衆国での例などについての Midz さんによる「文脈による使い分け」としての説明はどう「文脈による使い分け」なのかわからないので、もしかしたら「文脈による使い分け」という意味が異なるのかと思って問い、それに対して頂いた答えに不明瞭な部分があったのでそれについて再度問うたのですが、お答えいただけないようです。しかたありませんので、わたくしが理解するところの「文脈による使い分け」によりつつ以下検討します。
Midz さんの提案の方が現行「原則として」よりも優れている、というのは、優劣の基準に依存しますし、その優劣の基準についての合意というのはそれはそれで手間のかかる議論です。Midzさんの主張は一種の演説にわたくしには思えますし、その内容について議論する場として「表記ガイド」のノートはふさわしくないでしょう。しかも、そうした議論をしたとしても、最終的には「…と思う、であるべきだ」をお互いに言い合うだけになりかねません。また、みや1229さんの「原則として、によりガイドラインとして機能しない」という主旨のコメントも、実例がありませんから、「機能しないと思う」「原則として、で十分だと思う」という言い合いしかできません。そこで、こうした言い合いどまりを避けるため、Midz さんの提案自身が有する問題点と、同提案が実際に「原則として」の上位互換となっているかどうかを、文脈条項について検討します。この検討自体は、立場には依存しないでしょう。
「同じ意味・内容であっても文脈により使い分けられている表記は別の語であって、統一の対象にはなりません。」の、端的な例として、現時点での記事[[竹]で行われている、生物学的文脈では「タケ」、それ以外の文脈では「竹」という場合を考えます。「普通の人が普通に」考えれば、「タケ」と「竹」は同じ語を片仮名と漢字でそれぞれ表記したものです。それが別の語だというのですから、ここで言われている「語」というのは、通常の意味での語ではないことになります。「普通の人が普通に」読むとまずこの点で混乱するでしょう。「別の語であって、統一の対象にはなりません。」ということは、別の語であれば統一の対象とはならないということを含意します。これも、「普通の人が普通に読めば容易に理解する」ところでしょう。つまり、同じ意味・内容の別の語は全て統一対象から外れることになります。逆に言えば、「表記はページ内で統一します」の対象となるのは、単一語の複数の表記のみ、つまり、片仮名表記と漢字表記や、ゆらぎのある片仮名表記、漢字の字体の違いなどだけが統一対象となります。「表記ガイド」は学術用語、略語・略称、俗語・俗称・隠語・業界用語といった節で、そうした単一語の表記を以外のものも対象としていますから、「原則として」というのは同義語についても対象としているのですが、Midz さんの案では単一語の複数表記のみが統一対象となっており、「原則として」よりも制約がゆるくなっています。さて、単一ページ内での文脈による使い分けというのは、そのページの内部に意味内容が異なる文集合 (たとえば、「たけ」について生物学的側面を述べている文集合と、それ以外の側面について述べている文集合) があるということを前提とします。一方、「日本語としての関数はもともと「函数」と書く。」という例示は単文であり、ここにその様な文脈を見出すことはできません。にもかかわらずここに Midz さんの言う「文脈による使い分け」すなわち「その表記がそれを含む文章の中でどういう関連性を求めて使われようとしているかを判断して、その情況にもっとも適切な表記を選ぶこと」がなされているとのことです。これは「普通の人が普通に読めば容易に理解」できるものではないでしょう。
アメリカ合衆国での例についての Midz さんによる「文脈による使い分け」としての説明は、混同の恐れの有無によって文を分類し、それをもって「文脈」と称していると思われます。これは、「普通の人が普通に」考える文脈とは違うでしょう。
以上の点からすると、Midz さんの提案は、特殊なレトリックに基づいており「普通の人が普通に読めば容易に理解」できるものではありません。読んだ人の理解によって「原則として」がカバーしていたものがカバーされないと解釈されるか、または、カバーはしているが表記統一が事実上無効化されるものとなっています。その意味で、「原則として」の上位互換であるとは言えません。
…だけでは収まらないやもしれないので、立場に依存する意見表明もしておきます。表記ガイドの位置づけや単純さという観点からわたくし自身は白駒さんと、また表記の統一条項の位置づけについては Makotoy さんと同じ意見です。「原則として」は、分野や個別記事の事情に (少なくとも看過できない問題が実際に生ずるまでは) 任せることで、表記ガイドはどうあるべきかという一般的で合意が必ずしも容易ではない議論を避けるべく用いました。このあたりは価値規範依存で議論を始めると収拾がつかなくなりかねませんので、どうしても必要不可欠でなければその議論は避け、問題が実際に発生してから検討すべきだと考えています。
Midz さん提案の条項を採用するかどうかとは独立に、表記の統一に関する条項を「その他」とは分けるかどうかという検討は可能ですのでその点を検討します。表記の統一条項の位置づけ (については Midz さんとは意見が異なりますが) からすれば現行のままとすべきだと思います。
繰り返しになりますが、具体的問題点がなければどうしても議論は抽象的にならざるを得ず、何か見えないものと戦うことになりかねません。抽象的議論を望まないなら、具体的問題が生じてから議論すべきですし、そうすればガイドラインかくあるべしという議論もしないで済みます。--Jms 2009年8月29日 (土) 11:57 (UTC)
改定前後を比較してみました。(改定後)は原則としてにより例外適用を認めていますが、それがどのような場合か規定されていません。つまりあらゆる例外適用が可能といえます。現時点では改悪でしょう。これは具体的問題だと思います。以下ガイドライン文。
  • (改定前)表記はページ内で統一します。ウィキペディア全体での統一に過度にこだわる必要はありません。
  • (改定後)原則としてページ内の表記は統一しますが、ウィキペディア全体での統一にこだわりすぎないでください。
--60.254.240.181 2009年8月29日 (土) 13:26 (UTC)
「原則として」によりあらゆる例外適用が可能であるということと、その蓋然性があるというのとは別のことです。蓋然性を示してください。もし、「原則として」を根拠に何でも例外で処理するのがウィキペディアの平均的執筆者だったとしたら、「表記ガイド」にある「原則として」、あるいは Wikipedia 名前空間にある少なくとも 458 件の「原則として」により、日本語版ウィキペディアは既に大混乱に陥っていたことでしょう。そのあたりは白駒さん御指摘の通りです。--Jms 2009年8月29日 (土) 13:41 (UTC)
僕は現状のガイドライン文も改善したほうがよいという意見を出しただけです。なぜ原則として、がそんなに怖いのかなどという挑発的な言葉を返されないといけないのでしょうか?このような態度では議論を妨害していると捉えれても仕方がないですよ。改善できるところは直していきましょうよ。--60.254.240.181 2009年8月29日 (土) 14:03 (UTC)
挑発的に思えたならそれは失礼しました。一般論として、「原則」という表現を嫌がるのはなぜか、という疑問を述べたのであって、特定の個人に向けた訳ではありません。多様な分野、多様な内容を扱わねばならない百科事典においては、基本的方向性のみ示して、細部は記事毎分野ごとの事情に任せる必要がある場合もありましょうし、対象は百科事典を編纂しようという人々なのですから、相応の合理的対応は平均値としては期待して良いと思います。それでも問題が発生して、改善になる事があるなら、改善しましょう。しかし、問題があるかどうかまだわからない、あるいは具体的な問題かわからないうちに議論するのは、資源の使い方として適切とは思えません。問題点に具体性がなければ、抽象論しかできません。可能性がある、では蓋然性は、というのが具体的議論というものでしょう。--Jms 2009年8月29日 (土) 14:18 (UTC)

(インデント戻す)なぜそこまで「原則として+例外を規定しない」という何でもありの欠陥ガイドラインを守ろうとするのか理解できません。なにやら別の意図があるように思えてきました。だいたい、Jmsさんの行った改定の時には具体的問題が起きていないし、Jmsさんが言っている項目名のガイドラインとの不整合という問題を解決するなら適切な文面に改定すべきでしょう。--60.254.240.181 2009年8月29日 (土) 14:56 (UTC)

具体的問題については既に何度も述べていますので繰り返しません。問題なく広く用いられている表記を追認しただけのことです。「なにやら別の意図」なぞはありません、「原則として」で十分であり、また単純で良いと思っています。なぜそこまで「原則として+例外を規定しない」という何でもありの欠陥ガイドラインを守ろうとするのか理解できません、というのと同様に、なぜそこまで「原則として」の挿入を欠陥だと考えるのか理解できません、とも言えます。それは「表記ガイド」を方向性を示す指針だと考えているか、判断基準を示す境界を定めたものだと捉えているのか、という違いに帰着するかと思います。Wikipedia:表記ガイド冒頭には「できるかぎりこのガイドラインに従うことが推奨されます。ただし、このガイドラインはすべての記事に絶対に適用しなければならないものではありません。」とありますから、原則挿入反対の立場からすると「表記ガイド」全体が欠陥ガイドラインということになるのかもしれません。冒頭にそうあるのだから、一々「原則として」など入れずともデフォルトで入っているのだ、という立場もあるでしょうが、実際の運用上は「原則として」がないと一律で機械的に対処する編集が行われトラブルとなることがあります。では「原則として」があるとだらしなくなるかというと、原則になるべく従おうとする傾向が見られます。このあたりは白駒さんが既にお書きの通りです。改訂したばかりですし、しばらく様子をみてからでよいではないかと思いますが…すくなくとも丸括弧についての改訂の際はそうしました。影響を見定めることなく改訂を続けていては改訂のための改訂でしょう。--Jms 2009年8月29日 (土) 15:18 (UTC)
Jmsさんの書き込みは異常に長いため精読できていないというのが正直なところで改定の理由が具体的かどうか理解しかねますが、それを解決するのに原則としてだけの挿入はあまりにもいい加減な解決策です。人間だから不備があってもいいんです。でも、その改定の改善点を指摘されても議論にさえ応じない姿勢がいい加減なのです。まぁそもそも、改定の議論には具体的問題の存在が必要なんて決まりはありませんし、Jmsさんの改定根拠が許されてMidzさんの改定根拠が許されないなんて勝手すぎます。--60.254.240.181 2009年8月29日 (土) 16:02 (UTC)
「原則として」をきちんと書こうとすると複雑になります。複雑なものを検証するのだから長くなります。それはしかたのないことです。ましてや、「慣用的併存」問題を完全に解決、という主張なのですから、完全性の検証が不可欠ですが、それは手間のかかることですし、その労力に見合うことかどうかも疑問です。Midz さんの案は、複雑なことをコンパクトに表現しようとして、全て「文脈による使い分け」と位置づけ、かえってわかりにくくなってしまっていると思います。Midz さんは「実例での説明を数多く見れば自然に感得する」と仰っていますが、残念ながら Midz さんの例示でわたくしは却って混乱してしまいました。「原則として」では解決できない具体的な問題点が「文脈による使い分け」では解決できる、といった例があればわかりやすいし検討しやすいと思います。
例外的に扱わねばならないかどうかは、個別検討によらざるを得ませんから、一般論である表記ガイドを「原則として」にとどめておくのはいい加減だとは思いません、良い加減だとは思いますが。「改定の改善点を指摘されても議論にさえ応じない姿勢」というのは適切な描写ではないと思います。改定案についてその内容、意図を問うているのは十分内容に踏み込んでいますし、手続き論を論拠に差し戻しが主張された際も内容について検討しています。具体的問題がないと抽象的に議論しなければなりませんし、そうなると議論は困難です。それを問題視しています。Midz さんの改訂根拠が許されない、などとは誰も言っていません、具体例がないと「原則として」の問題点を具体的に検討できない、と言っています。--Jms 2009年8月29日 (土) 16:27 (UTC)

(箇条書きのためインデント戻す)では具体的に問題を示しましょう。以下に列挙する文は表記ガイドの原則としてを含む規定です。注目すべきはこれらのすべてにおいて原則が外れる場合が明示されていることです。つまり原則としてという例外を認める一方、その例外について規定しているのです。これが正しい規則の文です。しかし例外を明示せず認める現在の文は規則の文として間違いなのです。間違いは正さないといけないですよね。

  • 漢字の字体は、原則として常用漢字表に従います。
  • 外来語は原則として片仮名表記。
  • 括弧類と句点が重なるときは、原則として・・・
  • 波ダッシュ・波ダーシ(「〜」など)やチルダ「~」は原則として用いず、
  • 繰返し符号(踊り字)とは「ヽヾゝゞ〃仝々」のようなもののことです。 繰返し符号は「人々」のような単語につく「々(同の字点)」以外は原則として使わないでください。
  • 数字は原則としてアラビア数字を用います。
  • 日本語人名(日本名)以外の人名は原則として片仮名書きにします。
  • 学術用語は、原則として文部科学省が版行した『学術用語集』に準じます。
  • 俗語・俗称・隠語は、原則として使わないでください。
--60.254.240.181 2009年8月29日 (土) 17:28 (UTC)
「約物の使い方」第一文は縦書き横書き両対応の例外を例示していませんし、「年月日・時間」も西暦を示さなくて良い場合や和暦の太陽暦移行以前の例外の例を示していませんが、これらは「原則とします」あるいは「原則」であって「原則として」ではないので対象外ということでしょうか。波ダッシュ二回目の「原則」も例外の例示がありませんし、学術用語も例外例示とは言えないでしょう。それはさておき、例外例示のない「原則として」が「間違い」だという点には同意しませんが、例外の例示が必須だというのなら、「たとえば記事冒頭で別表記を示す場合や、文脈によって表記を使い分ける場合はページ内で複数表記を用いて構いません。」とでも「統一しますが、」または「こだわりすぎないでください。」に後置すれば良いでしょう。--Jms 2009年8月29日 (土) 20:08 (UTC) 後置パターン追加 --Jms 2009年8月29日 (土) 20:25 (UTC)

それらしい文が出てきたので比較のためまとめて提示します。


Midz文
  • 表記はページ内で統一します。
  • 同じ意味・内容であっても文脈により使い分けられている表記は別の語であって、統一の対象にはなりません。(例 「日本語としての関数はもともと「函数」と書く。」)
  • ページを超えたウィキペディア全体での統一には過度にこだわる必要はありません。
小改訂案a
  • 原則としてページ内の表記は統一しますが、記事冒頭で別表記を示したり、文脈によって表記を使い分けるといった場合にはページ内で異なる表記を用いて構いません。ウィキペディア全体での統一にはこだわりすぎないでください。
小改訂案b
原則としてページ内の表記は統一しますが、ウィキペディア全体での統一にこだわりすぎないでください。たとえば記事冒頭で別表記を示す場合や、文脈によって表記を使い分ける場合などではページ内で異なる表記を用いて構いません。

Midz文にあったいわゆる全角空白は除去またはいわゆる半角空白に置き換えしました。--Jms 2009年8月29日 (土) 21:45 (UTC)


Midz文とJms文との機能の差を示すために次の2つの例文を提示します。
  •  文A:「関数」は昔の中学校の数学教科書では「函数」と表記された。
  •  文B:三角関数は初等超越函数の1つで、指数関数、双曲線函数の類縁である。
文AはMidz文では「正当な文章」と認められ、Jms文では「ルール違反ではあるけれども例外として容認される」との差はありますが、いずれもOKがでていることで結果は変わらないといってよいでしょう。
一方、文BはMidz文では、これが文脈による使い分けとの説明は不能ですので排除されます。 しかし、Jms文では文Aとの区別をする根拠がありませんので「容認」されます。
私は文Aは正当と認め、文Bは排除するようなガイドラインが望ましいと考えますが如何でしょうか。 --Midz 2009年8月30日 (日) 05:30 (UTC)
文Aが文脈による使い分けであるというのを説明していただけますか。そこがそもそも飲み込めません。文Aが文脈による使い分けであるなら、文Bも文脈による使い分けであると思います (高等学校学習指導要領に登場するものは「関数」、それ以外は「函数」という「文脈」)。Midz さんの「文脈による使い分け」というのは、実は意味内容による使い分けということであって、意味内容の単位のとりようでいくらでもすり抜けられると理解しています。単文について文脈としてしまったことが問題ではないかと思います。その確認のため Midz さんの仰る「文脈」や 「文脈による使い分け」についてお尋ねしたのです。
現行規定、小改訂案a、b ともそもそも文Bの様な表現を意図的に採用する人がいるとは想定していませんので排除もしていませんが、文Bの様な表現を意図的に用いる事例があるのでしょうか、そして文Bを、その内容ならびに表現によってではなくガイドラインによって排除しなければならない理由があるのでしょうか。ガイドラインに過剰な期待をなさっているのではないかと思います。--Jms 2009年8月30日 (日) 06:43 (UTC)
どこにひっかかりを感じているか、すこしわかってきたので、文Aが文脈による使い分けであるという説明の際の参考になるかと補足しておきます。文脈による表記の使い分け、といわれると、わたくしは、文脈 A では表記 X が用いられ、文脈 B では表記 Y が用いられる、という状況を想定します。従って、文脈による表記の使い分けの例示には文脈が複数必要なはずです。文Aや、提案の例示「日本語としての関数はもともと「函数」と書く。」はわたくしには一つの文脈に思えるので、そこに文脈による表記の使い分けを見出すのが困難です。また、広辞苑で「文脈」を調べると「文中での語の意味の続きぐあい。文章の中での文と文の続きぐあい。」と直接的な説明が与えられています。これを文Aや提案の例示に適用すると、文Aや提案の例示に登場する表記は、意味の続き具合において使い分けられているのですから、当該文の中で異なる意味を持っていることになります。意味が異なる表記に「同じ意味・内容であっても文脈により使い分けられている表記は別の語」というのは適用できませんから、文Aや提案の例示がこの条項の対象になるのかどうか、よくわからなくなってしまいます。このあたりが、文Aや提案の例示が文脈による使い分けである、というのを飲み込めなくしているのではないかと思っています。このあたりを解消する説明をしていただければ幸いです。--Jms 2009年8月30日 (日) 10:06 (UTC)
お答えします。 
まず問題の起こりは、「表記はページ内で統一します。」という規定だけですと、「常識的には当然な複数表記併存」(「慣用的併存」)も厳格にいうと認められなくなるので、どう対処するかというJmsさんの問題提起でした。 ところで人はみな、特に理由がなければ同じ意味・内容の表記は統一した方がよいと感じているものですから、複数表記が併存する文章を見て違和感なしに自然な文章だと感じるとすれば、それにはそれなりの理由があるはずです。 その理由というのは、「その文章のストーリーの流れからするとこの2つの表記は別の語だと感じられる」からだということです。 しかし、「あなたが別の語を感じる複数表記は統一の対象にはなりません」では条文になりませんので、そのことを客観的にとして持ち込んだのが「文脈による使い分け」という表現です。 ただ、この表現は上で述べた「感じ」に客観性を持たせるために思いついて持ち込んだものですから、これが最善の表現かどうかは分かりません。ですからもっと解りやすいよい表現をご教示いただければ修正するにやぶさかではありません。
さて、「文脈」という言葉ですが、小学館の「国語大辞典」によれば第一義として「文のすじみち。 文章の続きぐあい。 文章の脈絡」とあります。 ですからこれは「その文章の構造やなかの語の続きぐあい、さらには周りの文章との関係などを通して表現された、その文章のもつストーリーの流れ」と考えるのが適当と思います。 つまり、「文脈による使い分け」は「文章の流れからすると複数の表記はこう使い分けられた別の存在として併存している」ということです。
そこでいよいよ文Aの分析に移ります。 文Aは一見して解るとおり、2つの表記、「関数」と「函数」との関係を説明しようとする文章という構造をもっています。 つまり「2つの表記の関係を説明する」というのが文Aのストーリーであり、文脈です。 そしてこの文章ではこの文脈によって2箇所ある「候補地」の一方を「関数」とし他方を「函数」とする、「関数」と「函数」の使い分けが行われ適正に配置されます。 これらを混同したり交換したりすることは文章の意味を変えてしまうので許されません。 ですから当然、2つの表記は統一の対象にならないことになります。
Jmsさんの質問に即していえば、「文Aや提案の例示に登場する表記は、意味の続き具合において使い分けられているのですから、当該文の中で異なる意味をもっていることになります。」とあるまさにそのことが私が「文脈による使い分け」と呼んでいるものです。 つまり「意味の続きぐあいにおいて」と言うのはあなたがすぐ上で引用している広辞苑の文章から言ってもまさに「文脈」そのものですから、それは本来同じ意味の表記がある「文脈」のなかにおかれると異なる意味ももつようになり、統一の対象にならなくなる、という私の主張そのものを表しています。 ですからこの件に関してはあなたはまさしく私のいうことを正しく理解しておられることになります。 ただ少し気が回りすぎて行き過ぎてしまっただけという印象です。
文Bについて言えば、そのストーリーは4つの言葉の関係を説明することですが、いかに頭を使っても「指数関数」と「双曲線函数」とで「関数」と「函数」とが使い分けられている理由を提示することは不可能です。 ですからMidz文によればこれは排除されます。
最後に強調したいのは、上のような経緯でこの条文ができたものですから、これは「慣用的併存」のケースをすべてカバーしていることです。 そして表記の統一でほかに除外すべきケースは今のところ知られていません。 ですからこの条文があれば「原則として」は不要ということになります。 そしてこの語句は不要であるのみならず、文Bのような明らかにおかしい文章も「容認」する根拠にもなりますから、条文から取り除くべきだというのが私の主張です。 いかがでしょうか。 --Midz 2009年8月31日 (月) 07:28 (UTC)
Midz さんの仰っているのは、「異なる意味で用いられている表現は統一しない。表現の意味が異なるとは、その表現を別の表現に置き換えた場合に、文の意味が変わってしまうことをいう。それ以外の場合は表現を統一する。」ということでしょうか。--Jms 2009年8月31日 (月) 09:26 (UTC)
言葉遣いが私の感覚と今ひとつしっくりしませんが、内容においてはおおむねその通りだと思います。 ただ、「置き換えで文の意味が変わってしまうかどうか」だけで「統一するか否か」を決めると、「タケ/竹」の場合のように別途に使い分けがきちんと定義されている表記の取扱いに不都合が生ずる恐れがありますから注意してください。 --Midz 2009年9月1日 (火) 03:24 (UTC)
言葉遣いの違いというのはこの手の規程を作る場合には結構問題になるので、しっくりくる様に調整する必要がありましょう。さて、Midz さんの「ただ」以下が、わたくしにとってまさしく Midz さんの文脈条項を理解しにくくしている部分でもあります。理解しにくいため、内容についての判断もできず困っている/た (現在形か過去形かまだよくわからない) わけです。記事における「竹」と「タケ」というのが文脈による語の使い分けだというのは理解できるのですが、文Aは「置き換えで文の意味が変わってしまうかどうか」ということであって、意味が違う以上「同じ意味・内容であっても文脈により使い分けられている表記」には該当しませんし、函数、関数というのは後者が前者に対する宛て字による表記である以上、「別の語」でもありません。また、単文における語の意味的つながりを文脈と呼ぶのはわからなくもありませんが、文Aがそれに該当するというのは独特の解釈だと思います。こうした事からすると、Midz さんの文脈条項を「文脈によって使い分けられている表記や、置き換えると文の意味が変わってしまう表記は統一しません。」と言い換えても問題なければ、内容は理解できます。こう言い換えても意味は変わりませんか? --Jms 2009年9月1日 (火) 10:02 (UTC)
「交換により文の意味が変わる」は「文脈による使い分け」の結果の典型例の一つですから、その両者が別物といういう印象を与える貴文案には賛成致しかねます。 ただその場合を例として書き添えることは文脈の意味の理解を深めるのに役立つでしょうから、そうする可能性はあります。 あとでそれを考慮した文案も提示しますから、眺めてみてください。
文案を考えるにあたって、もう一度、原点に立ち戻って考えてみます。
出発点は本来統一された表記を好む人が複数表記が併存する文章をみて何故違和感なく自然だと感じるかの考察です。 私はそれはその文章のいろいろな要素を無意識のうちに総合的に判断して、それを別の語であると感じるからだと考えました。 この要素のなかには、文章のもつ意味の流れ、つまりストーリーや、中の語の配置、語と語とのつながり具合などいろいろなものがあります。 そしてこれらを総合的に捉える語として「文脈」という概念があります。 そして「文脈による使い分け」ということで今までに取り上げられた「慣用的併存」をすべて説明することが出来ました。
これは「総合的判断」ですから、場合により基礎となる要素が違います。 例えば「日本語としての「関数」はもともと「函数」と書く」では語と語とのつながり具合がキー要素で、この場合は2つの表記を交換すると文の意味が変わります。 しかし、項目「アメリカ合衆国」では「アメリカ合衆国」と「アメリカ」は紛れがない場合は簡便な「アメリカ」を用い、紛れの恐れがある場合や「国家」を指す場合は「アメリカ合衆国」を用いるというように「場合による」使い分けがなされます。 そしてそれぞれの「場合」はその文を総合的に見て判断するものですから、まさに「文脈による」判断です。 そして「アメリカ」は「アメリカ合衆国」で置き換えても多少煩雑になって読みにくくなるだけで意味は変わりませんが、逆の置き換えは時に誤解を生むおそれがあります。 例えば「アメリカ合衆国でもっとも高い山はマッキンレーである」は紛れもない事実ですが、これを「アメリカ」で置き換えると、南北アメリカ大陸の最高峰はアンデス山脈の「アコンカグア」ですから時には誤りだということになります。 これら「使い分け」は基礎となる要素は違いますが、いずれも「文脈による使い分け」であることは確かです。
以上のような経緯から、「文脈による使い分け」は「慣用的併存」を保証する要の概念です。そして「文脈」とは「文のもついろいろな要素を総合的に捉える概念」ということを理解して貰った上で、条文は「文脈による使い分け」1つで通すのが最善と考えます。
ここで改めて条文を考えるにあたって、Midz文の第1項と第2項はいずれもページ内の表記の統一を扱っていて、1つにした方がよいように思えてきました。 そしで第1項は簡易に過ぎて意味が曖昧なところがあります。 そこでこれを精密化したものを含めて、まず次の文案を提案します。
  • MidzA文:「ページ内では同じ意味・内容の表記は統一します。 ただし、同じ意味・内容であっても文脈による使い分けがなされている表記は統一しません。(例、「関数」は昔の数学教科書では「函数」と書かれていた。)」
そしてそれが理解を容易にするのであれば、ご提案の一部を添加して、
  • MidzB文:「ページ内では同じ意味・内容の表記は統一します。 ただし、同じ意味・内容であっても交換すると文の意味が変わる表記など、文脈による使い分けがなされている表記は統一しません。(例、「関数」は昔の数学教科書では「函数」と書かれていた。)」
と書くことには異議ありません。
以上です。 よろしく。 --Midz 2009年9月2日 (水) 08:26 (UTC)
繰り返しになりますが、Midz さんの文案を受け入れるかどうか以前に、内容が理解できない/しにくい/腑に落ちないので、困っています。「関数」は昔の数学教科書では「函数」と書かれていた、という文を、文脈による使い分けの例だと言われても、どうにもピンと来ないのです。文脈による表記の使い分けというのは、文脈 p では X という表記が、文脈 q では Y という表記が、それぞれ用いられる、とうことだと思いますが、「関数」は昔の数学教科書では「函数」と書かれていた、という文における文脈 p と q、すなわち「関数」を用いる「語の意味の続き具合」と、「函数」を用いる「語の意味の続き具合」は、それぞれ具体的にどの部分なのでしょうか。文脈による使い分けという以上、文脈が複数ある筈だと思うのです。--Jms 2009年9月2日 (水) 08:40 (UTC)
「文脈による使い分け」という言葉遣いが理解できないということですが、それならば意味は同じですが「文脈に基づく使い分け」といえば解っていただけますか?。 とにかく、人が何故「慣用的併存」を違和感なしに受け入れるのかをお考え下さい。 --Midz 2009年9月2日 (水) 11:57 (UTC)
「文脈に基づく使い分け」と言い換えても、「関数」は昔の数学教科書では「函数」と書かれていた、という文において「関数」を用いる「語の意味の続き具合」と「函数」を用いる「語の意味の続き具合」は、それぞれ具体的にどの部分なのかはわかりません。「使い分け」という以上、それがあるはずだと思うのです。文脈による/基づく、の部分ではなく、「使い分け」の部分がピンと来ないのかもしれません。記事の例ならわかるのですが、「関数」は昔の数学教科書では「函数」と書かれていた、という文だとわからなくなります。「慣用的併存」というタームを持ち出さずに説明していただけませんか。--Jms 2009年9月2日 (水) 15:03 (UTC)
例文の場合には、「本来同じ意味・内容をもつ2つの表記 AとBから、この文章の文脈(つまり、構造・ストーリー)では候補地aには表記Aを、候補地bには表記Bを選んで配置するのが適当である」とするのが「AとB を文脈に基づいて使い分ける」と言う意味です。 AとBの交換は文意を変えるので、この文脈では許されません。 このように「単文の文脈による使い分け」は充分意味を持ちます。 --Midz 2009年9月3日 (木) 04:55 (UTC)

まだJmsさんとの議論は続いていますが、この案件はJmsさんと私との専有物ではありませんので、この辺で一度他の方々のご意見をいただきたいと思います。 よろしくお願い致します。

なお、「文脈による使い分け」は文面だけでは内容が解りにくく、判断の基準として使いづらい、とのご意見がありますので、条文の後に次の注意を書き加えることを考えています。 これについてもご意見をください。

  • 「注意:なお普通に読んで気にならない複数表記の混在は、ほとんどすべて「文脈に基づく使い分け」により統一の必要のないことが説明できますので、心配は要りません」

 --Midz 2009年9月3日 (木) 06:32 (UTC) --Midz 2009年9月3日 (木) 06:44 (UTC)

Midz さんの「文脈による使い分け」説を細かく検討しなければならないのは、それが (すくなくともわたくしにとって) わかりにくい反面「慣用的併存」の保証する要の概念だと主張されているということもありますが、Midz さんの主張が「文脈による使い分け」説の完全性を前提とする Midz 文の優越性にあるからです。Midz さんの主張は、
  1. 「文脈による使い分け」は「慣用的併存」を完全に説明する。
  2. 表記の統一で除外すべきケースとして知られているのは「慣用的併存」のみである
  3. 従って「文脈による使い分け」は表記の統一で除外すべきケースを全て説明する。
  4. Midz 文は除外対象を過不足なく除外しているのに対して、「原則として」は除外範囲が明確でなく劣っている。
という構造をしています。「完全に説明する」が「ほとんどすべて」に弱められてしまいましたが、ということは「文脈による使い分け」では説明できない「慣用的併存」が存在するということです。「慣用的併存」というのは「常識の範囲内の複数表記併存」のことだそうですから、「文脈による使い分け」説は「常識」を説明しようとしているのでしょう。説明ができているとはわたくしには思えませんし、また説明が必要な場合だとも思いません。それはそれとして、「文脈による使い分け」説をひとまず置くと、「慣用的併存除いて表記は統一する」という Midz 案の骨子は「常識の範囲内の複数表記を併存させてよい」ということであり、「原則として表記は統一する」というのと同じことです。Midz 案と現行規程との差は結局のところ、「常識」を「文脈による使い分け」説で説明するところにあるわけです。常識が明解に説明できているので、Midz 案の方が対象も明解であり、優れいてる、と。しかしながら、不思議なのは、除外範囲が曖昧な筈の「原則として」に対して、Midz さんは除外範囲が「慣用的併存」だけだと判断できているということです。これは、「原則として」から除外範囲を推定できているということに他なりませんから、「原則として」でも十分明解だということになります。もしそうであるなら、「文脈による使い分け」説の開陳なぞ必要ないのではありますまいか。
「文脈による使い分け」説それじたいが、本質的な問題をかかえていると思います。表記を入れ替えると文の意味が変わってしまうということは、表記の意味が異なるということであり (それは表意文字であれば十分あり得ることです)、「同じ意味・内容であっても交換すると文の意味が変わる」というのは明らかな矛盾です。
例文について「函数」と「関数」が同じ意味だと Midz さんは主張していますが、実はこれらは単なる文字列、記号であって、意味には結びついていません。たとえば (文の内容は事実ではありませんが) 「地図上の市役所の記号は○から◎に変更になった」という文における○や◎と同じ働きをしているのであって、それ自体は「表記『函数』」「表記『関数』」という別の意味 (文中の役割) です。意味の異なるものを並べた例文を「同じ意味・内容であっても交換すると文の意味が変わる」の例示としては理解できるわけがありません。これは、表記論である「表記ガイド」に意味論を持ち込んだ故の問題です。
「文脈による使い分け」説からすれば「単文の文脈による使い分け」で説明できるであろう例文として「function の訳語である『かんすう』の漢字表記としては『函数』、『関数』が用いられるが、『干数』も候補として検討された」を考えてみます。『函数』および『干数』を『関数』に置き換えると、この文は「function の訳語である『かんすう』の漢字表記としては『関数』、『関数』が用いられるが、『関数』も候補として検討された」となり、何が言いたい文なのかわからなくなります。ではこれは文脈 (というのは構造だったりストーリーだったりするそうですが) によって使い分けがなされているのでしょうか。どういう文脈で『函数』が、またどういう文脈で『関数』がそれぞれ使われているのでしょうか。そうした事が示せないのですから、表記の入れ替えで文の意味が変わる場合について「文脈による使い分け」説は説明になっていません。表記論に意味論を持ち込む問題点に目をつぶったとしても、そもそも説明できていないのですから、混乱をもたらすだけでしょう。また、もしそれで説明できているなら、「原則として」の除外対象が十分理解できていることになりますから、やはり説明不要でしょう。
「原則として」の除外対象が明解にできるかどうかはまだわかりません。除外対象の例示は可能だと思いますが、その境界が明確にできるかどうかは、個別事例を集積すればわかるかもしれません。しかし、明確化が必要でしょうか。「出発点は本来統一された表記を好む人が複数表記が併存する文章をみて何故違和感なく自然だと感じるかの考察」なぞせずとも、「違和感なく自然だと感じる」併存は許容されるし、そうでないものはいずれかの表記に統一される。それだけのことであり、「原則として」と、せいぜい除外例の例示で十分です。「違和感なく自然だと感じ」られるならそれで十分ですし、ましてやきちんと説明できないのに説明しようとして矛盾に陥る必要もないでしょう。まずは単純な規程から始めて、具体的な問題があればより複雑な規程に必要に応じて改訂すれば十分ではないでしょうか。--Jms 2009年9月3日 (木) 09:20 (UTC) 一部表現補 --Jms 2009年9月3日 (木) 13:50 (UTC)
Jmsさんの今回のコメントは事実誤認と故意の誤読もしくはレトリックによる揚げ足取りを並べただけで内容が支離滅裂ですので、いちいち反論しても仕方ありませんが、念のため典型的な1つだけ指摘しておきます。
それは「不思議なのは、除外範囲が曖昧な筈の「原則として」に対して、Midzさんは除外範囲が「慣用的併存」だけだと判断できているということです。 これは「原則として」から除外範囲が推定できているということに他なりませんから、「原則として」でも充分明確だということになります」という下りです。 どこを読むとそういう話になるのか見当がつきませんが、私が言ったことは「統一から除外すべきだと知られているのは「慣用的併存」だけだ」と言うことです。 そして「原則として」ではこれをはみ出して、前にMidz200909300530で提示した「文B」というおかしな文を「容認」してしまうから基準として不完全だと言ったものです。
ただ、注意書きでは、「慣用的併存」と「「文脈に基づく使い分け」で扱えるもの」との関係は両者が同じものだと言い切れるほど密接ではありませんので一歩引いた表現として「ほとんどすべて」と書きましたが、これに反する例は今まで見つかっておらず、その概念の誕生の経緯からして今後も生じないであろうと思われる情況のもとでは、ここは「すべて」と言い切った方がよいのかも知れませんし、またそれでは不必要にきつい表現になってしまうということかも知れません。 要は文から受ける感じの問題です。 --Midz 2009年9月4日 (金) 06:08 (UTC)
(補足)ただし、世の中には「文B」でも気にならないという人が居るかもしれませんので、注意書きにはやはり「おおむね」くらいは書いておいた方がよさそうです。 --Midz 2009年9月4日 (金) 09:29 (UTC)
文B については Midz 説でも排除できない事は既に述べました。これは「文脈」の任意性に由来することであり、その任意性を排除するためにたとえば「常識」を導入せざるを得ないなら、結局は排除性において「原則として」と大差ないと思います。「要は文から受ける感じの問題」というのも、「原則」というのをうまく運用できるかどうかというのと大同小異だと思います。「おおむね」などと弱めねばならないのなら、難解ないし自己矛盾の危惧のある考察を開陳するよりは、「原則として」に例外例示を加える方がシンプルで良いと思います。記事の多様性を覆い尽くせ、かつ、誤解を招かない表現を探すのは容易ではありません。問題が生ずるまでは、個別記事の書き手に委ねるのが運用コストとして妥当だと思います。--Jms 2009年9月4日 (金) 12:14 (UTC)
「文BについてはMidz説でも排除できない事は既に述べました」についてはその趣旨の文章は私は文Bを提示していらい目にした記憶がありません。 文Bを提示した文章の中で私は「文BはMidz文では排除される」旨を書きましたが、それにつづくJmsさんのコメントではそれに対する反論はなく、「文Bをガイドラインによって排除しなければならない理由があるのでしょうか」と書いておられますから、その時点ではMidz文は文Bを排除すると認識しておられたのでしょう。 ですから、その後に何処かに書かれたのでしょう。
ところでMidz文で排除出来ないということは,文Bが「文脈に基づく使い分け」で説明されることを意味します。 そしてMidzスキームは文全体を総合的に判断するということを理念の上で「文脈」という言葉に集約したものですから、常識がおかしいと判断する複数表示併存は自然に排除されるはずです。 それをどういう論理ですり抜けたのかには大いに興味があります。 ですから文Bの、特に指数関数には「関数」を、双曲線函数には「函数」をという使い分けを文脈からどう説明するかをここに詳しく述べて頂けませんか?。
それから今度のJmsさんのコメントにもことさら誤読して印象を曲げることが行われています。 それは「おおむね」の役割で、これは注意という簡易鑑定法だけでは「文Bでも気にならない」という人がいるとそのまま文Bが正しい文だとされる恐れがありますので、その時は本文によって判断すべきだという余地をのこすために入れたものです。 ですから本文に無関係で、本文を弱めたことになりません。 ほんとにそれが読みとれないのか、それとも戦略上解らない振りをしているだけなのか、私には見当がつきませんが。
最後に「文脈に基づく使い分け」が「慣用的併存」に過不足なく対応してすっきりした基準を与えることは今までに示した通りです。 それをことさら退けて曖昧な「原則として」で押し通そうとするのには賛成できません。 --Midz 2009年9月5日 (土) 02:01 (UTC)
「文BについてはMidz説でも排除できない事は既に述べました」についてはその趣旨の文章は私は文Bを提示していらい目にした記憶がありません。との事ですが、20090830T0643Zの編集の二文目で「文Aが文脈による使い分けであるなら、文Bも文脈による使い分けであると思います (高等学校学習指導要領に登場するものは「関数」、それ以外は「函数」という「文脈」)。」と述べております。これだけはっきり書いてあるのですから、おそらく見落とされたのだろうと想像しますが、そういう見落としまたは読み取りかたの違いが少なからずあるので、わたくしとしては一つひとつ確認してゆくのが早道だと思っておりますが、Midz さんはそれを拒まれますので、こうした手戻りが発生して困っております。「文脈に基づく使い分け」が「慣用的併存」に過不足なく対応してすっきりした基準を与えると仰せですが、だとしたら「ほとんどすべて」なり「おおむね」なりは用いないということであり、本文によって判断すべきだという余地はあり得ないとうことですね。わたくしは「慣用的併存」なるものが何なのか未だ理解できた確信は持てませんが、それが「常識の範囲内の複数表記併存」のことであるならば、「常識の範囲」という明確な線を引き得ないものが対象である以上、過不足なくということを示すのは困難だと思います。また、現実問題として、少なくとも文 A について「文脈に基づく使い分け」の行われている具体的文脈が示せていないのですから、説明できてもいないと思います。説明もできないし、説明不要でもあるのですから、記事ごとの常識、分野ごとの常識にまかせて、「原則として」で良いと思うのです。繰り返しになりますが、わたくしには未だに、Midz さんの「文脈に基づく使い分け」説が理解できません。理解できないのはそこに (すでに指摘した) 矛盾ないし無理があるからではないかと考えています。--Jms 2009年9月5日 (土) 02:25 (UTC)

