Wikipedia‐ノート:良質な記事/過去ログ2

翻訳記事における検証可能性の評価について 編集

Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ハイデルベルク 20091025において、出典の明記が不足しているという理由で反対票を投じたのですが、これに対しTantalさんから、ドイツ語版においては参考文献の列記で検証可能性を担保しようとしており、英語版・日本語版と検証可能性に対する考え方が根本から違うため、日本語版の基準をそのままドイツ語版からの翻訳記事に当てはめた反対意見が続けて出ると、ドイツ語版からの翻訳によってドイツ関連の記事を作成しようとするユーザーを萎縮させてしまう。検証可能性について日本語版GAルールを厳格に適用させるべきかそれとも何らかの救済措置を設けるのか、検討するべきではないかという意見を頂きました。これについてご意見を頂けないでしょうか。-- 2009年10月26日 (月) 09:21 (UTC)

  コメントちなみに私個人としては、
  1. 選考の対象が日本語版の記事である以上は他の日本語版の記事と同じルールを適用するべきであり、翻訳記事だからと言って同じ日本語版に存在する記事に対して異なる基準を設ける(異なる対応をする)のはおかしい。翻訳後に日本語版のユーザーが検証可能性を(テーマによって行いやすい、行いにくいはあると思われるものの)高めることも可能である。
  2. ドイツ語版の記事を翻訳するユーザーが委縮するという指摘については、なにも良質な記事に二重の基準を設けなくても、現在議論が行われている記事クラスの試みに基づき、Wikipedia:ウィキプロジェクト ドイツとして独自に評価を行えば解決するのではないか。
と考えています。-- 2009年10月26日 (月) 09:21 (UTC)
この問題の前提として、日本語版での検証可能性については<ref>で量るというルールがあるようなのですが、このルールはどこかに明文化されているのでしょうか。不勉強で申しわけありませんが、このルールの出典をご教示願えませんでしょうか。--汲平 2009年10月26日 (月) 11:21 (UTC)
  コメントWikipedia:出典を明記する、とくにWikipedia:出典を明記する#本文中に注釈を挿入するをみると、脚注機能を用いて出典を示すことが推奨されていると思われます。以下は個人的な考えですが、推奨されていることを一切しない、あるいは実行が不足している記事は良質な記事とはいえないのではないでしょうか。-- 2009年10月26日 (月) 12:22 (UTC)(加筆)-- 2009年10月26日 (月) 12:25 (UTC)
本文中に注釈を挿入する記事末尾に参考文献を記載するは「または」の関係にあると思います(ハーバード方式を採るなら「かつ」ですが)。脚注機能を「推奨」というのは「本文中」方式の中で採りうるいくつかの選択肢の中で最も推奨、という意味かと思います。--КОЛЯ 会話 2009年10月26日 (月) 12:50 (UTC)
  コメント出典を示す方式ついてはあまり詳しくないのですが、ハーバード方式に「ウィキペディアにおけるハーバード方式については、Wikipedia:出典を明記する#出典の示し方またはTemplate:Harvをご覧ください。」とあるということは、ウィキペディアがハーバード方式を採用しているということを意味しているのではないでしょうか?また、「ページ数を示さず、参考文献を記事末尾に示すだけでよい」とする方式が現に存在するのでしょうか?-- 2009年10月26日 (月) 13:00 (UTC)(修正)-- 2009年10月26日 (月) 13:09 (UTC)
  コメント言いだしっぺです。PJ:ドイツの対応を待つにも、PJ:ドイツがPJ:SLMのように、PJ単位でこのプロジェクトに参加して初めて機能するのではないかな。とおもいます。もっとも、理想論で言えば、基準をダブル・スタンダードにするのはよくないと思っていますし(ならば、最初からいうなという意見があるのは承知していますけれども)、仮に他の言語からの翻訳であったとしても、日本語版GAのルールに適合させて欲しいというのが本音です。ということは、別に日本語文献に拘泥することなく、脚注を付与していただければいいかと。現に、GAに選出されたムハンマド・アリー・ジンナーイギリス領インド帝国といった私が参画した記事は、英語版にほとんど頼らず、日本語文献で構築したわけですし……。したがって、汲平さんが活躍していらっしゃるドイツの地理については、しばらく推薦を留保したほうが無難という気がします。--Tantal 2009年10月26日 (月) 13:17 (UTC)
(インデントを戻します)ご教示ありがとうございます。ご指摘の方法を拝読するとКОЛЯさんの仰る通り、脚注機能と末尾の参考文献列記は「または」の関係であって、どちらがbetterかといえば「なるべく脚注機能を使用することが推奨される」ということです。また、廉さんの「ウィキペディアがハーバード方式を採用しているということを意味しているのではないでしょうか?」というのは全くの誤解だと思いますよ。ウィキペディアで「本文中に注釈を挿入する」方法の一つにハーバード方式があると書いてあるに過ぎません。また、Tantalさんが仰る通り、ダブルスタンダードはよくありません。再選考にかけられた場合、どのスタンダードで判断されるか不定になってしまいます。私は、2つの方法が併記されている基準の一方を、たとえそちらがbetterな方法であっても、金科玉条として内容に踏み込むことなく検証可能性不備としてはねつけるようなやり方は、他の方法で参考文献を提示している記事に対する批評としては納得できません。--汲平 2009年10月26日 (月) 13:28 (UTC)
  コメントハーバート方式のことはひとまず脇へ置いて、違った角度からコメントします。Wikipedia:良質な記事において良質な記事とは「高い質を保ち、あと一歩で秀逸な記事へとなりそうな記事」であると定義されています。実際に最近どのような記事が選考を通過したかを見ればわかると思いますが、Wikipedia:出典を明記するをどのように解釈するとしても、現在秀逸な記事の選考において出典を示すために脚注を用いることなく書かれた記事が選考を通過するというのはまずあり得ないことだと思います。秀逸な記事まで「あと一歩」と定義するからには、ある程度は脚注を用いて出典を示すことがなされてしかるべきではないでしょうか。そもそも、参考文献を挙げるだけでよいのであれば、実際には参照していない文献を適当に挙げてごまかすことだって可能です。私はそのような記事が良質と認定される危険をはらんだ制度を採用すべきではないと思います。私はこのようなことは自明だと勝手に思っていたのでルール策定時に敢えて検証可能性について詳細に定義すべきとは申し上げませんでしたが、個人的にはWikipedia:良質な記事/良質な記事の選考#良質な記事の目安である「検証可能性が信頼できる情報源によって担保されている。」についてそのように解釈していますし、文言が変わらない限り今後もそのように解釈して選考および再選考時の投票行動を行うつもりです。-- 2009年10月26日 (月) 13:49 (UTC)
(インデント戻ス)どうもお世話になります。検証する立場から言えば、脚注による出典補記は是非とも実施して頂きたいです。私自身も記事執筆の際はそのような対応ができるよう心がけています。というのも、該当書籍を入手することが困難な場合、文献名とページ数が書かれてあれば国会図書館の複写サービスを利用することができますし、検証調査の時間も大幅に短縮することができます。具体的には{{参照方法}}にあるような対応をして欲しいです。念のために言えば、これは主執筆者に求めている対応ではなく、記事に対して求めている対応ですので、どちらかといえばWikipedia:査読依頼Wikipedia:加筆依頼の範疇になるでしょう。Wikipediaのルールとして脚注を使う使わないは自由に選択できるかもしれませんが、どちらがより品質が高いかは明確ですし、選考する側がそこをボーダーに良質な記事の目安として線引きを行うことは考えうることです。--R.Lucy 2009年10月26日 (月) 14:00 (UTC)
  コメント コメントさせていただきます。ハーバード方式については、出典を明記する方法の一手段として示されているだけで、これを使わなければならないという規定がjawpにあるとは存じておりません。実際に私が書いた記事では、私個人がハーバード方式があまり好きにはなれないこともあって採用しておりませんし、それでGAの選出を頂いております。
refを用いて出典を明記したとしても、虚偽出典の完全な防止にはならないと思いますが、GA/FAに選ばれるくらいのある程度量のある記事になると、そうでもしなければ現実として検証可能にならないのではないかと思います。したがって、refによる出典の明記はGA/FAの義務にしてもよいと思います。FAに対してもう一歩のところ、というのがGAの出発点ですので、一応検証可能性は担保しているけれど、まだ全てをrefによる明記まではいっていない、もう少し書き足すところが残っている、といったくらいがGAではないかと考えております。--Tam0031 2009年10月26日 (月) 14:02 (UTC)
  コメント 日本にいて、どれだけ日本語・英語以外の文献を入手できるのかというところがあるのかという点が気になりますが、FA/GAには検証可能性に関しての要求があるのかなと思います。アップルパイのような内容はともかくとして、統計に関する数字は経済をメインに書いている人間としては、ほしいかなと思います。私は日英中以外は読めませんので、最近取りかかっている独仏蘭あたりになるとせめて統計当局が英語を設定してくれるとありがたいと思いますが(多少ボヤキが入ってすみません)。--Wushi 2009年10月26日 (月) 14:13 (UTC)
出典を示す方法には他にバンクーバー方式などもあります。バンクーバー方式ではその方式で出典を示しておりますので、参考までご覧ください。また、en:WP:CITE#Inline citationsが非常に参考になります。
