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「参照方法」のテンプレを貼るとき、投稿者に義務行為が伴うのか?

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頻出の質問なのかもしれないのですが、お尋ねします。まとめのページがあれば、その場所を示してもらうだけでももちろん結構です。記事の最後に参考文献だけ載っていて、記事の文章内には脚注を用いた細かい出典の書いていない記事があって、個人的に、一部の内容の信用性があやふやと思われたり、独自研究ではないかと感じた部分があったので、「参照方法」と「独自研究」、「要出典範囲」、「疑問点」のテンプレートを貼って、ノートに一部の文章が独自研究(根拠薄弱かどうかは人によって見方が異なると思いますが)と考えた理由を書いておいたら、参考文献を読まずに印象だけでテンプレートを貼るのはけしからんという趣旨のことを言われて、リバートされました。また、要出典範囲の部分に出典をつけることも拒否されました。そこで質問なのですが、「参照方法」のテンプレートを貼るときに、出典の細かい指定を求める側が、あげられた参考文献をあらかじめ調べないといけないという義務が伴うのでしょうか。そういう規定を書いたウィキペディアのルールやガイドライン文書は存在するのでしょうか。教えていただければ幸いです。--亜顎十郎 2010年3月3日 (水) 16:47 (UTC)[返信]

このようなときはどの記事かを明示したほうがよいです。記事は 交響曲第7番 (マーラー)、議論は ノート:交響曲第7番 (マーラー) ですね。Wikipedia:出典を明記する#出典の示し方 にある「本文中に注釈を挿入する」「記事末尾に参考文献を記載する」のうちの後者、すなわち general reference のかたちで出典が示されていた状態に対し、特定の記述について疑問が生じたという事情のようです。ということでよろしいでしょうか? 確かにどこかで見たような議論ではあるのですが、どこでしたかね。善悪はともかく、私が同じケースに出遭ったならば、まずノートで尋ねるか、履歴を漁って加筆者に直接尋ねるようにします。しばらく無視されるようであればそれからテンプレート貼付ですね。--Su-no-G 2010年3月3日 (水) 17:10 (UTC)[返信]
出典を示す責任は掲載を希望する側にでしょうか。この場合文章が必要だと思っているひとが、確認するべきですが、参考文献節に文献があるなら、最低限の出典表記はされていると考えられます。そこでさらに、出典を脚注で加えることが必要だと思っているのならばあなたがやるのが一番良いと私は思います。まずは、参考文献をどれか一冊でも確認してみてはいかがでしょうか。その結果、載っていなかった部分について、一人では確認しきれないので、だれか協力してほしいということはできると思います。--春日椿 2010年3月3日 (水) 17:14 (UTC)[返信]
  コメント読む義務はないです。あげられた参考文献をあらかじめ調べた上で要出典範囲や参照方法を貼っているなら、むしろそのほうが意地が悪い。
まず、「参照方法」や「要出典(範囲)」というのは、形式的なものです。大きく内容に踏み込むような指摘をする場合は、自分がその判断をする根拠となる知識を得た情報源を示して、加筆や修正をするのが望ましい。内容について触れていたほうが修正の方向性が見えやすくなるという面もありますので、、執筆者によるところもあります。現時点での記述が不十分なところを指摘するのは質的な向上のために必要なことですが、自分が書くのではなく、誰かに加えてもらうことで向上させるのだと考えれば、その誰かが気持ちよく書けるような配慮もまた、必要なことだと思います。
インラインで出典を挙げていないが、まとめて出典を挙げているような場合は「要出典範囲」を使うのは好ましくないこともあるでしょう。出典は示されているので。