少々メタな側に話を振ってパラフレーズします。Midz さんが「文脈に基づく使い分け」で説明しようとしているのは、結局のところ「複数の表記が用いられていても違和感のない場合」ということだと思います。その意味で、「ページ内の表記は原則として統一しますが、違和感のない場合には複数の表記を用いても構いません」というのと同等の事を意図しているのだろうと思います。その「違和感のない場合」に「過不足なく対応してすっきりした基準」として「文脈に基づく使い分け」による説明が提案されている訳ですが、その説明自体に違和感を覚えられたのではあまりよろしくないでしょう。また、その説明を違和感のない形に書き換えたとしても、以下の難点があります。「違和感のない場合」というのは主観的で基準としてふさわしくないから「過不足なく対応してすっきりした基準」として「文脈に基づく使い分け」を提案なさっているのではないかと思いますが、もしそうだとしたら、主観的で基準としてふさわしくないものについて「過不足なく対応」しているかどうかという判断基準も主観的なものであるか、または、「違和感のない場合」が内包する曖昧さも過不足なく継承しているかのどちらかだと思います。つまり、曖昧なものに対して「過不足なく対応してすっきりした基準」を与えているという主張になっているわけで、明らかな矛盾でしょう。もし、「違和感のない場合」には曖昧さがないのであれば「違和感のない場合には複数の表記を用いても構いません」で構わない筈ですし、そこに曖昧さがあるというのなら、「文脈に基づく使い分け」などを持ち出す必要はないでしょう。わたくしには、Midz さんが「文脈に基づく使い分け」説を認めさせるだけのために議論している様に思えます。「文脈に基づく使い分け」が「違和感のない場合」に過不足なく対応しているなら、飲み込みにくい「文脈に基づく使い分け」よりは「違和感のない場合」の方が良いでしょう。更に言えば、主観的で基準を暗示する「違和感のない場合」などと書く位なら、現行の「原則として」の方が良いですし、せいぜい小改訂案aないしb程度に手を入れるだけで十分でしょう。--Jms 2009年9月5日 (土) 03:38 (UTC)

「文BについてはMidz説でも排除出来ないことは既に述べました」は別にMidz文では排除が出来ないことを主張しているのではなく「文脈」をJmsさん流に解釈すれば排除できないと言うことも出来る、という個人見解を述べておられるだけと解り、納得しました。 それならばMidz文と直接の関係はないので記憶に残らなかったのでしょう。
それから今回のコメントですが、確かにここは「違和感のない場合」と書きたいところです。 しかし、「違和感のない」は主観であってガイドラインに相応しくないので、それに対応した客観的基準である「文脈に基づく使い分け」を条文に載せたものです。 さらに言えば「文脈に基づく使い分け」は「通常の感覚の人に違和感がない場合」と過不足なく対応しているのであって、「誰が違和感がないといっても」対応しているわけではありません。 例えば文Bを「私には違和感がない」と言う人が居た場合、「違和感がない場合」が判定基準ですとその人の「感じ」に基づく結論を否定しようがありませんが、「文脈に基づく使い分け」であれば論理的に反論して否定できます。 これが「違和感のない場合」と「文脈に基づく使い分け」との決定的差です。
それから「文脈に基づく使い分け」は字面だけでは解りにくいという声があり、またこういう基準はその本当の意味を知っていることが安心して使いこなすもとになりますから、次のような注意書きを条文に添えておくことを考えています。
  • 注意:なお上記但し書きは「関数は昔の教科書では函数と書いた」のように同義異表記語が混在しても違和感を感じさせない文は正しい文であって表記統一の対象にならない、ということを保証するために付けられたものです。
文B について、少なくとも二通りの「文脈」を設定できしてしまう以上、「文脈に基づく使い分け」説は「違和感のない場合」にあると Midz さんが考えている主観依存の部分を排除できていないことになります。文B がわたくしが述べた様な「文脈による使い分け」を想定して書かれることもまた可能なのですから。「文脈に基づく使い分け」が「違和感のない場合」を過不足なくカバーしているのに、「違和感のない場合」の主観依存性を逃れられることはあり得ないでしょう。主観依存の部分が「文脈」の設定に含まれているのですから。既に述べましたことを繰り返しますが、もし「文脈に基づく使い分け」が「違和感のない場合」の主観依存性を排除できているなら、「文脈に基づく使い分け」が「違和感のない場合」が過不足なく対応していることはあり得ません。また、「文脈に基づく使い分け」が「違和感のない場合」を説明していたとしても、それは十分条件だということであって、必要条件であることは示されていませんし、「違和感のない場合」に主観依存性がある以上、必要条件であることを主観依存性を排除して示すことはできません。矛盾した主張をなさっています。その矛盾が解消されないならば、ガイドラインには採用できません。
御理解いただけていない様なので繰り返しますが、「関数は昔の教科書では函数と書いた」を「同義異表記語が混在しても違和感を感じさせない文」と解釈するのは誤りです。この文 (Midz さん流にいえば文脈) において、「関数」「函数」はそれぞれ表記そのものを指示しているのですから、その意味するところはそれぞれ「『関数』という表記」、「『函数』という表記」であって、これらは同義ではありません。--Jms 2009年9月6日 (日) 00:53 (UTC)
上記Jmsさんの議論は支離滅裂で、何を言っているのかなかなか理解できませんので、ここでは解りやすい最後の段落についてだけ触れておきます。 それは「同義」の意味についてで、Jmsさんは例文の「関数」と「函数」が同義ではないと主張していますが、この2つの言葉は意味・内容が同一という意味で「同義」です。 辞書に「同義」としてあっても誰も違和感を持たないでしょうし、例文のような両者の関係を示すなどの特殊の文脈の文章を除けば、1つの語を含む文はもう1つの語で置き換えても意味は変わりません。 そもそも「関数」と「函数」とが同義でなかったら両者を巡る編集合戦は起こらなかったでしょう。 表記が違えば同一語ではないことは確かですが、同義ということには変わりはありません。 それでもというのであれば、その当否の判断は読者に任せます。 --Midz 2009年9月6日 (日) 06:23 (UTC)
支離滅裂でわからんとのことですので、証明風に。
個々の「違和感のない場合」は、主観に依存する場合か、主観に依存しない場合のいずれかである。従って、「違和感のない場合」は、主観に依存する場合の集合と、主観に依存しない場合の集合よりなる (いずれも空集合の場合を含む)。「文脈に基づく使い分け」が主観に依存せず、かつ、「違和感のない場合」に過不足なく対応しているとすれば、「違和感のない場合」のうち主観に依存する場合は存在せず、「違和感のない場合」は主観に依存しない。従って「違和感のない場合」と指定すれば十分である。「文脈に基づく使い分け」が「違和感のない場合」に過不足なく対応し、かつ、「違和感のない場合」が主観に依存する場合があるならば、「違和感のない場合」のうち主観に依存しない場合の集合は空集合ではなく、それに対応す「文脈に基づく使い分け」の部分集合も空集合ではないので、「文脈に基づく使い分け」には主観に依存する場合がある。従って、「文脈に基づく使い分け」と指定しても「違和感のない場合」の有する主観依存性から逃れられなず、「文脈に基づく使い分け」と指定することは「違和感のない場合」と同じ効果しかない。以上より、「違和感のない」は主観であってガイドラインに相応しくないが、「文脈に基づく使い分け」は「違和感のない」に対応した客観的基準である、という主張は正しくない。「違和感のない」は主観であってガイドラインに相応しくないならば、「文脈に基づく使い分け」もまたガイドラインに相応しくないので、ガイドラインに含めるべきではない。
関数は昔の教科書では函数と書いた」における「関数」と「函数」が「(言葉として) 意味・内容が同一という意味で『同義』」である、という Midz さんの主張は、当該文の論理構造を理解せずになされていると判断せざるを得ません。このあたりの事については『論理哲学論考』(たとえば ISBN 4-00-336891-6) 3.32 - 3.334 がよくまとまっていますので、そちらをご覧ください。「その当否の判断は読者に任せます。」というのは「理解できません」という意味でしょうか。(追記) 尚、『論理哲学論考』の助けを借りる必要があるほどの言語と表現の深部に立ち入らないと理解できない様な文は、ガイドラインとしてはふさわしくないでしょう。
「何を言っているのかなかなか理解できませんので、ここでは解りやすい最後の段落についてだけ触れておきます。」とし、また仕切り直したところで指摘されている矛盾は消えてはなくなりませんので、御理解いただいて取り下げまたは反論していただくか、わからない箇所を問うか、が可能な選択肢です。それ以外の対応は、反論不能故取り下げと見なさざるを得ません。--Jms 2009年9月6日 (日) 07:26 (UTC) 一部追記 --Jms 2009年9月6日 (日) 07:36 (UTC) リンク追加、言い回し修正 --Jms 2009年9月6日 (日) 11:29 (UTC)

提案者の新提案文 編集

また議論が輻輳し、その間に提案文の改善も試みられ、かつ意見書き込みにも不便になりましたので、節を改めて提案者の現在の案文を提示します。

提案文

1. 「表記の統一」を「その他」項目から独立した新しい項目とします。

2. 文案

  •  ページ内では同じ意味・内容の表記は統一します。 ただし、同じ意味・内容であっても文脈に基づく使い分けがなされている表記は統一しません。 「関数は昔の教科書では函数と書いた」のように同義異表記語が混在していても違和感を感じさせない文は、一般に文脈に基づく使い分けがなされていますので、表記統一の対象にしません。
  •  ページを超えたウィキペディア全体での統一には過度にこだわる必要はありません。

以上です。皆様多数のご意見をお待ちします。--Midz 2009年9月6日 (日) 06:38 (UTC)

仕切り直す前に、すでに問われていることに答えるべきでしょう。指摘されている問題点は解消されていません。--Jms 2009年9月6日 (日) 07:26 (UTC)
新Midz文、だいぶよくなったと思いますし、これに変更で実質的な支障はないと思います。
支持する理由:「Midz文とJms文との機能の差を示すために次の2つの例文」の説明が極めて明瞭で納得できる。
Jmsさんには、「今北産業」(今来た私にこれまでの流れを三行で説明してください)。文章長すぎ、論理不明瞭です。三行とはいわないまでも、なぜMitzさんの提案が悪いのか、もっと明瞭に説明すべきです。--Kamogawa06 2009年9月6日 (日) 12:38 (UTC)
はぁ、「今北産業」ですか…。わたくしの述べた論理 (要するに Midz さんの主張には矛盾があり、Midz さんの述べている改善は不可能であるということ) は読めばわかる程度には明瞭だと考えておりますので、不明瞭な点については具体的に御指摘いただければと思います。実は結構ややこしい話なので、簡単に要約するのは難しいのですが、リクエストがありましたので三行で。
  • 表記ガイドは表記について表記に基づいて述べるべきで、意味内容に依存した規定は望ましくなく、ましてや「表記の意味」なる自明ではない概念の異同や誤った例文に基づくべきではない。
  • どういう場合に表記の併存を認めるべきかについては、文脈による使い分けという独自理論で規定できるほど少なくとも現時点では明白ではなく、個別記事ないし分野での判断に任せるべき。
  • Midz 案はわかりにくい割に現行案ないし小改訂案に対して提案者が問題とする点は改善されておらず、後者の方がシンプルで望ましく、後者での具体的な問題点が生じてから改訂を検討すべき。
大分端折ったので不正確であったりとりこぼしがあったりするかと思いますが、三行にしてみました。--Jms 2009年9月6日 (日) 13:26 (UTC)
三行にしてみましたが、これでも長いと言われるかもしれないので、もっと短いものを。
  • Midz 案は、扱おうとしている問題の微妙さに比して雑駁に過ぎる独自理論に基づいており、規定として適当でない。
どう雑なのかの詳細については、求められれば説明しますが、微妙な問題であるが故にそれなりに長くなります。--Jms 2009年9月6日 (日) 13:58 (UTC)
1は意味不明(「独自研究」レベル、一文で説明できないものに長い解説は不要です)、3は私には誤に感じる(「Midz文とJms文との機能の差を示すために次の2つの例文」参照)。4も意味不明でコメントに値せず。2の「文脈による使い分け」が「独自理論」である旨の指摘は一応納得いくが、「「関数は昔の教科書では函数と書いた」のように同義異表記語が混在していても違和感を感じさせない文は、一般に文脈に基づく使い分けがなされていますので、表記統一の対象にしません。」のように例示列挙を加えていくことにより克服可能ではないか。--Kamogawa06 2009年9月6日 (日) 14:05 (UTC)
説明を求められているのかどうかよくわかりませんが、通じていないと思われる部分があるので説明します。残念ながら三行で説明できるほど改訂案の問題点は単純ではありません。一文で説明できないものに長い解説は不要、というのが何をおっしゃりたいのかよくわかりませんが…一文で説明できない複雑な内容だから長い解説が必要になるわけで、それを拒むなら「複雑な事を理解する気はありません」という主張かと。
  1. 「表記の意味」(「同じ意味・内容であっても文脈に基づく使い分けがなされている表記」に対応) というのが何を示しているのか自明ではないという問題があります。たとえば、英語の function に対する数学分野での訳語の表記としては仮名による「かんすう」、漢字による「函数」、当用漢字による「関数」がありますが、このうち漢字によるものは表意文字により、表意文字としては「函数」と「関数」では意味が異なります (関数 (数学)脚注参照)。「表記の意味」というのがこの表意文字の持つ意味を指しているのか、それとも表記している語の意味を指しているのか、自明でありません。そうした自明でないものについて「同じ意味・内容」と異同を判断させる規定は適切ではないでしょう。「関数は昔の教科書では函数と書いた」を同義異表記語と捉えるのは当該文の解釈の誤り (表記に言及しているのであって語に言及しているのではない) ですので、かかる例文を用いて理解させるのは適切ではありません。例示は適切なものであるべきですし、下手に具体的なものを出すと誤解を招きかねないので、小改訂案a、b 程度の指示で十分だと思います。
  2. 違和感を感じさせない文では「一般に文脈に基づく使い分けなされてい」ることは示されていません。たとえばイギリスでは「イギリス」の他に「英国」や「連合王国」が冒頭文以外でも用いられていますが、わたくしは違和感を覚えませんでしたし、かといって記事で行われている様な明らかな文脈に基づく使い分けがなされているとも思えません。記事アメリカ合衆国での「文脈に基づく使い分け」についての Midz さんの説明は、「文脈に基づく使い分け」自体の説明が十分になされていませんので検討できていませんが、わたくしには容易に理解できる説明ではありませんでした。
  3. 「Midz文とJms文との機能の差を示すために次の2つの例文」について、文Bについても文脈の設定次第で Midz 案では許容になります。これは「違和感を感じさせない」という主観依存の部分が、文脈の任意性という形で「文脈に基づく使い分け」にも持ち込まれているためです。「違和感を感じさせない」が主観依存である以上、「文脈に基づく使い分け」が「違和感を感じさせない」と過不足なく対応しているなら「文脈に基づく使い分け」にも主観依存性がなければありません。にもかかわらず「違和感を感じさせない」の主観依存性を「文脈に基づく使い分け」では排除できているという Midz さんの主張は、矛盾したものです。「文脈に基づく使い分け」も「違和感を感じさせない」も主観依存であり、それは「原則として」の自由度と大差ありません。小改訂案a、b 程度の例示を補えば十分かと思います。--Jms 2009年9月6日 (日) 14:39 (UTC)
長々とありがとうございます。さっと見ましたが、私の答えは一緒です。1は意味不明、2の指摘は一応納得いくが例示列挙により克服できる、3は強引杉。Midzさんはどう思いますか?--Kamogawa06 2009年9月6日 (日) 15:03 (UTC)
議論する以上きちんと読んでいただきたいのですが…意味不明な点と、強引過ぎるという点について具体的に指摘願います。1.、3. とも 2. 同様に重要な問題点だと考えています。--Jms 2009年9月6日 (日) 15:08 (UTC)

  コメント現在のガイドラインは「原則として」から始まるにも関わらず、その例外がどういう場合なのか示されていない不完全な規定であることは明白だと判断します。したがって速やかに何らかの対処が必要でいまのところはMidz案でよいと思います。--みや1229 2009年9月6日 (日) 13:57 (UTC)

小改訂案a、b をご覧ください。なお、具体的問題が発生していないのですから、迅速さが求められているとは思えません。--Jms 2009年9月6日 (日) 14:39 (UTC)

この一連の議論が延々平行線でややもすると抽象論になるのは、「原則として」の問題点が具体的に示されていないため、提案の動機が理解されないことにあると思います。現実に問題となった具体例を示していただければそれが一番わかりやすいので、できれば具体的問題が発生してから提案していただくのが良いのですが、どうしても今議論しなければならないというのなら、せめて、どういう状況を想定すればよいのか、そのシナリオを示していただく必要があると思います。一方は瑕疵と考え、他方は杞憂と考えている状況でしょうから、具体例なり想定シナリオなりがなければいつまでも議論は抽象論かつ平行線でしょう。どういう状況を想定すれば良いでしょうか、シナリオでもダミー記事でも結構ですので、問題点を理解できる様な材料、記事ごとの個別検討では解決できないということを示せる材料を提示していただければと思います。そうした材料なしに議論するなら、ややもすれば長くならざるを得ない抽象論におつきあいいただかねばならないでしょう。--Jms 2009年9月6日 (日) 17:31 (UTC)

Midzさんの提案に対するコメントです。この項目の目的について合意の得られないまま、再びルールをどう表すということかについてだけ長々とした議論になってしまっています。まずはこのルールが対象とする場合と目的についてきちんとつめるか、もしそれらについて合意が得られないならばいっそこの条項はなくすことにしませんか。いまの状態で、このルールの目的にすら意見の一致が見られない状態でルールの文面にこだわっても不毛だと思います。--Makotoy 2009年9月6日 (日) 18:13 (UTC)

Makotoyさんへ
目的については「Wikipedia:表記ガイド」の冒頭に、「この表記ガイドでは、ウィキペディアの記事における表記方法の慣習を説明します。」とあります。 つまりこの場合には通常この表記が使われていますから皆さんもなるべくそうしてください、という指針を与えるのが表記ガイドです。 そしてそのように表記が統一されることにより文章が一般に読みやすくなります。
この項目もまずはやはり執筆のさいの指針を与えることを目的とすべきだと思います。 そして私の提案はその目的を果たすに充分役立つとおもいます。 Makotoyさんは「関数/函数」の問題でさんざん苦労なさった経験から、この項目にも編集合戦の抑止に役立つものをと期待しておられることは解りますが、それは表記ガイドの本来の目的ではありません。 そしてもしそれを含めることが問題になったとしても、その議論に決着がつくまでは本来の目的に沿った改善をも差し止めるべきだ、との主張には賛成致しかねます。 ここはまず表記ガイド本来の目的に沿った改善を行い、そのあとで改めて編集合戦抑止のための文章を付け加えるかどうかを議論すれば済む問題だと思います。 ご明察をねがいます。 --Midz 2009年9月7日 (月) 02:53 (UTC)
Jms氏2009年9月6日 (日) 14:39 へのコメント。Jms氏の考えを否定する意図はありません。しかし、ご説明したように現在のガイドライン文は不完全でこのままでは意味がないのです。これは現実的問題以前の初歩的な話です。--みや1229 2009年9月7日 (月) 11:19 (UTC)
みや1229さんへ。現在のガイドラインが不完全で意味がない、というのに説得力があるとは思えません。「原則として」というのは、対象範囲を厳密に定めないことによって完全であるという考え方もできます。下手に細部を決めようとすると、必要十分性の検証でずいぶんと手間がかかる割には得られるものが少ないということも往々にしてあるものです。細部についての精確に規定を一般論としてはできないものについて、精確な規定がないから不完全で無意味というのはそれこそ「現実的問題以前の初歩的な話」ではないでしょうか。表記ガイドは百科事典を作るためにある指針であって、百科事典を作る上で現実の問題が発生しているなら当然対処すべきですが、具体的な問題の存在が不明な時点で何らかの信念を実現するための文書ではないでしょう。困ったら直しましょう、困るまでは記事を書きましょう、それで何がいけないのでしょうか。--Jms 2009年9月7日 (月) 16:00 (UTC)
Midz さんに質問。たとえば、未だ統一が成されていない丸括弧については、丸括弧の書き換えだけの編集をどうするかというのが現実の問題として想定されつつ延々と議論されていたりするのですが、今回改訂が提案されている箇所は語の表記に限らずそうした部分も含めた表記一般を対象とした条文でもあります。その点についてはいかがでしょう。Midz さんは「函数/関数」を度々引き合いに出されますが、そこから想像するに語の表記だけを想定なさっていませんか。--Jms 2009年9月7日 (月) 16:00 (UTC)
ご指摘の件について面白く拝見。確かに「語の表記」だけが念頭にありました。Jmsさんは知りませんが、他の議論参加者は皆さんそうだったろうと思います。ところで私の案文は読めば「語の表記」のみを扱っていることはすぐに解りますが、念のため、これが「語に表記」の場合に限定して明確な指針を与えることを目的としていることを冒頭に明記しておくのがよいかと思います。そこで文案の冒頭部分を次のように小修正する事を提案します。
  • ページ内では同じ意味・内容の語の表記は統一します。 ただし、・・・
またそれに伴って項目名も「語の表記の統一」とした方がよいかも知れません。
それから「語の表記」以外で「表記の統一」が問題になることがあるかどうかは知りませんが、もしそのための項目も必要ということであれば、別項目をたてていただけばよいでしょう。--Midz 2009年9月8日 (火) 01:49 (UTC) --Midz 2009年9月8日 (火) 11:52 (UTC)(1語加筆)
質問のもう一つの側面、書き換えだけの編集をどうするかというのが「表記ガイド」の範疇の現実の問題として想定されている、という点についてはいかがでしょう。「ウィキペディア全体での統一にこだわりすぎるな」という主旨の分からすれば、目的に関するMakotoyさんのとらえかたは妥当だと思いますが…。ついでなので、議論の結果「こだわりすぎないでくdさい」と改訂した部分を「過度にこだわる必要はありません」に戻す理由は何でしょうか、その理由は提示されておりませんが。--Jms 2009年9月8日 (火) 16:22 (UTC)
私は「関数/函数」および「放物線/抛物線」という学術用語集数学編にからんだ案件以外で、表記に関して編集合戦や移動合戦があったという話を知りません。 ですから表記に関する編集合戦は数学用語に特有な話で、ローカルルールで対処すべき話だと思っています(実をいえば、「関数」を原則とするという基本ルールを定めるだけで自然に解決する問題で、編集合戦に関するローカルルールも本来不要であろうと考えています)。 ですから編集合戦に対処する規定は表記ガイドには不要と考えます。 そしてここは表記ガイドに相応しい、ページ内での表記の統一に関する指針となる明確な規定を与えることがまず重要と考えます。 そして編集合戦抑止に関するルール制定は、指針を与える規定を整備することとは独立な話ですから、どうしてもそれが必要と考えるときは、それを改めて提起されて信を問い、賛同が得られれば独立した別項目で扱われるのがよいと思います。
それから「過度にこだわる必要はありません」は本来、ある表記を使った人はWikupedia全体でそれに統一する責任がある、というようなことはありませんと保証して、安心してページ内の編集に専念してもらうための老婆心切の規定です。 ですから「こだわりすぎないでください」というような依頼形は馴染みませんし、実際、Jms改訂以前の原文もこの形でした。 そこで原文の形に戻したものです。 --Midz 2009年9月9日 (水) 04:02 (UTC)
ひとことだけ。「過度にこだわる必要はありません」の文面だと「こだわってもよい」と受け取る輩がいそう(そして経験上大体その手の輩が現れる。)で裏を取られるのを恐れたからです。別に「こだわってもよい」と受け取る輩が出てこない文面であれば他の表現でもかまいません。--Goki 2009年9月9日 (水) 05:31 (UTC)
「こだわるべきではありません」(もっと有体に書くと)「こだわるな」みたいな文面でしょうか…。あと「過度にこだわる必要はありません」という文面自体も英文直訳っぽい文章でいやなんですよね。--Goki 2009年9月9日 (水) 06:23 (UTC)
実際、「こだわってもよい」と私は考えています。 というのはWikipediaはページごとに表記が異なる「表記多様性」を楽しむ場ではなく、別に理由がなければ全体を通して表記が統一されていることが望まれる百科事典だからです。 ただ、全体での統一を強調すると、どこかで表記を選ぶと他のすべてのページへ統一しに行かなければならないような心情になって心の負担になりますので、そういうことはありませんから目の前のページに専念してくださいという執筆者への指針を与えるのがこの条項の役割です。 ですから「こだわる」ことを抑制する理由はなく、ただ行き過ぎて心の負担にならないようにする注意として、この文章でよいと思います。 文章もまあこんなものでいいのでないかと思いますが、趣旨を変えずにもっとよい文章が書ければそれを採用することにやぶさかではありません。--Midz 2009年9月9日 (水) 07:48 (UTC)
「学術用語集数学編にからんだ案件以外で、表記に関して編集合戦や移動合戦があったという話を知りません。ですから表記に関する編集合戦は数学用語に特有な話で、ローカルルールで対処すべき話だと思っています」というのは、Wikipedia‐ノート:表記ガイド/括弧の使い分け (約第4回)を多少なりともお読みになっての事でしょうか。Wikipedia‐ノート:表記ガイド/括弧の使い分け (約第4回)#括弧の使い分けに関して機動戦士ガンダム00の編集合戦と保護の言及があります。「どこかで表記を選ぶと他のすべてのページへ統一しに行かなければならないような心情になって心の負担」などというレベルの問題ではないことはノート:サラエヴォ/過去ログ1ノート:サラエボ事件あたりをご覧になればおわかりいただけるかと思います。規模の大小はあれ、こうした議論や編集合戦を招き兼ねない表記の統一だけを目的とした編集の例は枚挙に暇がありませんし、その意味では「こだわるべきではありません」の方が適当でさえあるでしょう。ウィキペディア全体にかかわる提案をなさるなら、もう少し広い範囲をご覧にただくとともに、過去の議論について指摘があればそれも検討いただければと思います。そうしたことなしに条項の役割を宣言されても、説得力がありませんし、むしろその分「条項の役割について合意できないなら廃止すべきという」Makotoy さんの提案の説得力が増すと思います。実際、位置づけの解釈が割れる様な条項は運用上問題になるでしょうから、その廃止を試してみる価値はあるでしょう。なお、「過度にこだわる必要はありません」というのが論理的におかしいという指摘はすでに改訂時に行いました。戻すことを提案なさるのであれば、その点について解決した文を御提案ください。--Jms 2009年9月9日 (水) 16:19 (UTC)
「表記の統一にばかり固執すべきではありません」ではいかがかと。(「固執」としているのは意図的です。)--Goki 2009年9月10日 (木) 01:44 (UTC)
「表記の統一」に固執するととんでもないことになる問題の一例として「ギリシャ/ギリシア」問題、「北朝鮮」問題も挙げておきます。(ちなみに「すべて『ギリシア』にせよ」と意見を見たときは激しく憤ったことを付記しておきます。)--Goki 2009年9月10日 (木) 01:52 (UTC)
Jmsさん、Gokiさんへ。 地名のような固有名詞では問題が多数あることはよく存じておりますが、固有名詞は「語」ではありません。 ここで問題にしているのは普通名詞の表記の問題ですから、普通名詞の表記でほかに編集合戦や移動合戦の例があればお示し下さい。 普通名詞以外の表記の問題は別項目で扱うのが適当と思います。 --Midz 2009年9月10日 (木) 02:22 (UTC)
「ここで問題にしているのは普通名詞の表記の問題」というのはそもそも共有されていない前提ですから、それを前提するなら、表記一般から普通名詞の表記を除いた残りの部分の文案も示すべきでしょう。--Jms 2009年9月10日 (木) 12:50 (UTC)
Jms氏(200909071600)への回答。「原則として」と例外を認めながらその例外を規定しないとあらゆる場合において両方の解釈ができます。つまり、規定として機能しないと考えます。ですから、修正を加える必要があります。--みや1229 2009年9月10日 (木) 12:43 (UTC)
「あらゆる場合において両方の解釈ができる」というのは、理論的に可能だという意味でしょうか、それとも一定の蓋然性をもってそういう解釈が行われるという意味でしょうか。後者であればそれはもはや原則と例外の関係とは言えないでしょう。以前からお願いしている事ですが、想像上の可能性ではなく、蓋然性に基づいた検討をしませんか。そうしないと、可能な場合をすべて塞ぐという非現実的なガイドラインを作らなければならなくなります。--Jms 2009年9月10日 (木) 12:50 (UTC)
このガイドラインを読んだ人は両方の解釈ができるということです。理論的とか蓋然的とかそんな議論は無意味です。原則の例外を示せばいいだけの話なのでJmsさんがそのことへの案がなければ他の方に任せればいいだけのことです。--みや1229 2009年9月10日 (木) 13:31 (UTC)
ガイドラインを読んで、どちらにも解釈できるからといって、原則としてとあれば原則に従おうとするものだと思います。それでもなお意図的に例外を適用しようとした人がいたとしても、それが百科事典として妥当なものでなければ、排除されるでしょう。その意味で両方の解釈ができるからといって問題になるとはあまり思えません。例外の例示は小改訂案として既に示しました。原則とそれ以外の境界をぴたりと示すことを求めているなら、百科事典の対象とする分野の多様性からしてかなり困難で非現実的だと思いますし、それができないからこそ「原則」と書いているわけです。「原則の例外を示せ」というのはぴたりとした境界を示すことを意図していますか? --Jms 2009年9月10日 (木) 13:40 (UTC)
不完全なガイドラインだから修正すればいいだけの話です。今回の改定はJms氏の意見と対立しているわけではありません。--みや1229 2009年9月10日 (木) 14:23 (UTC)
問いに答えていただけませんか。それとも、「対立していない」というのは、原則の例外は例示であってもよく、「原則の例外を示せ」というのは精密な境界を意味しない、ということでしょうか。--Jms 2009年9月10日 (木) 15:49 (UTC)
「原則として」で例外を認めてかつその例外を定義しなければすべての場合に例外が適用できます。すなわち、あらゆる場合に適用しなくてよいと解釈できます。そうなると編集合戦をまったく抑制することができません。--みや1229 2009年9月10日 (木) 16:01 (UTC)
同じ事をもう一度問います。ガイドラインにおける例外の定義は、精密にぴったりと、つまりありとあらゆる場合が議論なく原則と例外のいずれとすべきか判断できなければなりませんか、それとも、例示による例外の提示でも可ですか。「すべて」「あらゆる」「まったく」というのは、例外の例示がある場合にはあてはまりません。--Jms 2009年9月10日 (木) 16:41 (UTC)

(インデント戻す)ここでMidz案を支持する根拠としていまのガンドラインはまったく機能しないことを述べています。まったく機能しないのですからご質問の内容は判断できませんし、ここでMidz案の審議という本質から離れた冗長な論争を行うことを避けたいと考えています。--みや1229 2009年9月11日 (金) 15:55 (UTC)

問われていることが本質から離れていると判断なさったということは、Midz 案の何が問題とされているかというのを御理解いただけていないということだと思います。みや1229さんの「まったく機能しない」には根拠がありません。「例外を認めてかつその例外を定義しなければすべての場合に例外が適用できます。すなわち、あらゆる場合に適用しなくてよいと解釈できます。」というのが空理空論でしかないからです。例外を認める、ということは例外があり得ることを述べているだけであって、それをもってあらゆる場合に適用しなくてよいと解釈するのは、「原則」という言葉を理解していないということです。「あらゆる場合に適用しなくてよい」なら、それはもはや原則ではありません。--Jms 2009年9月11日 (金) 16:01 (UTC)

本文改訂の予告 編集

新提案文を提示してから4日経ち、お2人の賛成意見(Kamogawa06さんとみや1229さん)とおひとりの反対意見(Jmsさん)をいただきました。 表記ガイドとして本提案文が現行のJms文より優れていることは今までに充分論証されたと考えますので、そろそろ本文の改訂作業に入りたいと思いますが、その前にJms反対論の重みを考えるため、これまでの経過を私の立場から検討しておきます。

まずJmsさんの反対論は、このMidz提案が出された8月18日直後の、提案内容の議論に入る前に理屈をつけて提案自体を却下しようとする試みから始まりました。 しかし、それはJmsさんの目論見通りには進まず、中盤に入って第三者からその態度の不当性を指摘されたこともあって、Midz提案文の欠陥を挙げてそれが使い物にならないことを印象づけようとする方向に変わりました。

Jmsさんはそれを非常に饒舌に論じていますが、ことごとく反駁されています。しかし多くの場合Jmsさんはその反駁を認めません。Jmsさんは例えば今でも常識を離れた独自の「文脈」の定義を用いて「「関数は昔の教科書では函数と書いた」の「関数」と「函数」の併存は「文脈により使い分け」られたものとは言えないと主張していますし、最近ではエスカレートして、「言語哲学」を「援用して」上記文章中の「関数」と「函数」とは同義語ではないとの主張を行い、それをもとに議論を進めたりするものですから、まともに理解するのがきわめて困難になっています。 その結果、新Midz提案文の欠陥をついたというJmsさんの幾つかの論点にたいしてKamogawa06さんはそれぞれに「意味不明」、「誤り」、「強引過ぎ」などの判定を下しています。こうしてJms反対論は今も続いていますが、提案を覆す説得力はないと考えます。

かくして今のところ、考慮に値する重大な反対意見はありませんが、それでも念のため、あとの5日間待って、それでも説得力ある反対意見が現れない場合には、本文の改訂作業を行いたいと思います。 それまでに皆様のさらなる賛成、反対のご意見をお待ちします。

なお、提案文については以前の提示後にいくつかの細かい点で改善を図りましたので、ここに改めて最新版を提示します。 これをもとにご意見をお寄せください。

提案文

  1.  「語の表記の統一」を「その他」項目から独立した新しい項目として設けます。
  2.  文案
  •  ページ内では同じ意味・内容の語の表記は統一します。 ただし、同じ意味・内容であっても文脈に基づく使い分けがなされている表記は統一しません。 「関数は昔の教科書では函数と表記されていた」のように同義異表記語が混在していて違和感を感じさせない文は、一般に文脈に基づく使い分けがなされていますので、表記統一の対象にしません。
  •  ページを超えたウィキペディア全体での統一には過度にこだわる必要はありません。

以上です。

皆様のさらなる賛成、反対のご意見をお待ちします。 --Midz 2009年9月10日 (木) 03:55 (UTC)

(一部反対)「過度にこだわる必要はありません。」に不同意。理由はすでに述べているので書きません。この部分以外は賛成・反対は留保します。--Goki 2009年9月10日 (木) 04:08 (UTC)
(反対)どっちも反対します。節に分離するという場合の対案として
  • ページ内の表記は統一することが望ましいでしょう。もちろん、原義や歴史的経緯や分野による慣習の違いなど、表記そのものに言及する際には、表記を使い分ける必要があります。
  • 異なる表記が存在する場合、様々な背景があることが考えられます。どの表記で統一するかについては、慎重に考えてください。また、ページを超えて統一しようとする場合も同様です。表記の統一にばかり固執すべきではありません。
を提案します。--Ks aka 98 2009年9月10日 (木) 06:50 (UTC)
(反対)不要不急かつ、実効性も無く冗長。書きたい一文を入れ込みたいがための編集は非常に不愉快。トラブルを運営系に持ち込んで恥ともしない姿はコミュニティに不適な編集者といわざるを得ない。関数函数の世界で気が済むまでやってください。関数は昔の教科書では函数と表記されていた」って書きたいだけでしょう? お願いですから、運営系から立ち去って下さい。--221.113.10.25 2009年9月10日 (木) 07:02 (UTC)
(条件付き賛成)趣旨については反対すべき問題点はないですが、以下の点が曖昧なので具体的な案件が識別できるように整理することが賛成の条件です。
  1. ページ内の統一表記の例外は
    • 引用の表記が統一表記と異なる場合、引用先(つまり原典)の表記は統一表記の対象とはならない。
      (これは引用ガイドラインに合致する必要がある為です。)
    • 事実の記述が統一表記と異なる場合、統一表記と置き換えることで事実の論旨が損なわれる場合。
      例)「関数は昔の教科書では函数と表記されていた」とか「関数または函数のいずれの用語を用いても正式である」という事実の記述で、統一表記(統一が関数であれ函数であれ)に置き換えると事実を述べるという文の趣旨が損なわれる。
  2. 「記事間の過度の統一」の過度の程度
    • 当該記事のノートでの合意事項を、コミュニティ・ポータル(お知らせや分野ポータル・分野プロジェクト等を含む)等で事前予告することなく、他の記事についても当該記事の合意事項を自動的に適用する編集。
    • 他のコミュニティ・ポータル等の既決の合意事項あるいは別のページの既決の合意事項と相違がある場合に、それらの既決の合意事項との調整をすることなく当該記事の合意事項を自動的に適用する編集。
、条件は以上です。--あら金 2009年9月10日 (木) 07:49 (UTC)
(反対)「ウィキペディアの記事における表記方法の慣習を説明する」というのをこの条項の目的としてあげられていますが、地名・国名の表記やウィキプロジェクト数学のいくつかの条項にみられるように、Midzさんの提案された文面はウィキペディアの慣習から乖離していると思います。--Makotoy 2009年9月10日 (木) 08:14 (UTC)