さて本題ですが、「ドイツ語版においては参考文献の列記で検証可能性を担保しようとしており」は本当でしょうか。書いてあるとすればde:Wikipedia:Belege/Rechtde:Hilfe:Einzelnachweiseのあたりなんでしょうけど、機械翻訳で英語にして見ましたが、そのような記述は見つけられませんでした。どこに書いてあるんでしょうか?--Akaniji 2009年10月26日 (月) 14:16 (UTC)
de:Wikipedia:Belege#Techniken zur Quellenangabe辺りなんでしょうが、Tantalさんの言うのは「参考文献の列記こそが」という意味ではなく「参考文献の列記くらいでも」の意味ではないのでしょうか。なお独語版の秀逸をいくつか眺めてみると、個別脚注方式をとった記事が多いですが、文献列記方式のみのものも散見されますね。--КОЛЯ 会話 2009年10月26日 (月) 16:43 (UTC)
独語版の秀逸で文献列記方式のみのものも散見されるのは、日本語版と同じ理由ではないでしょうか。日本語版でも古い秀逸は出典が貧弱です。また、良質な記事の選考にあっては、少なくとも節ごとの文中引証(inline citation)は必須だと思います。「項目全般にわたって参照しているため、これらの書籍については特に脚注を示さない。」という考えは、出典を示す目的を忘れているのではないでしょうか。出典を示す目的は、引証文献のある記述のみを残して独自研究を排除することと、読者に検証の手立てを提供することだと思います。--Akaniji 2009年10月26日 (月) 22:01 (UTC)
  コメント横から失礼します。Miya.Mです。この場では何人かの方がrefによる出典の明記を非常に重要視されているように思えますが、refをつけやすい記事とそうでない記事がありますので画一的には決められないと思います。せっかく新しく始めた企画ですので、最初から「こうあるべき、この形でないとダメ」と決めつけないで、いろんな状況を想定していただきたいと思います。具体的に言いますと、説明範囲の小さい記事や新しい情報に基づいた記事はrefをつけた説明が有効ですが、説明範囲の大きい記事や総説においてはrefをつけにくいです。例えばWikipedia:すべての言語版にあるべき項目の一覧中の秀逸記事東ローマ帝国は非常に広い範囲にわたった解説ですが、その末尾にはいくつかの脚注以外にたくさんの文献が 『出典となる文献』 『項目全般にわたって参照しているため、これらの書籍については特に脚注を示さない。』と記載されています。このような場合refで表示すると、同じ文献が何行も細かいページ表記で示されることになります。私も加筆コンテストの石炭を結構広い範囲を書いたため、逐一のrefは付けずに参考文献だけを示していました。ところがKs aka 98さんのご指摘『様々な分野にまたがっての執筆、わかりやすい記述であるだけに、参考文献は、せめて節と対応させていただけると、読者には使い勝手がよいと思います。』を頂き、『この章の主な参考文献』の形で表示する形をとる形に変えました。こんな事もありますので、「良質な記事」の選考においては参照の方法については画一的に判断するのではなく、記事の内容と合わせて判断するのが良いと勘案します。Miya.M 2009年10月26日 (月) 17:30 (UTC)
  コメントコメントありがとうございます。まず東ローマ帝国についてですが、このような手法(言い訳)が現在の選考で通用するかは疑問です。Wikipedia:秀逸な記事の選考/通過した記事を見るとこの記事が選考を通過したのは2006年1月ですが、2つ上に参考文献がほとんど全く挙がっていない状態で選考を通過したフォード・モデルTがあることから、出典明記に関する審査が今よりもかなり甘かったのではと推測されます。現にWikipedia‐ノート:秀逸な記事の選考#反対理由について「出典無き場合」を見ますと、2006年12月8日にmiyaさんによって「そろそろ、推薦の条件として、検証可能性を満たしていること、つまり、信頼できるソース・参考文献が示されていることを必要条件とするべきでは無いでしょうか。」という提案がなされており、裏を返せばそれまで秀逸な記事の選考において検証可能性の問題は軽視されていたことがうかがえます。ちょうどこの時期にナリタブライアンの選考があり私は主執筆者の一人として参加していたのですが、途中まで参考文献だけを示して異議が出なかったところ、途中で「記事に書かれていることが推測の域を出ない」とクレームが付き、Tantalさんのアドバイスを受け11月末に脚注を用いて出典を明記する改変[1][2]を行っています。おそらくこの頃が秀逸な記事の選考における検証可能性に関する転換期で、転換期前に選出された記事は秀逸な記事といえどこの議論において必ずしも参考にならないと思われます。
石炭を見ますと、「石炭の成り立ち」節のように文献名と章で示すという手法は許容されることもあるでしょう。ただしその場合、章のページ数を併記しても不都合はないはずだとは思いますが。一方、「豊富な埋蔵量」節ですが、この程度の量の記述の参考文献として本一冊丸ごと提示するという手法はいかがなものかと思います。もう少し範囲を限定的して示すことができるのではないでしょうか。また、いずれの方法によっても参考文献が示されていない節も複数あり、これは良質な記事として好ましくない要素だと思います。出典の明記に関し石炭は、同じMiya.Mさんが執筆された付加体と比較して数段落ちるというのが率直な印象です。今の状態で石炭が再選考にかけられた場合、申し訳ありませんが私なら除去票を投じるでしょう。-- 2009年10月26日 (月) 23:27 (UTC)
(お返事)Miya.Mです。付加体は最初に述べたrefをつけやすい記事『説明範囲の小さい記事や新しい情報に基づいた記事』そのものですので、容易にref付きの執筆ができました。これに対し『範囲が広くて古くからある』石炭については調査範囲や執筆時間は「付加体」の5倍以上かけましたが、refをつけませんでした。こういう基礎的な項目はたくさんの文献があり、それらの中から情報を取捨選択・統合して書いていますので無理にref化すると、最大で一行に3個ぐらい、少ない所でも3行に1個ぐらいの参照をつける羽目になります。それは可読性を損なうと考え、ref化しませんでした。
ところでrefを付けにくい『範囲の大きい記事』について日本語と英語とドイツ語の秀逸記事の状況を調べてみました。参照先はWikipedia:すべての言語版にあるべき項目の一覧の各国語版です。英語版は一覧の項目数に大分水増しがありますが、日独にある記事は必ず入っていますので比較できると判断します。
  • 日本語版 秀逸記事14項目 そのうち細かいページまでの出典が付されたもの3件 他は参考文献のみが多い
  • ドイツ語版 秀逸記事約50項目  そのうち細かいページまでの出典が付されたもの7件 他は参考文献のみが多い
  • 英語版 秀逸記事約80項目  すべての記事に細かい出典が付されており少なくとも40件、通常150件以上の出典が付されている。大体1行から5行にひとつの割で参照がある。
すなわちWikipedia:すべての言語版にあるべき項目の一覧の秀逸の範囲においては、日本語版とドイツ語版がほぼ同等で、あまり細かい出典は付していません。各国語版で共通なのは、ふんだんに内部リンクを使って解説の幅を広げている点です。英語版の状況を、同一内容なら文字数が少なくなる日本語に適用すると、「石炭」で私が見積もった『最大で一行に3個ぐらい、少ない所でも3行に1個ぐらいの参照をつける羽目になります』に相当します。日本の秀逸記事では日本語の187件だけが英語版に相当し、私個人的には「参照の数字が多くて読みづらい」感じがします。大きな項目は広い範囲を読者が理解しやすいように説明することが重要と考えます。さらに詳しく調べたい人は、まずリンク先の小項目を見ますし、小項目なら出典が容易にかつ詳細に提示できます。廉さんは英語版流がお好きなようですが、わたしは「大項目」についてはドイツ語版流(および現行の日本語版流)も悪くない思っています。Miya.M 2009年10月27日 (火) 18:27 (UTC)
  コメント「現行の日本語版流」とおっしゃいますが、現在の日本語版の秀逸な記事のうち脚注が少ないものは単に出典の明記が十分にできておらず、検証可能性を担保できていないだけだと思いますよ。「リンク先の小項目で出典を詳細に提示しているからその項目で出典を詳細に示す必要がない」状態は一種の理想形だとは思いますし、その理想を「日本語流」という言葉で表現されることは結構だと思いますが、現に「日本語流」が存在するかのような物言いは好ましくないと思います。-- 2009年10月27日 (火) 21:04 (UTC)
「石炭」はほぼ節ごとに出典が示されており、文中で書誌の一部と該当箇所を表示する方法はハーバード方式に準ずる出典の示し方であり、このような引証方法は許容されてよいと思います。読者は、国会図書館に出かければ、半日で記述の検証が可能です。これを「日本語版流」とするなら、いいでしょう。しかし「東ローマ帝国」はいけません。あれでは各記述の論拠がどの文献であるかわからず、ページや章節もわからず、記事が本当かどうか調べるのに、ひと月はかかります。独自研究が紛れ込んでいても、除去が非常に困難です。あれを日本語版流と呼び、良質な記事に許容しようというなら、私は反対します。--Akaniji 2009年10月27日 (火) 22:18 (UTC)
  コメント んー、ぶっちゃけて言うと、私もMiya.Mさんの考えの方に同調する部分が多いです。例えば、いくつか手がけた中で秀逸に選ばれてるうち、インフルエンザウイルス腸炎ビブリオなどは、general reference形式にしており、ヘリコバクター・ピロリは後から他の方の手でinline citation形式への変更が行われたために、そちらの方に同調しました。ただし個々の出典の品質という面においては、きちんとした二次情報源だけがピックアップされるという性質から、前二者のタイプの方が、実は「『百科事典』の記事(三次情報源)」らしく、また信頼性の高い内容になるんじゃないかと考えてます……後者はどっちかというと、二次情報源である「総説」を書く時の書き方、というか。