それほど大きくなく、また、複数の分野にまたがるのでもない記事で、その記事の内容をおおよそ含んでいるような情報源が存在しているならば、そのような情報源を複数参照して書き、まとめて出典を挙げているようなこともあります。このような場合は、必ずしも脚注方式が最適ではない場合もあります。「参照方法」を使う場合は、記事の性質、記述の内容と情報源の関係を、多少推察してみてもらえれば避けられる衝突もあると思います。
実は脚注方式については、比較的最近議論がありましたから、いくらかナーバスになっている執筆者もいらっしゃると思います。Wikipedia‐ノート:良質な記事/過去ログ2#出典掲示方法による検証可能性の評価についておよびその前の節の後半あたりも参照ください。--Ks aka 98 2010年3月3日 (水) 17:32 (UTC)[返信]
  コメントそもそもこの参照方法テンプレートはgeneral referenceを非推奨にしていない現状では文面を変更するか、廃止すべきものでしょう。--Afaz 2010年3月3日 (水) 20:49 (UTC)[返信]
  コメント 「あげられた参考文献をあらかじめ調べないといけない」義務はないと思いますが、貼った人は必ずノートで議論する(道義的な?)義務があると思います。
議論のないテンプレートの貼り逃げは勘弁して貰いたいです。何を問題と思ったのか、さっぱり分かりませんし、よく聞いてみると単なる誤解と言うこともあります。--長島左近 2010年3月4日 (木) 02:32 (UTC)[返信]
「要出典範囲の部分に出典をつけることも拒否されました」は酷い話だと思います。しかし相手から見ると誤解・言いがかりなのかもしれません。コミュニケーションは難しいです。分かってもらえるような努力が必要です。--長島左近 2010年3月4日 (木) 02:56 (UTC)[返信]
  コメント交響曲第7番 (マーラー)の履歴と、ノート:交響曲第7番 (マーラー)を拝見しました。テンプレートを貼ったということはその記事の編集にコミットメントしたということですから、長島左近さんが仰られるようにノートにおける議論は義務です。ただ、亜顎十郎さんは、理由をノートで説明していますし、執筆者との対話もやっておられますから、これは問題ありません。しかし、Su-no-Gさんが指摘するように、共同での編集作業を気持ちよくやっていく上では、テンプレートの貼り付けの前にやっておくことは色々あっただろうとは思いまし、そこは今回の教訓として学んでいただければと思います。(偉そうですね。すみません。)
もっとも、今回のケースでは、執筆者は「疑問を出された点は、参考文献を見れば分かる」と答えているのですから、共同で編集作業をする気があるのであれば、その時点で参考文献を調べるのは当たり前と思います。そういう覚悟無しに、他者が執筆した記事に異を唱えようとするのは、甘いんじゃないかと思いますが。
現状としてgeneral reference方式で書かれた記事があり、執筆者は図書館で借りた本を元にして数年前に執筆したから今はインラインの出典提示には対応できないというのであれば、亜顎十郎さんがやることは、ご自身で参考文献を調査して脚注をつけながら根拠の無い文章を削除・修正するか、他者(元の執筆者か第三者)がそれを行うのを待つかです。まず、それは考えてみてください。
で、参考文献をよんでおられないことを自認亜顎十郎さんと、参考文献を元にして書いたと主張する執筆者のどちらが信用されるかといえば、マーラー7番についての基礎素養が無い人間からしたら、執筆者側をとりあえず信頼するしかありません。ですから亜顎十郎さんが貼った「独自研究」テンプレートは剥がすべきですし、「要出典範囲」「疑問点」などについても同様です。わざわざ可読性を損なってまで貼るようなものではありません。
なお、今回の執筆者については前々からその編集活動は存じ上げていますが、信用できる編集者と言ってよろしいです。亜顎十郎さんが、文献を再調査した上で脚注付加や修正加筆される際には、きっと有用なアドバイスやコメントを出していただけると思いますよ。--おーた 2010年3月4日 (木) 13:37 (UTC)[返信]