たくさんのご意見を有難うございました。とくに「Ks ala」さまと「あら金」さまのご意見はどちらもいちいちごもっともで、今までどうしてこういう有益なご注意を頂けなかったのか、不思議に思っています。とにかくこれでやっとまともな議論が出来る基礎が出来たことを嬉しく思います。 これから少し時間をいただいて、お2人のご意見の趣旨を活かした文案作りを試みたいと思いますので、これからもよろしくご指導をお願い申し上げます。--Midz 2009年9月10日 (木) 09:06 (UTC)

Ks ala 98さまへの質問
Ks ala 98さまは項目への独立に反対とのことですが、それに関連して2点ほどお伺いします。
  1.  独立反対の理由は何なのでしょうか。 表記ガイドのほかの項目がみな表記そのものを選ぶ指針を与えているのに対し、表記統一に関する指針はやや異質であるということなのでしょうか。
  2. 「その他」項目に残した場合、統一に関する記述が他に比べて異常に大きくなりますが、それは構わないとお考えでしょうか。
以上、よい文案をつくる上で参考にしたいと思いますので、よろしくお願いします。--Midz 2009年9月10日 (木) 11:55 (UTC)
ああ、ごめんなさい。節の分離には反対してません。「文案」の1、2の「どっちも反対」の意味です。上記対案は「節に分離するという場合の対案として」として提案しています。--Ks aka 98 2009年9月10日 (木) 12:26 (UTC)

経緯についてあまりに恣意的な記述をあたかも事実であるかの様にお書きになることに驚いています。表現としてそうしているだけなのか、認識としてそうなのかはわかりませんが、そうしたやりかたでまともな議論になる筈もありません。まともに議論したいなら、事実に対しては謙虚であるべきでしょう。わたくしの反論について理解できない点を示していただければ説明します。その上で、問題点を一つひとつ検討すべきでしょう。理解できないからと反論を無視したところで、指摘されている問題点が消えてなくなるわけではありません。また、説明を求められていることについていつまでも説明しないのは、説明できないと判断せざるを得ません。文案作りをする前に、指摘されている問題点を理解すべきです。その上で問題点を解消した文案を作らない限り、本質的な改善はあり得ません。--Jms 2009年9月10日 (木) 12:17 (UTC)

(正直失礼な物言いですが)Jmsさんの文章の大体3分の2は意味不明です。理路整然という意味でまともな日本語で書いていだだけませんか。このままでは、たぶんJmsさんのご意見をMidzさんも汲み取りようがないと思います。(他の人はどう思いますか?わたしが馬鹿なだけではないような気がする。)--Kamogawa06 2009年9月10日 (木) 16:10 (UTC)
複雑な話なので小さい部分に分解して一つずつ確認しようとしても、Midz さんは拒否なさるのでこちらは困っています。どこからはじめましょう。たとえば、「複数の表記が用いられていても違和感のない場合」が主観に依存して、「文脈に基づく使い分け」がそれに過不足なく対応するなら、「文脈に基づく使い分け」もまた主観に依存する、というのはどうでしょう。--Jms 2009年9月10日 (木) 16:33 (UTC)
何が言いたいかはだいたいわかりますよ。--Ks aka 98 2009年9月10日 (木) 17:03 (UTC)
私も大体わかります。「函数は関数と書いても間違いでない」という文の正誤や「同義異表記語なら入れ替えても意味が通じるはず」といったことを考えていただければ理解が進むのではないかと考えます。--HANSON 2009年9月11日 (金) 02:40 (UTC)

あら金さんの「ページ内の統一表記の例外」だと、記事にある様な文脈による使い分けがどうなるのか微妙だと思いますが、「統一表記と置き換えることで事実の論旨が損なわれる場合」で読み込んで使い分け可とするのでしょうか、それとも統一すべき場合に相当するのでしょうか。--Jms 2009年9月10日 (木) 13:16 (UTC)

Minz氏の議論の進め方はなんか気に入らない。以上。(自分に味方しない奴の意見は一切無視だもん。)--Goki 2009年9月11日 (金) 00:13 (UTC)

IP氏のように「関数は昔の教科書では函数と表記されていた」って書きたいだけでしょう?」なんてことも書かれてしまうし(注:これが誤解だというのであれば、解いてください。)、裏の意図が透けて見えてるのでMinz氏の意見を100%飲むわけには行かないのですよ。--Goki 2009年9月11日 (金) 01:05 (UTC)

Ks ala 98さま、さっそくのご回答をありがとうございました。 安心しました。

特にお二方のご意見を大幅にいただいてたたき台をつくってみました。 文章の吟味などはしていませんので、ここではまず、理念、内容ならびに形式についてご意見を頂けると有難く思います。

なおページを超えた表記の統一にはいろいろ問題がありそうで、私もつかめていませんの で、ここではまず話をページ内での統一に限ることにして、項目名も「ページ内の表記の統一」としたらどうかと思っています。 これについてもご意見を頂けると幸いです。

文案

1.ページ内では同じ意味・内容の語の表記は統一します。 ただし、異なる表記が存在する場合は種々の背景があることが考えられますので、どの表記で統一するかは慎重に考えてください。

2.1にもかかわらず、文脈(文の持つ意味の流れと構造とを総合した概念)に基づいた使い分けがなされている表記は統一の対象にしません。 文脈による使い分けにはつぎのものが含まれます。

  •  文の構造からわかる「引用文」。 他からの引用文では原文における表記が保持されます。
  •  原義、歴史的経緯や分野による慣習の違いなど、表記そのものに言及する文脈では表記を使い分けます。
  •  「タケ/竹」のごとく使い分けが定義されている語については、その文の文脈によりそれを識別して使い分けます。
  •  正式名と略称などはそこの文脈に相応しい表記を選んで使い分けます。

3.ページを超えたウィキペディア全体での統一には過度にこだわる必要はありません。

以上です。 よろしくお願いします。 --Midz 2009年9月11日 (金) 03:27 (UTC)--Midz 2009年9月11日 (金) 05:04 (UTC)(加筆)

ひとこと解説を加えます。 それは「文脈による使い分け」は人が実際に表記を選ぶ際には文全体を眺めて判断するという、心の動きを素直に表現したものだと云うことです。 そして例に挙げたいくつかのケースはその動きを具体的に示したものです。 したがって「文脈による使い分け」は除外例を識別するための基準のもっとも自然な表現だと思います。 そして例としていくつかのケースを並べることは「文脈による使い分け」の使い方になれて頂くのにも役立つと思います。 --Midz 2009年9月11日 (金) 12:31 (UTC) --Midz 2009年9月11日 (金) 13:09 (UTC)(加筆)
同じことを繰り返さねばならないのは非常に残念なのですが、指摘されている問題点は、それに対応しない限り消えてはなくなりません。あらためて条文を提案する前に、問われていることに答えるか、指摘を受け入れるか、一つ一つ対応すべきです。また、文面以前に、当該条項の位置づけについての問題を解決すべきでしょう。そうした対応をせずに文脈説をいつまでも主張なさっているのでは、文脈説を認めさせることが目的であって、そもそも改善すべき問題点など存在しないのではないかと考えたくもなります。また、表記ガイドの条文を提案するなら、いわゆる全角空白を用いるのはやめてください。その時点で説得力がありません。--Jms 2009年9月11日 (金) 14:48 (UTC)
確かに。どうやらJms氏と私の言葉に意識的に無視する作戦を取っているようなので、私も方針転換します。態度を改めない限り今後いかなる提案にも同意いたしません。--Goki 2009年9月11日 (金) 14:58 (UTC)

最終案の提示 編集

前に提示した文案の文章を吟味致しましたので、これを一応の最終案として提示します。今後はこれについて、対象に文章をも含めたご意見をお寄せください。また、例として上げたケース以外に載せた方がよい典型的ケースにお気づきでしたらご教示下さい。あと5日間待って、説得力のある反対論がない場合は改訂作業を行いたいと思いますので、皆様多数の賛成、反対のご意見をくださるようお願い致します。

文案

1.ページ内では語の表記は統一します。ただし、異なる表記が存在する場合は種々の背景があることが考えられますので、どの表記で統一するかは慎重に考えてください。

2.前項にもかかわらず、文脈(文の表す話の筋道と文の構造)に基づいた使い分けがなされている表記は統一の対象にしません。文脈に基づいた使い分けにはつぎのケースが含まれます。

  •  文脈により識別された引用文では元の文章で使われていた表記を維持します。
  •  原義、歴史的経緯や分野による慣習の違いなど、表記そのものに言及する文脈では表記を使い分けます。
  •  タケのように使い分けが定義されている表記については、文脈によりそこがそのいずれに当たるかを識別して使い分けます。
  •  正式名と略称など複数の表記をもつ事柄については、そこの文脈にもっとも相応しい表記を選ぶことで使い分けます。

3.ページを超えたウィキペディア全体での統一には過度にこだわる必要はありません。

以上です。 よろしくお願い致します。 --Midz 2009年9月12日 (土) 03:03 (UTC)

何度同じことを書けばよいのでしょう。指摘されている問題点が未だに解決していませんから、あたらに文案を提案する前に、まずはそれに答えるべきでしょう。Midz さんが理解しないからといって、「説得力のある反対論」が消えてなくなるわけではありません。問題点の指摘に対応する気がない、いわば対話拒否という状態では、合意など不可能ですから改訂提案をすべきではありません。--Jms 2009年9月12日 (土) 03:13 (UTC)
Jmsさんへ
「指摘されている問題点」は私には話の進行を妨害するための口実だったとの印象だけで具体的には憶えていませんので、ここに手短かに再提示していただけませんか。そしてそれが本当に表記ガイドの目的に沿った文章の改善作業を差し止めなければならないほど重大な論点なのかどうかを皆様に判断していただきます。
それから当該条項の位置づけについては、それはWikipedia:表記ガイドの冒頭にある「表記方法の慣習を説明します」に従うことで充分と思います。それ以外の位置づけを主張して議論を巻き起こすのは勝手ですが、それは本来の目的に沿った改善作業とは独立な話ですから、ほんとに必要とお思いでしたら別項目を立てて行ってください。 --Midz 2009年9月12日 (土) 03:48 (UTC) --Midz 2009年9月12日 (土) 03:58 (UTC)(位置替え)
残念ながら、Midz さんの提案が (少なくともわたくしから見れば) 複数の問題点をかかえており、それぞれの問題点は Midz さんの強い信念と一体となっている様ですので、個々の問題点について手短かに再提示するのは困難です。一つ一つ丁寧に片づけませんか。申し上げにくいのですが、Midz さんのこれまでのWikipedia:井戸端/subj/「函数/関数」など複数の表記がある語の扱いならびに当ノートでの対応から考えて、まず合意形成に向けた手順についての合意から始めない限り、議論は極めて困難だと考えています。「話の進行を妨害するための口実だったとの印象だけ」で判断なさり、「具体的には憶えてい」ないにもかかわらず「Jms反対論は今も続いていますが、提案を覆す説得力はないと考えます。」というのでは、とても合意に至れるとは思えません。合意に至るには、漏れがないように一つ一つ順を追って検討する必要があると考えています。手始めに、一つ一つ検討する事に同意していただけますか? --Jms 2009年9月12日 (土) 04:06 (UTC)
それは同意出来ません。ご呈示の問題点を見て答えるかどうかを判断します。そして私が答えなかったら、Jmsさんが「こういう重大問題に答えない」と皆様にアピールすればよいだけの話です。とにかく問題点を提示して、皆様にその重大性を問うてみて下さい。 --Midz 2009年9月12日 (土) 05:53 (UTC)
  コメントここはMidz案について議論する場です。Jms氏の疑問点を漏れなく一つ一つ解決していく場ではありません。多少なら許されますがJms氏の文章は異常に長く本来の議論が埋もれてしまいます。--みや1229 2009年9月12日 (土) 06:23 (UTC)

残念なことに、議論の進め方自体に付いても合意が得られないようです。一度議論を長期間(1ヶ月〜半年)凍結し、時間を置いてからもう一度検討することにしませんか。これは切羽詰まった問題ではないですし、Midzさん、みや1229さん、Kamogawa06さんらがJmsさんの書いていることがよくわからないと表明していて(そんなことはないという反論も複数から出ており)それにも関わらず議論が進行されていっているという、ある意味異常な状態なわけですから、時間を取ることが必要だと思います。その間は当該部分の扱いは今のままあるいは削除しておけばよいでしょう。--Makotoy 2009年9月12日 (土) 07:21 (UTC)

みや1229さん、Midzさんへの返答を投稿しようとしたところ、幸い編集競合しました。一定期間凍結提案に賛成です。少し冷却期間を置くのが良いと思います。期間としては、具体的問題が発生しない限り半年ないし一年程度議論を凍結し、その間現行規定による弊害が発生するかどうか様子を見るのが良いと思います。現時点で「原則として」による具体的弊害が示されなければ当該部分は現状のままが妥当だと思いますが、それに合意できないならば、条項を除去して様子を見るのが適当だと思います。--Jms 2009年9月12日 (土) 07:36 (UTC)
議論の凍結は不要です。Jms氏の書いていることがわからないことが議論の妨げになるわけではありません。ここはJms氏と語り合う場ではないのです。--みや1229 2009年9月12日 (土) 07:37 (UTC)
凍結はしなくてもいいですが、このまま投票に移行しても「絶対に賛成しません」のであしからず。(これは議論を凍結せよというメッセージではないことはあらかじめ付記しておきます。)--Goki 2009年9月12日 (土) 08:47 (UTC)
(凍結に賛成)「原則として」の部分に議論の一致を見ていないので、前versionに戻して、「表記はページ内で統一します。ウィキペディア全体での統一に過度にこだわる必要はありません。」とするか、現行verから「原則として」の部分をとって、「ページ内の表記は統一しますが、ウィキペディア全体での統一にこだわりすぎないでください。」とするのが妥当かと思います。--Kamogawa06 2009年9月12日 (土) 12:19 (UTC)
凍結するなら現状で。「原則として」の部分に関する議論は7月4日に終了しています。これを不服とする提案提案者によって取り下げられています(こちらの議論には明確な終了宣言はありませんが、ガイドラインの改訂は広く告知を行ってからという提案者の主張から鑑みお知らせでの提案取り下げ宣言はこちらでも有効と判断します)。よって現時点で議論を凍結するなら、現状表現のままの凍結となります。--114.184.134.39 2009年9月14日 (月) 15:59 (UTC)
  • (反対)凍結でもいいですけれど。
まず、このガイドラインは、「語」の表記だけではなく、むしろ約物類や数字、送り仮名、敬称などの扱いを主としているように思います。これらは表記が含意する意味の違いというものはほとんどないですから、「表記そのもの」の問題であり、それほど意見が対立するものではありません。こうしたものについては、ガイドラインに沿って「原則としてページ内の表記は統一」することができるでしょう。原則を超えるものとしては、引用や固有名詞、分野ごとの慣習などが挙げられます。
Midzさんの文案は、「ページ内では語の表記は統一します」という表現をとっています。「語」の表記は、それほど単純ではありません。「何に統一するのか」が示されない限り、「原則として」「望まれます」というような留保抜きには、賛成することは難しいです。文部省のナントカとか、「○○新聞の用語用字集に統一する」ということなら理解できますが、いまのところこのガイドラインは、それほど詳細に決められているわけではないし、強い拘束力を持とうとしているものではないです。
Midzさんの文案は、そのような基準がないため、表記が混在していたときに、どれでもいいから統一する、ということを求めることになってしまっています。統一する際に選ばれる表記は誤りかもしれないし、それぞれに正しさがあるのかもしれません。
一般的な百科事典などであれば、編集局や監修者からトップダウンで統一することもできます。それは、それなりの権威が与えられているから、です。画一的にそろえることもできるでしょうし、特定の局面で例外扱いをするかどうかを判断することもできます。ところが、ウィキペディアでは、そのような権威的な存在がありませんから、労力をかけて、「この表記」でいこう、という合意を得る必要があります。ウィキペディア全体にわたってということが困難であれば、プロジェクトで、あるいは記事のなかで、という形でもいいでしょう。そこで、内閣告示や学術用語集のようなものが規範として認められれば、別の分野に波及するかもしれません。逆に、そうしたものからは距離を置いて、別の基準が見えてくるかもしれません。ともあれ、ウィキペディア日本語版では「何に統一するのか」という包括的な合意は得られていません。
「何に統一するのか」ということについて、現時点での、暫定的な指針が、この「表記ガイド」というガイドラインです。表記をそろえることは、まとまった分量の文章を書く上では自明な原則だとしても、この表記ガイドは、せいぜい「表記方法の慣習を説明」しているに過ぎず、「慣習」というのは、ウィキペディアでの実際の用例から生成するものであって、ウィキペディアでの用例を規制するものではないはずです。あるいは、全体を視野に入れた議論で合意に至り、書き加えられたものもあるでしょう。ウィキペディアの執筆者の、これまでの知識と判断の集成が、このガイドラインであって、そうした過去の議論の成果として「できるかぎりこのガイドラインに従うことが推奨されます」。しかし、今後の議論や合意を妨げるものではなく、「すべての記事に絶対に適用しなければならないものではありません」し、「従おうとすることが、あなたの記事執筆の妨げになる時には、無理に従う必要はありません」。「分野ごと、記事ごとに使用する場合、関連分野のウィキポータル・ウィキプロジェクトや、個別記事のノートで合意形成をし、合意事項をわかりやすい形でまとめておくとよいでしょう」とありますから、「掲載されている表記法と異なる表記」の存在は、前提とされ、許容され、合意形成が求められています。また、「体裁を整えてくれる」ことは、「表記法に詳しい利用者」に対して期待されています。よくわからないなら、このガイドラインに従えば、あまり問題を生じない。もし、その分野の慣習や表記法に詳しい人であれば、ガイドラインを書き換えることもできる。ウィキペディアでの表記法も、このガイドライン自体も、発展途上なのです。
語の統一というのは、ひとつひとつの表現において、もっとも適切であると思われるものを選び、その集積として、引用句などの例外を除いて、統一されるというものだと考えます。ですから、「何に」統一するのか、というのが、まずは重要になります。単純な誤りであれば、正しいほうで統一するということくらいは、いちいち明記するまでもないと思いますが、しばしば、どちらも間違っていないけれど、明らかにどちらかを選べるほどの決め手もないものもでてきます。ある記事の中で、どの表記を用いるのが正しいのか、適切なのかということを、考えたり調べたりすることは、単純な「統一」よりも優先されるべきこととなります。過去に検討したことのなり論点について対立した場合は、調査や議論の上で、対立する相手の正当性の根拠も踏まえたうえで、合意形成をはかり、その結果が、このガイドラインにまとめられる。
語の表記を統一すること、というのは、とりあえず善であり、有意義な編集と考える人は多いでしょう。しかし、だからといって単純に統一すればいいというものではなくて、複数の表記があるならどちらかを選ばなければならず、その判断をするには、その分野や表記法周辺の知識がいることに気付かずに編集してしまうと、記事の質を落とし、執筆者をウィキペディアから離れさせる要因にもなるということを理解していないなら、うかつに手を出さないほうがいい。ですから、「(それなりの見識と配慮をもって判断した上で、)統一することが望まれます。」、または「原則として、(選ぶべき表記が明らかであるような場合については)統一します」という表現にならざるを得ないと考えます。現在の記述から節に分けて記述の分量を増やすのであれば、わかってないなら手を出すな、ということを喚起する文章を書くことのほうが望ましいでしょう。
語の使い分けというのは、「文脈(文の持つ意味の流れと構造とを総合した概念)に基づいた使い分け」ではありません。その表記そのものが含意する意味の違いに基づくものです。使い分けの際には、明示的に、あるいは文脈から、使い分けの意図がわかるようにすることが望ましい、ということなら、理解できます。念のためですが、「語」と、その語が指示する意味内容の関係は恣意的なもので、語の意味は、文脈=コンテクストによって決定されます。あんまり丁寧な解説ではないですが、コンテクストの一般的な意味、および言語学における意味を確認してみてください。また、引用文や固有名詞などは、比較的容易に、表記を一意的に決定することができるものであり、執筆者の判断が及びにくいものであって、文脈に依存して、他所での表記と異なるものを用いているわけではありません。
以上から、提案の方向性はウィキペディアの仕組みやこのガイドラインにそぐわないところがあるように思いますし、表現の上でも適切ではないところがあると考えて、提案に反対します。--Ks aka 98 2009年9月12日 (土) 09:45 (UTC)
詳しいコメントを有難うございました。ただ、Ks aka 98さまには私の考えを誤解しておられるところがあります。 そして私がうっかりしてKsaka 98さまの文章をそのまま条文に持ち込んだことも誤解を助長した一因と思われ、責任を感じています。 そこでまず、第1項を私の意図に忠実になるように、次のように改変したいと思いますのでよろしくご了承下さい。
  • 1. ページ内では同じ意味・内容の語の表記を統一します。 その際、複数ある表記のうちでどの表記に統一するかは執筆者の裁量に任せます。
まず私の「ページ内では語の表記は統一します」は「何に統一するか」が示されていないので、どれでもいいから統一する、ということを求めていることになるのでよくない、とのご見解ですが、私はここでは実際、ページ内であればどれに統一しても構わないと考えています。私の考えは、記事を読んでいて、 ウィキペディア全体はともかくとして、1つのページ内で表記が混在しているのは避けたいということです。それは数学雑誌に「関数」と書く論文と「函数」と書く論文とが並んでいても構わないが、一つの論文の中に格段の理由もなしに「関数」と「函数」とが混在するのは読みづらいので避けて欲しいという感覚、と言えば解って頂けるかと思います。つまり私は前に挙げた例「三角関数は初等超越函数のひとつで、指数関数、双曲線函数の類縁である」のような文は困ると云っているので、この例では、全部を「関数」にしてもはたまた全部を「函数」にしてもそれは構わないという考えです。一人で執筆すれば表記の混在は起こらないでしょうが、実際には部分的に手を入れてそこだけ自分の好みの表記を使う人が居るとのことなので表記の混在が起こり、しかも数学分野のローカルルールでは「関数と函数が混在していても構わない」と明記してありますのでこれを統一することが抑制されています。私はこのようなことは望ましくないと考えているわけです。今は「かんすう」はほとんど「関数」に統一されていますが、一時「佐藤超函数」が固有名詞であるとの説がでて、実際はそうではないことが分かりましたが、そこでも私はこの考えにしたがって、固有名詞と分かって記事名を「佐藤超函数」とするのならば本文でもすべて「函数」と表記するのがよいと考え、そのことは何処かに書き残してあるはずです。 ですから上の規定は「ページ内では」に大きな意味があるので、ページが違えば表記が変わってもそれほど気にはならないだろうということです。 そして他のページでは他の表記が使われていてもあまり神経質にならずにそのページに専念してほしい、というのが私の文案の第3項です。 ですから「ページ内での表記の統一」は「どの表記が正しいか」とは独立した問題で、比較的容易に実行出来る規定であると考えています。 この規定がJms改訂以前でも「表記はページ内で統一します。ウィキペディア全体での統一には過度にこだわる必要はありません。」となっていたのは恐らく私と同じ考えだったからでしょう。
ここで関連していくつか思いついたことを並べます。
まず第1は、ページ毎に表記が統一されていることはウィキペディアにとって大きな財産だということです。 これはどの表記が最善かなどの議論をスムースに進める上にも役立つと思います。
第2はこの規約によると、あるページでは「放物線」の代わりに「抛物線」に統一したページが現れるかも知れません。そのとき、それが困るとなれば、それがページ名であれば「改名提案」をして民主的に変更できます。ページ名でなく本文だけで使われているときは、同じように「改表記提案」をして「改表記テンプレート」を作って、「改名提案」と同じ様な手続きで改表記をすればスムースに進むと思います。その際にもページ内で表記が統一されていることが大きな強みになります。
Ks aka 89さまの文章にはほかに「文脈」関連の話がありますが、それは技術的な話ですからそれほど障害にならず、この理念の話が片づいたあとで論じてもよいと思います。上記で理念についての誤解を解いて頂けましたら、ページ内では表記が揃った文章を読みたいというささやかなねがいを実現するためのこのガイドラインの存在の当否についてご意見を下さるようお願い致します。 --Midz 2009年9月13日 (日) 02:44 (UTC)
また、関数の話に戻るのですか…。佐藤超函数が固有名詞かどうか知りませんが、私自身は「佐藤超関数」より「佐藤超函数」の方が見慣れていますね。だからといって、「佐藤超函数」を一旦用いたページ内では他の関数も全て「函数」と表記するべき、とも思えません。Wikipedia 全体で統一するのは難しいけれど、ページ内で統一するのは簡単なはず、とお考えの様子なのも私にはよく分からないことです。数学分野では統一が妨げられているとのことですが、機械的な統一ならば妨げられていて何ら問題はないし、Ks aka 98 さんが以前におっしゃったような対話の態度がしっかりしていれば、いくらなんでも例に挙げられたような極端なものは修正できるでしょう。議論全般において、Midz さんは自分の価値観が絶対的に正しく、なかなか受け入れられないのは変だ、と感じられている節がありますが、いろいろな価値観があることをまずは認識して頂きたいです。Jms さんの話も長いですが(失礼)、Midz さんの提案がすんなり受け入れられないのはそのせいばかりとも言えないと思います。ところで、意図したものではないでしょうけれど、Midz さんの書かれた藤沢利喜太郎の初版では「大学」と「大學」が混在していて、今もそうですよ。 --白駒 2009年9月13日 (日) 07:32 (UTC)
「佐藤-超函数」あるいは「佐藤-超-函数」のように2語・3語に分けて考えるならそれぞれページ内の「超函数/超関数」や「函数/関数」との統一を議論する必要がありますが、「佐藤超函数」を1語の固有名詞と定義するなら「函数/関数」とは別の語です。そもそも統一する必要はありません。--114.184.134.39 2009年9月14日 (月) 16:09 (UTC)
「自分の価値観が絶対的に正しく、なかなか受け入れられないのは変だ、と感じられている節」もそうですが、反論がたくさん出ているにもかかわらず、「最終案の提示」などと甚だ馬鹿馬鹿しい議論の進め方をしています。このような進め方を改めない限り議論の場につくことすら馬鹿馬鹿しい。--Goki 2009年9月13日 (日) 11:29 (UTC)
反論に対して修正を行ったうえでの最終案だから問題はないと考えます。異議があればそれに合理的な理由をつけて反論を述べるべきです。--みや1229 2009年9月13日 (日) 12:13 (UTC)
みや1229さんは「Jms氏の書いていることがわからないことが議論の妨げになるわけではありません。ここはJms氏と語り合う場ではないのです。」とも述べていらっしゃいますが、この「Jms氏」というのは「反論を述べている者」でもあるわけで、反論者の述べていることがわからなくてどうやって「反論に対して修正」するのでしょうか。--Jms 2009年9月13日 (日) 14:23 (UTC)
合理的な反論はすでに述べています。提案者の議論の進め方を批判する前に。それを一切無視して「最終案」などとふざけたことを書いているんだから開いた口がふさがりません。--Goki 2009年9月13日 (日) 14:44 (UTC)


私は議論の進み具合によりまだまだ変更はあり得ると考えて「一応の最終案」と書きました。それを「最終案の提示」の節として整理して下さったのは Ks aka 98さまです。念のため。
それから「合理的な反論はすでに述べています」と書くだけで、その内容の提示がないのはいつものことです。ここは「こういう合理的な反論をもう出している」と第三者にアピールするために内容を誇示する場面だと思いますが。 --Midz 2009年9月14日 (月) 03:12 (UTC)
改めて第三者にアピールする必要など全く無いくらい、再三にわたって「合理的反論」が行われています。再度の提示を求める前に、貴兄が自説への反論に対して「話の進行を妨害するための口実だったとの印象だけで具体的には憶えていません」という極めて不誠実な態度を改めるだけで問題は解決します。--114.184.134.39 2009年9月14日 (月) 16:23 (UTC)
◆「第三者にアピールするために内容を誇示する場面」という発想がわかりません。誇示というのもわかりませんが、そもそもなぜ提案者との対話ではなく第三者にアピールする必要があるのかがわかりません。絶対不同意議論拒否という宣言なのでしょうか。提案者が反論に対して対応すべき場面であって、憶えていないなら提案者に対して再提示もあるでしょうが、再提示したところで理解していただけなかった説明の繰り返しになっては仕方ありませんから、どこがどう理解できないか、一つ一つ確認しながらの作業が必要だと思います。しかしそれも既に拒否されていますので、さてどうしたもでしょう。白駒さんの指摘や、Makotoy さんによる問いかけがメタなレベルで行われており、並行して議論しても錯綜するだけでしょうから、しばらく様子を見ます。様子見であって、納得して沈黙するわけではありません。できればその間に Midz さんには今までの議論を読み返して、記憶を新たにしていただければと思います。--Jms 2009年9月14日 (月) 18:01 (UTC) 一部補記 --Jms 2009年9月14日 (月) 21:05 (UTC)

ページ内で統一された表記はかなり重い存在で、編集合戦の対象にされる恐れがあり、しかも出発点では執筆者個人の選択にゆだねられていますので、その変更手続きを定めておいた方がよいと思います。 そこで文案に次の条項を付け加えます。

  •  4.ページ内で現行の表記が望ましくないと考えたときは、ページ名の改名提案か、あるいはそれに類した改表記提案をして、民主的手続きを踏んで表記の変更を行います。

以上です。これを前の文案に付け加えて読んで下さい。 よろしく。--Midz 2009年9月14日 (月) 03:22 (UTC)

3つ質問させてください。
とりあえずお聞きしたいのは以上の3つです。どれも、はい/いいえで答えられるものですのでよろしくおねがいいたします。--Makotoy 2009年9月14日 (月) 08:04 (UTC)
取りあえずお答えします。
第1のご質問については、基本的は適用されると思います。ただ各ページ内での統一がなされていないと「改表記提案」の意味が曖昧になりますから、これがスムースに適用されるためには、誰かが第1項の規定をつかってまず統一しておいて、それから議論を始めることになるのかなとも思います。
第2、第3の質問については読んでよく解りましたが、 Makotoyさんが何でこの質問をされたのかは測りかねています。
なお、Makotoyさんもこれに続く白駒さんへの私のコメントを読んで同じ検討してくださるようお願いします。--Midz 2009年9月14日 (月) 12:14 (UTC)(名前記入忘れのための記入)
あらためて確認させていただきたいのですが、上で提案された条項「4.ページ内で・・」を起草された段階では、Wikipedia:ページの編集は大胆にWikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは民主主義の実験ではありませんのそれぞれについて、a) その内容を知らずしたがって考慮することはなかった、b) 知っていたが提案の内容とぶつかることはないと判断した、c) 提案の中で配慮してある のうちどれに該当しますでしょうか?いただいた回答からは、どちらについても a) なのではないかと推測したのですが、それはあっていますか?このようなことをお聞きしているのは提案された文面がこれらの方針をおかしていると思ったからなのですが、具体的にどのような心配を持ったのかはこの確認の後で表明させていただきます。--Makotoy 2009年9月14日 (月) 14:19 (UTC)
どうも議論が錯綜して、ご質問の所在を知るのも困難な情況になってきましたのでご返事が遅れましたが、お答えします。確かにa)です。ご指摘を受けて読んでみて、これらも他のガイドラインと同じで常識を明文化したものですから、まさにその通りと思っただけです。 Makotoyさんがどうして私の文案がこれらをおかしていると考えられたか興味がありますので、是非お聞かせください。--Midz 2009年9月15日 (火) 03:58 (UTC)
既に下の方でも議論が進んでいるので、こちらでは第4項に直接かかる問題の指摘にとどめさせていただきます。表記の変更についていちいちハードルをもうけることは、加筆をしようとする利用者を遠ざけることにつながります。表記のバリエーションが発生するシナリオとして、下でsergeiさんやKs aka 98さんが挙げているような深刻なニュアンスに関わるものもあれば、数学用語のぶれのようにどちらに統一しても害はないように見えるものもあるでしょう。ところで後者の場合だって、まさにどちらに倒しても深刻な害がないがゆえに、それぞれの執筆者がいたずらに譲歩する必要がないとも言えるわけです。例えば、「最小上界」「多元環」「函数」などを使いたいAさんというひとがいたとして、Aさんがこれらの言葉を使って書いたスタブ記事を、僕は自分がそれらの表記に縛られる必要なしに「上限」「線型環」「関数」を使って全面的な改稿を行っていいということを知っているし、逆に僕が後者の表記で書いたスタブ記事をAさんが前者の表記でもって拡充していいということもAさんは知っている、そして内容の使い方をともなわない表記の変更だけの編集はしない(それは相手を納得させられないから)というような一定の規範がすでにあると言っていいと思います。そのような、大胆な編集の際に表記の変更も認める規範はWikipedia:ウィキプロジェクト 数学/函数と関数の「加筆の際や、明らかに記事の質を上げる改稿の際には、どちらの表記を用いても構わない。」にも反映されているわけです。これ以上、上の提案4のようにして形式的な手続きを踏むことを規則づけるのは記事への加筆を妨げる指示の肥大化になるでしょう。
また、ルール作りの一般論として、「民主的」という言葉に頼ることはできる限り避け、その意図するところ、何が求められるのか具体的に指示した方がよいでしょう。我々は政治をするためでなく百科事典を作るためにここにいるのであって、百科事典作りの本質を離れた多数派工作や微妙な事情を無視してとにかく多数決で白黒つける、というような事態はさけなければなりません。--Makotoy 2009年9月15日 (火) 18:31 (UTC)
白駒さん
昨日の貴兄のコメントへの返事を差し上げます。いつもごいろいろとお骨折りご苦労様です。貴兄がMakotoyさんとともにとても真面目な方だということはよく解っていますし、いろいろ苦労をなさった「関数/函数」の編集合戦解決のため、精緻なローカルルールを作られたことも評価します。ただその後の白駒さんはこの白駒ルールへの愛着のためか、それに不利な動きはすべて悪だとの価値観をお持ちになって、その条項と反する今度の私の提案などにも強い反感をお持ちのようなのは残念なことです。
しかし考えてください。白駒ルールは貴兄にとっても編集合戦対処のための手段であって、それ自体が目的ではなかった筈です。ですからそれ以外でも有効な手段が提供されればその得失を検討して最善のものを選ぶのが貴兄の本来の立場だと思います。
私は今度の私の提案は「関数/函数」編集合戦への対処手段としてもきわめて有効だと思っています。まず私の提案(Midzガイドライン)よれば(白駒ルールがない場合)各ページ内では「かんすう」は「関数」か「函数」かに統一され、それだけでも読み易さが確保されて有益です。そしてそれに部分的編集によって異種表記が持ち込まれた場合はそれを修正して統一を維持することがMidzガイドラインによって正当化されます。そのうちに両者をどちらかに統一しようとする動きが始まったときも、ページ内で表記が統一されているお陰で、「改名提案」やそれに類する「改表記提案」(表記が本文にだけ現れる場合)の形をとることが容易になり、それにより合意形成の議論を深めることが出来て、スムースに改表記を行うことが出来ます。それ以外のゲリラ的改表記の動きはMidzガイドラインを根拠にリバートなどの手段で押さえ込めます。 このようにして編集合戦をきわめて有効に押さえ込めると考えますが如何でしょうか。
ですから貴兄も偏見を離れ、本来の立場の戻られて、本提案について検討を加えてくださるととても嬉しく思います。よろしくお願いします。
なおこの検討はMakotoyさんにもお願いしたいと思いますので、よろしくお願いします。--Midz 2009年9月14日 (月) 12:24 (UTC)
この段階で申し上げられるのは、微妙な事柄に関する利用者間の意見の対立を天下り的なルールを置いて押さえつけることはウィキペディアでは受け入れられないのだ、ということです。これはすでにWikipedia:井戸端/subj/「函数/関数」など複数の表記がある語の扱いNekosuki600さんぼく(主に2点目)が、あるいはこのノートでKs aka 98さんが言っていたことでもあります(見落としの際は失礼)。--Makotoy 2009年9月14日 (月) 14:19 (UTC)

どこに書いたらいいのかわからんので、一番下に。誤解かどうかはわかりませんけれど、「ページ内であればどれに統一しても構わない」また、「「ページ内での表記の統一」は「どの表記が正しいか」とは独立した問題で、比較的容易に実行出来る規定である」という考えの下に文案を出されているということであれば、いずれにしても反対であることはかわりありません。改定以前の「表記はページ内で統一します。」が、Midzさんがいうほど強く統一を求めるものであったとも思いません。あるいは、その意図があったとしても、語の統一にまで意識していたわけではないでしょう[2]

ぼくの考えは、「比較的容易に実行」できるからといって、知識も考えもなしに実行されては困る、というものです。記事の質を落とし、執筆者をウィキペディアから離れさせる要因にもなります。執筆者の意図として違いを作っていて、それが適切な使い分けであったものを、安易に統一してしまうと、修復はしばしば困難になります。ある表記が間違いなのか正しいのか、いずれにも相応の理由があるのか、という判断は、容易ではありません。「エンターテインメント」と「エンタテインメント」はいずれかに統一するのが好ましいとは思いますが、エンターテイメントに統一されては困りますし、一方で社名としてはエンターテイメントを使っているところもあります。

統一しようと試みることは、批判されるべきではありませんが、異なる表記を採用したいと考える人を、荒らし呼ばわりをしたり、強行に編集を繰り返すことは慎まれなければなりません。その分野や表記法周辺の知識もないに統一することを正当化するような文案には同意できない。「どの表記が正しいか」というよりは「どの表記が適切か」から独立した問題とすることにはできない、ということです。とりわけ、「語」にまで統一の範囲を広げるならば、先に例を挙げた「ジプシー」「ロマ」、あるいは「大東亜戦争」「太平洋戦争」は、Midzさんにとっては「同じ意味・内容の語」ということになるのでしょう。これらの語について、いずれかの表記を採用することがどういう意味につながるかを知らずに、統一するような編集は、最初から避けるようにしておくのが望ましいでしょう。