inline citationの利点については、私から説明する必要もないくらい、皆さん十分ご承知だと思いますし(なので、この論に対して、それを繰り返し主張することによる反論にはあまり意味がないことはお察しください)、複数執筆者によって執筆する場合、inline citation形式の方が便利な部分もあるでしょう。しかし英語版ではそのため、原著論文などの一次情報源そのものや、メディア発表などを「とりあえずinline citationで示せばいい」という図式が出来上がっていて、専門的観点から見ると、却って記事の完成度を損ねてる例も散見されます。本当に重要なのは「記事そのものの品質がどうなのか」であって、それを「検証可能性を守っているか」で評価するというのは、あくまでwikipediaが設けてる品質評価基準でしかない、ということは忘れないでいただきたい、と。NatureによるBritanicaとの比較の頃は、まだ英語版でWP:Vの方針も徹底されてたわけではありません。当時の英語版の記事の信頼できる記事の多くは、実は「良識ある執筆者たち」によって保たれてた、ということを見逃さないようにしていただきたい、と。
これがもし「良質な記事」という名目でなく、「日本語版ウィキペディア規準での良質な記事」という、長ったらしい(^^;名目のカテゴリなのであれば、別にどんな規準を設けても、どれだけ厳しく選定してふるい落とそうが構いません。しかし「良質な記事」という名目にしてしまっている以上は、カテゴリに加えられなかった記事には、「『ウィキペディア規準がどうこうという意味を超えて』良質でない記事」というレッテルを貼ることにもなります。『良質』でない記事が「良質な記事」に選ばれているのがまずいのと同様かそれ以上に、(ウィキペディア規準を超えて)『良質』な記事が「良質な記事」に選ばれていない、というのは大問題になるのだ、ということを常に考えてください……インフルエンザウイルスの秀逸選考の際、「秀逸な記事名誉を与える」というような不遜なことを書いたのは、そういう意図を含んでます……。特に後者は、「良質な記事」の意義そのものをゆるがしますし、wikipediaそのものに対する信頼性の根幹にも影響します。あまり言いたくないけど、既に「秀逸な記事」はそういう方向に向かっているので、同じ轍を踏んで欲しくはない、というのがあります。特に、選考を繰り返していると、評価の規準は知らず知らずにどんどん厳しくなるものです。特に、よく「減点方式」と言われるような、日本人による評価だと、その傾向は強くなるでしょう。しかし、そういうノイズに惑わされることなく(秀逸では選考方式の関係で、そういうノイズに弱いですので)正しく選考し、「良質な記事」自体の価値、ひいてはウィキペディア自体の価値を損なわないよう、お願いいたします。
えーと、話が随分逸れました。最初に述べた観点から、私は (1)脚注を用いるinline citationの方が、general reference方式より『優れてる』とは考えません。「『wikipediaでは』『執筆プロセスの関係で』たまたま、inline citationsの方が向いている『部分が多い』」という程度です。従って、(2)general reference方式を採用している、というから、という理由だけで「良質な記事」の選考から除外する、という案には賛成しません(それは、最終的に「良質な記事」の価値を損ねる方向性につながりかねない、と)。(3)どうしても"inline citationsでなきゃ駄目だ"という方がおられるのであれば…英語版のWP:CITEのノートに乗り込んで"この方針文書からgeneral referencesを除外せよ"とでも主張して、それが通るようなら私も考えを改めるかもしれません (^^; --Y tambe 2009年10月28日 (水) 03:24 (UTC)
  コメントgeneral reference形式を採用している記事について、読み手が「本当にこのようなことが文献に書かれているのか」という疑問を抱き自力で解決しようとした場合、よほどその分野の文献に通じていて「この点についてはこの文献のこの箇所にあたれば良さそうだ」という見当がつかない限りは、挙げられている参考文献を片っ端から読んでいき、どこに書かれているのか、あるいは書かれていないのか明らかにしないといけないということになると思うのですが、それでは読み手に大きな負担がかかると思います。自分が書いた記事を引き合いに出しますが、サンデーサイレンスという種牡馬の記事の中に、武豊という騎手によるサンデーサイレンスの産駒(子供)の精神面に関する評価を記述している箇所があります。これは脚注で示しているように『衝撃のサンデーサイレンス』という本の132-133頁と136頁が出典です。この記事でgeneral reference形式を採用した場合、読み手が「本当に武豊がこのような評価をしたと書かれているのか?」という疑問を抱き自力で解決をしようと考えた際にはサンデーサイレンス#参考文献に挙げられているどの文献のどのページに武豊の評価が載っているのか、探し出さなければならないということになります。しかし、はっきり言ってこれは至難の業です。競馬の書籍はどの文献のどの箇所にどんな逸話やコメント、データが書かれているか、推測がつきにくいのです。この場合、通常は私に質問するのが一番手っ取り早いということになるのでしょうが、その時に私が詳細を覚えているという保証はありません。といいますか、文章に対応させる形で出典を示しておかないと、何年か経てば自分でもどの文献のどの箇所に書いてあったかわからなくなってしまう可能性が高いです(出典を明記する習慣がついていない時に執筆したある記事では実際に、何かを参照にしたことは覚えているものの、その文献が何であるか忘れてしまったことがありました)。記事を検証したいという意思を持ったユーザーへの配慮という観点からは明らかに脚注を用いた方が親切でしょう。
Y tambeさんに質問ですが、インフルエンザウイルス腸炎ビブリオについて「この記述は本当に参考文献から導かれたものですか?」という質問が出た場合、どのような回答をされますか?私がgeneral reference形式を採用して記事を書いたとして、このような質問がされた際に考えられる対応は、「本当です。嘘だと思うなら挙げている文献を片っぱしから読んでください。」と答えるか、「この文献のこの範囲を参照しました」と答えるかでしょう。しかし最初に挙げた回答がまかり通るのであればあまりにも読み手に酷ですし、読み手は納得しないでしょうから選考では間違いなく不利に作用するでしょう。2番目の回答をするのであれば初めから示しておいた方が読み手に対して親切でありかつ執筆者の手間も省けます。
このことは良質な記事や秀逸な記事の選考・再選考にも当てはまるのではないでしょうか。つまりgeneral reference形式が採用された記事の内容が本当か嘘かわからない、と読み手が書き手に問い合わせたとして、挙げられている参考文献を確かにそう書かれていると認識するまで片っぱしから読み込むべしと答えることは読み手には酷であり執筆者には不利に作用する、問われれば詳細な出典を示すという対応をとるならば、最初から詳細に示しておいた方が手間が省けていいということになるでしょう。
出典の明記についてはgeneral reference形式をもってすれば十分ということに仮になったとしても、今度は記事の真実性(挙げられている参考文献に本当にそのようなことが書かれているのかという意味です)が問われ、検証可能性を確保するために結局は詳細な出典を要求される、断れば選考は不利に傾くということになり、良質な記事もしくは秀逸な記事を目指す以上は執筆者が出典を詳細に示すことから逃れることはできないだろう、ならば初めから示しておくのが一番よいというのが私の考えです。
嘘を書かないという良識を持ち専門知識を有する人間が書いた記事を、嘘か真実かある程度見分けがつき、どの文献のどのような箇所を見れば検証ができるかおおよその見当がつくだけの専門知識を有する人間が読むということであれば、general reference形式が十分に機能するのだと思います。しかし活動するのが良識や専門知識を有する人間ばかりでないWikipediaにおいては、あらゆる記述に対し「本当に信頼できる情報源の裏付けがあるのだろうか?」という疑問が出る可能性があるわけですから、検証可能性を十分に確保するという観点からgeneral reference形式で良質な記事や秀逸な記事を生み出し、かつ維持することは実際には難しいと思います。
「脚注が十分につけられておらず、出典の明記が徹底していない」という理由での除去票や反対票を排除できるならば、記事の真実性が問われた際に検証可能性を十分に確保するため、いつどの箇所について詳細に出典を示す必要に迫られるかわからないというリスクを負っても構わない、またはそんな質問にいちいち答える義務はない、読み手が自分で一から文献にあたるべきだ、疑問に思うのであれば除去票や反対票を投じて頂いて結構(利用者‐会話:Y tambe#スピロヘータについてを見ますと、Y tambeさんはそのような考え方をお持ちなのかな、と感じます)、という意識を執筆者が共有できるのであれば、general reference形式をもって出典を示せば十分に検証可能性が担保される、ということにしても(執筆者にとっては)不都合はないということになるのかもしれません。
事の発端となったハイデルベルクについて言えば、仮に出典の明記に関してgeneral reference形式で十分ということになった場合、私は「これは本当に信頼できる文献に書かれているのか?」と思った点についてはすべて質問し、詳細な出典が示され検証可能性が十分に確保されて初めて賛成票を投じるということになると思います。その上で「折角なのでこれらの点については脚注で示しておくことにしませんか?」と提案をすることになると思うのですが、それならば初めから脚注を使って詳細に出典を示しておいて頂いたほうが選考がスムーズに進むのでは、と思ってしまいます。-- 2009年10月28日 (水) 08:05 (UTC)(加筆)-- 2009年10月28日 (水) 08:19 (UTC)(修正)-- 2009年10月28日 (水) 08:47 (UTC)-- 2009年10月28日 (水) 09:03 (UTC)