  コメント こんばんは。当該記事を読み、亜顎十郎さんがタグを貼られた版も拝見しました。(私が主執筆者の方の執筆記事をこれまで幾つか拝見したことがあり、執筆される記事への信頼を寄せているというやや贔屓的な視点を割り引いても)、私には少し過剰なタグ貼付の印象を受けました。独自研究を疑い、ここまで大量に要出典を貼るのであれば、私でしたらひとまず参考文献にある書籍を探してみるかなあと。ここは個人差でしょうか。
個人差といえば、私ならば出典を要求されればとりあえずわかる範囲で出典をつけてしまうノンポリ体質ですが。それが記事にとって正しい発展の仕方なのかは少し懐疑的なところもあります。要求されるままに妙なところにも出典をつけたものの、後から見た人に「何故こんな珍妙なところに出典がついているんだろう」と思われないかなあと、時々振り返って悩む時もあります。
蛇足ですが。Ks aka 98さんのご意見の「あげられた参考文献をあらかじめ調べた上で要出典範囲や参照方法を貼っているなら、むしろそのほうが意地が悪い。」の意図が少し私には理解しにくいです。私は要出典タグはまだ使用したことがないのですが、仮に使用する機会があれば書かれた参考文献は(調べられそうなものは)調べたうえで貼付すると思うので。ん、そうなると私は意地が悪いということになるのでしょうか。うーん。--Giftlists 2010年3月4日 (木) 14:49 (UTC)[返信]
ああ、わかりにくかったですね。すみません。「参考文献を読めばわかる」という前提で書いていました。
  • インラインではない形で参考文献が書かれていて、挙げられた参考文献をあらかじめ調べ、その参考文献から得られることを記事に反映させ、その上で出典がない時に「要出典」などを貼るのは妥当だと思います。
  • インラインではない形で参考文献が書かれていて、挙げられた参考文献をあらかじめ調べ、参考文献に書かれていることを承知で、どこに何が書いてあるのかを知った上で、「要出典」などを貼るのは意地が悪いと思います。--Ks aka 98 2010年3月4日 (木) 17:45 (UTC)[返信]
みなさん、コメントありがとうございます。まず、問題となったのはSu-no-Gさんのおっしゃるとおりのページです。また、論点もSu-no-G さんのおっしゃるとおりです。私は原理主義者の気味があるんですかねえ。結局公式ルールとガイドライン以外に共通に通用して確実なものもないので、出典を示す責任は掲載を希望する側にに書かれたように全部やったつもりだったんですが...。独自研究などのテンプレート嫌がる人もいるでしょうが、テンプレート貼らなかったらどれくらいの人がノートをチェックしてくれてるのかもはっきりしないですし。それに薄弱とは言え、それなりの根拠もノートに書いておいたんですがね。人にはそれぞれの違った常識や流儀があるでしょうし、違う流儀でやられたら人によってはむっとするってこともあろうかとは思いますが、ウィキペディアのルールの通りにやったら他人の癇に触れて非難された、というのであれば、ウィキペディアでは一体何が確実な指針なのかと嘆息するばかりです。文献を読むことを薦められる方もいらっしゃいますが、やるとすれば6、7冊あげてある参考文献の中の新書1冊くらいが私のチェックできる範囲ですかね。ただ、本当に読むとすると、なんだか釈然としない感じは残りますね。ルールの通りにやったら、結局、ルールとは反対に出典を求めた側に仕事が回ってきたことになって、じゃあ、ウィキペディアのルールって結局何なんだ、という徒労感があります。--亜顎十郎 2010年3月4日 (木) 16:48 (UTC)[返信]
横から失礼しますが、ウィキペディアのルールって結局何なんだに関しては「過去に先人達が大体こんなもんだろうと考えて合意した議論の結果」です。それは重視し充分に考慮するに値する先人達の知恵と経験のまとめですが、墨守しなければならない法ではないのです。