部分的な加筆を行う編集者にとって、ページ内の統一は容易ではありません。部分的な知識では全体をフォローできるとは限りません。また、ウィキペディアでは、編集差分が示されますから、自分が何を書いたかを、誰でも見ることができます。執筆者によっては、個人として、どの表記を採用しているかということを残したいと考える人も居るでしょう。表記については頓着しないから、詳しい人にまかせるという人もいるでしょう。そういう場合には、統一は苦痛ですらあります。たとえば、「障害」「障碍」「障がい」あたりを想起してみてください。執筆者が全体を統一することは、その執筆者にとって、全体を統一することが重要であり、統一するだけの知識を持っているならば、ガイドラインなどなくとも、適切に統一するでしょうし、それをするならば、反論があればノートで説明することもできるでしょう。統一を容易だと考えるのは、表記に対する知識を充分に持った利用者と、知識を持たず表記のことを軽視する利用者です。

「改表記提案」をして「改表記テンプレート」を作って、「改名提案」と同じ様な手続きで改表記をすればスムースに進むのであれば、統一をしようと思った利用者が、ノートで提案して、合意の上で統一すればよいのではないでしょうか。--Ks aka 98 2009年9月14日 (月) 18:58 (UTC)

Ks aka 98さま。詳細な議論を有難うございます。はじめて色々な具体例をあげての論述に、個々の場合にまともな議論が出来ることを喜んでおります。ただ、それらの例がどうして私の文案では困ることの論証になっているのか解りませんので、それぞれに私の見解を述べます。
まず、私の文案が語の統一まで含んでしまうというご指摘はちょっと理解しかねますが、第1項の「語の表記」という言葉がその誤解を生むとすれば、それは単に「表記」としても構いません。本来ここは「表記」であったものが、カッコの表記に関して激しい論争が起きているという話があったため、それに巻き込まれることを避けるために「語の」を挿入したものです。ですからそれを再び省いても少しも構いません。 そしてJms改訂前のこの条文が少なくともページ内での表記の混在は迷惑だという常識を表していたことは確かだと思います。
「執筆者の意図として違いを作っていて、それが適切な使い分けであったものを、安易に統一してしまうと、修復がしばしば困難になります」も納得できないことの1つです。それが適切な使い分けであれば文脈で説明できるはずで、その使い分けを統一することは私の文案では明確に反対しています。要点は「修復不能」でしょうが、ひとつのページ内でそのようなことがどのように起こるかが想像出来ません。
「エンターテイメントに統一されては困りますし」も理解できないところの1つです。1つのページ内で「エンターテインメント」と「エンタテイメント」のどちらも必要とする場面が、表記そのものに言及する文脈以外にあるとは思えず、その場合は私の文案でも混在が明確に認められています。
ページ内の統一を「どの表記が適切か」から独立した問題とすることは出来ない、にも同意致しかねます。いくつか表記があることはどれを使っても一応は違和感なく読むことが出来ることを意味しますから、その一つでとりあえず1つのページ内を統一しておいて、その後でゆっくりもっとも適切なものを皆で議論して選ぶということは充分可能と思います。
そこであげられた「ジプシー」と「ロマ」についてはあまり知識はありませんが、名称の由来をしっかり書き込んだページがどこかにあれば1つのページ内では統一してもよいのではないかと思っています。もちろん知識のない私が統一しようとは思いませんが。それに対して「大東亜戦争」と「太平洋戦争」は私の中でもはっきり別物です。つまり百科事典で片方はもう片方と「同義」で片づけることの出来ないはっきりした違いをもっています。私が「同じ意味・内容」と呼ぶのは「関数」と「函数」、もしくは「タケ」と「竹」のごとく一般辞書で「同義」とあってもなんら違和感を持たないものに限ります。
部分的な加筆を行う執筆者は、私の文案が想定しているようにページ内で表記がすでに統一されている場合は、通常はそれに従うでしょうから容易に執筆できます。ただごくまれにその表記に違和感を感じる人がいるかも知れませんが、その時は当面は我慢して大勢に従っていただくか、「改表記提案」をしてノートなどで合意を図っていただくことになりますが、ページ内の表記の統一はその労力に充分値する価値があると思います。いずれにしても私の文案で部分的な加筆を行う執筆者は通常は容易に執筆でき、統一を苦痛に感じることはまずないと考えます。
そして最後の「ノートで提案して、合意の上で統一すればよいのではないでしょうか」は私が文案で提案した「改表記提案」によるプロセスそのものです。
以上を総合して、ご所論からは私の文案でガイドラインを作ると何か不都合が起こる、ということを読みとることは出来ませんでした。一方、現行のJms文は曖昧で除外ケースに一切触れておらず、具体的ガイドとして役立たないことは指摘されている通りです。ですから一度これをガイドラインに採用してみて、何か不都合なことが起こったら改めて議論する、ということで認めて頂けないでしょうか。よろしくお願いします。 --Midz 2009年9月15日 (火) 02:52 (UTC) --Midz 2009年9月15日 (火) 12:09 (UTC)(部分修正)

文案第4項との整合性のため、第1項を次のように改めます。

  • 1. ページ内では同じ意味・内容の表記を統一します。 最初の統一の際は、複数ある表記のうちでどの表記に統一するかの選択は執筆者の裁量に任せます。 その後の変更は第4項に従います。

以上です。 よろしく。 --Midz 2009年9月15日 (火) 13:06 (UTC)

この件はJmsさんをはじめ畏敬する利用者諸賢が活発に発言されていたので静観していたのですが、ロマの話が出てきたので黙っているわけにいかなくなりました。私が初版を投稿した黒い瞳では敢えて意図してロマとジプシーの表記を混在させています。私はこの民族に対する呼称としてはロマを用いるのが望ましいと考えていますが、音楽分野での「ジプシー○○」といった術語の定着には根強いものがあるため(少なくとも私は「ロマ歌謡」という術語は見たことがありません)、この項目内では注意深く両者を併用することにしました。これをもし、事情をよくわかっていない草取り屋さんがどちらかに統一してしまったとしたら…、考えるだけでも悪夢です。
2009年9月15日 (火) 02:52 (UTC) の発言により提案者のMidzさんが「あまり知識はありません」と言いながら「1つのページ内では統一してもよいのではないか」などと安易に考えていることが判明しましたので、この提案には断固として反対します。文面を少々手直ししたからといって反対意見を取り下げることはありません。逆に、事情をよくわかっていない人が統一のためと称して安易に表記の改変を行うことを戒めるような方向での改訂なら、検討する価値はあると思います。--sergei 2009年9月15日 (火) 14:44 (UTC)
◆少し付け足し。黒い瞳の初版では、ウクライナ人である作詞者の名前をロシア語風の読みで表記していました。それはこの人物の名前が日本ではロシア語風の読みで定着していること、この人物がロシア語でも作品を発表しており、この「黒い瞳」はまさにその一つであること、そしてこれが最も大きな理由ですが、私自身にウクライナ語の知識がないため、ウクライナ語風の表記を適切に行える自信がないこと、こういった要因を考慮して決めたものです。しかし、ロシア民謡の項目にこの人物の名前のウクライナ語読みによる表記が記載されており、履歴を正確には確かめませんでしたがこの部分を執筆したのがウクライナ語に精通した方であることが確実な状況であったことから、それに倣って黒い瞳の方もウクライナ語読みに改めました。この時に一部がロシア語読みのまま残っていたので先ほど括弧内の注記を除いてウクライナ語読みに統一しておきましたが、これをどちらの側に統一するのが望ましいのかはある程度の知識がなければ判断できないことです。「ページ内であればどれに統一しても構わない」(2009年9月13日 (日) 02:44 (UTC) の発言から)などという主張は全く受け容れることができません。
別の例を挙げると、イスラームにおけるイーサーは改名を提案したいきがかりから私が冒頭定義部を書いたのですが、ここでは同じ人物に対してイーサーとイエスという二通りの表記を混在させています。イスラームについてもキリスト教についてもさほど詳しくない私には、この作業はとても難しいものでした。いや、かなりの知識のある人でも、というより知識が豊富にあればあるほど、この種の作業は難しく感じるものなのではないかと思います。どうして「『ページ内での表記の統一』は『どの表記が正しいか』とは独立した問題で、比較的容易に実行出来る規定である」(同上)などと言えるのか、私には全くわかりません。率直に申しますが、こうした作業がどれほど細かな神経を必要とするものであるのかを想像できない人には、表記についての議論には一切関わっていただきたくありません。--sergei 2009年9月15日 (火) 15:17 (UTC)
◆今のままでも、ページ内の表記を当たり前に統一することはできます。統一するな、とは、どこにも書かれていませんし、原則に反するような事例は示されていませんが、例示するなら、引用、固有名詞、表記への言及、表記によって含意のあるものの使い分け、などが「原則」に外れるものだということは、ここでの議論からも一般に理解されるものでしょう。ぼくも統一するな、とは主張していません。誤りを正し、より適切な表記に統一することは、現在の記述でも望まれることとして受け取られることです。使い分けをしている理由がわからないなら、手を触れるべきではありません。それが使い分けではなくて、混在であると判断できるだけの知識があるならば、統一すればいいでしょう。混在であると推察し、統一すべきだと思うけれど自信がないのなら、ノートや会話ページで確認すればいい。今の文面は、そういうことを阻害するものではありません。これを超えて、安易に統一することを可能にする、推奨するような提案には反対する、ということです。
「表記によって含意のあるものの使い分け」で、その違いを明示していないもの、という場合への対応が異なる、というのが、大きいのかなとも思います。適切な使い分けであれば文脈で説明できるはず、とは限りません。物理や数学は比較的明確に定義される言葉も多いでしょうけれど、そうでない分野では、定義は容易ではありません。慣習的な用法をウィキペディアの編集者が検証可能性を満たし、独自研究に陥らないように、暫定的にでも定義付けるのは、とてつもなく大変な作業です。また、その説明は、いつ、誰がするのでしょうか。その分野に多少なりとも関心があるならば当然に使い分けているものもあります。執筆者はわざわざ本文やノートで説明するまでもないと考え、そのままウィキペディアの編集から離れてしまった後に、違いを読み取れない人が、統一してしまうくらいなら、そのままのほうがいいと思います。表記、呼称というのは、理解していない人は、別の表記があったり、あるいは自分の表記が正しくないことに気づいていませんし、理解していると思いこんでいる人は、自分が正しいと思いがちですし、正しいのだから当然のものとして使いがちです。
  • エンターテイメントに統一されては困ります。発音上明確な誤りですから、そのまま放置されては、ウィキペディアの信頼を損ないます。これがわからないような人が、統一しては困るんです。
  • 「大東亜戦争」と「太平洋戦争」の違いは何ですか? それほど明らかではないですよ。
  • 文脈を読み取っていただきたいのですが、「障碍」については、編集者に統一を求めているということへの指摘です。細かいところで諸説あるんですが「障碍」は当用漢字の置き換えによって「障害」となり、「害」という文字に対する反発が当事者周辺から出てきていて、「障碍・障がい」を使いたいという動きがあります。障害にまつわる仕事に従事している人で、「害」に不快感を持っている人ならば、百科事典として用法の使い分けとその背景の説明をした上でならば一般的な「障害」を用いることは納得しているとしても自分では「害」の字を使いたくない、ということは想像できませんか? そういう人の態度を、「個人的感慨」として退け、苦痛をしいての参加または編集からの撤退を求めるような規則はまったく受け入れられません。
  • ロマとジプシーについては、sergeiさんの意見をご確認ください。どちらかに、でも「悪夢」と書かれていますが、「ロマ」ではなく、「ジプシー」あるいは「ツィガーヌ」に統一されたら、悪夢どころではないと受け取る方もいるでしょうね。近年ではジプシーは他称であり差別的な呼称として言いかえが進んでいて、とはいっても、東欧滞在歴がある人でも温度差はさまざまですが、とても気にしている方もいらっしゃいます。過敏な人にとっては、「アフリカ系アメリカ人」を「ニガー」に書き換えられるようなものだったりもするのですよ。
Midzさんは、波動力学と行列力学は等価ですが使い分けますよね。量子論と量子力学も使い分けますよね。ぼくやSergeiさんにとって、ロマとジプシーは、それと同じくらい当たり前に違うものです。そして、表記や呼称の違いというのは、往々にして、立場の違いを含み、宗教や思想や差別構造を含む、深刻なものなのですよ。--Ks aka 98 2009年9月15日 (火) 16:11 (UTC)
原則が適用されない場合の例示がある方が良いという意見に従い、例外を例示した小改訂案は既に提示しました。Midz さんがなぜ対案を併記しないのかわたくしにはわかりませんが、お忘れなのかもしれませんので、念のため事実の指摘のみしておきます。--Jms 2009年9月15日 (火) 16:34 (UTC)
ついでに。今、小改訂案を提示するなら、Goki さんの提案 (20090910T0144Z) と Ks aka 98 さんの例示に従い、
小改訂案a'
原則としてページ内の表記は統一しますが、引用、固有名詞、表記そのものへの言及、表記によって含意のあるものの使い分けといった場合にはページ内で異なる表記を用いて構いません。ウィキペディア全体での統一にばかり固執すべきではありません。
小改訂案b'
原則としてページ内の表記は統一しますが、ウィキペディア全体での統一にばかり固執すべきではありません。たとえば引用、固有名詞、表記そのものへの言及、表記によって含意のあるものを使い分ける場合などではページ内で異なる表記を用いて構いません。
などとすると思います。例示がこれくらい長いと b' の方が良い気がします。--Jms 2009年9月15日 (火) 16:58 (UTC)
「もののついかいわけ」というのがやや言いにくいので、「表記によって含意のあるものの使い分け」を「含意ある表記の使い分け」に修正させてください。こう言い換えても本質的意味は変わらないと思います。--Jms 2009年9月16日 (水) 17:34 (UTC)
上のMidzさんの第4項についての部分とも少しかぶるのですが、Midzさんの提案は全体的に、ウィキペディアの記事が共同作業によって成長していく過程への配慮を欠いているように思えます。例えば#表記統一項の目的節で「文学作品では印刷で見た目を重視して・・・それを取らないことを明確にする大原則を最初に掲げる」と言うことをこの条項の目的として挙げられていたり、現時点での各条文案が想定し推奨しているストーリーというのが「最初の執筆者が揺らぎのない表記で記事を書き、以降は基本的にそれを変えない」と言うようのものであったりということです。実際にはあまり知識のない利用者がとりあえず書いたスタブ記事をより知識のある利用者が加筆し成長させていくというシナリオもあり、ウィキペディアとしてはこちらもできる限り支援すべきでしょう。--Makotoy 2009年9月15日 (火) 18:31 (UTC)

第2次案の提示 編集

いろいろコメントを有難うございました。以前はこの提案の押しつぶしをねらった揚げ足取りの議論ばかりで進歩がありませんでしたが、Ks aka 98さまとあら金さまのご意見のころから内容についての貴重なコメントが頂けるようになり、まともな議論が出来て、私の提案の文案も大いに進化しました。ところがその成果の条項がいくつかに分散し、参照しにくいので、ここに取りまとめてかつ少し手を入れて第2次案として提示し、かつ書き込みの便を図って節を改めます。当面はこれを基礎に議論を進めてください。なお、実質のある議論が続いていますので、まえに提示した本文改訂の期限を一応取り下げ、さらなる議論の展開を期待します。

第2次案

1.ページ内では語の表記は統一します。新しくページをつくるとき、あるいは表記が混在する既存ページを初めて統一するときは、複数ある表記のうちでどの表記に統一するかの選択は執筆者に任せます。

2.前項にもかかわらず、文脈(文の表す話の筋道と文の構造)に基づいた使い分けがなされている表記は統一の対象にしません。文脈に基づいた使い分けにはつぎのケースが含まれます。

  • 文脈により識別される本の表題などの固有名は除外されます。
  • 文脈により識別された引用文では元の文章で使われていた表記を維持します。
  • 原義、歴史的経緯や分野による慣習の違いなど、表記そのものに言及する文脈では表記を使い分けます。
  • タケと竹のように使い分けが定義されている表記については、文脈によりそこがそのいずれに当たるかを識別して使い分けます。
  • 正式名と略称など複数の表記をもつ事柄については、そこの文脈にもっとも相応しい表記を選ぶことで使い分けます。

3.ページを超えたウィキペディア全体での統一には過度にこだわる必要はありません。

4.ページ内での現行の統一された表記が望ましくないと考えたときは、表記がページ名である時は改名提案を、本文にだけ現れる場合はそれに類した改表記提案をして、手続きを踏んで表記の変更を行います。ただし、スタブ記事への加筆の際には直接手をいれて構いません。

5.その表記を含んだ派生語・複合語は別の語ですから、統一の前に検討を要します。 多くは統一の対象になりますが(例 関数/函数と三角関数)、そうでない例もあるので(例 ロマ/ジプシーとジプシー歌謡)、注意してください。

以上です。

なお、第5項はsergei さんの議論にヒントを得て今回付け加えたもので、同時にsergeiさんへのお応えです。 イーサーの件は詳しくは読んでいませんが、「表記そのものに言及する文脈」で使い分けられている話でしょう。ほかの方々への返事も書かなければいけないのですが、大分輻輳していますので、少し時間をください。 --Midz 2009年9月16日 (水) 03:56 (UTC) --Midz 2009年9月16日 (水) 04:06 (UTC)(2字修正)--Midz 2009年9月16日 (水) 20:34 (UTC)(「固有名」項目追加)

私が「文面を少々手直ししたからといって反対意見を取り下げることはありません」と述べた意図が全く伝わっていないようなので説明しておきます。
イスラームにおけるイーサーの例を挙げたのは、例外として許容される事例の一つとして付け加えてもらいたかったからではありません。こうした宗教や民族に関わる項目の執筆に従事する利用者が、日頃どれほど繊細な注意を払って表記というものを取り扱っているかを、自らの体験に即して説明しておきたかったからです。「『ページ内での表記の統一』は『どの表記が正しいか』とは独立した問題で、比較的容易に実行出来る規定であると考えてい」るということは、そういう苦労が全くわかっていないということですよね、と指摘したかったのです。
ここで反対者から例示された事例を一つ一つ例外規定として付け加えていけばいい、という問題ではありません。Midzさんは私が例示するまでロマ/ジプシー歌謡のようなケースがあることに気づいていなかったわけですよね? ということは、私を含めたこの議論への参加者全てにも思いつかないような例外的な事例が、おそらく膨大に存在するだろう、ということです。森羅万象を取り扱うことを主旨とする百科事典において、例外となるケースを予め全て想定して網羅しておくなどということは実現不可能です。
それから、私が黒い瞳においてジプシー歌謡という術語を用いたのは、音楽関係の文献でほとんど目にすることのないロマ歌謡という術語を自分の個人的な信条によって使用すれば、Wikipediaにおいて避けなければならない独自研究に該当するかも知れない、と懸念してのことです。決して私がジプシー歌謡という術語を積極的に支持しているわけではありません。もしWikipediaのガイドラインであるこの文書に表記の統一の例外となる事例の一つとしてロマ/ジプシー歌謡を例示した場合、ジプシー歌謡という術語が残存し続けることをWikipediaが積極的に支持しているかのように読み取られかねない、という厄介な問題が生じるのですが、そのことには思いが至らなかったでしょうか?
私が反対しているのは、提案されている文案のこの部分が気に入らない、というような理由ではありません。私が言いたいのは、Midzさんには表記についての取り決めを制定する議論に関わるだけの知識と想像力が決定的に欠けている、ということです。そういう人がいくら文章の細かい言い回しをこねくり回してみせてくれたところで、そんな提案にはとても乗ることはできないのです。--sergei 2009年9月16日 (水) 10:22 (UTC)
  コメントJms200909151658案とMidz第2次案について検討。まず課題は原則からはずれる場合の定義であるという考えで評価します。まずJms案はそれらを引用、固有名詞、表記そのものへの言及、表記によって含意のあるものの使い分けとし、一方、Midz案はそれを4つの場合(1.引用の場合 2.表記そのものに言及する場合 3.使い分けが定義されている場合 4.正式名と略称)に分けて示しています。これら両者の定義している状況は同じであると考えます。このような場合、よりシンプルに表現する方がわかりやすく、また解釈の違いも少なくなると考えJms案の方がよいと判断します。次にMidz案の1項および4項は執筆・編集姿勢の指針でもありここで定義する必要性を感じません。Midz案の5項は定義が明確ではないため記載すべきではないと考えます。以上からJms小改訂案a'を支持します。--みや1229 2009年9月16日 (水) 11:55 (UTC)
◆反対。というか、何がどう反対されているのかについてMidzさんは全然理解されていないように思いますし、理解しないままに「議論の深化を期待」とか言われても対応に困ります。--Nekosuki600 2009年9月16日 (水) 16:17 (UTC)
  コメント「第2次案」には反対。Sergei氏の意見・Jms氏の改訂案に賛同いたします。私の基本的なスタンスは「規則・規制が無駄に多いプロジェクトはユーザの知的レベルが低く・自らの恥をさらしているだけ。」という認識であるので。(例:テンプレートで冒頭文まで規制している大学プロジェクトなど)どうでもいいですけど、なんでMinz氏は全角数字を使うんだろう…。「表記ガイドの改定」や「表記の統一」を企図するのであれば全角数字を使うのはいかがなものかと考えています。--Goki 2009年9月17日 (木) 01:03 (UTC)

第3次案の提示 編集

「本文改訂の予告」のショック療法の効果でKs aka 98さまやあら金さまのコメントを始めとする多数の意見が一気に集まり、議論が急進展したことはご同慶の至りです。その1つの成果が「最終案」で、そこで初めて除外ケースの列挙がなされ、利用者が自分で判断する基盤が作られました。しかし、この時点でもJms さんはこの案の審議を拒否し、あくまで現行のJms 文による「原則として」による無制限の裁量機能を固守しようとしました。

ただ、その時点でも案は除外ケースの事細かな説明文により、すでに表記ガイドの1項目としては相応しくない大規模になっていましたので、いずれもっとコンパクトなものにする必要があるとは考えていました。

そしてさらにKs aka 89さまとのやりとりで無責任な統一はこまるとのことで、第1項を書き換えたり、Makotoyさんの「編集合戦防止」の要望に応えて第4項を加えたりしました。そしてあれだけJms文固守のため内容審議に入ることを拒んでいたJmsさんも大勢には抗し難く、少し以前に除外ケース2つを例示した「小改定案a、b」を提出していましたが、このころにそれを改訂した具体的な除外ケースの列挙を含む2つの「小改定案a'、b' 」を提出しました。

この時点で収束を図ってもよかったのですが、私は小改定案の冒頭に相変わらず「原則として」があることに不安があり、私の提案の条項が散らばっていて見にくかったこともあって、まずは第2次案をしめして私の考えの全貌を見ていただくことを優先しました。

こうして提案がきわめて重厚長大になりましたが、これは一応は行くところまで行って皆様の反応を見て見たいとの考えが頭の片隅にあったことは確かです。 実をいえばこれが重厚長大すぎて表記ガイドの項目には不釣り合いだといういう意見が出てくることを期待したのですが、そのような意見はなく、やっと最近になってみや1229さんが評価の基準をきちんと挙げてくださったので、この重厚長大な案はその目的を充分に果たし終えたと考え、冗長な説明や余分の条項を削って、私の本来の案である最初の提案、もっと言えばJms改訂が行われる前の原案に沿い、その後の成果を加味した第3次案を作りましたので提示します。これはJmsさんの2つの「小改定案」と比較すべき案です。

第3次案 文案

  1. ページ内で表記は統一します。ただし、固有名詞、本の表題などの固有名、引用文中の表記、表記そのものへの言及、使い分けが別に定義されている表記、正式名と略称、などは表記統一の対象にしません。
  2. ウィキペディア全体での統一には過度にこだわる必要はありません。

以上です。

Jmaさんの2つの小改訂案との主な違いは次の通りです。

  1. この項目の主題は「表記の統一」であることを明記したこと。これは表記統一を副文にして除外ケースの扱いに力点がある小改訂文とはまず違う点です。
  2. 小改訂案にあった「原則として」がないこと。これで「除外ケース」以外へ拡張解釈される恐れが除かれます。また列挙した以外の「除外ケース」が問題になった場合は第3次案では「など」で対処します。
  3. 「除外ケース」を「対象にしません」と明記してそれが正しい使い方であることを保証したこと。「構いません」では「ほんとは違反だけど許容されます」とのニュアンスとなり、一般の人の感覚に反します。
  4. 第2項は余分な気を使わせないための老婆心切な規定ですから、Jms改訂以前の原文にあったこの文章が適切と思います。 小改訂案の「統一にばかり固執すべきでありません」は表記ガイドとしてはいかにも不自然な文章で、利用者はその意図を図りかねるでしょう。

以上です。 皆様多数のご意見をお待ちします。--Midz 2009年9月17日 (木) 05:51 (UTC)

「Jms さんはこの案の審議を拒否し、あくまで現行のJms 文による『原則として』による無制限の裁量機能を固守しようとしました。」と、事実でない事をあたかも事実であるかの様に書いて印象操作しようとするのはいい加減やめていただけませんか。例外の存在を示せれば「原則として」である必要はない、ということは、コンパクトさという点とともに7月11日に既に述べています。
固有名詞と固有名とありますが、これを別々に書いているということは後者は固有名詞から区別される固有名、すなわち言語哲学的な意味での固有名でしょうか。本の表題というのは固有名詞ないしそれに準ずるものであって、「など」とあるのですから、別記する必要はないでしょう。「使い分けが別に定義されている表記」と「正式名と略称」は「含意ある表記の使い分け」に包摂されるので、短い後者を選ぶべきでしょう。「正しい使い方」かどうかの保障を表記ガイドがするわけではないので「対象にしません」とするよりは「構いません」として、書き手や編集者よくよく考えることを示唆する方が適切でしょうし、また表記ガイドの他の部分の文体との整合性もとれると思います。書き手や編集者へのメッセージという意味では、「原則として」というのもこの条項の位置づけを明確にする上で残した方が良い「かも」しれません。「原則として」があると「除外ケース」以外へ拡張解釈される恐れがあって、「など」だとその恐れがないというのは論理的ではありません。対象となる記事が多様であるので、表記の統一が適当でない場合の例示しかできないという点がポイントでしょう。
「過度にこだわる必要はありません」というのがおかしい (すでに度を越していることに関して必要性を云々するのは変) という事は既に述べました。「肉体の限界を超える必要がある」といった肯定文での用例はありますが、否定文で用いるのは適切ではないでしょう。「固執すべきではない」というパターンの方が簡にして要で良いと思います。「余分な気を使わせないための老婆心切な規定」というのは、第二項の位置づけとして妥当ではないでしょう。箇条書きにせず、単純に併記すれば良いと思います。
今度ばかりは無視しないでくださいね。--Jms 2009年9月17日 (木) 08:36 (UTC) 誤字修正 --Jms 2009年9月17日 (木) 14:51 (UTC)
うっかりしていましたがWikipedia:表記ガイド#著作物名Wikipedia:表記ガイド#略語・略称があるので、本の表題ならびに正式名と略称への言及は不要でしょう。--Jms 2009年9月17日 (木) 19:29 (UTC)
今回のコメントはJmsさんにしては珍しくすらすら読める文章でした。こういう文章も書けるのですから、いつもこのような文章を書くことを心がけてください。せっかくですから一度はお応えしますが、大部分は見解の相違で議論しても仕方がない事柄ですから、双方の見解を記録に残して第三者の参考に供することにとどめてくださるようお願いします。
最初の「審議を拒否し」云々のうち「無制限の裁量機能を固守しようとした」はもちろん今までの貴方の行動から考えた私の想像ですが、「審議を拒否し」は記録を読めば誰にでも分かることですから問題ないでしょう。 でも余分のことでしたので「拒否しました」だけでとどめておいた方がよかったかも知れません。
次の「例外の存在を示せれば「原則として」である必要はない」というのは「例外」がくせ者です。「例外の存在」の代わりに「除外例の存在」とあれば素直に信用出来ますが。実際、後の方で「対象となる記事が多様であるのに、表記の統一が適当でない場合の例示しかできない」とお書きになっているように、ここでも「原則として」を無制限に拡張して使いたいというお気持ちが見え隠れしています。どうもJmsさんには「ガイドラインに触れなければ」を通り越して「触れないと強弁できさえすれば何でもやる」、さらには「それも無理ならばガイドラインを改訂してでもやる」となさる意志の強さと、そのためには手段を選ばない強引さがありますので、私もどうも必要以上に用心深くなります。ですからここでも「除外例の列挙」と「など」で用が足りて必要のない「原則として」を私の文案に置くわけにはいきません。
次の話題に関しては、「本の表題」はふつうの人は「固有名詞」とは考えていないと思います。ですから我々平均的な利用者が使う表記ガイドでは分けて書くのが適当とおもいます。ただ「固有名」というのは私もあまり使わない言葉ですので、それは省いて、単に「文献の表題」とでも書いておくのが適当かもしれません。本番ではもう一度検討します。
次の「含意ある表記の使い分け」は私はこれを見てそれが「使い分けが別に定義されている表記」や「正式名と略称」を意味するとは分かりませんでした。表記ガイドは普通の利用者が参照するものですから、平均的な利用者が見てすぐ内容が頭に浮かばない言葉を使っても意味がありません。ですからここは少々長くなっても、みてすぐ分かる具体的内容自身を書くべきです。
次の「対象にしません」と「構いません」は、私は解説で書いたような差を感じますので「対象にしません」がよいと考えますが、この辺の感じ方は人によって変わるでしょうから、Jmsさんはこう考えている、ということで記録に残すことでよいでしょう。
次の「過度にこだわる必要はありません」は私は適切な表現だと思います。これはJmsさんが改訂なさる前の原文でもこうなっていますから、その執筆者はやはり同じ感じ方をしたものと思います。貴方には貴方の理屈があるわけですからここも記録に残すだけで我慢していただく場面だと思います。
それから第2項は確かに別項にする必要はなさそうです。本番では「なお」書きとして第1項に続けて書くことを検討します。
以上、いただいたコメントは大部分が見解の相違ということになったようです。しかし、これは「第3次案」と「小改定案」とを比較する人が優劣の判断をする上で有益な参考資料になりますから、この議論自身は有益だったと思います。これからもよろしく。--Midz 2009年9月18日 (金) 02:38 (UTC) --Midz 2009年9月18日 (金) 05:45 (UTC)(小加筆)--Midz 2009年9月18日 (金) 06:27 (UTC)(再小加筆)
「今回のコメントはJmsさんにしては珍しくすらすら読める文章でした。」それはそうでしょう、検討すべき案が今までのものと違って無理や矛盾を含んでいないのですから。「審議を拒否し」は記録を読めば誰にでも分かること問題ない、というのは、記録を読めば誰にでも分かることなら反事実を述べても問題ないという意味ですね。わたくしはそうは思いません、反事実を述べるのは不適切な誘導でしょう。
「例外の存在」の代わりに「除外例の存在」とあれば素直に信用出来ます、というのは理解できません。この場合、例外の存在は除外例の存在を含意しますし、除外例が存在するというのはまさしく例外が存在するということです。その一方は信用できて他方は信用できないというのは奇妙な信念だと思います。そういう (一貫性がないという意味で) 変わった信念に基づいて他人のことを想像するまでは結構ですが、それを事実であるかの様に考えて過剰反応されても困ります。「など」でも「原則として」でも論理的に同じだ、という点はよろしいですか? だから「原則として」にしろ、という意味ではありません、論理的に同じであることを違うことであるかの様に考えるのはおかしいという指摘です。
例示をどれだけ細かくするかというさじ加減からすると、小改訂案a'、b' でも細かすぎる位だとわたくしは考えています。
「過度にこだわる必要はありません」が表現としておかしいと思わない、というのは、度を超すということが既に必要範囲を逸脱することを暗喩していることに気づいていらっしゃらないということだと思います。必要ならば、度を越している筈がないのです。
「記録に残すことでよいでしょう」というのが、議論においてどういう意味を持っているのか理解できませんでした。見解の相違というのはわかりますが、相違したままではいつまでも合意に到達できず、改訂もできません。譲れるところ、譲れないところ、それぞれを明確にする必要があるでしょうし、後者についてはなぜ譲れないのかを明確に述べるべきです。--Jms 2009年9月18日 (金) 11:51 (UTC)
◆どうも反対意見を述べるだけでは埒が開きそうにないので、自分でも対案を考えてみました。よろしくご検討のほどお願いします。
特に事情がなければ同一項目内では表記が統一されていることが望ましいでしょう。不用意に異なる表記を混在させることによって文意が通りにくくならないよう、注意して下さい。
ただし、一般に語の表記にはそれが背負ってきた歴史や内包する含意に特別な事情が存在するケースが多くあります。異なる表記を使い分けることによって文章が伝えようとするニュアンスがより適切に表現できる場合には、ためらわずそのようにして下さい。
一見したところ不注意により表記が混在してしまっているように見える項目を見つけた場合でも、実際には必要があって敢えて使い分けられているのかも知れません。改変する際には慎重に行って下さい。よくわからなければそのままにしておいて下さい(Wikipedia:ウィキプロジェクト 数学/函数と関数のようにローカルルールによって表記の改変が規制されているケースもあります)。自分では適切に修正できる自信がないけれどそのままでは文意が通りにくいと感じたような場合には、ノートで指摘しておけば気がついた人が対処してくれるでしょう。もちろん、自身で十分に責任をもって判断できるなら、編集は大胆に
ウィキペディア全体での表記の統一には過度にこだわらないで下さい。
なお、引用文中での表記についてはWikipedia:引用のガイドライン#引用の要件の「同一性」の条項に従って下さい。
Wikipedia:引用のガイドラインは草案ですが、「同一性」の条項については意見の対立はなさそうなのでこれを参照してもらうようにしてみました。--sergei 2009年9月17日 (木) 10:22 (UTC)下線部追加--sergei 2009年9月17日 (木) 12:17 (UTC)
内容はさておき、分量的に「表記ガイド」の他の箇所とバランスがとれないと思います。その点についてはどうお考えでしょう。Wikipedia:編集方針#他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてくださいあたりに書いてそちらを参照するに留めるという手もあるかと思います。--Jms 2009年9月17日 (木) 19:29 (UTC)
「ウィキペディア全体での表記の統一には過度にこだわらないで下さい。」の表現に違和感があるので改変をお願いします。「ウィキペディア全体での表記の統一に固執すべきではありません」としたいですね。--Goki 2009年9月18日 (金) 01:12 (UTC)
上の提案にある細々とした注意書きは表記の統一のみに関わるものではなく、この文書全体についていえることなので、冒頭部の説明を少し強化してみることを思いつきました。例えば以下のようにします(下線部が追加部分)。
この表記ガイドでは、ウィキペディアの記事における表記方法の慣習を説明します。ウィキペディア全体の表記の一貫性を目指し、コンピュータ上で作られる文書であることに配慮しながら、印刷物の慣行に近づける意図があります。記事執筆の際は、できるかぎりこのガイドラインに従うことが推奨されます。
ただし、このガイドラインはすべての記事に絶対に適用しなければならないものではありません。表記にはそれが背負ってきた歴史や内包する含意に特別な事情を抱えているケースが多くあります。一般的に使用される表記が複数ある場合にどの表記を採用するかは、個別のケースに応じて慎重に考慮してください。ここに掲載されている表記法と異なる表記を分野ごと、記事ごとに使用する場合、関連分野のウィキポータルウィキプロジェクトや、個別記事のノートで合意形成をし、合意事項をわかりやすい形でまとめておくとよいでしょう。
このガイドラインに従おうとすることが、あなたの記事執筆の妨げになる時には、無理に従う必要はありません。そのうちに表記法に詳しい利用者が体裁を整えてくれるでしょう。ただし、既存の表記を改変する際には、先行する執筆者の意図を汲み取る努力も怠ってはなりません。
また、この文書はあくまで記事の記述に関するものであり、「ノートページ」などでの意見・コメントには及びません(なるべく相手に伝わりやすい表記法を心がけてください)。
本ガイドの表記法の変更や、未掲載の表記法を提案する時には、このページのノートで提案してください。
で、表記の統一についての規定は以下のように簡素化します。
特に事情がなければ同一項目内では表記が統一されていることが望ましいでしょう。不用意に異なる表記を混在させることによって文意が通りにくくならないよう、注意して下さい。ただし、異なる表記を使い分けることによって文章が伝えようとするニュアンスがより適切に表現できる場合には、ためらわずそのようにしてください。
ウィキペディア全体での表記の統一には固執しないでください。
引用文中での表記についてはWikipedia:引用のガイドライン#引用の要件の「同一性」の条項に従います。
こんな感じでどうでしょうか。--sergei 2009年9月18日 (金) 09:39 (UTC)
なるほど、そういう手がありますね。「不用意に異なる表記を混在させることによって文意が通りにくくならないよう、注意して下さい。」は必要でしょうか、「特に事情がなければ同一項目内では表記が統一されていることが望ましい」から自明だと思うのですが。「ニュアンス」を「内容」とした方が良い気がしますが、そうすることで失われるニュアンスはありますか。「ウィキペディア全体での表記の統一には固執しないでください。」は別条とせずに「また」ないし「一方」あたりを挟んで続けてしまって良いと思います。これをどうするかは#表記統一項の目的とも関連することだと思います。引用文中の表記については「ためらわずそのようにしてください。」の直後の方が良いのではないでしょうか。そうすると、構成としては、項目内でなるべく表記統一、ただし使い分けに意味がある場合は別、引用も別、一方ウィキペディア全体での表記の統一には固執するな、という方が流れとしてすっきりすると思います。--Jms 2009年9月18日 (金) 11:51 (UTC)
ご意見ありがとうございます。私としては大まかな方向性さえ受け容れてもらえれば細かい点には拘泥しません。
「不用意に…注意して下さい」は、最初の文を「特に事情がなければ…望ましいでしょう」とややぼやかした表現にしたために、バランスをとるためにはこういう注意書きがあった方がいいかな、と思って付け加えたものです。まあ要するに、異なる表記を併用することが許容されるかどうかは、それによって文章が正確でわかりやすいものになるのか、曖昧で意味の通りにくいものになるのかによって決まるわけで、続く「ただし、…してください」と対比することでこの規定の存在意義を明確にする効果があるんじゃないかと思っています。自明といえば確かにそうなんですけど、ここでのこれまでの議論からも明らかなように、参加者各人の「常識」というのは様々に異なっていますので、目的をよりはっきりさせておくのも悪くはないと思います。
議論がたいぶ錯綜していてわかりにくくなっていますが、Midzさんは2009年8月18日 (火) 02:23 (UTC) の発言で表記の統一に関する取り決めを新たな節として立てることを提案していて(ここでの「項目」というのは節のことだと考えていいんですよね?)、その前提で議論が進んでいるわけですよね? 新たに節が立てられるのなら、文章の簡潔さにはそこまでこだわらなくてもいいんじゃないかと思いますが、いかかでしょうか。ただし、あくまで既存の「その他」節の中で箇条書きするにとどめるということなら、もう少し簡潔な表現に改めることを検討するのにも吝かではありません。
「ニュアンス」に関しては、Wikipediaは文学作品の発表の場ではないのでこういう微妙な表現にせず、はっきり「内容」と言ってしまった方がいいかも知れませんね。
それから、これは投稿してから気がついたのですが、引用についての注意書きも表記の統一に限らずこの文書全体に関わる問題なので、これも冒頭に持って行ってもいいかも知れません。これについてはどう思われるでしょうか。--sergei 2009年9月18日 (金) 13:34 (UTC)
表記統一を「その他」から独立した節とする理由として内容と分量が挙げられています。分量について3次案は現行規定と大差ありません。内容については当該項の目的ついて複数の意見があり、合意が成立していません。従って、独立した節とすることを前提とはできないと思います。内容の検討にはその前提となる当該節の位置づけについて合意形成が必要でしょう。実は坊主憎けりゃ、なのではないかという気がしてきていますが、そうでなければ「見解の相違」と宣言して思考停止するのではなく、どこかで合意できるだろうと期待しています。
引用について特に別記する必要があるかというのは判断がわかれるかと思います。わたくしは表記ガイドは表記論であって、意味論、内容にあまり踏み込むべきではないと考えています。その一方、表記ガイドはCategory:記事のスタイルのルールでもあり、引用の形式という点と重なるものもありましょう。当該節の位置づけにも依存するのですが、小改訂案ダッシュや Midz 第3次案ならば引用に言及している箇所で引用のガイドラインへの参照を脚注で述べる手もあると思います。sergei 案ではそうはできませんが。--Jms 2009年9月18日 (金) 17:52 (UTC)
追記。仮に節をわけるとして、どこへ持ってゆくか考えたのですが、文体、改行といったあたりかと思います。文体節ではっきり「統一します」と書いているので、その前、つまり最初の節にしないと収まりが悪そうです。sergei 案をこの位置に挿入するなら、統一条項の位置付けに影響されず節分けできるのではないかと思えてきました。なお、冒頭の「努力も怠ってはなりません。」は「努力を」の方が良いと思います。--Jms 2009年9月18日 (金) 19:44 (UTC)
◆とりあえず意見表明しておきます。
  • Midz案には反対。既に述べていることが十分反映されていないため、ということで、繰り返し述べることはしません。
  • Jms小改訂案には反対しない。
  • 現状維持(Jms改訂)でもいい。
  • sergei案について、基本的に賛成(細部については留保)。節分け、冒頭部への編入いずれにも賛成します。別文書化でもいい。冒頭部編入案の「規定」案末尾2文は入れ替えた上で、引用については「引用文、固有名詞などは、統一の対象となりません。引用については著作権法にも注意してください。」などとしてはいかがでしょう。--Ks aka 98 2009年9月18日 (金) 18:18 (UTC)
◆おれもとりあえず意思表示。
Midz案には反対。この議論ですが、MidzさんがWikipedia上では好ましくないとされている「ひたすら納得しない」という姿勢を表明しているだけであり、かつそれまでの要約などにも意見対立者の意見について誤解を招こうという意図が垣間見える攻撃的言辞が多く、そろそろ容認の限度を超えてきていると思います(当事者的にはとうの昔に限界に達していると思うわけだが。Jmsさん、おつかれさまです)。
まだ続けるようならば、Midzさんに対するブロック依頼を出すことも検討しようと思います。--Nekosuki600 2009年9月18日 (金) 18:49 (UTC)
Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しないをMidzさんに提示するのも初めてではないですし([3]他にもあるかも)、Midzさんの議論の運び方についてこの場にいる人々が言えることは既に出尽くしているんじゃないかと思います。上でWP:DEMOCRACYを引用しておいてこんなことを言うのもなんですが、この表記ガイドの改訂については検討することも一応出尽くし、多数決に移る時期でしょう。Midzさんの姿勢自体についてはまずはコメント依頼をふむようにしたいです。たぶん、ホームグラウンドの物理分野ではそれなりにウィキペディアに益のある寄稿をしていただける方だと思います。--Makotoy 2009年9月19日 (土) 11:03 (UTC)
ああ、それはもちろん。コメント依頼などの手続きは必要でしょう。
本件に関して、おれは初期には議論に参加していましたが、その後しばらく静観モードに切り替えて様子を見ていました。初期にも「誰もそんなことは言っていないだろう」としか言いようのない攻撃的要約がなされるなどの事象が見られており、議論を行うことや合意を形成することについての根本的な食い違いが存在しているように感じておりました。第三者的立場から議論を見ることができるようにという目的で時間を置き静観の期間を置いてみたのですが、現時点では印象は変わりません。
本件については、多数決をするまでもなく、「孤軍奮闘しているひとが若干名いるにとどまり、改訂の必要はないと結論づけて良い」ような状況にあるように思います。ま、多数決をして決定的に否決しておいた方が禍根を残さないかなあとも思うのですが。
Midzさんにはなんらかの記述的美学があるのだろうと想像するのですが、もはやそれを取り下げていただく以外には解決策は見出せないように思うのですよね。更に、その記述的美学に対する否定的見解と受け止められたものと思いますが、いきなり「急に公正たるべき討議の場をマフィア集団に乗っ取られた感じです」などとお書きになるようでは、しばらく頭を冷やしていただくしかないのではなかろうかと諦めつつあるところです。どうしてこんなんなっちゃうんだろうなあ。--Nekosuki600 2009年9月19日 (土) 12:03 (UTC)