  コメント一つ書き忘れていました。Wikipedia:良質な記事#良質な記事の基準には「各ウィキプロジェクトにて良質な記事の基準を取り決め、その基準に従って選出された記事」というものがあります。一定水準以上の専門知識を持った参加者が集うと考えられるプロジェクトにおける選考を経て良質な記事に選出されたのであれば、詳細な出典が示されていなくても読み手には「プロジェクトが認めているのだから信頼できる情報源の裏付けがあるのだろう」という推測が働きやすいかと思います。-- 2009年10月28日 (水) 08:37 (UTC)(修正)-- 2009年10月28日 (水) 09:03 (UTC)
  コメントんー、そこらへんはすべて「繰り返し主張することによる反論にはあまり意味がない」と事前に述べておいた、まさにそういう反論だったりもするんですが。まぁこの「良質な記事」について主だって進めようとしてるのは、廉さんを初めとする方々のようですし、それらの方々が「general reference形式を取っている記事には瑕疵がある」とか「良質とは呼べない」と判断するのであれば、別にそれはそれで構わないというか、正直あまり関わってる時間もないので、ということになります(もちろん、個別に出典明示の依頼があった分については、後ほど片付けます…つーか議論よりそっちを優先するべきだってのは判っちゃいるんですけどね ^^;)。
ただまぁ、思うことについては述べさせてもらいましたし、老婆心ながらいくつか危惧する点についても述べさせてもらいました。まぁとりあえず、Miya.Mさんと私の記事には「大項目」「メインカルチャー」という共通点があり、そういう項目…特に大項目が採用されるような基本項目…ほど、general references指向になるものなのだ、ということを頭の片隅に置いておいていただければ幸いです。あと一つ付け加えるなら、これからがウィキペディアが本当に価値を問われる時期に来ており(マスメディアにより持ち上げられていたのが、次は攻撃され、最終的にあまり取り上げられなくなり、地味な活動をしていくことになる、そういう後半の時期)、これからは今まで以上に「(特にメインカルチャー系の)専門家」の協力が必要になる時期だろうと思います。この議論に参加された皆さんの中には、私の言動に対して「これだから専門家きどりのやつは」とご気分を害された方もおられるかもしれませんが…正直、私などはしょせん「専門家のはしくれ」の方でして、実際には、もっと強烈な人の方が多いのだ、ということを気に留めておいていただき、彼らを「逃がさないように上手く活用する」ことを考えていただければと。
……何か、ウィキブレイク宣言みたいになっちゃいましたが (^^; 私自身は、この「良質な記事」プロジェクトからは距離を置かせてもらおうというだけでして(やはり議論を始め出すと止まらないのは悪い癖なので…2年ほど前に検証可能性のノートかどこかで、「日本語版で『出典明記』が広く認知され受け入れられるようになるのは1-2年後だろう」とか予言してたもので、その予言が成就しつつあるようで、プロジェクト自体を陰ながら応援はしてます)。なお、この件とは別にまだ幾つか新着なんかに選ばれてた執筆記事もあったと思うので、もし出典にご不明の点があれば、ノートにご連絡いただければ提示できると思います……おそらくgeneral reference方式ですが ;-)。--Y tambe 2009年10月28日 (水) 09:32 (UTC)
  コメント 猛烈な勢いで議論が進んでいたため、発言する機会を逸してしまいました…(汗)。遅ればせながら、コメントさせていただきます。
(1)翻訳記事の評価基準について:廉さんと同意見です。翻訳記事だからと言って、特別に他言語版(例えばドイツ語版)の基準を適用するというのはおかしいです。翻訳記事といえども日本語版の記事には違いないのですから、日本語版の「良質な記事」の選考基準で評価すべきかと。
(2)出典明記の方式について:これも廉さんたちとほぼ同じ意見です。検証可能性の観点からは、"general references"方式よりも脚注による"inline citations"方式の方が優れているのは明らかです。Wikipedia創成期は先ず記事数の確保が最優先であったため、また今よりも知名度が低く参加者も限られていたため、内容の信憑性よりもとにかく記事を増やすことが重視されていたのだろうと推察します。ですが数的にはある程度充実し、また広く社会一般に受け入れられて様々なレベルの編集者や悪意の編集者も増えた現在、量よりも質、とくに記事内容の「信頼性の向上」とそれを担保する「検証可能性」が何よりも重要になってきているのではないか、と考えます。その意味で、Tam0031さんが仰るように、検証可能性を高めるinline citationsをGA/FAの必須要件とすることに賛成です。
もちろんinline citationsがすべてを解決するわけではありませんが、個人的には、inline citationsのない記事は、読んでいて非常に不安になります。Miya.Mさんは「基礎的な項目はたくさんの文献があり、それらの中から情報を取捨選択・統合して書いていますので無理にref化すると、最大で一行に3個ぐらい、少ない所でも3行に1個ぐらいの参照をつける羽目になります。それは可読性を損なうと考え、ref化しませんでした。」と仰っていますが、1文に10や20も参照が付いているならともかく、「3行に1個ぐらい」の参照で「可読性を損なう」とは全く思えません。むしろ前述のように、読者は安心して読むことができるのではないでしょうか。
また、今までの議論とは別の角度からお話させていただきますと、例えばある編集者によって記事に誤りが埋め込まれた場合、general references方式の記事では、参考文献で挙げられたすべてに問題の原因の嫌疑がかけられてしまいます(読者はそう判断する可能性があります)が、これは出典とさせてもらった文献の著者に対して失礼にもなります。inline citationsならば問題発生時の影響を極小化できる上に検証・修正も比較的容易です。
(3)「良質な記事」について:言うまでもなくWikipedia:良質な記事は「Wikipedia日本語版」独自の記事の評価システムの1つに過ぎませんので、Y tambeさんの「ウィキペディア規準がどうこうという意味を超えて」というのは、なんといいますか、重く受け止め過ぎなのではないでしょうか…。別に「良質な記事」でなくても価値のある記事、優れた内容の記事は当然あるでしょうし、特に断らなくても「良質な記事」というのは「Wikipedia日本語版の基準における良質な記事」を意味しているということは、読者や編集者にも理解してもらえると思いますが…。--Penn Station 2009年10月29日 (木) 10:04 (UTC)
えーと、また一つ言い忘れたことだけ(何度もすみません)
とりあえず「良質な記事の選考」で「inline citation形式にすることを必須」とするんならするで、別にそれは構わないです。ただし、その際(ノート:腸炎ビブリオの最終段落でのやり取りのように)「既存のスタイルからの変更」を勝手に行われるとなると、それはそれで面倒です。とりあえず、そのようなケースでは、英語版でのWP:CITEの規定に順じて「原則的に、既存の形式を尊重する」「形式変更の際はまずノートで議論する」というのを守ることを徹底していただけますでしょうか? もちろん記事の私物化をするつもりはないけど、「良質な記事」に通すという口実で、なし崩し的にinline citation形式への統一が進められることは、あまり好まないし、何より「フェアではないやり方」ですので。
ここで決められる「出典の示し方」が、ウィキペディアにおいて「良質な記事」の規準になってしまうし、ほとんどの記事は「良質→秀逸に向かうことが望ましい」ということが言われている以上、それは実質的に参照形式の統一も暗示してるわけですが…その重要性はご承知ですよね? だったら、こういう場所で(一部の者だけが参加してる議論で)勝手に決めるのでなく、本来ならばwikipedia:出典を明記するなどできちんと議論して統一見解を立ち上げてからにするのが、筋というものだろうと思います(し、後からごちゃごちゃと言われることもなくなると思いますが…)
それが守られるのであれば、個人的には変に巻き込まれる虞れがなく、安心してこのプロジェクトから距離を置いていられますので(もし「守れない」、あるいは「将来、守らない参加者が出てきた」場合、それこそ「まずは英語版にでも行って、WP:CITEの文書を変更させてから」ということで、どうか一つ ^^; …まぁそれは無理でしょうから、せめて日本語版のwikipedia:出典を明記するで「inline citation方式を使わなければならない」とでも決めてからにしてください、ということです)--Y tambe 2009年10月29日 (木) 11:24 (UTC)
そうですね、「良質な記事の選考」に限った話ではない(誰がいつどの記事をどのように編集するかなんて分かりませんので)気がしますけれど、「良質な記事の選考」の運用ルールの中に注意事項として記載しておけばいいんじゃないかと私は思います。ただ、別に誰か管理者がいて他の参加者の面倒を見ている訳ではないですし常に監視している訳でもありませんので、「将来、守らない参加者が出てきた」場合までは誰も責任持てないと思います。もちろん気が付けば対応しますが…。
それから「一部の者だけで勝手に決めている」ということはないと思いますよ?現にこうやってオープンに議論していますし。また、あくまで「良質な記事」という仕組みにおける選考基準について話し合っているだけで、現時点のWikipedia日本語版全体の参照形式を統一しようなどという話ではないし、そうする必要はない、と少なくとも私は認識しています。以上は私の個人的な考えですけれど、設立者のR.Lucyさんはじめ他の方のご意見もお願いいたします。--Penn Station 2009年10月29日 (木) 13:12 (UTC)