一応問題となっているノート:交響曲第7番 (マーラー)を見ました。みっち氏の言っていることは(百科事典として)間違っていると思いますが、氏は(氏の主張に拠れば)当時考えられる限り最善の努力を行なったのであり、亜顎十郎氏の行為を「自分は何もしないくせに他人の努力を評価しない侮辱的行為」と受け取ったものと思われます。またみっち氏の主張から推測するには、該指針が公開された当時には既に似たような状態のページが大量にあって検証可能性の確認が事実上出来ず手が付けられない状態だったのでしょう。その問題を拡大させない為に、件の指針が出来たものと思います。やはり「指針は重視し充分に考慮するに値する先人達の知恵と経験のまとめですが、墨守しなければならない法ではない」としか言いようが無いですね。
件の文献を読んで信用性やら独自研究やらに疑問がある部分に一つ一つ脚注を付けていくのが最善の方法だと私も思いますが、とりあえず頭の固い執筆者のことはうっちゃって(≒放って)おいて他の記事の改善に力を注ぐ方がwikipediaの為なのではないでしょうか。
世界最狂の魔法使いCray-G 2010年3月5日 (金) 14:45 (UTC)[返信]
  コメント 追加します。亜顎十郎さんは「6、7冊あげてある参考文献の中の新書1冊くらいが私のチェックできる範囲ですかね」と仰る訳ですが、その程度の覚悟で記事を弄ろうとし続けるならば、執筆分野によってはこの先、もっと不愉快な局面に立ち会うかもしれませんよ。Wikipediaの各種ガイドラインは、共同で百科事典を編集するためのものなのであって、盲目的に何かのルールに従っていれば良いというものではありません。特定のガイドラインを盾にとって強引に議論を進めるあまり、Wikipedia:礼儀を忘れないという大事な公式方針を蔑ろにするユーザーは跡を絶ちませんが、そのような愚には踏み込まないように注意くださればと思います。「個人的には共感できない見方です」(亜顎十郎さんの文章から引用)程度の根拠で議論を仕掛けるのは感心しません。--おーた 2010年3月5日 (金) 15:42 (UTC)[返信]

(インデント戻す)ウィキペディアのルールって結局何なんだと言うなら、それはもちろん百科事典を編纂するためのルールです。Wikipedia:検証可能性にしても、脚注の形式で出典を表記することを求めるテンプレートも、ウィキペディアに執筆する側で参加すること(記事に問題を感じ指摘すると言う行為も含めて)も、記事を編纂・改善するためです。そういう意味では、ある記事に口出しをするということは、(具体的に何をするかはさておき)その記事に関わって改善することに対する意志の表明ではないでしょうか。もしそうでないなら、それは単なる言いがかりにしかならない。そうでしょう?

もちろん、人によって知識があること/ないことというのも確かにある。だから、記事を改善するために、出来ること/出来ないことやその程度は色々でしょ う。だから、具体的に何ができるかは様々でもいい。だけれども、共同作業をやっている(他の人を相手にしている)以上、少なくとも真剣さを欠いているのは すごくマズいんじゃないでしょうか。

確かに出典を示す責任は掲載を希望する側にとルールに書いてあるでしょう。だけれど、それは記事を問題を指摘するにあたって、必要な知識もなしに「個人的には共感できない見方です」などという薄弱なことで云々し、「6、7冊あげてある参考文献の中の新書1冊くらいが私のチェックできる範囲ですかね」という程度のことしか自分はしないなんていう、「教えてクン」紛いのおよそ真剣さの欠落したことをして良いっていうのとは違うんじゃないですかね。「自分は何もしないくせに他人の努力を評価しない侮辱的行為」(世界最狂の魔法使いCray-Gさん)ってのはそこら辺を言い当てた表現で、そんな態度で何か言いに来られたら、こいつはテキトーにケチをつけに来ただけで、記事を改善しようとして真剣にやってきたのではない、と思われても仕方ないのではないか。みっちさんにああいう風に険悪な対応をされたのって、つまりそういう事なのではないですか?

私は以上のように考えました。--ikedat76 2010年3月6日 (土) 16:25 (UTC)[返信]