急に公正たるべき討議の場をマフィア集団に乗っ取られた感じです。 ここは「ページ内の表記の統一」を討議する場ですから、表記ガイド全体にかかわる議論をする場としてはきわめて不適切です。sergeiさんも「表記ガイド」の冒頭文まで手をつけるおつもりでしたら、どうか「表記ガイド冒頭文改訂提案」を正式に出し、出来る限りひろくウィキペディア全体に意見募集を行って、そちらで議論してください。なお、表記統一に関するsergei案は精神訓話だけで具体的問題への指針がありませんので、表記ガイドとしては不適切だと思います。 --Midz 2009年9月19日 (土) 02:59 (UTC)

ガイドラインの修正議論に参加していないNekosuki600氏が対案も出さずにMidz氏のブロック依頼を出すことは本議論の邪魔をしているだけです。いま、Midz案、Jms案が出てまとまりそうな状況をよく見ましょう。それにNekosuki600氏がそんな熱くなるような責任もない。--60.254.240.208 2009年9月19日 (土) 04:51 (UTC)
◆ここは「ページ内の表記の統一」を討議する場、ではなく、表記ガイドにおける表記の統一に関する言及について検討しているのではありませんか? いつからページ内の表記統一に限定されたのでしょうか。--Jms 2009年9月19日 (土) 06:30 (UTC)
「表記ガイドにおける表記の統一に関する言及について検討している」=「(表記ガイドにおける)ページ内の表記の統一(に関する言及について検討している)」でしょう。ややこしい議論を起こすことはやめましょう。--60.254.240.208 2009年9月19日 (土) 07:10 (UTC)
その二つが等価であると思っているなら、論点の少なくとも一つを見落としていることになります。--Jms 2009年9月19日 (土) 07:18 (UTC)
表記ガイドのページ内の表記の統一に関する項目以外に何も論点はありません。議論の本質には関係がないので細部にこだわるのはやめたほうがよいと思いますよ。--60.254.240.208 2009年9月19日 (土) 07:51 (UTC)
「ページ内の表記の統一に関する項目以外に何も論点はありません」というのが事実だとしたら、Goki さんやわたくしの主張している文と、Midz さんの主張している文とは同じだという事になります。いくつかの論点が細部についてのものなのか本質にかかわるものなのか、判断が分かれているところは議論を難しくしている点の一つだと思います。細部だろうが本質だろうが結局は対応しなければならないのですから、一つ一つ具体的に潰してゆけば良いと思うのですが、それも拒否されて困っています。--Jms 2009年9月19日 (土) 08:10 (UTC)

(インデント戻す)ページ内の表記の統一に関する項目以外に何も論点はないということですね。了解しました。あとは今出ている案から最良の案を作り出す作業だと思います。--60.254.240.208 2009年9月19日 (土) 08:23 (UTC)

「ページ内の表記の統一に関する項目以外に何も論点はないということですね。了解しました。」どこをどう読むとそう了解できるのか想像できませんが、違います。--Jms 2009年9月19日 (土) 08:35 (UTC)

ご意見ありがとうございます。Midzさんの提案の方向性はともかくとして、表記の統一が重要でしかもとても難しい問題であることは確かなので、節分けして説明をより詳しくすることは前向きに考えてもいいんじゃないか、と個人的には考えていました。ですが十分な合意が得られていない状況では、それは棚上げしてもいいと思います。一応「その他」節に箇条書きする場合の文面としては以下のような感じになると思います(引用に関する部分はKs aka 98さんの文案をほぼそのまま使わせていただきました)。条文の分け方その他については必要なら修正することにしましょう。

  • 特に事情がなければ同一項目内では表記が統一されていることが望ましいでしょう。ただし、異なる表記を使い分けることによって文章が伝えようとするニュアンスがより適切に表現できる場合には、ためらわずそのようにしてください。また、引用文や固有名詞などは統一の対象としません。引用については著作権法にも注意してください
  • ウィキペディア全体での表記の統一には固執しないでください。

節分けする場合の位置については特に考えはなく、「その他」節の直前にでも置いておけば、というくらいにしか考えていませんでした。この文書の他の部分を踏まえた上での注意書き、といった性質のものなので、最後の方にあるのが自然な気がしますが、特にこだわるわけではありません。

引用に関する注意は確かに蛇足といってもいいかも知れませんが、質の悪い草取り行為によって引用文が改変されてしまったという実例のあることがWikipedia:井戸端/subj/「函数/関数」など複数の表記がある語の扱いでも報告されていましたし、守られなかった場合に法的リスクが生じることでもありますので、あってもおかしくはないと思っています。Midz案に条件付きで賛成されていたあら金さんがこの点を提起されていたので、より幅広い合意が得られるように、という配慮もあります。

「努力も」というのは表記に一貫性を持たせて文章をわかりやすくする努力と、先行する執筆者の意図を汲み取る努力の双方を、というつもりだったのですが、まあどちらでも構いません。

(以下Midzさんへ)自分の提案に反対意見が相次ぎ、それへの対案に賛成意見や建設的な修正案が出されている状況を「乗っ取られた」としか感じられないのだとすれば、それはMidzさんにはこうした議論に関わる適性がないことを示すものなのではないかと思います。すでに他の方から複数回にわたって「なぜ自分の意見がコミュニティから受け容れられないのかよく考えてみては」と進言されているはずですが、お忘れでしょうか。今のMidzさんに必要なのは、まさにその一事だと思います。

それから「マフィア集団」という言い方はさすがにどうかと思いますよ。私自身はMidzさんに何を言われても痛くも痒くもありませんが、「集団」ということは私以外の方も含まれているようなので一応指摘しておきます(他の方々もおそらく私と同様だろうとは思いますが)。私からは特に何らかのアクションを起こすということはしませんが、見ている他の方がどう判断されるかはわかりません。早いうちに謝罪して撤回しておくことをお勧めします。--sergei 2009年9月19日 (土) 10:56 (UTC)

sergei案は主要部分は表記ガイドの冒頭部の書き換えです。それを「「表記の統一」項目の独立と新ガイド文の提案」という別名称の節内で議論するのでは、一般のウィキペディア人の目にとまりがたく、議論参入が抑えられます。そしてその結果、Jms改訂のときに人が知らない内に「反対意見なし」で改訂してしまったと同じように、今度もウィキペディア一般からの意見が出る暇を与えず、仲間内だけの賛成多数できめてしまうことになるのではないかと恐れています。ですから少なくとも「表記ガイド冒頭文の改訂提案」を堂々と出して、十分に時間を取って、ウィキペディア全体から充分の意見が集まったことを確認してから合意を得て、初めて改訂作業を行うべきだと考えています。皆様の良識を期待します。 --Midz 2009年9月19日 (土) 13:20 (UTC)
Jms改訂のときに人が知らない内に「反対意見なし」で改訂してしまった、またそれですか…。人が、ではなく、Midz さんの、でしょう。「仲間内」というのも何を指しているのかわかりません、誰と誰が仲間なのですか。「今度も」とあるからには、前回の改訂でも誰かと誰かが仲間だったわけですよね。改訂に関する Midz さんの要求が非現実的であることはすでに指摘しました。より広い告知が必要な議論が行われていると考えた人が告知すれば十分だ、ということも既に指摘しました。--Jms 2009年9月19日 (土) 13:29 (UTC)
◆経緯としては、Midzさんの文案に対して、sergei さんが対案を示し、指摘された意見などに応じて、さらに冒頭部書き換えと統一についての記述という場合の文案、さらにその後「その他」節に留める場合の文案を示しました。統一についての文章を重複させる必要はありませんから、議論は改訂する場所によって分離させるのではなく、引き続き「表記の統一」について、記述する場所のことも含めての議論を行なうのが好ましいと思います。--Ks aka 98 2009年9月19日 (土) 13:53 (UTC)

第4次案の提示 編集

第3次案を改良し、最新の案を作りましたので提示します。 これは表記ガイドの役割である、関連する問題をかかえる利用者が容易に参照し、指針を得ることが出来る、現存のもっともよい文案だと思います。 ただし、列挙した例ケースの選択と表現はまだ未成熟で、皆様のご意見をいただいてさらに洗練されたものにしたいと思っています。

第4次案 文案

ページ内で表記は統一します。 ただし、文脈で識別され、使い分けられている表記は除きます。 それには次のケースが含まれます。

固有名詞、文献の表題、引用文、表記そのものへの言及、使い分けが定義されている表記、正式名と略称

なお、ウィキペディア全体での統一には過度にこだわる必要はありません。

以上

主な改良点はつぎの通りです。

  1. 例ケースを別行にまとめ、見やすくしたこと。
  2. ここに載っていないケースが出てきたときのために「文脈で識別され、・・・」を加えて、利用者が自分で判断できるように配慮したこと。
  3. 第3次案第2項を「なお書き」を使って集約したこと。

この文案に対し、皆様多数の偏見のないご意見をお待ちします。 --Midz 2009年9月19日 (土) 02:25 (UTC)

文脈説が適当でないことはすでに繰り返し述べました。審議拒否だと主張する Midz さんのために要点を書けば、「違和感のない混在」を「文脈による使い分け」(文脈で識別された使い分けも同義だと理解しています) が過不足なくカバーしているなら後者にも前者にある任意性が含まれていおり前者で十分であること、この任意性の潜在は実際 Midz さんがかつて挙げた文Bの文脈依存性の任意性で示されていること、文Aについて提案者である Midz さんですら識別する文脈を示せておらず適用が極めて困難ないし不可能であること、(この指摘は議論がそこまで至らず初出ですが)実例を数多く読んで慣れ親しまねばならない様な基準はガイドラインに適当でないこと、です。Midz さんは「文脈による使い分け」説を一貫して主張し、それを認めさせようとなさっていますが、それはガイドラインの改訂に資するものではなく、Wikipedia の目的外利用だと判断されても仕方ない行為だと思います。「過度にこだわる必要はありません」が不適切である理由は既に述べましたが、それに対する理由なしに「過度にこだわる必要はありません」に固執なさるのを見るに、やはり坊主が憎いだけなのではないかと思わずにはいられません。--Jms 2009年9月19日 (土) 03:15 (UTC)
「文脈説が適当でないことはすでに繰り返して述べました」は確かでしょうが、その議論はその都度反論して、正しくないことを説明しています。しかし、その説明をすっかり忘れて(無視して?)せっかくここに問題点をまた3つ挙げてくださったので、それに沿って説明します。
  •  「違和感のない存在」を「文脈による使い分け」が過不足なくカバーしているなら後者にも前者にある任意性が含まれており前者で十分であること」に関しては、9月6日の議論にあります(申し訳ありませんがその書き込みに私は署名するのを忘れたようで、無署名になっています)。そこでは「違和感のない場合」と「「文脈に基づく使い分け」との対応の意味がきちんと説明され、とくに文Bの妥当性判定に関して、判定基準としての「違和感のない場合」と「文脈に基づく使い分け」の決定的差を明確に示してあります。私が「過不足なく対応」を使ったのは、「文脈に基づく使い分け」が「違和感のない場合」をカバーしていて、「原則として」は不要であることを述べるに使っただけです。
  • 「この任意性の潜在は実際Midzさんがかって挙げた文Bの文脈依存性の任意性で示されていること」は私が「「文脈による使い分け」では文Bの説明は出来ず、文Bは排除される」と述べたことに対し、「文脈」としてJmsさんが選んだ特殊の定義を使うと排除されない、と主張したことを指しておられるのですが、肝心の語の定義を普通使われているものでなく、勝手に変更して使えば、大概のことは出来ます。私の主張は世間一般で使われている「文脈」を使えばすべてうまくいくということですから、Jmsさんの反論は反論になっていません。
  •  文Aについても私の文脈による説明で十分なのですが、Jmsさんは解らないを繰り返したものです。しかし、その後に「表記そのものへの言及」という強力な概念があることを指摘されましたので、文Aはその典型例として簡明に説明できることなりました。この概念は典型的な「文脈により識別される」概念ですから、今度は解らないを繰り返すわけにはいかないだろうと思います。
「過度にこだわる必要はありません」はまたいつものごとくJmsさんの読み違いによる誤解ですが、その話題は先日のJms200909181151にもありますので、そちらの議論に移ります。
  • まず最初の「反事実」ですが、記録というのは書き込みの列ですからそれを読めば分かることはJmsさんがそこにこう書いたという事実です。それがどうして「反事実」を述べたことになるのか理解に苦しみます。
  • 次に「例外の存在」は「除外例の存在」を含意しますが、その他にもほかの種類の「例外」があることを排除しません。ですから「例外の存在」と「除外例の存在」とははっきり別の概念です。それにJmsさんは「除外例」をはるかに超える「例外」を駆使して強引な論証をした前歴があります。ですから私が概念のはっきりした「除外例の存在」は信用するけれど、恣意的に拡張可能な「例外の存在」は信用しないのです。
  • 同じ話は「など」と「原則として」にもあります。私の文案の「など」は除外ケースを列挙したあとに付けられていますから、その中味は除外例に限定されます。しかし、Jms文に現れる「原則として」はそういう縛りがありませんからいくらでも拡張可能です。ですからこれらも内容的にはっきり別物です。
  • この2つは集合Aが集合Bを含んでいれば、AとBは同じか?という構造をしています。この時Aは一般にはB以外の要素も含みますから、一般には答は否です。Jmsさんがこれを知らない筈はないので、やはり解らないふりをしているだけなのかな、とも思いますが、それをこのように臆面もなく出してくるのを見ると、あるいはほんとに分からないのかな、とも思います。どちらなんでしょうか?。
  • さて懸案の「ウィキペディア全体での統一に過度にこだわる必要はありません」ですが、Jmsさんは、「過度に」を「必要範囲を逸脱して」と読み、すでに必要範囲を超えているものを今さら「必要ない」というのはおかしい、と論じています。この読み方が正しいかどうかを検討するため、まずは「過度に」は何に対してかを考えてみましょう。するとそれは何かの要請による「必要範囲」ではなく、世間一般の「常識の範囲」だということが解ります。 一方、後半は書き換えるとすれば「こだわる義務はありません」ということになるでしょう。つまりこの文章は書き直せば、「世間の常識を越えてこだわる義務はありません」ということなのです。実際、もとの文章を素直に読めば自然にこの解釈に行き着きます。ですから上記文章は少しもおかしいことはなく、まさに老婆心切を体現したものになっています。 Jmsさんは何とか自分の文章に有利にということで、無意識のうちに不自然な読み方をすることになったのでしょう。
以上により、Jmsさんが示された問題点はすべて解消しました。Jmsさんはまだオレはそう思わんというかもしれませんが、一応は解消したことにして、本題である本文案のガイドラインとしての適格性、他と比べての優劣の議論に入ってください。 --Midz 2009年9月20日 (日) 02:36 (UTC)
ポイントが明確になる様箇条書きにしますので、落とさず御回答ください。
  1. 「その議論はその都度反論して、正しくないことを説明しています」とのことですが、たとえば、「支離滅裂で、何を言っているのかなかなか理解できませんので、ここでは解りやすい最後の段落についてだけ触れておきます」の、残りの部分についての反論はどうなったのでしょうか。理解せずに反論できるのですか?
  2. 文Bの「文脈」については、わたくしが示した様な文脈で用いることもまた可能なのですから、書き手がそう書くことも十分あり得るでしょう。「肝心の語の定義を普通使われているものでなく、勝手に変更して使えば」というのは、具体的にどの部分を指しているのでしょうか。表記の使い分けであって語の定義はしていない筈ですが。(気づいてもらえないかもしれないので追記) 「特殊の定義を使うと排除されない」「普通使われているものでなく、勝手に変更」ということは、「客観的基準である」はずの「文脈に基づく使い分け」では何らかの「常識的」な用法を前提としていることを意味しています。一方、「違和感のない併記」について「主観であってガイドラインに相応しくない」として排除するのは整合性を欠きます。こうした、基準の恣意的な使い分けは文脈説による規定案に一貫して存在する問題点です。
  3. 世間一般で使われている「文脈」を使えばすべてうまくいく、と主張なさるなら、文Aで使い分けている文脈を示してください。示されないものを理解できるはずもありませんし、文脈による表記の使い分けなのですから、表記への言及であっても文脈は示せるはずです。文Aにおいて、「関数」を用いる文脈と「函数」を用いる文脈はそれぞれどれですか。
  4. Midz さんが問いに答えないことを指してわたくしが審議を拒否したとするのは事実に反します。
  5. 概念のはっきりした「除外例の存在」というのを詳しく説明してください。例外とすべき場合について明確な定義が可能であるかどうかというのが根本的な論点ですから、どういう概念なのか例示によらず明確にお願いします。
  6. 「『など』は除外ケースを列挙したあとに付けられていますから、その中味は除外例に限定されます」というのは初めて聞きました。この「など」というのはそれ以外にもありますよ、という意味です。「あるいはほんとに分からないのかな、とも思います」はい、そんな「など」だとは思いもしませんでしたし、また今でもそうした「など」は日本語の体系に合致しないと考えているので、ほんとうにわかりませんし、わかるわけもありません。
  7. 「過度に」を「必要範囲を逸脱して」と読んでいるわけではありません、論理的にそうなるということです。必要範囲内なら、度をこしている筈がないし、度を越しているなら、必要範囲を逸脱している、というだけのことです。「必要範囲内なら限度内」の対偶は「限度外なら必要範囲外」です。補足。限度というのは百科事典編集の上での限度と考えるべきでしょう。
きちんと説明できていない以上、「一応は解消したことにして」などというのが受け入れられるはずがありません。--Jms 2009年9月20日 (日) 03:19 (UTC) 余分な文字除去 --Jms 2009年9月20日 (日) 05:09 (UTC) 一部補足 --Jms 2009年9月20日 (日) 06:07 (UTC) 再補足 --Jms 2009年9月20日 (日) 23:03 (UTC)
あまり答える気にもならない揚げ足取りばかりですが、Jmsさんに敬意を表して一応お応えします。
  1. はもちろん私が理解出来たものだけです。もし私の答が欲しいのでしたら、私に解るような明確な質問をしてください。前回の3つの質問は比較的に解りやすかったので全部お答えしました。
  2. については「文脈」の独特な定義を固執される限り、答えようがありません。まず世間では「文脈」をどういう風に使っているかを勉強ないし研究なさってください。例えば国語大辞典(小学館)では「文のすじみち、文章の続きぐあい、文章の脈絡」と書いてありますから、要するに「文章の全体像」と言うわけです。貴方の解釈はこれからまったく外れているようです。
  3. も同様です。
  4. は問題の文章を読めばすぐに分かることですから論評しません。
  5. 「例外の存在」が「除外例の存在」より意味の広い漠然とした表現であることは明らかです。そしてここはそれだけで十分です。
  6. は常識の問題です。
  7. は問題の文章は普通に読めば私の解釈のように理解される文章です。貴方のような解釈は普通の人には思いつかないでしょう。
それから、これからは私の最新案(今は第4次案)に基づいて、その問題点があったら質問してください。それと無関係な質問や単なる蒸し返しはお受け出来ません。 --Midz 2009年9月21日 (月) 11:08 (UTC)
揚げ足取りというのは、たとえば、「老婆心切というのは不親切ですね」といった類を言います。Midz さんの主張についての問いを揚げ足取りだとお考えなのは、表現について軽視なさっているのではないかと危惧します。
  1. 「もし私の答が欲しいのでしたら、私に解るような明確な質問をしてください」という構造は、そのまま、「賛成して欲しいなら、他の人にわかる様な明確な表現をしてください」となるでしょう。それでは合意などできるはずがありません。そうではなくて、わからない点があれば質問する、質問があれば答える、質問を理解できなければ質問について説明を求める、というのが合意に至る上で必要な段取りでしょう。理解できない質問だから答えない、というのでは、理解できなかったのか質問を無視しているのかわかりません。だからこそ一つ一つ確認しながら進めましょうと提案しているのです。
  2. 「文脈」のとりかたには任意性がある、その任意性がなければ、主観依存であるという「違和感のない併存」に「文脈による使い分け」が過不足なく対応することはあり得ない、というのはよろしいですか。
  3. 「文脈」の独特な定義というのは、具体的に、わたくしがどういう定義をしていて、どう独特なのでしょうか。わたくしが問うているのは「文脈による使い分け」という以上、使い分ける複数の文脈がある筈である、という「文脈による使い分け」についての問いであって、「文脈」の定義には依存しない問いをしているのですが。「文脈」の定義には依存し得るのは、「かくかくの文脈と、しかじかの文脈である」という回答に対して、「それは文脈とは言わない」といった反論がなされる場合でしょう。現段階ではそれ以前です。
  4. 問題の文章を読んで分からないから聞いています。Midz さんにはわかるからといって、他人にわかるとは限らないでしょう。項番数え間違い 事実でないことをあたかも事実の様に述べてもよい、という主張だと理解しました。意図的にそれを行なうならば、それは印象操作と呼ばれるものでしょう。
  5. 「除外例の存在」とは、どういうことですか。その「概念がはっきりしている」というのはどういうことですか。除外例というのは、表記の統一から除外される例のことだと理解しますが、それは表記の統一の例外となる例とはどう違うのですか。「例外の存在」が「除外例の存在」より意味の広い漠然とした表現であることは明らかです。 というのは明らかではありません。「除外例」というのがある特定の意味で用いられているのではないかと想像します。そしてここはそれだけで十分です。 というのは、理解されなくとも良いが受け入れろということでしょうか。
  6. 「など」について常識の問題とのことですが、わたくしには Midz さんの「など」の用法 (「など」が、それにに前置される列挙に限定される) は日本語の常識を逸脱しているとしか思えません。もし前置列挙限定なら、「のいずれか」であって、「など」ではありません。広辞苑では「ある語に添えて、例として指示する意を表わし、その外にも類似の物事があることを暗示する」とあります。
  7. 百科事典の表記ガイドにおける「過度」を「百科事典の編集に関して度を過ぎること」と解釈するのは何らおかしなことではないでしょう。「普通に読めば私の解釈のように理解される文章です。貴方のような解釈は普通の人には思いつかないでしょう。」というのは、百科事典編纂のための文書であるという背景を無視しての判断ではないかと思います。
上記、いずれも第4次案の問題点に関連した質問なのですが、個々の質問が第4次案の何に対応しているのかというのがわからないということは、第4次案の含意してしまっていることについて、既に指摘されていることから推論できるにもかかわらず、Midz さんが無自覚だということだと思います。もしそうだとしたら、それは、既に指摘されていることを十分御理解いただけていないということではないかと思います。Maktoy さんの 20090913T1103Z の指摘に対して現状認識が異なる旨回答なさっていますが、その異なる現状認識こそが問題ではないかと思います。--Jms 2009年9月21日 (月) 11:35 (UTC) 一部訂正 --Jms 2009年9月21日 (月) 17:14 (UTC)
ほとんど全部が以前にお答えした問題の蒸し返しで、それ以外は私への批判のための批判であって、読む人が読めばその当否はすぐに分かる問題ばかりですから、お答えする必要を感じません。 ただ一つだけ付け加えれば、第4次案には「など」は使われておらず、6は第4次案に無関係なこと、「それに前置される列挙に限定される」は貴方の読み違いで、「列挙されたと同種のものに限定される」であること、したがってそこで引用された広辞苑の文章はそのままとJmsさんの主張の反証となっていることです。悪しからず。 --Midz 2009年9月22日 (火) 00:30 (UTC)
  1. 「ほとんど全部が以前にお答えした問題の蒸し返し」だとお考えなのは具体的にどれですか。
  2. 「それ以外は私への批判のための批判」だと判断する根拠は何ですか。
  3. 「それに前置される列挙に限定される」は貴方の読み違い、ということはないでしょう、「私の文案の「など」は除外ケースを列挙したあとに付けられていますから、その中味は除外例に限定されます。」と Midz さん御自身がお書きですから。もしわたくしの読み違いだということにしたいなら、まず仰ったことを取り下げていただく必要があるでしょう。
  4. 「過度にこだわる必要はありません」の「過度」について、「普通に読めば私の解釈のように理解される」ことを、普通の定義も含めて論理的に示してください。また、表記ガイドに登場する「過度」を「百科事典の編集に関して度を過ぎること」と解釈することを「貴方のような解釈は普通の人には思いつかないでしょう。」とする具体的論証をお願いします。
  5. 「例外の存在」が「除外例の存在」より意味の広い漠然とした表現である、という主張を論理的に説明してください。これには「例外の存在」と「除外例の存在」の定義が必須ですのでそれもお願いします。また、その上で、「そしてここはそれだけで十分です。」の、十分性についての論証をお願いします。
  6. 「読む人が読めばその当否はすぐに分かる問題ばかり」というのは、必ずしも Midz さんの反論が妥当であるということを意味しませんが、それでもなお「お答えする必要を感じません」というのは、反論不能であるという意思表示と理解してよろしいですか。
  7. 「なお」が第4次案に無関係とのことですが、では、第4次案は「原則として」と同等の留保を可能としていると解釈してよろしいですか。
  8. 「文脈による使い分け」と「違和感のない併存」が過不足なく対応している、という主張は取り下げだと理解してよろしいですか。提案しなおす場合に、その前提についても、何を取り下げ、何が残っているのかを示す必要があるでしょう。それがなされなければ、以前の前提がそのまま活きていると判断されても仕方ないでしょう。
  9. 「文脈で識別され、使い分けられている」というのが包含する範囲が未だに明らかでないので、第4次案が何を規定しているのかも明らかでありません。「文脈で識別され、使い分けられている」というのが何を意味するのかが、例示によらずに示されない限り、第4次案は検討不能でしょう。
以上列挙してみると、Midz さんは理由を示さない断言をもって答えたことにしているだけで、実は論理的答えになっていない事ばかりです。断言したところで、論理的回答になるわけでもありませんし、問題点が解消するわけでも、合意が成立するわけでもありません。--Jms 2009年9月22日 (火) 00:54 (UTC)

◆Midzさんへ。ご自身の提案がこの場にいる他の利用者を説得できなかったということだけでも認めていただけませんか。提案されていることの趣旨・目的が当初のものからずいぶんと変質してしまい(ウィキペディアのあり方をより妥当な形で取り入れた結果なので、そのこと自体が悪いわけではないんですが)、何のために文面を改訂するのかという目的意識を欠いてとにかくご自身の提案している文面を通すことに固執していらっしゃるように見えます。上で白駒さんたちも言われていますが、現状のガイドライン文面でも、あるいは提案されている他のどんな文面になったとしても、Midzさんご自身が個々の記事の余計な表記ぶれに対処することを妨げるわけではない(ちゃんとご自身の編集に関するWikipedia:説明責任を果たしていただく限り)のです。勝手にSu-no-Gさんの言葉を引用させていただきますが、「現状の、実質的には孤立無援の状況で頑張るよりは、Wikipedia:ウィキプロジェクト 物理学 で分野別の議論に移行するなど、長期的な展望にお立ちになるほうが建設的な対応と傍目からは思います。」ぼくはMidzさんが物理分野でしっかりとウィキペディアに求められるものを寄与できる方だと尊敬していますし、あまりこのような場での長々しい対立によって執筆の意欲をそがれてほしくないと切に思います。--Makotoy 2009年9月19日 (土) 11:03 (UTC)