こんにちは。えーと。結局は「良質」の基準に拠るんじゃないでしょか。

どの程度「良質」であるかという点。
必ずしも専門家ばかりではない多くの執筆者にとって、「最初に目指す具体的な指標」と言うことなら、たとえば、1巻ものの卓上百科事典と同等の情報量を持ち、出典が示されていれば、general referencesでもいい、という考え方もあります。「高い質を保ち、あと一歩で秀逸な記事へとなりそうな記事」ということなら、今度は「秀逸」の捉え方に関わってくるということになってしまいますけれど、「良質な記事の目安」で書かれているものよりは、ずいぶん高い質が求められることになります。そのへんの調整とか、意識の共有をする必要があるということなのでしょう。
分野の問題。
包括的にまとめられた文献がある分野では、general referencesでいいと思いますよ。百科事典の記述としては、そこから先は、その分野の専門家でも踏み込まない地平だったりもするわけで。「量子力学」について、学部レベルの教科書を2冊くらいとブルーバックス1冊を読んで、適当にまとめれば十分良質な記事だと思う。「著作権法」の記事でも同様。自然科学、論争のない歴史分野、法律分野の概観的な記事などでは、その項目で扱う内容を主題とした包括的な、および啓蒙的な著作・研究があるでしょうから、それらに共通して書かれていることをまとめる、くらいの意識で書くのが百科事典的だと思うんですよ。ところが、そういう先行研究がない分野・項目だと、こっちの本の一部と、あっちの記録と、こっちの論文の一部と、というのを独自研究にならないように組み合わせて書かなければならない。「梅毒」なんかは、『梅毒の歴史』があれば、それを参考文献として挙げていればまあいいだろうと思うけど、『梅毒の歴史』がなければ、細々と出典を挙げて書くってことになるでしょう。そういう場合はインラインでやるしかない。generalで、たいてい大丈夫な分野と、たいていダメな分野がある。そういうことを把握しておく必要があると思います。もっとも、どの分野でも記述と文献の対応関係から、generalではダメな場合もある。
ウィキペディアの理想に近づこうとしているということを考慮するかどうか。
メディアウィキを使った共同作業という観点から言えば、インラインのほうがいいだろう。検証可能性や独自研究の方針を突き詰めるなら、遡れる限りの一次的な資料と、それを扱う二次・三次資料の両方ともを、執筆に関わった人が網羅的に参照し、結果として網羅的にその項目に関する書誌の親子関係や情報の流れが書かれるようなことになるわけです。それは、ウィキペディアが方向付けから求められる理想、だと思う。じゃあそれを、ひとつひとつの記事に適用させる良質の基準とするかどうか。
判断する側の問題。
で、インラインかどうかというのは、その分野の知識がなくても判断できる基準です。まともに判断するなら、その記事の記述と、その情報源となっているものを比較して、この記事でこの情報源を用いているならgeneral citationで十分/むしろそのほうが好ましい/適切ではないということを考えると思うのですね。でもまあ、それは難しいだろう、と。それでも制度を運用していく上で、詳細な検討をしないでも判断できるような、機械的な基準を置くことで、この制度が成功すると考えるかどうか、というか。

で、個人的には、「ハイデルベルク」あるいはドイツ語版からの翻訳は、「良質な記事」だけど「秀逸」にはならない(というか、「秀逸」でもいいと思うくらいなんだけど、その上の基準ができたときには、もっと詳細な対応関係が求められるし、翻訳者は主な情報源を参照することが求められるでしょう)、という感じがいいんじゃないかと思ったりします。それは、ドイツ語版の翻訳を優遇するということではなくて、日本語文献であっても、ハイデルベルグの水準でgeneral citationが挙げられていても同様に良質でいいと思うということですけれども。--Ks aka 98 2009年10月29日 (木) 11:00 (UTC)

Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ハイデルベルク 20091025Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/中田厚仁 20091030を見比べていろいろと考えさせられるところがあったので、つらつらと思うところを書いてみます。まあ私は趣味の延長でできる範囲でしか参加していませんし、秀逸だとか各種の賞とも縁のない非優良執筆者なので、話半分に聞いてもらえればありがたいです。

まず、一般論として出典が脚注形式で記載されていることが優れた資料であることの必須条件かというと、そんなことは全くないと思います。権威ある学術資料でも、参考文献が巻頭もしくは巻末に列挙してあるだけのものなどごく普通にあります。一般に百科事典だとか分野毎の用語辞典の類だったら、出典がいちいち脚注として記載されていることの方が少ないのではないでしょうか。

Wikipediaの場合は匿名の参加者によるプロジェクトなので、信頼性の担保を外部資料の権威に依存しなければならないという特殊な事情があり、出典を明記することが一般の百科事典等よりも重要なのは確かです。しかし、全ての項目において出典が脚注形式でなければならない、もしくはそうなることを目標とする、ということにはかなり疑問です。どのような記載方法が望ましいかは、分野によって、またはその項目の性質(概論的な項目なのか、個別具体的な各論を述べた項目なのか、といったようなこと)によって変わってくるでしょう。一律に何がいいのかを決めるのは不可能だと思います。

良質な記事に脚注形式での出典の記載を求めるべきなのかどうかは、“良質”という言葉の意味をどうとらえるかによるでしょう。Y tambeさんの仰るように、一般的な意味では脚注形式で出典を記載することは良質であることの条件にはなりませんし、Wikipedia固有の意味での“良質”ととらえるならば、そういう要求をするというのもあり得る判断なのかも知れません。仮りに秀逸な記事にはそれを求めるにしても、それよりも間口の広い良質な記事にはそこまで厳密には求めない、という判断もあり得ると思います。

私はこれまで各種の表彰制度等にはほとんど関わった経験がありませんので、そのあたりの線引きをどうするかについては、これといった意見を持ちません。ただ、今気になっているのは、Wikipedia:ウィキプロジェクト 執筆支援の一環として創始されたはずのこの制度が、はたしてそうした目的のために機能するのか、という問題です。冒頭に挙げた二つの選考過程を見ていて、記述の中身についての考察はなおざりにされていて、出典が脚注形式で記載されているかどうか、どの程度の数の脚注がつけられているか、といった外形的なことでしか判断されていないのではないか、という印象を受けました。こうした基準で行われる選考が、参加者の執筆意欲の促進やWikipediaの品質向上にどれだけ寄与することになるのかは、甚だ疑問です。

ハイデルベルクのような一般的な意味では十分に優れた内容の項目に対して出典が脚注形式でないことを理由に反対票がつけられたことで、汲平さんのような極めて優れた執筆者の参加意欲が多少なりとも沮喪されてしまったように見受けられます(いや、汲平さんほどの方ならそんな小さなことにはとらわれずに今後もますます活発に執筆を続けられることとは存じますが)。また、認定の可否がバイト数と脚注の数との比率によって決まることになって、これを通過せんがために脚注の量を無駄に水増しした項目が溢れるようなことになるとすれば、それはWikipediaの品質向上とは程遠い結果というほかないと思います。

国際紛争の渦中で起きた事件について記した項目で一方の当事者に近い立場から書かれた資料しか参照されていないという問題は、普通に考えれば中立性を旨とする百科事典の項目の品質を評価する上で極めて重要な事柄で、少なくとも出典の記載方法が脚注形式か一覧形式か、などという問題よりは遥かに本質的です。そのことを指摘した反対票に対してなぜあのようにヒステリックな反応が起きたのか、私にはさっぱり理解できませんでした。この制度が参加者の執筆意欲の促進とWikipediaの品質向上に貢献していくためには、選考に当たる人がもっと項目の中身を適切に評価できる見識を養っていく必要があるのではないでしょうか。

私自身は今後もこの制度に深く関わるつもりはないので、良質な記事という制度の枠内で済む分にはいいのですが、ここで形成された基準がWikipedia:検証可能性とかWikipedia:出典を明記するといったあたりにまで波及してくると厄介なので、一言述べさせていただきました。--sergei 2009年11月17日 (火) 12:38 (UTC)


2009年11月17日 (火) 12:38 (UTC)におけるsergeiさんのコメントから約2か月が経過しました。話題の中心は翻訳記事に限らない、記事全般における出典の示し方を巡るものとなりました。議論に結論が出たとはいえない状態ですが、流れが滞っているためひとまず終了とさせていただきたく思います。貴重なご意見を多数頂き、ありがとうございました。-- 2010年1月16日 (土) 17:48 (UTC)

出典掲示方法による検証可能性の評価について 編集

翻訳記事に限らず、出典の量と掲示方法は検討が必要と考え、節を分けます。--miya 2009年10月28日 (水) 09:00 (UTC)

大まかに言って、どの形式が相応しいかは、その箇所の情報の質に左右されると思います。

  1. 広く知られている情報で、参考文献欄に掲示した複数の文献に同様の事が書かれている場合は「general reference形式」でよい、特に章を割いて解説している場合はその章を明示することを考える。
  2. 「データ」(数値や順位など)には、脚注によって章もしくはページ数を含む詳しい出典情報(どの機関がいつ発表したデータかなど)を提示する。
  3. 「あまり一般的に知られていない情報」(どの文献にも載っているとは言えない情報)には、脚注によって章もしくはページ数を含む詳しい出典を提示する。

というのはどうでしょう。長い記事を書くと、複数の本を丸ごと出典にした記述もありうるし、逆に、この本のこのページ、と特定可能/特定すべき情報もあると実感します。関連文献のどれにも同じことが書いてあって、脚注で特定の本を提示するのは難しい場合もあれば、限られた本にしか載っていなくて、どの本にある情報かで信頼性が違ってきたりする場合もあるでしょう(たとえば理科年表掲載の数値と、週刊誌掲載の数値)。--miya 2009年10月28日 (水) 09:00 (UTC)