Makotoyさま。ご忠告を有難うございました。でも貴兄の現状認識は私のものと大分違います。
私の提案が「関数/函数」論議で統一反対論を唱えていてここの論戦に加わった人々を説得出来なかったことは確かでしょう。反対論を唱える人には饒舌な論客が多いのでさも数が多いように見えますが、でも現状は私の案に賛成する人と反対する人の実数の比率は高々 1:2の程度に過ぎないと思っています。そしてここに純粋の第三者の参入がほとんどないのは残念ですが、Jmsさんの懸命の努力にもかかわらず本案に欠陥があることの論証はもちろん印象を与えることさえも出来ないでいる現在、過去のしがらみにとらわれずに額面通りに評価してどちらが表記ガイドの文案として相応しいかを判断すれば、大多数は私の案に軍配を揚げるだろうと考えています。
それから私の文案の趣旨は提案当初から一貫しています。それは表記ガイドの冒頭文にある「ウィキペディアの記事における表記方法の慣習を説明します」に沿って、執筆に際しての具体的指針を与えることです。その後「表記そのものへの言及」というような強力な概念を教わって取り入れたり、途中で各除外ケースにその理念の詳しい説明を付け加えたりして重厚長大になったので、改めて冗長な説明を省いて表記ガイドに相応しいコンパクトな形にもどして現在の第4案に至りましたが、その間、「執筆に際しての具体的指針を示して、除外ケースに積極的支持を与える」という目的は一貫しています。その点、具体的指針がほとんどなく、除外ケースがあれば「原則として」に頼って「例外として許容する」と消極的支持をするにとどまる他の文案と決定的に違います。
Makotoyさんは過去の行きがかりじょう、苦心して作ったローカルルールとの整合性がご心配なのでしょうが、ローカルルールはその分野の必要性に応じてガイドラインに縛られずにつくることが出来るもので、しかもそれは私まで緊急避難の手段として賛成しているルールですから、確かに権威は少し減じるでしょうが何の心配も要りません。
Makotoyさんは2007年の編集合戦騒動の際に井戸端論議の巻尾を飾った文章をお書きになったころは、素直に物事が見える方でした。それが何でこのようにしがらみに縛られるようになられたのか、しごく残念に思います。何とか初心に戻られて、真にウィキペディアのためになる活動をしてくださるようにお願い致します。 --Midz 2009年9月21日 (月) 02:35 (UTC) --Midz 2009年9月21日 (月) 20:36 (UTC)(加筆)
もし気づいていないのなら。相手がしがらみに縛られていると考えてしまうひとこそがしがらみに縛られているのではありませんか? ここでの議論では函数/関数は one of them でしかありませんし、しかも成立の経緯やその表意文字としての意味内容が明らかになっている比較的扱いやすいケースだと言えるでしょう。函数/関数に比べ扱うべき対象が多様だからこそ、緩衝地帯としての曖昧さ、留保が求められているのです。--Jms 2009年9月21日 (月) 03:29 (UTC)
◆あまり「関数」vs「函数」について引きずりたくはないんですが、Midzさんが引かれている僕のコメントは(「関数」表記がほとんどだった当時)ノートでの提案なしに起きたいわゆる「函数移動荒らし」が、いったい本当に荒らしなのかそれとも正当な根拠あってのものなのか、という文脈で言ったことなので、この条項の想定する問題とは異なる文脈だったということを指摘しておきます。表記の変更のみの編集をしてほしくないということについては、その案が出た当初から支持している(ノート:関数 2007年11月17日 (土) 03:23 (UTC)のコメント)通りです。また、何度も繰り返していることですが、個々の場合に二つ(またはいくつか)の表記のうちどちらかが望ましいか(Midzさんが引かれている僕のコメントが論じていること)と、そもそもそれら表記ぶれがいろいろあるものを全体として統一すべきか、それを誰がどのようにすべきか、ということは別の問題です。--Makotoy 2009年9月21日 (月) 14:34 (UTC)
文脈はともあれ、コメントに書かれた内容はその時のMakotoyさんの本当のお気持ちを表現したものだと思います。それは基幹的文章
  • 「「関数」を主とし、「函数」は記事内での注やリダイレクトにとどめることに賛成です。現在の日本の数学(教育でも研究でも)では「関数」が主に用いられているということは確かのように思えるからです」
だけでなく、全体にわたって書かれた内容が細かい議論、考え方まで私がいちいち同感出来るものだったからです。ですから私は素直に考えさえすれば貴兄は非常にまともな結論を導ける方だと信用しているのです。
それから貴兄が「表記の変更のみの編集をしてほしくない」という一貫した立場をとられているということもよく解っています。ただ「表記ぶれがいろいろあるものを全体として統一すべきかどうか」は今の議論にどう絡むかはちょっと理解しかねています。私は出来るところから少しずつでも進めればそれだけよくなるのではないかとの考えです。
ところでいまは現場の判断に資する具体的指針を与える「表記ガイド」の伝統的理念に沿ったMidz案と、それから大分逸脱した小改訂案、それにもっぱら精神訓話に終始するsergei案とが選択肢としてあるわけですが、貴兄はどれがよいとお考えなのでしょうか。
Midz案と小改訂案との主な違いは「原則として」の有無と、「表記を統一する」と「統一しないケース」とのどちらに力点を置くか、にあるように思います。そのうち「原則として」の有無は「表記のみの編集」抑制効果にほとんど関係なく、力点の置き方は多少の心理的効果があるかも知れませんが知れたものだと思います。ですから両案を比較する上で問題になるのはどちらがガイドラインに相応しいかになると思います。 そして私はMidz案がよいと思い、その理由はあちこちに書いているので、ここでは再説しません。それから除外ケースについて具体像への言及さえもなく、もっぱら精神訓話に終始するsergei案は表記ガイドには合わないと考えています。
また利用者の利便性は、自分の接してしる場合に対応する項目が列挙した除外ケースの中からがすぐに見つかってその使い分けの正しさが保証され、万一見つからないときは「文脈」により考える基礎が与えられているMidz案が一番使いやすいと思います。
かくして、表記ガイドの理念への適合性と利用者の利便性をいう2つの基準からはMidz 案はもっとも優位にあると考えます。もしMakotoyさんがこれらよりも重要な基準があるとお考えでしたらご教示ください。
いずれにしても、Makotoyさんが冒頭に述べたコメントを書かれたときのような素直な立場で道理を判断され、選択してくださることを希望します。 --Midz
◆どうして「Jmsさんの懸命の努力にもかかわらず本案に欠陥があることの論証はもちろん印象を与えることさえも出来ないでいる現在」となるのでしょう。Midz さんにその印象を与えることが出来ていないというのは事実でしょうが、第4次案には少なくとも次の問題点があります。
  • 表記を統一しなくとも良い場合が「文脈で識別され、使い分けられている」に限定されている。
    • 「文脈で識別され、使い分けられている」というのがわかりにくい。
    • 「文脈で識別され、使い分けられている」が何を指すのか明確にされておらず、表記の統一をしなくとも良い場合がそれで全てつくされているのか判断できない。
    • 「文脈で識別され、使い分けられている」がもし求められている場合を全て網羅しているとすれば、「文脈で識別され、使い分けられている」という一般的な意味から外れている可能性が大きい。
  • 表記を統一しなくとも良い場合の例示が適当でない
  • 「過度にこだわる必要はありません」は論理的に適当でない。
  • いわゆる全角空白が用いられている。
  • 提案がその本質的な部分で二転三転していて/いそうで何を提案しているのかよくわからない。
Midz さんに指摘が理解できないからといって、問題が存在しないわけではありません。 Midz さんは反論済とお考えなのかもしれませんが、反論できてはいないでしょう。特に、提案がその本質的な部分で二転三転している可能性がある事、表記を統一しなくても良い場合について、Midz さんの意図と文案が整合しているいのか、また求められている柔軟性を有しているのかが明らかになっていない事、未検証である文脈説に固執している事、この三点が欠陥と呼んでもよいレベルの問題でしょう。--Jms 2009年9月21日 (月) 21:21 (UTC)
第4次案に関連する問題点追記。
  • 「文脈で識別され、…」を加えて、利用者が自分で判断できるように配慮した とあるが、文脈説には実例を数多く読んで慣れ親しむことが求められていて明確な定義の与えられておらず、判断基準として利用できないか、利用困難。判断基準として使い得る明確な定義が必須。 しかし三点リード「…」ではなく「・・・」を表記ガイドのノートで例示の外に見かけることになるとは…
  • 「原則として」の適用を問題視する際には常識的な百科事典執筆を疑問視する一方で、文案解釈においては常識的判断を前提としており、提案はダブルないしマルチプルスタンダードに基づいて構成されている。かかる提案はそもそも理解困難であるばかりか、適用の際に混乱を招きかねない。
後者については特定の「常識」が前提とされているのかもしれません。常識というのはそれを適用する母集団の取り方次第なので、「原則として」は適切に使えないが文案解釈は提案者の意図通り行なう、というのを常識とする母集団はとれる (少なくとも提案者だけからなる集団の常識として成立する) 筈ではあるのですが、表記ガイドの対象として一般的かどうかは難しいところでしょう。--Jms 2009年9月22日 (火) 17:13 (UTC)
提起された問題点は(「全角空白」をを除いて)すでに何回か貴方が提起し、その都度反論され、オレは認めないと頑張っているだけのものですから、新味はありません。
ただひとつ、一番最初の件については、ここで限定した以外に「表記を統一しなくともよい場合」は今までに一つも見つかっていないことを指摘しておきます。それはある意味で当然のことで、出発点がそもそも「違和感を感じない混在」を「表記を統一しなくてもよい場合」として除外しようとしたものであって、その「違和感を感じない場合」を客観的に表現したのが「文脈で識別され、使い分けられている表記」だからです。ですからこれを逃れるものは恐らくないだろうと考えています。
その他では最後の項については上の「Makotoyさんへの返事」で説明したとおりです。ほかはさらに小さい問題です。ですから貴方が反論済みという事実を無視して「欠陥」と主張するのはご勝手ですが、第三者はそうは思わないでしょう。--Midz 2009年9月22日 (火) 02:41 (UTC)
「違和感を感じない場合」を客観的に表現したのが「文脈で識別され、使い分けられている表記」という事は論理的にあり得ない、ということは既に述べましたし、それに対して Midz さんは未だに反論できていません。それでも文脈説を用いるのは、Midz さんの目的がガイドラインの改善ではなく、文脈説の承認にあるということだと理解します。それはウィキペディアの目的外利用である、という指摘もすでにしました。
答えられていないからこそ聞かれていることに答えないのはなぜですか。指摘されていることに答えてないないことに気づいていないから (つまり指摘されていることを理解できていないから) ですか、「表記への言及」などはその類でしたね。そういう進め方で、合意が成立するとお考えですか。必要なのはガイドラインについて合意することであって、第三者がどう思うかは直接は関係ないのですが、なぜ反対意見や指摘に正面から向き合うことをせず、サイレントマジョリティに頼ろうとするのですか。第三者を持ち出す限り、合意の意思なしと判断せざるを得ません、第三者に関する評価方法がないのですから。--Jms 2009年9月22日 (火) 02:52 (UTC)
◆一部の領域で適用すればよいルールを全体のルールにしようとしているのがだめなんじゃないかと。何度も例に出しますが「ウィキプロジェクト 大学」で適用している(私から見ると)「お馬鹿な」ルールをWikipedia全体に適用しているような感じがしてならないんですよね。Wikipediaの執筆者はみんな馬鹿なのかと…。--Goki 2009年9月19日 (土) 14:37 (UTC)
その意味では、「原則として」だけでは無制限だから規定として機能しない、というのが未だに理解できないのですが、これは本当なのでしょうか。例外の例示がある方がわかりやすい、というのならまだ理解できなくもありませんが、例外を定めていないことで規定として機能しない、というのは考えにくいですし、「原則として」による無制限の裁量機能云々という主張に至ってはウィキペディアの執筆モデルからすれば荒唐無稽と言える領域なのではないかと思います。これらを主張している御本人以外で解説して頂ける方がいらっしゃると助かります。--Jms 2009年9月19日 (土) 17:19 (UTC)

第5次案の提示 編集

第5次案 文案

ページ内で表記は統一します。ただし、理由があって使い分けられていることが文脈から判る表記は除きます。使い分けの理由の典型には次のものがあります。

  • 固有名詞、文献の表題、引用文、表記そのものへの言及、使い分けが定義されている表記、正式名と略称

なお、ウィキペディア全体での統一には過度にこだわる必要はありません。

また、既存の文章の同じ意味・内容と思われる異表記の混在は、以下の手順で検討してから統一します。まず上記条文を参照しつつ文脈をたどって、それが使い分けされている可能性を慎重に検討します。そしてそれが如何なる意味でも使い分けされておらず、単なる混用と分かったときのみ統一します。それでも後で他の観点から使い分けの理由が分かり、もとに戻されて場合があることを承知しておいてください。

以上

Ks aka 98さまから「文脈により識別され、使い分けられている表記」という表現が解りにくいとのご批判がありましたので、それを解りやすいこなれた文章にしてみました。それから粗雑な統一について懸念があると言われましたので、試みに統一手順を示す文案をつくり付加してみました。これが本当に必要かどうかはまだ分かりませんし、少々長いのが難点ですが、これが粗雑な統一に対するもっとも強力な抑制になることは確信出来ます。文章については皆様のご協力でさらに改善できればと考えています。 --Midz 2009年9月29日 (火) 00:37 (UTC)

  • (ひとことコメント)わかりにくい、というところが批判の対象ではないつもりなのですけれど。--Ks aka 98 2009年9月29日 (火) 03:30 (UTC)
  • (一言だけコメント)他に書こうとすると罵倒になりそうなので、ひとことだけ。以下、反対のコメントがなかったからといって、本文に反映させるのはやめてください。「ウィキペディア全体での統一には過度にこだわる必要はありません。」にこだわる限り私は同意しませんから。--Goki 2009年9月29日 (火) 04:58 (UTC)
  • (提案)Midzさんの「提案」がもう何回目になるかわかりませんが、これ以上おつきあいする意義を見いだせません。行きがかり上Jmsさんの案にどうしても納得できないようなので、(本当に配慮する必要があるかどうかわからないんだが)妥協案としてsergeiさんの案(他のものに近いsergei0919?)でいくことにしませんか。--Makotoy 2009年9月29日 (火) 07:09 (UTC)

  コメント本ガイドラインは基本方針とその例外を示すことで参照者に必要な指針を与えられると考えます。その点で評価すると提案文はそれらの意味を十分示していると判断します。しかし、理由があって使い分けられていることが文脈から判る表記は遠回りな表現だと考えます。例外を簡潔に列挙すれば十分読み手に伝わると思います。この点ではJms小改訂案のほうが簡潔でよいと思います。例えば以下の程度で十分かと考えます。

ページ内で表記は統一します。ただし、以下に示す場合はこの限りではありません。
  • 固有名詞、文献の表題、引用文、表記そのものへの言及、使い分けが定義されている表記、正式名と略称
なお、ウィキペディア全体での統一にはこだわる必要はありません。

なお、本項はまずはページ内の表記についての指針ですからウィキペディア全体での統一項を別に分けることには賛成します。--みや1229 2009年9月29日 (火) 13:07 (UTC)

  • 提案者に合意の意志がない以上議論はしませんが、沈黙を賛成ととられても困るので、意思表示のみ。Midz 案については既に述べた理由より「ことが文脈から判る」「理由の」「過度にこだわる必要はありません」に反対。「また」以下の文も文脈説に基づくものであり、手順としての記述も適切でないので反対。みや1229案は統一の例外が限定的なので反対、「など」に相当する語句が必要。--Jms 2009年9月29日 (火) 17:02 (UTC)
  • Midz案については、既に述べてきた意見が反映されていない以上、賛成はできません。理由があって使い分けられていることが「文脈から」わかる必要はありません。その語の意味から使い分けられていれば足ります。「文脈から」しかわからないなら、統一を試みるべきではありません。「同じ意味・内容と思われる」ものを、「文脈をたどって、それが使い分けされている可能性」を検討するのでは十分ではないです。みや1229さん案は、例示であったものが限定列挙になってしまっています。--Ks aka 98 2009年9月29日 (火) 18:21 (UTC)
しかし、例えば「函数」という表記が「表記そのもの」を表しているか、一般的用法で「関数」との統一議論の対象になるかは、表記自身には何も標識がついていませんから、文を読んで「文脈から」判断する以外に知る方法はありません。ここの「文脈から」はそういう意味です。「使い分けられている可能性」もまず文脈をたどって慎重に検討して、それでも「如何なる意味でも使い分けされていない」と確信できなければ統一を止める、という以外に妥当な方法は考えられませんが如何でしょうか。 --Midz 2009年9月30日 (水) 06:34 (UTC) --Midz 2009年9月30日 (水) 06:42 (UTC)
ガイドラインは函数/関数だけに適用するわけではありません。ロマとジプシーの例ではいかがですか? 竹島と独島ではどうでしょう? 表記自身に標識がついていますよ。表記そのものが標識と言っていいでしょう。その表記が持つ意味合いをウィキペディア外部で知り、ウィキペディアの記述について、文脈に応じて、いずれが適切かという判断をするのです。文脈から何かを読み取る必要はありません。「函数」という表記は従来用いられてきた表記であり、数学分野ではなお使用する例が認められるもので、「関数」というのは「函」が当用漢字に含まれなかったことから広く普及した表記だということは、文脈から読み取るものではないです。記事内容についての知識をあまり持たずに校正作業を主に行なう人ならば、当用漢字の置き換えには古くから議論があることは承知しているでしょうし、数学分野を中心に執筆されている方ならば数学分野の専門家のなかに「函数」の表記にこだわる人がいることはご存知でしょう。そうしたことを踏まえて、表記そのものについて言及されている文脈では、「函数」または「関数」のいずれかしか適当ではない場面があるため、それぞれ適切なものを選び、全体では、本来性や専門分野での用例を根拠とするか、あるいは一般的な普及状況、あるいは占領政策や文化省の後ろ盾を根拠とするかといった価値判断をしたうえで、いずれかに統一する、ということになるでしょう。--Ks aka 98 2009年9月30日 (水) 07:55 (UTC)
それでは例に挙げられた「ロマとジプシー」で説明します。
ウィキペディアの記事「ロマ」は「ロマは、北インドのロマニ系に由来する移動型民族である」で始まっています。そしてここの「ロマ」は一般的用法ですから、仮に「ロマとジプシーでは「ジプシー」に統一する」という合意が出来たときは、「ジプシー」に書き換えられるべき表記です。 ところで少し先に「「ロマ」という自称」という節があります。ここの「ロマ」も文頭の「ロマ」と字面では区別がありませんが、ここにある「ロマ」は後ろに「という自称」という語句がついていますので、文脈から「表記そのものに言及」したケースであることが分かります。そこでMidz案によればこれは統一の対象から除かれます。これがMidz第5案の「理由があって使い分けられていることが文脈から判る表記は除きます」の意味です。
記事「ロマ」には「各国語における外名」節に「大きく分けて2つの系統があり、ひとつは「ヒターノ」「ジプシー」など「エジプト人」に由来する呼称、もう一つは・・・」という文もありますが、ここの「ジプシー」も文脈によって「表記そのものに言及」したケースであることが判りますので、「ロマ」に統一されたページ内でもそのまま残されています。
ここで必要とされているのは、例えばそれが「引用文」にあたるのか、「表記そのものに言及」したケースであるのか、など外形から判る事柄を判定するだけですから、その「表記のもつ意味合い」などの難しい議論とは切り離して独立に行うことが出来ます。ですからMidz第5次案は充分役に立つ規定だと思います。よろしくご理解ください。 --Midz 2009年10月1日 (木) 05:00 (UTC) --Midz 2009年10月1日 (木) 06:31 (UTC)(小加筆)
「難しい議論とは切り離して独立に行うことができる」ことが、「役に立つ規定」だと考えておられるようですが、まさにその点が「粗雑な統一を招く問題点(欠陥)」と見なされていることに気付きませんか? 「表記のもつ意味合いなどの難しい議論」が存在するなら、その議論においてきちんと合意を形成してから表記を統一する(またはしない)と判断すればよいでしょう。何も難しい議論と切り離してまで表記の統一を急ぐ必要は全くありません。第一そういった「難しい議論」をしている最中にその議論の経緯を全く無視して「表記の統一」など行えば、「難しい議論」がより一層「困難な議論」になってしまうでしょう。そういう乱暴さがMidz第5次案には(以前の案から継続して)存在するのでとても同意はできません。
ところで、「ロマは、北インドのロマニ系に由来する移動型民族である」という「文脈」では「ロマ」は一般的用法なので(合意があれば)統一すべき表記であるとされていますが、この一文は当該記事において「ロマ」という語がどういった内容を表しているかを示した定義文であり、「ロマ」という語そのものに言及した記述ではないでしょうか。--218.222.45.34 2009年10月1日 (木) 07:28 (UTC)--218.222.45.34 2009年10月1日 (木) 07:36 (UTC)
Ks aka 98さまが例に挙げられた「ロマとジプシー」が上記説明によりMidz第5次案で問題なく対応出来ることはお認め頂けたと思います。今回のIP氏のコメントは、文頭の「ロマ」に対して小さい疑義を出していますが、代わりに「戦後のロマ」という節名を使っても説明はまったく同じで、こんどはそのような疑義もないと思います。
そしてまたIP氏は「粗雑な統一を招く」という点に議論を移されましたが、Midz第5次案とその他の案とでどちらが「粗雑な統一を招く」かの理由を明示した議論はまったくないように思います。あっても「統一します」と言い切ってあるから招きやすく、「原則として」があるから招かない、というような、具体性のない願望的議論だけです。私はMidz第5次案は、条件が外形的で誰の目にも判りやすい形なので、それに反した「粗雑な統一」は誰にでもすぐに判って矯正し易いこと、ならびに付加された手順条項により統一までの手順が明確に示され、それに忠実であれば「粗雑な統一」は起こらないことから、他の案に比べて阻止に一番有効であると考えています。
そして最後にIP氏が提示された論点については、外形的議論に基づいてなされ、しかも「ページ内」に限った「表記の統一」が「表記の意味合い」といった内省的議論に影響を及ぼすとは考えられません。そして「ページ内の表記の統一」は間違いなく読み易さを改善しますし、この案は表記ガイド冒頭文の冒頭に掲げられた「表記方法の慣習を説明します」にもっとも忠実で、結果を具体的に与える形式であることで表記ガイドの他の項目ともよく整合します。そして最後に強調したいのは、Midz案は他の案が「黙認」していた除外ケースを正しい表記であると「公認」していることです。
どなたもよろしく虚心坦懐に判断してくださることを希望します。 --Midz 2009年10月2日 (金) 04:51 (UTC)
「そして最後に強調したいのは、Midz案は他の案が「黙認」していた除外ケースを正しい表記であると「公認」していることです。」
それでも役に立たないからこれだけ反対が出ているのに…。
「どなたもよろしく虚心坦懐に判断してくださることを希望します。」
申し訳ないが、このコメント暗に「俺の意見を飲みやがれ」と言っているようにしか聞こえません。--Goki 2009年10月2日 (金) 05:00 (UTC)
◆ とても認めるわけにはゆきませんので。「『ロマとジプシー』が上記説明によりMidz第5次案で問題なく対応出来ることはお認め頂けたと思います。」いいえ全然。一意には決まらず、また「理由があって使い分けられていることが文脈から判る表記は除きます」の、「ことが文脈から判る」が不要なばかりかむしろわかりにくくしていることが明らかになったと思います。「自称」だから表記に言及しているのだ、というのも理解できません。「虚心坦懐に判断して」のことです。理由をつけて排除なさるのは御自由ですが、少なくとも異なる判断があるということです。「ページ内」に限った「表記の統一」が「表記の意味合い」といった内省的議論に影響を及ぼすとは考えられませんというのにも驚きですが、「除外ケースを正しい表記であると『公認』」などというのは余計なお世話ですし、指摘されていることを理解できていないというのはよくわかりました。理解できないなら合意も無理でしょう。--Jms 2009年10月2日 (金) 10:14 (UTC)
◆ロマの記事は、その語を主題とした項目で表記の違いについてきちんと触れられていてきちんと使い分けられているものですから問題は生じないのは当たり前です。表記の違いに問題があっても優れている記事ならば、、ガイドラインがいいかげんでも問題は生じません。何を指摘されているのか、虚心坦懐に受け止めていただければ幸いです。黒い瞳で同じように読めますか?--Ks aka 98 2009年10月2日 (金) 10:19 (UTC)
と言うことは、記事「ロマ」でのテストでは、Midz案に欠陥は見つからず、ガイドラインとして合格したと考えていいのですね。ついでご指示に従って記事「黒い瞳」を眺めてみました。そしてこれはMidz案では手を入れる必要なしとするケースだと判断しました。これもある意味で当たり前のことですが、一応説明します。
まず「仮に」などの面倒を避けるために、記事「ロマ」により「ロマ」が「ジプシー」よりも優位にあることを認めた、として話を進めます。ここでは「ロマ」と「ジプシー」は合わせて4回しか出てきません。まず最初の「ロマの女性」での「ロマ」は一般的用法で、ここでは優位にある表記を使っていますので問題ありません。ついでカッコ内の「ジプシー」は執筆者が意識して異表記を提示したもので、まさに「表記そのものへの言及」ですから統一の対象になりません。次の「ロマの音楽」も優位にある表記を素直に使ったものですからそのままです。そして「ジプシー歌謡」は複合語です。複合語は一般にそれを構成する言葉の単純連結の意味を超えた固有の意味を持ちますから、その構成要素の統一問題とは別の問題として捉えます。この場合も「ジプシー歌謡」は「ジプシーの歌謡」を超えた内容を持つ言葉ですから、ここの「ジプシー」は統一の対象になりません。こうしてMidz案は記事「黒い瞳」での2つの表記の使い分けは正当なものと認めます。
これはある意味で当然のことです。というのは既存の記事はすでに「読んで違和感のない」文章に整備されたものであり、Midz案は「違和感のない」感じをもたらす要因を「理由があって使い分けられている表記」として具体的に表現したものだからです。
Midz案の真の存在理由は、それが新規に記事を立ち上げて執筆、もしくは既存の記事に加筆する執筆者に表記統一に関係する具体的指針を与えること、並びに既存の記事に無責任な加筆で表記の無原則な混在が生じたとき、それに対処する根拠を与えることです。よろしくご賢察ください。 --Midz 2009年10月4日 (日) 05:24 (UTC)

引き続き「表記の統一」について、記述する場所のことも含めての議論 編集

今のところ

というのが候補となります(錯綜していてちょいと自信がないですが)。現時点での最新版は差分へリンクをはりましたが、それぞれ改訂が続くことも予想されますので、最新版を参照してください(上のMakotoyさんの忠告を軽視しているようで申し訳ないです)。--Ks aka 98 2009年9月19日 (土) 14:05 (UTC)

現行のまま、というのもお忘れなく。また、Jms 小改定案は節独立は前提としていません、むしろ「その他」のまま寄りです。--Jms 2009年9月19日 (土) 14:15 (UTC)
前改定を差し戻すというのも案のひとつです。そもそも今回の議論は前改定で追加された「原則として」の解釈が主要な問題ですから。--60.254.225.77 2009年9月19日 (土) 17:29 (UTC)
前改定を差し戻すという案は今回提案されているのでしょうか、議論凍結とは別に今回それを提案している箇所があれば差分を教えてください。--Jms 2009年9月19日 (土) 17:34 (UTC)
今回の議論は前改定への疑問・指摘からきていますからそれが解決しないのなら差し戻すことは当然の選択肢でしょう。--60.254.225.77 2009年9月19日 (土) 17:40 (UTC)
統一すべきでない場合がある、という点に異論は出ていないので、前改訂の前まで差し戻しというのは当然の選択肢ではないでしょう。もちろん、60.254.225.77 さんが差し戻しを提案なさるなら別ですが。--Jms 2009年9月19日 (土) 20:03 (UTC)
ふたつとも追記しました。--Ks aka 98 2009年9月19日 (土) 17:43 (UTC)
一部訂正しました。--Jms 2009年9月19日 (土) 20:03 (UTC)

特徴・論点ベースで整理してみました。ページ間統一の表現については特徴的な部分のみ抜き出しているのでそこだけ取り出すと意味が逆になっているものもありますが、スペース節約のため御容赦ください。sergei 0917 案は省きました。

特徴・論点 旧版 現行 小改訂' Midz第4次 sergei0918 sergei0919
統一の例外 不可 文脈識別限定
例外例示 排他列挙 引用のみ? 引用のみ?
ページ間統一表現 過度にこだわる必要 こだわりすぎない ばかり固執すべき 過度にこだわる必要 過度にこだわらない 固執しない
節名 その他 その他 その他寄り 表記の統一 表記の統一 その他
冒頭文修正
当該項位置づけ ? ページ間重視、編集念頭 二案あり、編集念頭 初期執筆重視? ? ?
備考 - - - - 引用への言及 引用への言及

抜けがありそうな気もしますが、とりあえずまとめてみました。--Jms 2009年9月19日 (土) 23:43 (UTC) sergei0919案について誤り訂正 --Jms 2009年9月20日 (日) 01:15 (UTC) Midz第4次案の「など」に対応 --Jms 2009年9月20日 (日) 04:13 (UTC)


ちょっと基本に立ち返ってみましょう。この一連の文案では、Midzさんは「私はここでは実際、ページ内であればどれに統一しても構わないと考えています。」(Midz 2009年9月13日 (日) 02:44 (UTC) )ということを、ウィキペディア一般のガイドラインにしようとされているのだと認識しています。

ぼくは、この方向性そのものに反対していて、初心者はいじめるべきではないし、大胆な編集は歓迎されるとしても、基本的には「どれに統一すべきか、それぞれの背景などを考慮するだけの能力がないなら手を出さないほうがいい」と考えています。あるいは、その「統一」が、その統一の際に採用した記述が排除された記述と比較して妥当であるという説明を行なうことが可能で、誤りへの統一ではなく、有意な使い分けをまぎれさせるものではなく、統一によって排除される記述の正当性を理解し、また排除される記述を採用している執筆者への十分な配慮があり、また、再反論に対して冷静に対話ができるのならば、「どれに統一してもいい」です。

みなさんは、いかがでしょうか。意見を聞かせてください。以下に、簡単ですが、自分なりの理由を書いておきます。

  • わたしたちは、ふつう表記が統一されているものを、読んでいます。統一されているのが望ましいと思う。それはわかります。でも、その統一のために、出版社とか新聞社は、どういう風に統一するか、見識のある人が長年あれこれ調べたり考えたりしているわけです。で、編集者や校正の人が蓄えた知見を基にいちいち調べて、執筆者の意見・意思を確認して、なだめすかして直してもらったり、執筆者の意見を受け入れたりするわけです。そういう手間をかけて、やっと人前に出せる「統一」がなされているんです。そういう作業は、ウィキペディアではなされていません。
  • これは、執筆と同じです。ウィキペディアは百科事典ですが、関連する基礎文献をひととおり読んで執筆されているるわけでも、最新の学説を反映しているわけでもありません。項目の選別は適当ですし、記事の内容には誤りが多く含まれています。重要な項目の多くは貧弱なままですし、まだ記事ができていないものもあります。しかし、「何でもいいから文字で埋めましょう」というガイドラインはありません。それと同じように、ウィキペディアの記事は、その性質上、校正は不十分であり、発展途上のものとして、理解する必要があります。
  • 他方、安易に、機械的に統一作業を行なうことは、記事の質を損ない、執筆者のやる気をそぎ、対立を生みます。
  • 三点リーダーを「…」とするか「・・・」とするか、では、たいした論争は起きないでしょう。「~」と「〜」は、それほど簡単ではない。これらだけなら、統一をすすめるような文案でもよいでしょう。しかし、語の表記、呼称に及ぶのだとしたら、当用漢字外の書き換えや外来語、前述した「ロマ」「ジプシー」などのように、思想やら差別やら宗教やらが絡んできます。当たり前すぎて記事では違いに触れられていないこともありますし、ウィキペディアで定義づけが出来るほど違いが明確に言語化されていないこともあります。ウィキペディアでも、過去、多くの論争がありました。
  • 自身の無知を省みず、「統一」することの便をもって自己正当化し、ひどい場合には、荒らし呼ばわりする事例もあるわけです。間違いは正し、使い分けされているものは残し、論争を生じない表記揺れはガイドラインを参照しながら揃え、論争が生じうるけれども使い分けといえるだけの違いを持たないものは、ノートで提案するという作業が、「表記の統一」として求められるもの、です。それは、そう簡単には、完全になしえないものですけれど。--Ks aka 98 2009年9月23日 (水) 13:52 (UTC)
(コメント)現時点では、「現状維持」を、または「冒頭書き換え+統一の記述:sergei案2009年9月18日 (金) 09:39 (UTC)」を支持します。理由は、理科系・体育系とは違って文科系・文化系の場合は、名称を選択するときに、語の統一の利便性は最重要ではないこと、理科系・体育系と比べて文科系・文化系に関することは、目の前で行われていることがどういう意味を持つのか/持たないのかが、門外漢には本当にわからない、と考えるからです。Uryah 2009年9月23日 (水) 15:18 (UTC)
何について意見を求められているのか、もしかしたら読み間違えているかもしれないのですが、「ページ内であればどれに統一しても構わない」という点についての意見なら、一般論としてそんなことはあり得ないでしょう。この主張の裏では、おそらく、「意味内容が同じ表記ならば」というのが暗黙に前提されているのではないかと想像します。意味内容が全く同じならば、表記は互いに (完全に) 交換可能なので、どれに統一してもかまわないでしょう。「たいした論争は起きないでしょう」というのはこれに該当するか、それに近い、機械的に置き換えて問題のない場合だと思います。一方、意味内容が同じ様に思えても完全には同じではない場合については、慎重な対応が必要だと思います。複数表記が淘汰されずに残っているという場合には、これにあたる可能性を考える必要があるでしょう。「ロマ」「ジプシー」の様な場合はもちろん、漢字が表意文字であるために置き換えると意味が変わってしまう場合もあるでしょう。こうした、複数表記の指示対象すなわち外延が同じであっても、その含意すなわち内包が異なる場合をきちんと識別できるくらいの見識が、統一するにしても使い分けるにしても、書き手には必須だと思います。--Jms 2009年9月23日 (水) 15:19 (UTC)
◆改めて自分の提案の趣旨を説明するつもりでいたのですが、せっかくなのでKs aka 98さんの問いかけに応じる形で自分の考えを述べてみます。
  • 基本的には特に事情がなければ一つの文書においては表記が統一されていることが望ましい。不用意に異なる表記を混在させることによって文意が通りにくくなるのはよくない。
  • 英数字の全角/半角のように潜在的な対立要因となる可能性のほとんどないものについては、用いるべき表記をこの文書で明確に定めておいて構わない。以下、話をそうでないケースに限定。
  • 妥当な表記が複数ある場合にどれを用いるかは、基本的に執筆者の裁量に任せるべき。誰もが平等な資格で参加できるウィキというシステムを採用している以上、用いる表記を予め定めておくことは不可能。これは紙の出版物とは決定的に異なる。
  • 従って新規項目の投稿の場合には執筆者が好きな表記を(それが実際に妥当なものである限り)用いて構わない。
  • 既存の項目に加筆する際にそれまでの表記に従うか別の自分の好みの表記に改めるかは、ケースごとに加筆者自身が慎重に判断すればよい。その項目に加筆できるだけの知識があれば、適切に判断できるはず。既存の部分には手を加えずに、自分の加筆部分でのみ異なる表記を用いることも妨げるべきではない。異なる表記が混在することによって文章が読みにくくなる弊害よりも、表記の問題が足枷となって投稿への意欲自体が減退してしまうことの方がWikipediaの発展にとって遥かに深刻な障害となる。
  • 草取り的な作業による表記の改変については、その表記が抱える固有の事情について熟知していて、先行する執筆者の意図を汲み取る努力が十分になされる限り、大胆に行って構わない。事情をよく知らないけど取り敢えずどれでもいいから統一しておく、というような粗雑な作業は厳に慎まれるべき。
  • 引用等で異なる表記を用いる必要がある場合は当然そうしなければならない。また異なる表記を敢えて使い分けることで文意がより的確に伝えられるなら、そのようにすることが積極的に推奨される。これは執筆者が個別のケースに応じて判断すればよい。
私の考えはこんなところです。私の考えというより、これまでの議論によって若干名を除く参加者の間で形成されてきた共通見解を改めて集約してみたに過ぎないのかも知れません。一応断っておくと、現状でも特に問題はないと思っていますし、Jmsさんの2種類の小改訂案にも反対ではありません。Midzさんの案に反対なのは、「事情をよく知らないけど取り敢えずどれでもいいから統一しておく、というような粗雑な作業」をまさに奨励するようなものになっているためです。--sergei 2009年9月23日 (水) 15:53 (UTC)
◆それほど積極的にアイデアを出していたわけではないんですが、せっかくまとめの場を準備していただけたので改めて書いておくことにします。以前書いたコメントで述べたこの条項の目的と対象に関する希望がsergeiさんの案またはJmsさんの案によってよくとらえられていると思うので、これらのうちどちらかにすることに賛成です。根拠については上でおふたりとKs aka 98さんによって挙げられていることがもっともだと思いますし、このような合意はウィキプロジェクト 数学をはじめいくつの場所でボトムアップに形成されてきているものです。--Makotoy 2009年9月23日 (水) 18:34 (UTC)
◆旧版、Minz案以外ならどれでもいいです。理由は「過度にこだわる必要はありません」という記述が日本語としていい文体ではないことと、「事情をよく知らないけど取り敢えずどれでもいいから統一しておく」ことが正しいことであるという「お墨付き」を与えたくないから。--Goki 2009年9月24日 (木) 00:49 (UTC)
(コメント)意見集約の可能性が低いから、決定しないというのは云いわけの類と存じます。特に、将来にわたって発生する例外を現時点で想定できないことを理由にルールに繰り込むことができないというのが意見集約の可能性が低い根拠であるならばそれは間違いです。過去から現時点で実際に発生した事例をもとに現在のルールを決定し、未来にルールにない例外をルールに繰り込むことがでWikipediaの目的達成に前進が見込めると多数が判断すれば例外を繰り込むようにルールを改定しつづけれは良い話かと存じます。--あら金 2009年9月24日 (木) 03:21 (UTC)
「過去から現時点で実際に発生した事例をもとに現在のルールを決定し、未来にルールにない例外をルールに繰り込む」やり方はWikipediaの目的達成の障害になる、と多数が判断しているから現在のような議論の流れになっているのでは? --sergei 2009年9月24日 (木) 09:11 (UTC)

反対派の皆様のご意見は、各項目についてはとてもよく解り、同感するものが大部分です。しかし、解らないもののひとつはどうしてそれらがMidz案を排除する理由になるかです。そしてもうひとつは皆様が表記ガイドの冒頭文にある「この表記ガイドでは、ウィキペディアの記事における表記方法の慣習を説明します」という目的を何故か無視して評価の基準にまったく考慮していないことです。

まず、皆様は私が「事情を知らないけど取りあえずどれでもいいから統一しておく」を推奨していると言っておられますが、私の考えはまったく別です。それはMidz案の冒頭で「ページ内では表記を統一します」という一般原則を述べたのに対しKs aka 98さまが「何に統一するかを慎重に判断せずに統一を語ることはあり得ない」と言われましたので、「どちらにするかの合意以前でも、双方とも妥当な表記であればどちらにしても構わないから、一般的に「統一します」という原則を立てることは充分意味がある」という文脈で「ページ内であればどれに統一しても構わない」と述べたものです。それは「関数」と「函数」のごとく特に表記そのものに言及する文章以外ではどちらでもまったく違和感のない文章ができる場合です。ですからこの考え方はsergeiさんが「従って新規項目の投稿の場合には執筆者が好きな表記を(それが実際に妥当なものである限り)用いて構わない」とした内容とまったく同じものです。

Midz案のもとでは通常は各ページは読んで違和感のない表記で統一されています。そこで加筆するときは、その統一された表記に従うか、自分の好みの表記を使うかの選択を迫られることになります。私の希望は、そこでは既存の表記に従うか、新たにノートで問題提起して新しい統一表記を決めるかして、ページ内での表記の統一は守って欲しい、ということです。その点、sergeiさんの「自分の加筆部分でのみ異なる表記を用いることも妨げるべきではない」とは確かに異なります。そして恐らくこの、「関数」と「函数」との場合のように通常の文脈では交換してもまったく意味が変わらない表記について、「ページ内の「関数」と「函数」は除外ケースを除き、どちらか一方に統一する」と「いくら混在していても構わない」とが2つの立場の唯一の基本的相違点でしょう。

Midz案のもとでは、草取りが統一作業を行うとすれば、それは後からの加筆の際に加筆者が既存部分に手をつけずに自分の好みの表現で書き入れて放置したため少数の異表現が混じっている場合だけでしょう。そのときでも内容を理解しないものが統一に手を出すのは論外でしょうが、いちおう内容をよく理解した上でなら、たとえそのどちらの表記がよいかの合意以前でも、多数派に統一することは何ら差し支えないことだと思います。万一それが本来使い分けすべきものだったときは、気がついたものがMidz案の基準を当てはめて訂正することが出来ます。Midz案はこのようなときにも適切な指針を与え、その訂正が正当であることを保証します。これが「原則として」では果たせない役割のひとつです。そしてこれが草取り的な作業で「事情は知らないけど取りあえずどれでもいいから統一しておく」というような話とはまったく無縁な話であることは解って頂けると思います。

粗雑な統一行動に対する私の慎重な態度は編集合戦抑制を目的とした第2次案第4項によく現れています。この項は執筆の指針を与えるのが任務の表記ガイドには相応しくないとして、第3次案へ移るとき削除したものです。少なくともMidz案には粗雑な統一行為を促進ないし奨励する要素はまったくないと考えます。

またsergeiさんの最後の項目で「また異なった表記を敢えて使い分けることで文意が的確に伝えられるなら、そのようにすることが積極的に推奨される」はMidz案で「文脈により識別され、使い分けられている表記」は統一から除外される、とまったく同じ考えです。

以上を総合して、「ページ内で表記が交じっていても構わない」とする見解とは確かに違いますが、それ以外のsergeiさんの項目からどうして「Midz案は排除しなければならない」が導かれるのかがまったく解りません。それに表記ガイドの本来の目的との関係があります。

表記ガイドの目的は冒頭部にありますように「表記方法の慣習を説明する」ことにあります。つまり、執筆者が何か表記に関する問題を抱えたとき、表記ガイドが慣習を説明して指針を与えることです。ところで表記の統一に関しては、同じ意味内容でも「表記そのものへの言及」ケースのように統一してはいけないケースがあることは明らかですから、どのケースがそれに当たるのかを明確に示す指針を与えることが項目の重要な任務になります。ところがMidz案以外はその任務をまったく放棄しています。何故皆様がそれをまったく問題にしないのかが理解出来ないのです。

Jmsさんは、それは対象が多様でどんなことが起こるかが予測出来ないから、包括的な「原則として」で対処しているのだと弁解されます。しかし、この場合の除外ケースはきっかり規定出来ます。それはそもそもJmsさん自身の出発点が「常識の範囲内の混在」、つまり「読んで違和感を感じない混在」を救うとして「原則として」を挿入する改訂を行ったことと関係します。つまり除外ケースとは「読んで違和感を感じない混在」なのです。 そしてその心の過程を分析して得られた知見として「文脈で識別され、使い分けられている表記」という客観的表現で統一的に捉えられます。そしてさらに今までのところこのケース以外で除外すべき例は見つかっていません。ですから、表記ガイドの役目として、このはっきり分かっている除外ケースを明確に指摘して利用者に供するのが当然の責務です。そしてこの責務を果たしているのはMidz案だけです。そして利用者の利便に配慮して典型的除外ケースを列挙し、利用者に見ただけで分かるようにしているのもMidz案だけです。これらの点をまったく評価の対象にしないのは何故だろうかというのが私の率直な感想です。

以上により「事情を知らないけど取りあえずどれでもいいから統一しておく」が私の考え、ひいてはMidz案とはまったく無縁であることはご理解していただけたと思います。その上で、なぜMidz案が排除されるのか、そして表記ガイドの本来の目的への適合性がどうして評価の基準に上がらないのか、についてどなたからか万人を納得させる説明を頂けることを望みます。--Midz 2009年9月25日 (金) 04:57 (UTC)

議論を始めてしまうのはどうかと思いますが、あまりなので。「文脈で識別され、使い分けられている表記」という客観的表現で統一的に捉えられます、というのが真であるなら、それが「読んで違和感を感じない混在」に過不足なく対応することはあり得ない、ということは既に繰り返し指摘しました。それに対する反論は未だ頂いておりませんが、指摘自体については支離滅裂で、なかなか理解できないとのことですし、理解出来たものにだけ答えるから、答が欲しいのなら解るような明確な質問をとのことでした。他の方からもご要望があり簡略版をそれ以降も複数回提示しておりますし、だいたいわかるという評価もいただいております。にもかかわらず、指摘を理解なさらないばかりか、論理的にできるはずがないのに「除外ケースを明確に指摘して利用者に供するのが当然の責務です。そしてこの責務を果たしているのはMidz案だけ」などと大言壮語をなさるのはなぜでしょう。「利用者の利便に配慮して典型的除外ケースを列挙し、利用者に見ただけで分かるようにしているのもMidz案だけ」というのは、他の提案を読んでいない事を示していますし、「利用者に見ただけで分かる」という思いこみを主張しているだけです。利用者に分かりにくいことは既に繰り返し指摘しましたし、そもそも何をわからせようとしているのか何度も問うていますが、十分な回答はいただいておりません。「これらの点をまったく評価の対象にしないのは何故だろうかというのが私の率直な感想」というのは、端的に、事実ではないばかりか論理的にあり得ない矛盾を含んだ主張だからです (ダメだという意味で評価はしているので、評価の対象にはなっていますが…)。指摘からいくら目をそむけても、問題点は消えてはなくなりません。「なぜMidz案が排除されるのか」、それは錯誤に基づく主張だからです。「そして表記ガイドの本来の目的への適合性がどうして評価の基準に上がらないのか」、それは矛盾に基づく Midz 案について、適合性を評価する必要がないことと、表記ガイドの理念は Midz さんが主張していることであってそれについて検討されておらずまた検討の必要もないからです。「どなたからか万人を納得させる説明を頂けることを望みます」とのことですが、もし、Midz さんだけ、あるいは Midz さんを含むごく限られた人数だけが、反論を理解できないが故に納得していないとしても、でしょうか。--Jms 2009年9月25日 (金) 05:53 (UTC)
#表記統一項の目的でMidzさんはところでMakotoyさんは「この条項は機械的に表記の統一のみをするような編集を抑制するためにおかれるべきだ」との立場を表明しておられますが、私はこれには賛成致しかねます。と書かれていましたが、以上により「事情を知らないけど取りあえずどれでもいいから統一しておく」が私の考え、ひいてはMidz案とはまったく無縁であるというのはそれと整合しているんでしょうか。僕にはそうは思えないんですが、もし仮にMidzさんの中では整合性がとれているとすれば、Midzさんの提案していることは他の案と似たような目的を持ちながら、読み手にその意図を誤解させるものだということで賛成しかねます。整合性がとれていないのであればもちろん賛成できません。また、Midzさんなりの編集合戦に対する配慮であった第2次案第4項はMidzさん自身によって引っ込められたのだと認識していますし、そのようにご自分で引っ込められたものを示して現在でも粗雑な統一行為に対する配慮があると言われても首をかしげざるを得ません。--Makotoy 2009年9月25日 (金) 07:17 (UTC)

Midz さんに質問します。「原則として」が表記ガイドにもたらした変化は差し引き 12 バイト、対してその除去をめぐる議論は (中黒に関する議論もごく一部に含んでいます) 400版を超え、200 キロバイト超、改訂提案だけに限っても 100 キロバイト近くあります (計算間違いはしていないと思う)。除去しようとする文言の一万倍を費やしてもなお受け入れられない提案をまだ続けるのでしょうか。これだけ明確な反対と対案や譲歩案も示されている一方で議論の方向性すら見えない状況では、このまま進めても合意は事実上不可能だと思います。長いのはお前が饒舌だからだ、という御批判は甘んじて受けますが、説明しても御理解いただけなければくわしく説明するか別の説明を試みるしかありませんし、議論が長引かない様一つずつ進めることを提案しても拒まれては仕方ないことだと思います。「原則として」による弊害が具体的に生じているなら改訂が必要なのはわかりますが、もしそうならば議論はこんなに長引かなかったでしょう。また、繰り返し出される文案で指摘されている点が修正されていればこうは長くならなかったと思います。このままではいつまでも終わらないと思いますが、それでもまだ続けますか。例示の付加程度にとどめて、あとは顕著な具体的問題が発生してから対処する方が現実的ではありませんか。坊主憎けりゃというのを否定なさらないところを見ると前回の改訂分の除去こそが Midz さんには必須なのかもしれませんが、もしそうなら、sergei 案基本でゆきませんか。以前述べた様にわたくしは「原則として」そのものにはこだわりませんが、Midz 案はあまりに問題があると思います、それを指摘しても御理解いただけない様ですが。--Jms 2009年9月25日 (金) 08:36 (UTC)

◆Midzさん、みなさん、コメントありがとうございます。

「Midz案」では、「草取りが統一作業を行うとすれば、それは後からの加筆の際に加筆者が既存部分に手をつけずに自分の好みの表現で書き入れて放置したため少数の異表現が混じっている場合だけ」とは読めませんし、「内容を理解しないものが統一に手を出すのは論外」であることや、「草取り的な作業で『事情は知らないけど取りあえずどれでもいいから統一しておく』というような話とはまったく無縁な話であること」がわかりません。たとえば、sergeiさんが言う「従って新規項目の投稿の場合には執筆者が好きな表記を(それが実際に妥当なものである限り)用いて構わない」と、Midzさんの言う「ページ内であればどれに統一しても構わない」の違いは、統一する人が「新規項目をかける程度の執筆者」なのか、あらゆる参加者なのか、というところにあります。つまり、「双方とも妥当な表記」であると判断できるなら統一する、それができないなら統一しない。できないのに統一することは、初心者をいじめず、大胆な編集を許容し、善意に取るとしても、「正当」と保証されるべきものではない。「論外」となる統一にまで、「その訂正が正当であることを保証」されては困るのです。

sergeiさんの案は、「いくら混在していても構わない」とは書かれていません。たとえば「特に事情がなければ同一項目内では表記が統一されていることが望ましいでしょう。不用意に異なる表記を混在させることによって文意が通りにくくならないよう、注意して下さい。」とされているのですから、函数と関数が混在しないよう注意することが求められています。「関数」冒頭部の記述や当用漢字の問題を承知した上で、先行する執筆者の意図を汲み取ることができるならば、いずれかに統一すればよいのです。

「固有名詞、文献の表題、引用文、表記そのものへの言及、使い分けが定義されている表記、正式名と略称」というものは、その語そのものの持つ意味、あるいは語句・文章の由来や引用における形式、あるいは文意そのものから明らかに区別されるべきものであって、「文脈」に依存させるべきものではありません。「文脈で識別され、使い分けられている表記は除きます。」という表現の、Midzさんの意図は、「使い分けられている表記で、その違いを語そのもののについての知識ではなく、その知識がなくとも、文意または文脈から識別されるように書かれているもの」なのかなとも読み取れます。これは、結局のところ、複数の使い分けられている語の違いを理解していないのですから、好ましいものではない、と考えます。「読んで違和感を感じない混在」というのも、その違和感を感じる側の無知ということもあるのですから。もっとも、このような場合は、執筆者にも責がある場合があるでしょう。使い分けを理解しないで統一をする編集者が執筆者を荒らし呼ばわりするべきではないのと同じように、執筆する側が、統一を荒らし呼ばわりするべきではありません。

さて、ぼく、あるいはMidz案に反対している人たちとMidzさんは、おおむね同じ方向を向いているけれど、ガイドラインの文章に仕立てる上での文章技術的なところで相違があるのでしょうか、それとも、求めるところが違うのでしょうか。--Ks aka 98 2009年9月25日 (金) 08:44 (UTC)

両方だと思います。つまり、(真横を見ているわけではないという意味で) 似たような方向を向いてはいるが、求めるところが違い、ガイドラインの文章に仕立てる上での文章技術的なところでも違うのではないかと思います。そっぽを向いているわけではないとはいえ、向き合ってというよりは背中合わせで対話している状況でしょう。たとえば、「文脈で識別され、使い分けられている表記」というのは求めるところと文書技術の違いの端的な例になっていると思います。Midz さんが「文脈」で意味しようとしているところと、Ks aka 98さんやわたくしが読み取ってしまうところにおそらく違いがあり (Midz さんからきちんとお答えをいただけていないので「おそらく」ですが)、その違いは、Midz さんが辞書の範囲とはいえ「文脈」の意味を広くとって表現を「文脈」に統一しようとしているのに対し、すくなくともわたくしは意味をむしろ狭くとって他の表現との区別に意味づけする方向で解釈しているということではないかと考えています。表現の統一による表面上の単純化と引き換えに意味を曖昧にするか、多様な表現という「コスト」を払っても内容を豊かにするか、という求めるところの違いであり、それは同時に、伝えたい内容をどう明確化するかという文章技術的なところの違いでもあるでしょう。いや「文脈」の方が客観的で明確なのだ、と Midz さんは仰るでしょうが、外延が大きくなればなるほどその概念の内包は小さくなるすなわち曖昧になるので、そんなことはあり得ません。--Jms 2009年9月25日 (金) 18:21 (UTC)
追記。概ね同じ方向を向いていて、求めるところが違う、というのを両立させ得るのは、ダブルないしマルチプルスタンダードだからだと考えています。--Jms 2009年9月26日 (土) 00:10 (UTC)
◆求めるところが違うと思います。Uryah 2009年9月26日 (土) 00:01 (UTC)

◆(Midzさんの2009年9月25日 (金) 04:57 (UTC) のコメントに対して)すでに各位から詳細かつ丁寧なご意見が寄せられていますが、私からも一言。

この文書の冒頭にある「この表記ガイドでは、ウィキペディアの記事における表記方法の慣習を説明します」という文言から読み取れるのは、普通に解釈すれば、この文書の役割りはすでに慣習として確立された取り決めに事後的にお墨付きを与えることにある、ということになるでしょう。Midzさんの案はこれとは全く逆に、慣習的な合意の成り立っていない規則を先んじてこの文書で制定し、それによって執筆者を規制し、これまでに存在していなかった「慣習」を新たに作り出そうとするものになっています。それが根本的な問題点です。

例えば全角英数字を用いないという規則はすでに幅広く実践されていますし、これまでほとんど異論は出ていないようです。それが、「ウィキペディアの記事における表記方法の慣習を説明」するこの文書で「ラテン文字(英字)やアラビア数字など、JIS X 0201のラテン文字類(いわゆる半角英数字)で規定されているものはそれを用います」と述べられていることの意味です。

それに対し、表記の統一をどのような場合に行い、どのような場合に行わないかはとても難しい問題で、今のところ利用者間での慣習的な合意のようなものは形成されていません。むしろ、Makotoyさんの2009年8月28日 (金) 13:06 (UTC) のご発言にあるように、「どちらに統一した方がいいのかにわかにはわからない表記ぶれが現実に存在し/これから追加される見込みがあって、そのような案件についてみだりに表記変更のみの編集を行うべきではないという運用上の知恵がWikipedia:ウィキプロジェクト 数学をはじめとしてボトムアップで蓄積されてきている」というのが実状でしょう。ですからこの文書でそうした規則を予め定めておくようなことはすべきでないのです。

「どのケースがそれに当たるのかを明確に示す指針を与えること」はこの文書に課せられた義務でも何でもありません。何らかの合意がすでに得られているのならそれを明記すればいいでしょうが、合意がない以上は個別のケースに応じて執筆者が裁量で判断できる余地を確保しておく必要があります。Midz案が排除されるのは、それがこの表記ガイドの本来の目的(すなわち「すでに確立された慣習を事後的に説明する」こと)に明確に反しているからにほかなりません。--sergei 2009年9月25日 (金) 15:59 (UTC)

◆「事情を知らないけど取りあえずどれでもいいから統一しておく」のがMidz氏の意図かどうかなんてどうでもいいし何の意味もない。Minz案では「事情を知らないけど取りあえずどれでもいいから統一しておく」行為にガイドラインによってお墨付きを与えかねないからだめだって言うこと。--Goki 2009年9月26日 (土) 05:19 (UTC)


  コメントまず用語は統一することが文章の基本でありWikipediaもそうであるべきです。しかしながらWikipediaでは各ページの執筆者は様々であり厳密に統一することは困難だと思います。ですからページ内を統一することが現実的な対応であり、その明示が本表記ガイドの意義であると考えます。一方、Ks aka 98氏が列挙している用語統一をめぐる編集合戦などのトラブルには個別の事情があり本項とは別次元の話だと思います。それらは各ページにおいて合意形成を図ればよいし、それは極めて困難かもしれません。大切なのはそのようなトラブルがあるからといって用語を統一すべきという基本を指し示すことに躊躇すべきではないということです。--みや1229 2009年9月26日 (土) 17:54 (UTC)

  • 「ページ内の表記は統一します。 ただし」「原則としてページ内の表記は統一します」「特に事情がなければ同一項目内では表記が統一されていることが望ましい」いずれも統一を旨とする点で同じですし、統一すべきではない場合があるという点でも同じです。違いがあるのは統一すべきでない場合をどうとらえどう表現しているかでしょう。Midz 案の文脈説に由来する困難は、たとえば「文脈で識別され、使い分けられている表記」を「読んで違和感を感じない混在」で置き換えれば除去できます (両者は過不足なく対応しているそうですから置き換えても同じ筈です)。しかし、文脈説を除去してもなお他の案と比較して大きく異なるのは、統一対象外の指定です。「常識の範囲内の混在」を言い換えたものであろう「問題なく混在しているなら違和感を感じさせていない」の対偶に相当するのは「違和感を感じさせるならば混在させない」ですが、Midz 案ではなぜか対偶ではなく逆をとって「違和感を感じさせないものは混在させてよい」としています。一方、小改定案は常識の範囲内なら書くまでもないと例示にとどめ、sergei 案では「不用意に異なる表記を混在させることによって文意が通りにくくならないよう、注意して下さい」により前記対偶を表現しています。結果として、Midz 案ではその主張に反して統一対象外となる範囲が他の案よりも広くなってしまっています。この、なぜか逆をとっているという問題点は文脈説が片付いてから指摘しようと考えていたので詳細に検討はしていませんが、Goki さんの指摘する点とも相通ずるものがあるのではないかという感触を持っています。違和感の有無に帰結する問題であるならば結局は個別記事ないし分野ごとに議論せねばならず、表記ガイドで一律規定できるものでないのは論を待ちません。--Jms 2009年9月26日 (土) 23:21 (UTC) 脱字補足 --Jms 2009年9月27日 (日) 18:25 (UTC)
◆根本的に間違えています。「用語は統一することが文章の基本」というみや1229氏のポリシーはWikipediaにおいてコンセンサスを得てはいません。表記の統一は大切であるが、最優先ではない。表記の統一が執筆の妨げになるなら無理に統一する必要はない。というのが過去の議論でも示されています。こうした点を無視して御自身のポリシーを一方的に主張されても合意は得られないでしょう。--114.180.157.218 2009年9月27日 (日) 02:04 (UTC)

◆(Midzさんの主張に対してコメント)表記ガイドの冒頭文(の一部)を妙な形で引用し「表記方法の慣習を説明します」が表記ガイドの目的と読めてしまうMidz氏の日本語読解能力に疑問を抱かずにはいられません。恣意的な引用でないとすればもう一度冒頭文をよく読み返すことをお勧めします。過去の議論なども一通り拝見しましたが、Midz氏はしばしば「反対者の意見を無視し対話拒否をする」とか「主張内容がダブル(マルチ)スタンダードである」といった批判を受けておられますが、これらも相手の主張内容や、ときには御自身の主張内容さえも「日本語として正しく認識されていない」ことが原因でないかと思えてきます。たとえば「Midz案の冒頭で「ページ内では表記を統一します」という一般原則を述べた」と発言されていますが、この言葉の意味を正しく理解されていますか? ページ内での表記の統一が一般原則なら、今までしきりに繰り返されてきた現行文「原則としてページ内の表記は統一します」への批判と全く相容れません。ダブルスタンダードです。--114.180.157.218 2009年9月27日 (日) 02:04 (UTC)

私のコメントに対し、反対派の皆様から膨大な批判を頂きましたが、残念なことに私の質問に正面から答えたものが皆無でした。 ただその中で、Jmsさんのコメントの次の下りが私の興味を引きました。
「その違いは、Midzさんが辞書の範囲とはいえ「文脈」の意味を広くとって表現を「文脈」に統一しようとしているのに対し、すくなくともわたくしは意味をむしろ狭くとって他の表現との区別を意味づけする方向で解釈しているということではないかと考えています。表現の統一による表面上の単純さと引き換えに意味を曖昧にするか、多様な表現という「コスト」を払っても内容を豊にするか、という求めるところの違いであり、それと同時に、伝えたい内容をどう明確化するかという文章技術的なところの違いでもあるでしょう。」
この文章で注目されることのひとつは、「辞書の範囲とはいえ「文脈」の意味を広くとって表現を「文脈」で統一しようとしているのに対し、すくなくともわたくしは意味をむしろ狭くとって他の表現との区別を意味づけする方向で解釈している」という文章です。ここではJmsさんは辞書で代表される世間一般の「文脈」の解釈を採れば表現が「文脈」で統一されることを認めておられます。
そしてもう一つは上記文内で、Midz案に対して「わたくし」は「文脈」の意味を世間一般の解釈より狭くとって議論を進めてきたこと、そして続く文章でMidz案とJms主張は対等な位置づけをもつことがさらに明らかに認識され、両者が内容のこの差により異なることを表明していることです。これは今まで一貫してMidz案は「論理的にあり得ない矛盾を含んでいる主張だから」論議に値しないと主張してきた論調とは大きく異なります。
Jmsさんがここで突然その主張を取り下げるとは思いませんが、Midz案に一定の論理的妥当性を一度でも認めたことの意味は大きいでしょう。そして世間一般の人が使う表記ガイド中の言葉「文脈」を、世間一般の解釈に従って用いるべきか、Jmsさんのことさら狭めた解釈ですべきかは誰の目にも明らかでしょう。
その他の議論は多くは揚げ足取り的で、また数が多すぎていちいち触れられません。でも「Midz案が粗雑な統一を防げないから反対」については、何故Midz案だけが粗雑な統一を防げず他の案なら防げるのかがまったく理解出来ませんが、それでも対案を出して置くことは意味があるでしょう。そこでここではMidz第4案に続けて、「統一を実行する際の手順」を与える文章を付加するとして、その文章を考えます。
「既存の文章の同じ意味・内容と思われる異表記の混在は、以下の手順で検討してから統一します。まず前項の使い分け条項などを参照しつつ文脈をたどって、それが使い分けされている可能性を慎重に検討します。そしてそれがいかなる意味でも使い分けされておらず、単なる混用と分かったときのみ統一します。それでも後で他の観点から使い分けの理由が分かり、もとに戻される場合があることを承知しておいてください。」
これが必要かどうかは分かりませんが、これがあれば役立つことは確かでしょう。そしてこれが単なる精神訓話でなく、具体的行動の手順を与えるものなので、ガイドラインに相応しいと思います。 --Midz 2009年9月27日 (日) 07:55 (UTC)
「残念なことに私の質問に正面から答えたものが皆無でした」というのは事実ではありません。いい加減にしてください。ここまでくれば立派な対話拒否でしょう、対話が成立しない様に、相手の言をなかったことにしてしまうのですから。
Jmsさんは辞書で代表される世間一般の「文脈」の解釈を採れば表現が「文脈」で統一されることを認めておられます などとは書いていません。書かれていることを論理的推論の範囲を越えて拡大解釈して、あたかもそう書いてある様に表現するのはやめてください。良い辞書というのは、語の一般的な意味だけでなく、特殊な意味、用例も含めて示しているものです。辞書にあるからといってそれが世間一般の解釈だということにはなりません。従って、わたくしの解釈が世間一般の解釈より狭いという Midz さんの主張には根拠がありません。根拠のない言いがかりはやめてください。
その他の議論は多くは揚げ足取り的、というのは、Midz さんにはそうしか読めないというだけのことです。それが揚げ足取り的にしか思えないところこそが Midz 案の問題なのですが、御理解いただけないのでしょう。わたしくは sergei さんや 114.180.157.218 さんの様に親切ではないので、お二方の様な度胸ある指摘はしませんが、その一方、お二方の指摘に反論する材料が見つからないのも事実です。
指摘されていることを受け止めないなら、合意は不可能です。提案者に合意する気がないのですから、この提案は却下すべきでしょう。--Jms 2009年9月27日 (日) 08:34 (UTC) 一部補足 --Jms 2009年9月27日 (日) 18:25 (UTC)
Midz さんのために補足。文脈の他、水脈、鉱脈、山脈、人脈、金脈、血脈という風に、ナントカ脈というのは、ナントカが脈でつながっているもの、という構成が一般的です。ですので、文脈といえば文のつながりと解するのが他のナントカ脈との関連からは普通であり、文のなかの脈という意味にとるのは特殊な場合と考えるべきでしょう。葉脈の様に、ナントカの中の脈という意味での組み合わせがない訳ではありませんが、少なくともわたくしは文の中の語のつながりという意味で文脈という語が用いられている用例を見たことがありません。もしそうした用例を御存知でしたら、出典を教えてください。--Jms 2009年9月27日 (日) 10:28 (UTC)
「角川 国語辞典」には「【文脈】 文章。 文章の中での文や語句の続きぐあい。「ーをたどる」」とあります。 --Midz 2009年9月28日 (月) 05:53 (UTC) 
文章と文についてはそれぞれどう定義していますか (というのを聞かれる前に調べて示していただけると吉)。--Jms 2009年9月28日 (月) 09:42 (UTC)
◆「残念なことに私の質問に正面から答えたものが皆無でした」ということにしたいのですね。こういう言葉は最も使ってはいけない言葉です。ほかの利用者を激しく罵倒しているのと同じです。この部分の発言を取り消しなさい。(謝罪はいらないよ。そんなことしても無駄だから。)--Goki 2009年9月27日 (日) 14:21 (UTC)
◆Midz氏の質問に対しては皆さん実に根気よくお答えされています。にもかかわらず、「残念なことに私の質問に正面から答えたものが皆無」と読めてしまうのは前回指摘した通りMidz氏の日本語読解能力に問題があるからでしょう。また、能力以前に(Jms氏の発言の一部を都合よく脚色し引用するなど)相手の言葉を正しく理解しようという姿勢すら持ち合わせていないようですし、これ以上議論を続けても意義ある合意がなされるとは思えません。--114.180.157.218 2009年9月27日 (日) 17:49 (UTC)
◆直接の回答ということなら。
  • なぜMidz案が排除されるのか:Midz案は、2009年9月25日 (金) 04:57 (UTC)でMidzさんがおっしゃっていることを反映しているとは思えないからです。過去の書き込みとの整合性、そして、Midzさんが他の案に同意せず、自身の案にこだわる姿勢から、Midzさんが目指すところについて、判然としないところがありますから、どのように対話を進めればよいのかがわかりかねます。Ks aka 98 2009年9月25日 (金) 08:44 (UTC)の問い、
ぼく、あるいはMidz案に反対している人たちとMidzさんは、おおむね同じ方向を向いているけれど、ガイドラインの文章に仕立てる上での文章技術的なところで相違があるのでしょうか、それとも、求めるところが違うのでしょうか。
の意図は、その確認です。
  • 表記ガイドの本来の目的への適合性がどうして評価の基準に上がらないのか:「統一してはいけないケースがあることは明らかですから、どのケースがそれに当たるのかを明確に示す指針を与えることが項目の重要な任務になります。ところがMidz案以外はその任務をまったく放棄しています。何故皆様がそれをまったく問題にしないのかが理解出来ないのです。」とMidzさんは書いています。
Jms「引用、固有名詞、表記そのものへの言及、表記によって含意のあるものの使い分けといった場合にはページ内で異なる表記を用いて構いません」
sergei「異なる表記を使い分けることによって文章が伝えようとするニュアンスがより適切に表現できる場合には、ためらわずそのようにしてください。また、引用文や固有名詞などは統一の対象としません。」

などの記述が、統一してはいけないケースを明確に示していると思うのですが、何故Midzさんが、これらが任務を放棄していると判断しているかが理解できないのです。--Ks aka 98 2009年9月29日 (火) 03:18 (UTC)

Midz さんに質問します。答えていただけなければ、合意に向けた対話を拒否する意思表示と考えます。Midz さんが反論を理解しないのかできないのかはわかりませんが、Midz さんに反論を正面から受け止める気がないことはよくわかりました。しかし、これだけ反対があるのにもかかわらずまだ Midz 案に固執し小修整を繰り返す状況では合意などできるはずもありません。現実的な選択肢としては

Midz 案は全面的に撤回し、sergei 案、小修正案のいずれか、またはそれらに基づいた (しかし Midz 案の要素は全く含まない) 案を作成してそれに改訂する
合意不能であるとして Midz 案も含め改訂案はすべて廃案とし、現行条項のままとする

のいずれかだと思います。Midz さんはこのどちらを選びますか。甲、乙でお答えください。回答しない、あるいは甲乙以外の回答があった場合には、合意に向けた対話拒否により Midz 案取り下げと判断します。投稿ブロックやそれに至るコメント依頼を考えている方もいらっしゃる様ですが、この長い長い議論を読まねばならない様なコメント依頼の準備を考えると、そうした対応をとるよりはこの対応で十分でしょう。それでもなお Midz さんが議論もどきを続けようとするなら、合意の意思なき議論でありウィキペディアの目的外利用と判断して良いと思います。現実的に進めましょう。--Jms 2009年9月27日 (日) 18:25 (UTC)

追記。選ぶとすれば甲乙のいずれを選ぶのか、と Midz さんの意思を問うているのであって、その回答のみをもって甲乙いずれかと「する」という意味ではないので誤解なさいませぬ様。今後議論を進めるにしても、正面から問われた単純な問いに対して、相応の答えを頂けるというところから示して頂く必要がある状況になってしまっていると考えています。対話が成立するのかどうか確認するための質問だとお考えください。--Jms 2009年9月27日 (日) 18:54 (UTC)

  コメントMidz氏の主要な論争相手であるJms氏が本人にMidz案の撤回か廃案しかない選択を迫っています。そんなものに答えようがないだろうし、答えなければ回答拒否で受け入れたとみなすのでしょうか?あまりにも乱暴です。実質Midz氏の発言機会を奪おうとするものです。そのような権利はJms氏にありません。したがってこの質問は成立しません。--みや1229 2009年9月28日 (月) 05:42 (UTC)

これだけ本質的な反対意見があるにもかかわらず、その反対意見がなかったの様に扱う Midz さんの議論の進め方を問題としています。そういう行為がなければ、互いにより良いものを目指してとっくに合意に至れた案件だと思います。回答を求めているのは「どちらか一つしかないとしたらどちらを選ぶか」であって、回答したからといってその通りにするというわけではありません。質問に答えればよいだけのことであって、それが発言機会を奪うことにはならないでしょう。もしこれが発言機会を奪うことになるとしたら、発言の仕方がおかしいということではないかと思います。今まで同様ろくに回答せず誤魔化しと言っても良い対応を続けるなら、そもそも Midz さんには合意しようという意思がないのでしょうから、この議論自体無駄なことです。反論を一つずつ確認しながら検討しようという提案もしましたが、それも拒否されました (まぁ、ダブル/マルチスタンダードだとそれをやられたら論が成立しなくなるということだったのかもしれませんが)。今回の質問は、反論無視または曲解という Midz さんの繰り返された行為の結果です。わたくしとしてもこんな質問をしたくはありませんでしたが、きちんと議論してくださらない割にはいつまでも提案し続ける以上、何らかの対処が必要でしょうし、その意味でこの程度の形式指定はされてもしかたないでしょう。--Jms 2009年9月28日 (月) 05:55 (UTC)
JmsさんがMidzさんの姿勢を受け入れられなければあなたが黙って無視すればいいだけです。--みや1229 2009年9月28日 (月) 06:11 (UTC)
合意に至る議論を妨げる議論参加姿勢ですから、無視するわけにはゆきません (無視して済むならどんなに楽なことか!)。気に入らないから無視ではそれこそ Midz さんと同じであり、そんなことではとても合意には至れないでしょう。それでも、と仰るなら、みや1229さんにお願いがあります。みや1229さんが、Midz さんに、今まで Midz さんが回答していない質問全てに Midz さんに答えさせるとともに、Midz さんが読み間違えたり、なかったことにしようとしている指摘に関してきちんと説明して、Midz さんの適切な反論なり対応なりを引き出してください。それができないから、次善の策として、Midz さんに合意に至る意思があるかどうか、それを合理的な範囲の労力で行おうとしているのかどうか、それを確認しようとしてああいう質問をしたのです。Midz さんがきちんと対応してくださるならそうした質問は必要ありませんから、そうした質問をせずに合意を目指した議論ができる様、みや1229さんが Midz さんを説得してください。なお、Midz さんが揚げ足取りだと思っている反論、指摘は、実はどれも本質にかかわることです。それを揚げ足取りだとしか思えないと意思表示をするから、読解力に疑問を持たれてしまうのだと思います。--Jms 2009年9月28日 (月) 06:19 (UTC)
議論に対する姿勢が主たる理由であるかの様に取られても困るので、補足を兼ねて箇条書きで。
  1. 一方が本質的と考える問題点の指摘が他方にとっては揚げ足取りであることからもわかる様に意識の隔たりは大きく、合意は事実上不可能
  2. 表記の統一を旨とするが例外がある、という点ではどの案も同じ
  3. Midz 案に対しては強い反対があるのに対し、Midz 案の主張は他案よりも優れている、なので、合意がまとまるとすれば Midz 案以外
  4. 従って可能な選択肢は「Midz 案取り下げ、他案による合意」(甲)、か、「どの案にも決着せず、合意不成立につき現行のまま」(乙)、のいずれかであるが、どちらを選ぶか
という事です。で、甲乙いずれかの答えが Midz さんからあったとして、その答えと、実際それでゆくかどうかは別のことです。お答え頂いた後で適当な妥協点が見つかるかもしれませんし。--Jms 2009年9月28日 (月) 08:06 (UTC)
「黙って無視すればいいだけ」ぽか~~~~~ん。無視してたらMinz案を丸呑みしないといけないから無視できるわけがないじゃない。もうこれ以上は罵倒くらいしか言葉が続かないのでこの件に関してはコメントを控えます。--Goki 2009年9月28日 (月) 14:42 (UTC)


「私の質問に正面から答えたものが皆無でした」は事実で、私の質問は

  1. なぜ粗雑な統一をMidz案では防げず、他の案では防げると判断したか、の理由
  2. 表記ガイドの冒頭に掲げられた目的「表記方法に慣習を説明します」への適合性を何故まったく問題にしないのか。

の2点です。 私の見たところでは、1,については言及したものも皆無で、2については「それは目的ではありません」というような反論があるようですが、正面から論じてはいません。それでも「Midzさんが粗暴な統一作業にお墨付きを与えている」というような議論が支配しているようなので、Midz200909270755においてMidz第4次案に統一作業に際して守るべ手順案を付加する可能性を示唆し、その文案を提示しました。これを付加すればMidz案がいかに粗暴は統一作業阻止に有効かを読みとれる筈ですが、こんどは反対者の皆さんは見事にそれを無視して言及もしていません。それはそれに触れればその妥当性を認めざるをえなくなることを恐れているためかと考えています。

そして今度のJmsさんの最後通牒になりましたが、それがものの道理に反する行為であることはみや1229さんのご指摘通りです。

それはとにかくとして、Ks aka 98さまのご批判を考慮して、この度「第5次案」をつくり提示しましたので、ご検討ください。

この話題はここまでとして、以下ではMidz200909250457以後に現れた反対者のコメントについての私の見解を書いておきまます。

Jms200909250553

そこで書かれている「文脈で識別され、使い分けられている表記」と「読んで違和感を感じない表記」とについてはそれらが対応する点とはっきり異なる点について以前に詳しく説明済みです [4]。ここの文章はその2回目の蒸し返しで、以前にすでに一度同じことを述べて同じ「参照」を書いて反論した記憶があります。そしてここでもう一度その説明を無視し、無理に混同してなんとかMidz案が「論理的にあり得ない矛盾を含んでいる主張」であることを印象づけるための書いた文章以外の何物でもありません。

以下でも言葉をつくしてMidz案が検討するに値しない「論理的にあり得ない矛盾をふくんだ主張」であるとしていますが、あとでその差を、Midz案は「辞書の範囲とは言え「文脈」の意味を広くとって表現を「文脈」に統一しようとしているのに対し、すくなくともわたくしは意味をむしろ狭くとって他の表現との区別に意味づけする方向で解釈している」と述べて差の理由はご自分の採った「文脈」の意味の取り方にあることを自認しています。つまりJmsさんは解っていて非難のための非難を最大限の言葉を使って述べているだけです。

Makotoy200909250717

整合しています。私はMakotoyさんの提案「機械的統一編集の抑制」は表示ガイドの目的「表記方法の慣習を説明します」とは異質のものだからここに持ち込むことに反対したので、「取りあえず統一」が私の考えとまったくそぐわないことと関連はありません。なお、この問題に関する私の考えについてはこの度載せた「第5次案」にある統一手順に関する文章を参照してください。

Jms200909250836

議論の記録が膨大になったのはひとえにJmsさんがまともな議論を妨害したためです。特に「内容が理解できない」を頻発してMidz案の検討に入ることを徹底的に拒んで、前半を無為に費消させたのは大きいと思います。その傾向は後半でも変わっていません。

Ks aka 98 200909250844

最初の2つの段落にある粗暴な統一への懸念については、私の第5次案につけた「統一手順」の文章がひとつのお答えになると思います。後半の「文脈で識別され、使い分けられている表記は除きます」は私の意図とは別の読み方も出来る、とのご指摘に応えて、第5次案ではもっと直接的で解りやすい表現をしてみました。ご検討ください。

sergei20090925

「事後的にお墨付きを与える」については、Midz案で挙げられている統一しない理由の「固有名詞」、「引用文」、「表記そのものへの言及」などすべて慣習として確立されているものです。Midz案で新しいのは、それらを文脈をたどって識別し判断するところですが、それ以外に方法がないと言う意味でこれも確立された慣習を事後的に明文化しただけと言えると思います。

114.180.157.218 20090927

表記ガイドの冒頭文は「ウィキペディアの記事における表記方法の慣習を説明します」が目的で、それに続く文章がそれについての補足説明であると言う以外に読みようがないと思います。一体どうお読みになったのでしょうか。

以上、まだお応えしていなかったコメント対し、私の見解を並べました。それでは第5次案へのコメントをお待ちします。 --Midz 2009年9月29日 (火) 02:40 (UTC)

対応する点とはっきり異なる点について以前に詳しく説明済み、とのことですが、もしはっきり異なる点があるならば、過不足なく対応している筈がありません。主観に依存するものと客観的なもの、それが過不足なくかつ矛盾なく対応しているとしたら、主観に依存しかつ客観であるなにものかが存在することになりますが、それは論理矛盾であり、それでもなおそれが可能であるというのなら、主観依存と客観とで判断基準を変えるダブルスタンダードしかありません。それが、文 B の複数解釈の一つを排除する事に表れているわけです。と、説明したところで Midz さんには御理解いただけないのでしょう。さて甲乙選択の問いは、構造的には、現行条項の改訂と Midz 案を押し通すことのいずれにあを優先するのかという、Midz さんの意図を問う問いでもあったのですが、残念ながら直接のお答えは頂けませんでした。しかしながら、第5次案の提案は、乙の前提となっていることであり従って甲ではない、すなわち乙という事になります。Midz さんの目的があくまで Midz 案の承認にあるとしたら、合意など成立しようがありませんから、この議論は全くの無駄です。上でMakotoyさんの提案がなされていますが、それは既に提案され無視された案ですので (北風と太陽効果は否定しませんが)、今さらということもありますまい。第5次案の提案により合意に至り得ないことは明らかですから、これ以上議論を続ける価値はないでしょう。もし、それでも議論を続けるべきだとお考えの方がいらっしゃるなら、Midz さんに今までの反論に対して一つ一つきちんと回答させてください。その労力を払う人がいないなら、現実問題として合意不可能であり、従って改訂もあり得ません。甲乙の選択でこの点を認識していただけなかったのは、極めて残念ですが、現実を受け入れるしかないでしょう。これ以上の継続は、リソースの無駄でしかないと思います。現行規定で困る具体例が生じたら、また改めて議論しましょう。--Jms 2009年9月29日 (火) 11:40 (UTC) 表現訂正 --Jms 2009年9月29日 (火) 16:34 (UTC)

こちらでも直接答えておきましょう。

  • 1.Midzさんの文案は、「ページ内で表記は統一します」ということが強調されます。ガイドラインとしては、積極的に統一しましょう、と読み取れるものです。そこで、「理由があって使い分けられていることが文脈から判る表記」は、除外されます。まず、既に述べたとおり、その語の意味や表記の違いが意味することを知らず、文脈からしか判らないなら統一するべきではないと考えます。統一という作業そのものは、比較的簡単な、機械的な作業ですから、ガイドラインが統一を求めるならば、統一をしてウィキペディアに貢献しようと思う人はいるでしょう。しかし、そう思う人が、ある記事において、その表記が「理由があって使い分けられていること」を理解できるとは限りません。そのような統一は、「粗雑な統一」であり、Midz案は、この統一を明文で許容します。
  • 2.引用文や固有名詞を除き、原則として統一するという方向性を持ちながら、意見に分かれのある個々の表記については、ノートなどで議論を行い、用例や原義を調査するなど、それぞれの根拠を示し、合意の上で適切な表記法を選択するというのが、ウィキペディアの慣習です。Jms案、sergei案ともに、慣習を説明しています。--Ks aka 98 2009年9月29日 (火) 18:23 (UTC)