(質問)「広く知られている情報」は「あまり一般的に知られていない情報」と対比されていますが、「一般に広く知られている情報」と考えてよろしいでしょうか?「参考文献欄に掲示された文献」を基準にすると、文献の専門性の高さによって基準が一般人寄りか専門家寄りか、違いが出てきそうですが…-- 2009年10月28日 (水) 09:26 (UTC)
(編集競合しましたがコメント)えーと、議論から身を引くと言ったばかりですが、節分けして、意見調整に回って下さったmiyaさんに謝意と敬意を表して。
このアイデアを言うべきかどうかは迷って、結局上では言わなかったのだけど、ノート:腸炎ビブリオの最終段落を一度ご覧下さい。あくまで個人的な長期的ビジョンとしては、ウィキペディアにおいて(何十年後になるかは判りませんが)参照スタイルの統一という問題が出てきたとき、「その際に採用されるべきはinline citationsだろう」というのが、実は私自身の予想でもあります。なので、そのノートでの議論というのは「general referencesで書かれた記事を、inline citations形式に変更するとき、どういう問題点が浮上するのか」という議論を(相手には黙ってこっそり ^^;)実地でやってみようとした、というのもあったりします(不発に終わりましたが)。技術的な部分を解決する方法については考えあぐねてましたが、赤痢菌でR.Lucyさんに提示していただいた方法が現実的な落とし所になりそうなので、個人的にはそれだけでもこの「良質な記事」プロジェクトが立ち上がったことに感謝してます。
ただまぁ日本語版の現状では、まだしばらくは何とか「専門家」をどっかから調達して来て、彼らの書き慣れたやり方でいいから記事を書いてもらい、集積していく作業が必要だと思うし、それと並行して、この「良質な記事」みたいなブラッシュアップのプロジェクトを進めていくことも同時に必要だろうと。現段階で出典形式に縛りを入れたくない、というのはそういう思惑です。なので、この時点で細則化するのは、むしろやめておいた方がいいんじゃなかろうかと思わなくはないですが…後の議論はお任せするということで。
これに加えて、実はもう一つ、特にgeneral referencesで書いてある記事をinline citationsに変更する際は、どうしても再検証をかけるという「手間」が発生しますが、その「手間」の部分でverificationが進むだろうという(割とひねくれた)目論みもあったりして……まぁこの辺りは「何でわざわざそんな手間を」と思う人もいるでしょうけどね ;-) --Y tambe 2009年10月28日 (水) 09:59 (UTC)
うーん。出典明示方法の認識を統一させる必要性をあまり感じないのですが。たぶん執筆分野が異なれば、「最低限ここに出典はいるだろう」というボーダーは天と地ほど異なります。選考にて反対票を投じた場合は改善に向けた具体的指摘をしなければ投票が無効になる場合があります。ハイデルベルクのケースであれば「歴史、宗教、文化の節に出典が全くありません」という指摘に対して、「具体的にどの文章に出典が必要か明示してください」くらいのやりとりはあっていいと思うのですがいかがでしょうか。--R.Lucy 2009年10月28日 (水) 12:12 (UTC)
確かに具体的な指摘があってしかるべきですね。ノート:ハイデルベルクに出典を示していただきたい箇所を書き出してみましょう。-- 2009年10月28日 (水) 12:31 (UTC)
出典を示す目的は「記述が独自研究でないことを示すこと」ですから、関連文献のどれにも同じことが書いてあって、特定の本を提示するのが難しい場合は、そのうちの適当な文献をひとつ脚注で示せば十分なはずです。全文献をずらずらと並べる必要はないと思います(むしろ本の宣伝に悪用される可能性があり、避けるべきでしょう)。節ごと、できれば段落ごとに、どの文献が出典なのか示されていないと、独自研究かどうかの検証が非常に大変です(できればページ番号や章節番号を添えてほしい)。私は選考投票時、その記事がウソ情報を含んだ悪質な記事でないか、出典を確認します(まぁ、全部確認できているわけではありませんが)。この作業に差し障りがなければ、どのような出典スタイルでも構いませんが、general referenceでは検証が非常に大変になるので、差し障りがあると思います。--Akaniji 2009年10月28日 (水) 14:37 (UTC)
  コメント miyaさんが提案してくださったような、何かしらの基準のようなものがあった方が判断しやすいかもしれません。ただ「general reference形式でよい」というのは少し後ろ向きなのではないでしょうか。その部分は特に明示する必要はないのではないかと。「何がしかの出典情報は必須(形式は問わず)」がおそらく最低ラインで、その上でinline citationsが望まれるケースのみを規定すればよいと思うのです。個人的には、以下のケースではinline citationsがあった方が良いと思います。
  1. データに基づく記述(数値や順位など、miyaさんの2番と同じ)
  2. 順序・比較・限定を含む記述(「○○で初めて…」「○○最大の…」「一般的な○○と比べて…」「世界的に有名…」「…したのは○○と××だけである」等)
  3. 歴史的事実(「○○年に…した」「○○年○○月現在」)
それから「関連文献のどれにも同じことが書いてあって、脚注で特定の本を提示するのは難しい場合」ですが、Akanijiさんも指摘されているように、何も全ての文献をinline citationsにする必要はなく、最も信頼性の高いもの1つ2つ参照させればいいのではと思います。--Penn Station 2009年10月29日 (木) 11:45 (UTC)
そうですね。すべてを脚注にすることはないと思います。というよりも、general referencingとinline citaionは共存が可能で、その方法がen:WP:CITE#Shortened footnotesだと思います。これはハーバード方式の派生形で、参考文献節でgeneral referenceを列挙して、これを脚注節からハーバード方式で参照する方法です。general referencingからinline citationへの全面切り替え、というような大変な作業は必要なく、既にあげられているgeneral referenceに、refでinline citationを足していく形になると思います。--Akaniji 2009年10月29日 (木) 15:15 (UTC)

  - miyaさんに確認を行ったところ[3]本議論の内容についてはen:Wikipedia:Citing sourcesを日本語版Wikipedia:出典を明記するに織り込んでいく際の参照としたいとのことでした。以上で一旦閉めたいと思います。多数のご意見ありがとうございました。--R.Lucy 2010年1月17日 (日) 06:39 (UTC)

「良質な記事の基準」に関する疑問 編集

今さらかもしれませんが…Wikipedia:良質な記事#良質な記事の基準には「月間新記事賞を受賞した記事」や「月間強化記事賞を受賞した記事」、「各ウィキプロジェクトにて良質な記事の基準を取り決め、その基準に従って選出された記事」が含まれています。ですがこれらにより選出された記事は、必ずしもWikipedia:良質な記事/良質な記事の選考#良質な記事の目安を満たしているとは限りません。

例えば、月間新記事賞ですが、「こんなことは初めて知った、切り口が斬新である、分かりやすく説明されている、翻訳が素晴らしい、その後の加筆が良いなど良いと思う理由は何でもかまいません」といった様々な理由で投票され、選定されていると思います。実際、私が投票する際もそうです(自分の興味のある分野にバイアスがかかっていることも否定しません)。月間強化記事賞も、「記事としての完成度が目覚しく向上した」かどうかが判断基準で、相対的判断です。一方ウィキプロジェクトによる独自の選定基準も、「良質な記事の目安」を満たさない場合もあるかもしれません。

再選考というパスが用意されているとは言え、一旦半自動的(?)に選出されたものを再選考ですぐに除去するというのも、何かしっくりきません。

また、ウィキプロジェクトの独自基準で除外を決定することもできますが、例えば良質な記事の選考で選出されたものを、それとは異なる基準で除外できるというのも腑に落ちません。記事が複数のプロジェクトに属している場合にプロジェクト間で基準が異なる場合もあると思います。あるプロジェクトの基準で「良質な記事」に選出されたけれど、実は別のプロジェクトの基準では「良質な記事」に相応しくない、という場合はどうなるのでしょう?

個人的には、Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考#良質な記事の目安を統一された「良質な記事の基準」としてしまってよいように思うのですが…。以上、疑問に思っていたことをこの時点で記しておきたいと思います。--Penn Station 2009年11月1日 (日) 11:35 (UTC)