真似して一応答えておきます、答えていないという事実とされても困るので。

  1. Midz 案では表記を統一するかどうかが違和感の有無、Midz 説によれば使い分けに意味づけする文脈をとれるかどうか、に依存していますが、文脈のとりかたには違和感の基準同様の恣意性があります (このことを文 B について示しても Midz さんは理解しない様ですが、それはダブルスタンダードを採用しているからでしょう)。Midz 案ではこの恣意性についての配慮がなく、以下 Ks aka 98 さんの説明同様、「粗雑な統一」を許容しています。一方、他の案ではそうした規程がないため、都度議論検討が求められます。
  2. Midz 案の、表記ガイド冒頭文への適合性を問題としない理由はすでに述べました。適合性以前の問題です。それについて、正面から論じていないとお考えなのは、他の人とあまりに違う方向を見ているからでしょう。

「Midz案がいかに粗暴は統一作業阻止に有効かを読みとれる筈ですが、こんどは反対者の皆さんは見事にそれを無視して言及もしていません。それはそれに触れればその妥当性を認めざるをえなくなることを恐れているためかと考えています。」と想像なさるのは御自由ですが、それまでに指摘されていることを理解せずに別の言い方で述べただけであり、指摘に対する解決にはなっていないので言及していません。いくら文を付け加えても、元々の文にある矛盾が消えてなくなるわけではありませんから。以上回答のみ、提案者に自説以外を受け入れて合意改訂する意志がないので、議論はしません。--Jms 2009年9月29日 (火) 18:54 (UTC)

「提案者に自説以外を受け入れて合意改訂する意志がない」ここがMinz氏の問題なんですよね…。本人は反対者はすべて敵だと思ってる節がある。(以下些末)全角数字は使い続けるし、提案意図に変化がない文章の変更すら応じない。頑固にもほどがあります。--Goki 2009年9月30日 (水) 03:48 (UTC)
またまた「Midz案は粗雑な統一を許容している」とのことで私の見解にたいして数倍の長さの「反論」がなされていますが、それが一般の人を納得させる内容を持つとは思えません。そこで改めて私の見解を述べます。
  • 表記ガイドの冒頭文で「この表記ガイドでは、ウィキペディアの記事における表記方法の慣習を説明します」とあるのがここでの議論の基本であることは明らかだと思います(これにも異論はあるようですが)。そしてその各項目が慣習内容を出来るだけ具体的に示して、大部分はそれを読んだだけで一意的に判断・選択が出来るように記述されています。ですから例えば「原則として」のように例外を認める語句はなるべく使わず、もしも使うときはそれに続けてその「例外」をきちんと説明して、全体を見ればやはり一意的に答が出るように記述してあります。この方針にもっとも忠実なのはMidz第5次案で、Jms案はいずれも「原則として」での例外の扱いは利用者に一任しており、sergei案は精神訓話だけに終始し、「統一」での例外の具体的描像さえも与えていません。これだけ除外ケースの数々がはっきり判っている現在、それを利用者に伝えないのはガイドラインの任務を最初から放棄しているものと考えます。
  • 第5次案の「ページ内では表記は統一します」は世間一般の慣習であり、ウィキペディアでも慣習であることを大原則として淡々と述べたものです。そして「ただし文」によってその除外ケースを明示して、それらは統一の対象にならないことを明確に述べています。除外ケースはほとんどこれで尽きていますから(もしも重大な見落としがあればいくらでも変更できます)、多くの利用者はすぐに混在の妥当性を判断出来、ガイドラインは目的を達します。しかも手順条項が付加され、統一を実行する前に慎重な検討が求められていますから、統一に対するハードルがかなり高く設定され、規定に忠実な人ならば、表記の意味を理解しないて統一しようとはとても思わないでしょう。それに対し、規定を忠実に守る意志のない人ならば、Jms文では「原則として」という曖昧な規定に乗じて気ままな統一を実行する恐れの方がはるかに大きいと思います。そのような人がその都度議論検討をするとはとても思えません。
以上、反対者の反論中の主な論点に対し、私の見解を述べました。Jmsさんはいくら条理をつくした説明をしてもそれを無視して同じ非難を何回でも蒸し返しています。外部の方の公正なご意見を頂けると幸いです。--Midz 2009年9月30日 (水) 04:02 (UTC)--Midz 2009年9月30日 (水) 04:26 (UTC)(小補正)
Ks aka 98さんの反対意見を読んでもなおそう言うこというの?
あと、「外部の方の公正なご意見」って有体に言えばMidz案に賛同する意見だよね。--Goki 2009年9月30日 (水) 06:23 (UTC)
  コメント 外部……というか、外野から(議論内容に言及する気はありません)。議論に参加されている皆さんは、現在の本ノートの容量を確認していただけますか。あまりに肥大化すると、編集そのものに支障が出る場合があります(ブラウザにもよると思いますが、こんなケースがありました)。はたから見ていると当分合意は形成されそうもありませんから、中間まとめを作成するなりして、過去ログ化を検討していただけないでしょうか。-- 2009年9月30日 (水) 09:00 (UTC)
仰ることはよくわかるのですが、どのタイミングでどの部分を過去ログ化するのが良いのか判断しかねています。どの部分を、いつ過去ログ化すべきか、アイディアをいただけますか。これまでの議論に関与していない方の意思表明が結構影響大だと思っています。--Jms 2009年9月30日 (水) 09:57 (UTC)

案:1 学術用語/5 表記の統一関連文言改訂提案/6 表記の統一関連文言を旧の文に戻し原状回復する提案/7 議論の仕方について までをサブページで過去ログ。ここで議論継続または別途 10 「表記の統一」項目の独立と新ガイド文の提案/11 引き続き「表記の統一」について、記述する場所のことも含めての議論 もサブページ化してそっちで議論継続--Ks aka 98 2009年9月30日 (水) 10:18 (UTC)

なるほど、サブページ化は考えていませんでした。残念ながら議論継続というのに全く賛成できないので実作業は致しかねますが、かかる作業について反対もしません。--Jms 2009年9月30日 (水) 10:34 (UTC)
ガイドの文案を考える議論を終始させるための「議論」を行なう必要がある。11 あたりまでを過去ログ化してからそれをするのは適切ではないと思うんだが。midzさんの反対がなければ作業はやります。--Ks aka 98 2009年9月30日 (水) 10:41 (UTC)
Ks aka 98案によるサブページ化に賛成します。外部の人の目に付きにくくなって第三者のご意見が頂きにくくなりそうなのは残念ですが、これだけ膨大な記録が居座っていては周りへの迷惑が大き過ぎますから仕方ないでしょう。よろしくお願いします。 --Midz 2009年9月30日 (水) 12:40 (UTC)

◆(Midz氏へ)他に読みようがないとのことですが、以下の問いについて御検討いただければ他の(正しい)読み方にも気付いていただけるでしょう。

Q1)以下の例文において記述された「目的」は何でしょう。
(例文1)「明朝東京本社で行われる会議に出席するため、今夜最終の新幹線に乗ります」
Q2)同様に下記の例文ではどうでしょう。
(例文2)「今夜最終の新幹線に乗ります。明朝東京本社で行われる会議に出席するために」
Q3)上記2件の例をふまえて下記の例文ではどうでしょう。
(例文3)「この表記ガイドでは、ウィキペディアの記事における表記方法の慣習を説明します。ウィキペディア全体の表記の一貫性を目指し、コンピュータ上で作られる文書であることに配慮しながら、印刷物の慣行に近づけることを意図して」
Q4)ここまで書けば御理解いただけるとは思いますが念のために。
(例文4)「この表記ガイドでは、ウィキペディア全体の表記の一貫性を目指しコンピュータ上で作られる文書であることに配慮しながら印刷物の慣行に近づけることを意図して、ウィキペディアの記事における表記方法の慣習を説明します」

IP変わっていますが114.180.157.218です。--218.222.45.34 2009年10月1日 (木) 02:53 (UTC)

例文4でも原文とおなじく、「表記方法の慣習を説明します」が目的で、その冠文は補足説明です。「慣習を説明して、執筆の際の具体的指針を与える」という目的には変わりはありません。 --Midz 2009年10月2日 (金) 06:37 (UTC)

書き換え 編集

sergei案をベースに議論するという案が出ています。他方、Jms案にはみや1229さんも同意いただいていますから、これがもっとも多くの意見を反映しているともいえます(ただ、「ウィキペディア全体での統一にばかり固執すべきではありません。」よりは「ウィキペディア全体での表記の統一には固執しないでください。」のほうがよさそうです)。

このいずれかで、大きな問題がなければ、それで書き換えることにして、議論を収束させたいと思いますが、いかがでしょうか。--Ks aka 98 2009年10月2日 (金) 10:28 (UTC)

私はかまいません。--Goki 2009年10月2日 (金) 10:38 (UTC)
◆たとえ例示のためとはいえ「『ジプシー』に統一する」などと言えてしまう(全く何もわかっていないのならともかく、ロマに目を通した上で言っているんですよね?)と表記をめぐる議論をこれ以上続ける必要を全く感じませんので、収束へ向けて話を進めることに諸手を挙げて賛成します。私の案をベースにいくけれど細かい修正が必要、ということになれば柔軟に対応させていただきますし、Jmsさんの案の方が合意が得られやすければそうすることに全く異存ございません。一応言っておくと現状維持でも異論はありません。--sergei 2009年10月2日 (金) 17:48 (UTC)
あれには今更ながら驚いたというか、むしろ確信が持てたというか。 sergei 案の冒頭文改訂はなかなか良いと思っています。「その他」のままコンパクトにゆくなら、冒頭文 sergei 案 + 小改訂案' w/ 「には固執しないでください。」という合わせ技はもありかと思います。節を分けるなら、sergei 案の方が良い (但し文案はもう少し練った方が良さそう) と思います。議論を収束させること自体について強い反対が出て合意が成立しないのではないかという危惧がなくもないのですが、その場合は現行のままでしょうか。--Jms 2009年10月2日 (金) 18:15 (UTC)
(賛成)賛成です。どうもこの場での全会一致は望めそうにないですが、Midzさんの反対を押し切ってJms案またはsergei案にするだけの正当性は成り立っていると思います。Midzさんがそのようなやり方にどうしても不満であれば、この場の他の議論参加者と不毛な話し合いを続けるよりも、ご本人が切望されている外部の意見を聞くためにもコメント依頼を出してもらうのがよいでしょう。MidzさんがJms案とsergei案のどちらかなら受け入れられる、という意思表示をされればそれを尊重するといいと思いますが、それもかなわないようなので残りの参加者で多数決でよいと思います。Jms案については以前Nekosuki600さんとみや1229さんも同意されているようなので、改めて決を採る労を省略するならそちらにする方がいいと思います(どちらかを主体にしてもう一方を適宜マージするのでもいいとおもいます)。どうするにしても、これだけ紛糾した話なのだということがわかるように(+ 目的・背景の説明の補足として)このページへのポインタを含めるようにするといいんじゃないでしょうか。--Makotoy 2009年10月2日 (金) 18:35 (UTC)
長引いたのは事実ですが、原因は主として議論の進め方にあって、ポインタを含めに足る内容があったのかどうか疑問です。結局のところ指摘されている問題点を提案者が理解せず、理解しないまま反論した気になって問題点の改善されない提案を繰り返した、ということではないでしょうか。論点を抽出してまとめれば補足説明とはなるかもしれませんが、「坊主憎けりゃ」を提案者本人が否定しないところを見ると、怨恨が主因だった可能性すらあります。--Jms 2009年10月2日 (金) 22:32 (UTC)

(反対)今の段階でJms案ないしsegrei案に書き換えることにはっきり反対します。理由はそれは両者がガイドラインの理念に反するからです。そしてそれも他に案がなければやむを得ないかもしれませんが、その理念に忠実に沿ったMidz第5次案(以下では単に「Midz案」と書きます)があるのに、それを無視して書き換えることは妥当ではないと考えるので反対します。

ガイドラインは「常識を明文化し、執筆に当たって具体的指針を与える」べきものと考えます。またいつもの伝で「そんなこと合意されていない」と反論が出るかも知れませんし、確かに「Wikipedia:ガイドライン」というものもなく、理念が明文化されていませんが、それでもこれが一般のウィキペディア人が共通に持っていて執筆に役立てている理念であることは間違いないと思います。

反対派の皆様と私とのもっとも大きな差は、このガイドラインの考え方の差にあるように思います。私にとってはガイドラインはウィキペディア記述の要で、出来るだけ守ってウィキペディアの統一ある記述に協力すべきものです。ですからガイドラインは出来るだけ安定に保ち、軽々しく手をつけるべきものではなく、もしも不都合があると感じれば出来るだけ多くのウィキペディア人の意見を集めてそれを総合して改訂を行うべきものです。それに対して皆様にとってはガイドラインは自分の説に都合がよければ従うが、さもなければ無視する、さらには自分の都合に合わせて出来るだけ簡便な手法で書き直すべき軽い存在であるようです。 そのもっとも端的な現れは、井戸端での議論においてなされた[5]「『Wikipedia:表記ガイド』は基準にならない」というキャンペーンです。その根拠は、Jmsさんが2つのガイドラインがある例で矛盾する結果を与えることを示した、ということでした。しかし、それは単にJmsさんが一方のガイドラインを読み間違えていたための結論で、正しく読めば矛盾はないことを示してけりをつけました。そしてその後、現存の表記ガイド「その他」の統一に関する条文ではどうしても自分の説が成り立たないことから、今回のJmsさんの改訂となったものです。そしてそれでも不十分ということで、今では表記ガイドの冒頭文の書き換えまで計画されています。これはウィキペディア全体にとってきわめて憂うべき情況に感じます。

以上総じて、反対派の皆様はガイドラインを軽く見すぎているように感じます。

以下では第5次案にいたる考えの列を基礎からまとめておきます。

  • まず、ひとつの文章内では同じ意味・内容の表記は統一して欲しい、というのは一般の普遍的意見であることは間違いないと思います。誰でも「関数」と「函数」が無原則に混在している文章は読みづらいから止めて欲しいと思うのが自然でしょう。
  • それだからと言って、それを直ちにウィキペディア全部に及ぼすことは、その前に「表記の意味合い」やさらに心情的近さまで考慮してどれが適当かの難しい議論をして合意せねばならず容易ではありません。そこでMidz案では「ページ内で表記は統一します」としています。これには次の背景もあります。それはひとつのページ内での異表記の混在は読みにくいが、異なるページで表記が異なっていてもそれほど気にならないことです。これは数学雑誌で隣り合った論文が片方が「関数」を、もう一方が「函数」を用いていても各々の論文を個別に読む限りは気にはならないだろうというのと同じ事情です。ですからそのページを創設するときは執筆者の好みで「関数」か「函数」かいずれか一方を使って書いてもそれほど弊害は起こらないという考えです。
  • ところでページ内で表記を統一しても、常識から考えて当然統一から除外すべきものがあります。それは「固有名詞」や「引用文の中の表記」などきわめて明らかなもののほかにも「表記そのものへの言及」と言ったものがあります。ところでこれらに共通するものは「表記は統一されているのが当然」とする感覚の持ち主でも「常識で考えて当然」、したがって「読んで違和感を感じない」という異表記の存在です。ですからガイドラインの条文ではこれらが統一の対象から除かれることが明記されるべきです。そしてこれら「表記は統一されているのが当然」と考える人が、異表記の存在に「違和感を感じない」とすれば、当然その理由があるはずで、文章を全体としてよく読む、つまり文脈をたどればその理由を見つけることが出来る筈です。それがMidz文で「理由があって使い分けられていることが文脈から判る表記は除きます」と書いたことです。そしてそれら使い分けの理由は少数の類型に集中していますから、その類型をいくつか並べておけば、大多数はそれを参照するだけで指針が得られます。それがMidz案の除外する理由の列挙です。でもこの中に入っていないが「違和感は感じない」ケースに遭遇するかも知れませんので、その時は改めて文脈に戻って理由を慎重に考えることになります。表記の統一が問題になる現場ではこの除外ケースの判定がきわめて重要であることは論を待たないと思いますが、Midz案以外の諸案ではそれがまったく無視されるか、きわめて不完全にしか対応しておらず、「具体的指針を与える」というガイドラインの任務を放棄しているものと考えます。
  • Midz案の「なお、ウィキペディア全体での統一には過度にこだわる必要はありません」は、もしもそのページ以外での表記との整合性に過度にこだわれば、「どの表記が適当か 」という果てしない論争に巻き込まれて肝心のページの執筆がおろそかになる恐れがありますので、それを防ぐための老婆心切の条文です。その意味を表すのには Jms改訂以前の原文にもあったこの文章がもっとも適切と考えます。
  • つづく手順条項は「粗雑な統一」に対する危惧に応えるものです。これは表記ガイドとちょっと異質な文章ですが、「粗雑な統一」に対する障壁として充分有効なものと考えます。

以上により、Midz案は表記ガイドの理念にもっとも忠実な案で、利用者の必要に応じて具体的指針を与えているという点で、その外形と共に表記ガイドの他の項目ともっともよく整合しています。よろしくご理解ください。 --Midz 2009年10月3日 (土) 05:04 (UTC)

Midz さんの主張する以下二点はいずれも事実ではありません。
  • それは単にJmsさんが一方のガイドラインを読み間違えていたための結論で、正しく読めば矛盾はないことを示してけりをつけました。
  • そしてその後、現存の表記ガイド「その他」の統一に関する条文ではどうしても自分の説が成り立たないことから、今回のJmsさんの改訂となったものです。
前者は、Midz さんがそう宣言しているだけのことで、反論矛盾がないという主張への疑義に対してMidzさんは対応していません。後者は、時系列と関連議論を追えばわかることですが、全くのいいがかりです。この二点を Midz さんは繰り返し主張なさっており、都度事実でない事を指摘しておりますが、またそれが登場したことは、今回の改訂提案が思いこみに基づく言いがかりと個人的怨恨に基づくものであることを端的に表していると考えます。改訂に反対意見が出ましたので、改訂せず現行のままとしましょう。--Jms 2009年10月3日 (土) 05:18 (UTC) 編集ミス修正一応--Jms 2009年10月3日 (土) 11:02 (UTC)
第1項はそれが事実であることは私の指摘[6]に続く議論の経過を見れば明らかです。
第2項は改訂の日付7月4日と、改訂文で導入した「原則として」をさっそく拡張解釈して行った議論[7]の日付7月5日とをみれば無関係にしてはタイミングがよすぎ、そのような議論を展開するために予め準備したと考えざるを得ないように感じます。
そのような保身にきゅうきゅうとした議論よりも、Midz案の考え方のまとめに対する説得力のある反論があればご呈示ください。 --Midz 2009年10月3日 (土) 07:45 (UTC) --Midz 2009年10月3日 (土) 08:34 (UTC)(小加筆)
保身の必要などありません、事実を指摘し、繰り返される言いがかりに抗議しているのです。第1項が事実でないのは、「関数」が「函数」に対する当て字表記でしかないことから明らかです。第2項に関しては、時系列が近接していることをもって目的だと判断する理由にはなりませんし、実際函数か関数かの議論の論拠することを目的としていたのではなく、たまたまその議論を通じて気付いただけのことです (実際、表記ガイドの改訂提案については早い時期に言及しています) ので、言いがかりでしょう。Midz案やその前提について問題点はすでに繰り返し指摘しており、Midz さんはそれを理解しないこともわかっていますので、繰り返しません。反論には説得力がありますが、それを理解しない Midz さんに対しては効果がないというだけのことです。とにかく、事実でないことをあたかも事実であるかの様に書くことや、想像だけに基づいて言いがかりをつけるのはやめてください。そうした行為が繰り返されることに断固抗議します。--Jms 2009年10月3日 (土) 08:40 (UTC)
  賛成 「原則として」の表現がひろげてしまう例外を補足することが課題ですがMidz氏のご主張のように様々な場合を網羅しようとすることは理想でしょうがいまは合意形成に至るのは困難なためJms改定案をベースとしたKs aka 98案への書き換えに賛成します。--みや1229 2009年10月3日 (土) 08:03 (UTC)
  賛成 Ks aka 98さんのご提案に賛成します。あと、あまりこういうことは言いたくありませんが、MidzさんおよびJmsさんにお願いです。できればいずれかの会話ページなりコメント依頼なりへ、場を移していただけないでしょうか。-- 2009年10月3日 (土) 09:50 (UTC)
お申し出は非常によくわかります。が。コメント依頼して解決する問題でもないでしょうし、会話ページでも解決しないでしょう。うーん。…芸風と思ってあきらめることにします。以後、事実でないことが書かれていても指摘しません。なんだかなぁ。--Jms 2009年10月3日 (土) 10:07 (UTC)
郁さま。お気遣いいただいて有難うございました。私の方は他の人の誤解を避けるために、Jmsさんの挑みに応えていただけですが、私の主張も上に載せて後の人にも見て頂けるようにして、いちいち応えなくてもまともに理解して頂ける基盤はできたと思いますので、これからは挑まれても黙殺します。有難うございました。 --Midz 2009年10月4日 (日) 06:09 (UTC)
Midz氏とJms氏の論争の第2項は「原則として」の解釈をめぐるトラブルであり、これがきっかけとなり改定議論が起きました。そして、いまKs aka 98案への書き換えによりそのような解釈の違いは概ね回避できるようになります。Midzさんはこのような現実的な進歩を受け入れてはいかがでしょうか?--みや1229 2009年10月4日 (日) 12:31 (UTC)
みや1229さま。お気遣い有難うございました。ただ問題は「原則として」に関するトラブルではなく、ガイドラインの理念に関する意見の差です。私はガイドラインはウィキペディアの要で軽々しく改訂すべきものではないと考え、また「表記ガイド」については目的の「表記方法の慣習を説明します」にしたがって出来るだけ具体的に執筆のための指針を与えるものだと考えていますが、反対派の皆様は必ずしもそうではないようです。そしてKs aka 98さまの案も、結果の文章が明示されていませんが、具体的指針を明示的に与えるものにはなっていないようです。そして私はこれはガイドラインの理念に反すると思うので反対しているのです。今はどうも数の力で押し切ってしまおうとする方向にあるようで、私が反対を表明しても無益かも知れませんが、私の方から妥協する何のいわれもなく、後々のためにもこういう正論を貫いたものがいたことを記録に残すことは意味があろうと考えています。
ガイドラインと本項目との関係を論ずるとすると、Jmsさんの改訂について検討することが欠かせません。Jms 改訂以前の原文は
  • 「表記はページ内で統一します。ウォキペディア全体での統一には過度にこだわる必要はありません」
というものです。これは世間一般の「表記は一般に統一することが望ましい」という通念を述べて、その運用はすべて利用者の「常識と善意」に委ねたものです。そしてこれで何のトラブルもなく運用されていました。それをJmsさんは、「これでは厳密には常識の範囲内の異表記混在まで統一しなければならなくなる」として、条文を厳密に運用する、いわば「法治主義」への転換を唱え、外れるケースの救済策として主文の頭に「原則として」を挿入しました。
しかしこれは非常におかしなことです。それは「常識と善意」による運用は曖昧だからといって、さらに曖昧な内容の「原則として」挿入で片づけたことになるからです。もしも「法治主義」への転換を図るのであれば、表記ガイドの他の項目と同じように、利用者に執筆に際しての実際的指針、すなわち統一しないケースについての具体的指針を与えるように整備しなければなりません。
そして「法治主義」への転換のひとつの欠点は、条文の語句が一人歩きして運用が解釈ひとつで左右され、たとえ詭弁であっても解釈出来さえすれば何をしても構わないことになって、従来ならば「常識」の範囲で行われていた運用をいくらでも逸脱することです。そのひとつの現れが、数学分野のローカルルールにある「項目内で --- 関数と函数が混在しても構わない」という条文が、Jms文では「原則として」が例外の存在を認めているのであるからJms規則の範囲内である、との論証です。(お断りしますが、私はこのローカルルール自体は緊急措置として賛成しています。)
これに対し、Midz案は表記ガイドの理念に忠実にしたがい、「原則として」という曖昧な語句を省き、肝心の「除外ケース」について具体的指針を与える構造になっています。
ここでひとつ別の話題を提供します。それは多くの皆様が「表記統一の除外ケースを網羅的に扱うなんて出来る筈がない」と固く信じ込んでおられるらしいことです。そして、だからMidz案には必ず欠陥がある筈で、いくら優位性を示されても支持できない、と考えておられるようであることです。確かに「固有名詞は除外する」、「引用文内の表記は除外する」と思いつくままに出していくだけでは、いくら並べてもそれで全部を尽くしている保証はなく、網羅的に扱うことは無理でしょう。しかし発想を変えればまったく別の世界が見えてきます。
それは問題の根源に立ち戻って、『一体、除外ケースって何だろう』から考えることです。するとJms改訂もそこから出発した「常識では当然と思われる異表記の混在」ということになります。つまり「読んで違和感のない異表記の混在」です。そして「読んで違和感がない」とは何を表すのだろうかと考えて、それは文章をよく読んでみて、すなわち前後の文脈をたどってみて、それらが理由があって使い分けられていることが納得出来ることだと解ります。こうして「違和感のない」というきわめて主観的な基準が、「使い分けられている理由がきちんと説明出来る」という客観的基準に変換されます。そうした後ではこの、「理由があって使い分けられていることが文脈から判る」を新しい基準に選ぶことによって客観的基準により除外ケースかどうかが判断できることになります。もちろん中には特異な感覚の人がいて、ある文章にほとんどの人が違和感を感じても『オレは感じない』と頑張ることもあるでしょう。しかしそうした人がまれに居ても、この基準はほとんどすべての人に適合した基準を与えるという意味で、その価値を少しも減じません。それがMidz案の立場です。
問題は具体的文章ひとつを出して違和感を感じるかどうかを訊けばほとんど一致した答を得るにもかかわらず、ただ観念的に『網羅的に扱うなんて出来る筈がない』と思い込んでいるらしい人が多いことです。事実、それを明確に表明した人もいますし、最近のやりとりでこの人までそう思っているらしいと判ってちょっと驚いた場面もありました。しかし、これは平明な議論ですから、思い込みさえなければすぐに解ることです。今は時間と共にそれを解ってくれる人が増えて、Midz案の理解も進むことを期待しています。
以上、ながながと私の立場と考えを述べてきましたが、ご参考にして頂ければ幸いです。 --Midz 2009年10月6日 (火) 04:42 (UTC)
こんなことはわざわざいうまでもないことなんですが、Midzさんの理解力に合わせてもう一度説明して上げます。私って親切ですね。
「ガイドラインは『常識を明文化し、執筆に当たって具体的指針を与える』べき」(2009年10月3日 (土) 05:04 (UTC))というのはMidzさん個人の信念に過ぎないのであって、コミュニティの間で共有されているものではありません。この案件は既に複数回にわたってコメント依頼が提出され、お知らせにも告知されていますし、井戸端でも大騒ぎしていたのでコミュニティへの告知は十分過ぎるほどなされています。ですから関心のある人は議論の経過を追跡していることが確実な状況なのですが、それにも関わらずMidzさんの意見に積極的に賛成する人は現れていません。ということは、「これが一般のウィキペディア人が共通に持っていて執筆に役立てている理念である」というのは全く事実ではないということです。Midzさんは繰り返し「一般の人」という言い方を用いていますが、このことからわかるのは、Midzさんの認識が一般の人の感覚からはかけ離れている、ということにほかなりません。Wikipediaは参加者個人の信念を演説するための場所ではない、ということをもう一度確認して下さい。
Midzさんがもう一つよく用いるのが「外部の方」という言葉で、これが何を意味するのかよくわからないのですが、関数/函数問題には関わっていなかった人、ということを意味するのなら、そういう方たちからもすでに多くの意見が寄せられています。もし読み飛ばしているのだったら以下のようなコメントを改めて読み直して下さい。
「違和感のない並存」という説明が例外を過不足なくカバーしているというのは誤りです。黒い瞳における「ロマ」と「ジプシー歌謡」の並存は常識的にはかなり違和感のあるものです。書いた私自身が違和感を覚えながら文章を捻り出したくらいですから。これは近年ではロマの呼称の方が望ましいという認識が広まりつつも、一般的にはまだまだジプシーを用いる人が多いという現実を反映したもので、中立的な観点等を考慮して百科事典として妥当な表現をしようと思えば、どうしても非常識な文章にせざるを得ないのです。
このケースでの表記の使い分けの妥当性を判断するためには、最低でも以下のような知識が必要になります。
  • この民族の呼称として、従来から「ジプシー」が広く用いられてきた。
  • 近年では「ロマ」の方が望ましいという認識が広まってきているが、一般的にはまだまだ「ジプシー」を用いる人が多い。
  • 特に音楽分野では今でも「ジプシー○○」という用語が広く使用されており、「ロマ歌謡」という用語はほとんど見られない。
こうしたことは黒い瞳の項目自体には述べられていません。ということは、これらの表記の使い分けの妥当性は、この文書内部の文脈からは判断できないということです。「前後の文脈をたどってみて」も、「それらが理由があって使い分けられていることが納得出来」ず、この文書自体には述べられていない外的な知識がどうしても必要になるのです。Midzさん自身が2009年10月4日 (日) 05:24 (UTC)の説明で、「記事『ロマ』により『ロマ』が『ジプシー』よりも優位にあることを認めた、として話を進め」ざるを得なかったという時点で文脈説は破綻しているのですよ。
さて、この件はMidzさんが2009年7月8日 (水) 03:59 (UTC)に原状回復の提案をしてからすでに三箇月が経とうとしているのですが、「それを解ってくれる人が増えて、Midz案の理解も進む」まであとどれくらい待たなくてはならないのでしょうか。Ks aka 98さんの収束提案に賛成する方が、これまで議論に加わっていなかった方も含めて続々と現れていて、Midzさんの意見に比較的理解を示していたみや1229さんからも「現実的な進歩を受け入れてはいかがでしょうか」という諌言がなされるようになった現状を見れば、そんな未来がいつかやってくるとはとても思えないのですが。私にはそういうベケット的な不条理を受け容れる心の準備は全くできていませんので、できれば早く終わらせてもらいたいんですけどね。--sergei 2009年10月6日 (火) 10:18 (UTC)
まず結論を述べてからsergeiさんの議論に対する私の見解を書きます。
Ks aka 98さまの書き換え案の文章は具体的に示されていませんが、それがJms文のどれかを少し書き換えたものというのであれば、それが表記ガイドの理念に相応しくないという意味で反対です。 しかし、これだけ論議されたあとでは「原則として」もこれからはもう嘗てあったような無茶な拡張解釈をされることなく、「常識と善意」にしたがって除外ケースを許容するというJmsさんが改訂の名目とした目的に限って運用され、弊害を生じないですむことを期待して、私も書き換えを「許容」することにします。、
以下、sergeiさんの議論についての見解を述べます。 最初のガイドラインの理念について、これがコミュニティで共有されてないとすると、皆様はガイドラインをどういうものと考えられているのでしょうか。 少なくともこれに反対する意見は一般にはなく、この理念にしたがってガイドラインの条文を考えることに反対する人は居ないと思います。
ご指摘の「外部意見」について、ひどい意見もあるなかで考慮すべき意見もありますが、いずれも私の議論の核心をついておらず、参考にさせていただきますの段階です。
「「違和感のない並存」が例外を過不足なくカバーしているというのは誤り」という意見は初めて見ましたが、それ以外にどんな除外ケースがあるのでしょうか。「ロマ」と「ジプシー歌謡」との併存についてのMidz案による解決、つまり「ジプシー歌謡」は複合語で、「複合語は一般に要素の連結を超えた意味内容をもっているから、一般には要素は統一の対象にならない」は適切であると思います。この場合ももしも「ジプシーの歌謡」というのであれば違和感を持ち、Midz案によれば統一の対象になるかどうか慎重に考えることになるでしょうが、「ジプシー歌謡」はこれとははっきり違ったニュアンスを持つ複合語なので、この要素「ジプシー」を統一することはない、ということです。 なおこの問題に関しては「複合語」と「派生語」を区別することが肝要です。後者は記事「ロマ」にはあまり適切な例がありませんが、平凡社『世界百科事典』(1955年)の項目「ジプシー」にある文章「移動ジプシー定着ジプシーにくらべて体質的・文化的に純粋で---」の中にある二つの言葉は適例で、この文章が記事「ロマ」の中にあれば当然「ジプシー」は「ロマ」に統一することになるでしょう。とにかく「黒い瞳」を執筆するに当たってsergeiさんが真面目に努力されたことは認め、尊敬しますが、そのこととここの議論とは無関係です。
お説の「「記事『ロマ』により『ロマ』が『ジプシー』よりも優位にあることを認めた、として話を進め」ざるを得なかったという時点で文脈説は破綻している」にいたっては、「文脈説」を何とか破綻していることにしてMidz案を葬りたいとする願望の現れ以外の何物でもありません。上記は記述を短くするために行ったものにすぎません。実際いまは『ロマ』と『ジプシー』との関係が問題なのですから、記事「ロマ」を参照するのは当然でしょう。それに本当はその参照は必要ではなく、記事「黒い瞳」の内部だけでページ内での「ロマ」の優位性は簡単に論証できます。それはまず最初に「ロマ(ジプシー)」という書き方で執筆者が「ロマ」を優位表記であると想定していることが明らかであること、そして一般的用法である2箇所のいずれにも「ロマ」を用いることでその想定をさらに押しすすめていることから解ることです。ですからそのページ内での統一論議で「ロマ」を優位表記とするのは当然のことです。ただ以上の記述は記事「ロマ」を参照するよりもはるかに長くなるので、続く話の緊張がほどけるのを嫌って避けただけです。いずれにしても、Midz案による記事「黒い瞳」の分析には何の問題もありません。
かくして Ks aka 98さまの出された「黒い瞳」テストを難なくクリアしたことで、Midz案の信頼性と能力評価はさらに高まったと思います。そこから先の他の案との優劣の比較は、ガイドラインの理念をどう考えるかに依存します。もしも、「除外ケースは網羅的に扱える筈がないから具体的指針を与えることは不可能だ」という神話に固執するならば、残されたもっとも適切な方法は、Jms改訂以前の原文に戻って運用は利用者の「常識と善意」にすべて委ねることでしょう。 ただ、これだけの論議のあとでは「原則として」も本来の除外ケース許容のため以外に「活用」されることのないことを期待して、Ks aka 98提案を「許容」することにしたのはこの文の冒頭で述べた通りです。 --Midz 2009年10月8日 (木) 04:44 (UTC) --Midz 2009年10月9日 (金) 00:48 (UTC)(補筆と推敲)
◆(賛成)Ks aka 98さんの提案を支持します。Uryah 2009年10月3日 (土) 21:52 (UTC)
  賛成 おつかれさまです。多数決としての意味がある「賛成」とは思っていませんが、収束に向かわせる方向性以外ないでしょう。むしろ現状維持でも構わないと思いますが。こことかこれとか、読んでもないんだろうな…--baku13 2009年10月5日 (月) 00:51 (UTC)
(コメント)Wikipedia:編集方針「多様な参加姿勢が受け入れられます」については取り様によっては「Minz案を受け入れてもいいじゃんか」とか「和暦のテンプレ作ってスタイル決めウチにしてばら撒いてもいいじゃないか」とか言う意見も通せと受け取られかねないから難しいよね。--Goki 2009年10月7日 (水) 14:11 (UTC)
(賛成)ご提案につき、私には特段の問題を感じません。賛成します。--Su-no-G 2009年10月7日 (水) 04:51 (UTC)
ご提案は容れられたということで、議論の収束へ進めてください。Ks aka 98 さんよろしくお願いします。--Su-no-G 2009年10月8日 (木) 05:54 (UTC)

(報告)Jmsさんの改定案b' およびsergeiさんの9月19日の改定案の文面をミックスしたもので「その他」節の該当部分を置き換えました。--Makotoy 2009年10月10日 (土) 13:36 (UTC)

対応ありがとうございます。固有名詞への言及が重複していますが、統一の対象としない方が強いので、「たとえば」直後の固有名詞は除去した方が良いのではないでしょうか。モメると厄介なので手は出しませんが…。--Jms 2009年10月10日 (土) 22:27 (UTC)
直しておきました。これだけ長く言葉を尽くしたことの反映が表記ガイドに行った変更だけで、あとは埋もれてしまうのも残念な気がするんですが、あまり簡単な方法も思いつきません。なにか別の形で主要な論点をすくいあげて残せるといいんですが。(「私論」扱いのWikipedia名前空間文書に足せるかな。)--Makotoy 2009年10月10日 (土) 22:47 (UTC)

なぜ、Su-no-Gさまの依頼まで受けた書き換え提案者のKs aka 98さまでなく、Makotoyさんが書き換えを実行されたのでしょうか。私は少しでも中立的ニュアンスをもつKs aka 98さまが最近のやりとりについてどういう判断を示されるかに興味をもって見守っていたのですが、肩すかしされた感じです。ただ今度の改訂文は相変わらず「統一」は副文で「統一に固執しない」が主文になっていたりして本来の趣旨からはちょっ外れた方向性を持つように感じますが、これならば「原則として」も例外をいろいろと例示することによって具体的ガイドの役割もある程度はたし、かつ「例外」の性格が限定されて他目的に「活用」される恐れは少なくなって、さほど弊害はないと思いますので容認します。ご苦労さまでした。 --Midz 2009年10月11日 (日) 06:37 (UTC) --Midz 2009年10月11日 (日) 07:06 (UTC)(補筆)

(補足)改訂文のなかで「表記そのものへの言及」などを統一から除外するのは「許容」されるのではなく正しい使い方ですから、「ページ内で異なる表記を用いても構いません」ではなく「ページ内でも異なる表記を用いることになります」の方が正確な表現だと思いますが如何でしょうか。--Midz 2009年10月11日 (日) 07:46 (UTC) --Midz 2009年10月11日 (日) 20:38 (UTC)(文章推敲)

誰も反応しないと認めたという事になりかねないので一応。正しい使い方かどうか、という観点でガイドラインを見ることも問題視されてもいるので、(自己矛盾の様な恒偽命題を別として) 正しいかどうかという観点での主張について合意に至るのは難しいでしょう。現状では「表記そのものに言及する場合は異なる表記を用いても構わない」ということを述べているのであって、正確さに問題があるわけではありません。強いて言えば執筆行為に着目しているか、結果に着目するかの違いでしょう。また、「ても構いません」と「ることになります」を使い分けて長くすることもないでしょう。--Jms 2009年10月12日 (月) 08:58 (UTC)
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