良質な記事を選出するというのは手段であって、目的は執筆意欲の向上とそれに伴うWikipedia日本語版の総合的な質の向上にあります(と、私は思っています)。そういう前提で、ご質問の件に関して私の考えをコメントします。
まず1点目、再選考は除去する場ではなく、選考を行う場です。現状はスタート時点で選出されていた記事の再選考なので、出典が無いものには「出典をつけてください」としか言えないのですが、もうちょっと依頼関係が落ち着いてひとつの記事にじっくり取り組めるようになった後は、能動的な議論・対応をしていきたいなとは思っています。(すいません、手がまわってません)
2点目、将来的な話になりますが、記事クラスはウィキプロジェクト毎に指定されます。現在Wikipedia:ウィキプロジェクト 執筆支援で参加しているPJのGA選定基準は大抵「WP:GAに選ばれていること」ですが、これを十全とするか、必要条件として付加条件を付ける(例えばGA選出かつ参考文献5冊以上でPJのGAに認定とか)かはプロジェクト内で合意が取れていればプロジェクト間の記事クラスに齟齬があっても問題ないと思います。
取り急ぎ以上です。--R.Lucy 2009年11月1日 (日) 11:59 (UTC)
ご返答ありがとうございます。私が疑問に感じているのは、少なくとも現状では「良質な記事」がプロジェクト単位ではなくWikipedia日本語版全体をスコープにしているにも関わらず、選出や除去には複数の基準が並立し得る、つまりある基準で選出されたものが、別の基準で除外し得る、という点です(選考/再選考基準の非対称性です)。「良質な記事」をスタートさせるに当たって、一旦、条件に当てはまるものを一律GAとし、再選考を行うという現状ですが、迅速に立ち上げを行うためにはやむを得なかったと思います。ただ執筆者の中には理不尽と感じている人もいるのではないかという点が気になっています(例えば過去の月間新記事賞受賞で自動的にGAになったものが、すぐに現在の基準で除外されてしまったケース等です)。選考/再選考で複数の基準が並立することで、同様のことが今後も起きないか心配しています。そうなると執筆意欲の向上にもマイナスの影響を及ぼしかねません。
R.Lucyさんご指摘の2点目は、プロジェクト側からの視点のみでのお話だと思います。「良質な記事クラス」というものが必ずプロジェクト単位で独立して選考/再選考されるのであれば、プロジェクト間の基準に齟齬があっても、特に問題はないと思います。ですが私の認識では、「良質な記事クラス」は前述のようにWikipedia日本語版全体を対象としていて、上記のような選考/再選考基準の非対称性が存在しています。この非対称性を解消するためには、完全に独立したスコープ(要素が一部重なることはOK)の中でそれぞれGAの選考・再選考を行うようにするか(互いに干渉させない)、あるいは統一した基準を設けるか、のいずれかになると思うのですが、いかがでしょうか?--Penn Station 2009年11月3日 (火) 09:02 (UTC)
1点目、繰返しになりますが、再選考も選考のひとつです。除外基準を満たさないことは、良質な記事であるための条件のひとつですので、基準が並立するということは無いかと思います。2点目、PJ_Aで良質な記事に選定された記事は、PJ_Bで良質な記事と認められていなくても良質な記事になります。仮にPJ_Aの選定基準がWP:GA側の基準と見比べて不当に低いのであれば、それはPJ内で調整して選定基準を見直すべき話ではないでしょうか。(要は、PJ内で良質な記事に選定された記事が良質な記事の再選考で除外されてしまうような基準にはしないでください、ということです)
あとはケースバイケースで都度会話していけば大きな問題は起きないように思っています。--R.Lucy 2009年11月3日 (火) 12:38 (UTC)
うーん、ちょっと認識が異なります。現に複数の基準が並立していませんか?良質な記事の基準では月間新記事賞入賞や各プロジェクトの独自基準など、複数の基準が並立しているように見えます。良質な記事の除外基準でも「良質な記事の再選考」での基準や各プロジェクト独自の除外基準など、同様に複数並立に見えます。それらは、どれか1つを満たせばよい(OR条件)、のですよね?Aという基準(例えば月間新着記事)で選定された記事をBという基準(例えばWP:GAの基準)で除外するのは不合理なのでは、ということなのですが。「除外基準を満たさないことは、良質な記事であるための条件のひとつです」は分かるのですが、選定と除外が時系列的に異なる時点である点と選定条件と除外条件はそれぞれ内部でOR結合である点にご留意願います。
2点目の各プロジェクトの基準ですが、つまり現時点でまだ明記されてはいませんが、WP:GAで定めている基準をプロジェクト基準の最低ライン(必要条件)とする。複数のプロジェクトに属している記事は、そのうちいずれか1つのプロジェクトでGAとなれば、全体としてGAになる。プロジェクトの除外基準に抵触して仮に全プロジェクトのGAから除外されたとしても、最低現WP:GA基準を満たしていれば、記事は依然GAのまま(その際はWP:GAの再選考が必要?)。ということですね。--Penn Station 2009年11月3日 (火) 14:25 (UTC)
  コメントPenn Stationさんがおっしゃりたいのは、月間新・強化記事賞に選出されたことで一度は自動的に良質な記事に選出された記事が実は選考基準を満たしていないとして除外される、見方を変えれば除外基準に当てはまる記事が一時的にでも良質な記事として認定されることの矛盾をどのように考えればいいのかということではないでしょうか。R.Lucyさんにすればたとえそのような記事が出てきたとしても、(一時的な)選出→除外という流れを一体としてみれば、結局はその記事が良質な記事の基準を満たさなかったということになるのだから矛盾はないという説明になるのでしょうか。-- 2009年11月3日 (火) 14:27 (UTC)
ありがとうございます。おそらく廉さんがまとめて下さったとおりなのだと思います。私が言いたいのは、一時的にせよ正当な手順で「良質な記事」となったものが、実はその基準を満たしてないとして除外される(例え内容が1バイトも変わってなくても!)こととなった場合の執筆者の気持ちを斟酌して欲しい、ということです(執筆意欲向上のためにも)。詳しくは下記の廉さんへの応答の中で述べています。--Penn Station 2009年11月3日 (火) 14:54 (UTC)
正当な手順で「良質な記事」となったものが、実はその基準を満たしてないとして除外されることとなった場合の執筆者の気持ちを斟酌して欲しい」ということですが、除外とならないよう、再選考の場で、現状何が不足していて、どうすれば良質と言える記事になるのかを議論しつつ記事の改善を行っていって欲しいです。私が最初に述べた「もうちょっと依頼関係が落ち着いてひとつの記事にじっくり取り組めるようになった後は、能動的な議論・対応をしていきたい」というのはそういう意味です。
たとえばローランの歌の再選考では、記事に盛込まれているトピックが物足りないということが議題として挙げられていますが、これを改善するためにどんなトピックが必要で、どういう対応をすれば良いかを話し合って実際に対応していく場にしたいと思っています。
選考の場ではそういったオピニオンリーダー的役割は推薦者の方や主執筆者の方が率先して行っていただいていますが、再選考の場ではなかなかできていません。議論参加者で手に余る記事であれば有識者や主執筆者に応援を呼びかけたりするのも「能動的な対応」のひとつと思います。
2点目、たとえば選出理由が新記事賞などのPJ外部の要因であれば、そうなりますが、そもそもPJの除外基準に抵触する記事はPJの選出基準に合致すべきではないと思います。(PJ内の選出基準をGA選出のみとするなら、除外基準はGA除外のみとするべきだし、除外基準を独自に「ref10個以下の場合」などと決めるのであれば、選出基準にも「GA選出かつref10個以上」と盛込むべき。そうすればそもそもPJとしてGAにはなっていないので、除外という概念は出てこない) このへんはPJで選出基準を決める際にしっかり議論すべきだと思います。--R.Lucy 2009年11月3日 (火) 15:36 (UTC)
生身の人間がある記事をGAに推薦したのであれば、その推薦した人は当然その記事をGAに相応しいと考え、執筆者・関係者とも議論しながら、足らざる所があれば改善してGAを目指すか、あるいは当面はGAを目指さないのか、といったことを「人間対人間」で話し合えるし納得もできると思います。ところが月間新記事賞などの記事は、話し合いをする間もなく「自動的に」GAに選出されてしまいます。つまり既にGAであることが期待されているのに、実は元々(少なくとも当面は)GAを目指して作成された記事ではない「かも」しれませんし、誰かがGAに推薦した訳でもありません。そのような記事を「GAであるべき」と自動的に枠をはめてしまってから再選考で議論するというのは、いかがなものでしょう。「GAを目指す」ならポジティブでいいのですが、「とにかくもうGAになってるんだから、それに相応しくしなければ」ではどちらかと言うとネガティブな印象ですし、執筆者が駆り立てられているようにも感じてしまいます。
2点目のPJの除外基準と選出基準は当然PJ内で整合性を持たせるべきだと思います。現状ではPJ Aの選出基準でGA選出された記事をPJ Bの除外基準で除外できるようにも読めますし、月間新記事賞などPJ外で選出されたものとの関係など、もう少し整理が必要そうですね。--Penn Station 2009年11月3日 (火) 17:14 (UTC)
目的が「執筆意欲の向上」である以上、主執筆者の意向は汲み取ってしかるべきでしょう。そういう意味で再選考にかけられたものもあります(例示1,例示2)。当然、記事は主執筆者の所有物ではありませんので、他の方がGAにしたいと考え、主執筆者の意向を汲み取った上で積極的に記事の質向上に動くのであればそれは歓迎すべきことだとは思いますが。
下で廉さんもおっしゃってますが、新記事賞や強化記事賞、コンテストの入賞記事などは「GAであるべき記事」ではなく、「GAである可能性が高い記事」でしょうということで、自動的にGAになっています。実際に運用した後で「こうした記事はGAじゃない場合の方が多い」ということになれば、それを対象から外すための議論をすることに異論はありませんが、現状、そこを考慮する必要性はあまり無いと感じています。--R.Lucy 2009年11月3日 (火) 22:49 (UTC)
執筆者の気持ちについてですが、Penn Stationさんのおっしゃることにももっともな点があると思います。自分が書いた記事が他人からどのような評価を受けるかについてまったく興味がないという執筆者はおそらく相当数存在します。その中には自身が選出→再選考という流れの中に巻き込まれること自体を不本意、煩わしいと感じる方もおられるでしょう。再選考の場がR.Lucyさんのおっしゃるように機能すれば言うことはないのですが、そもそも執筆者に参加を拒まれてしまったり、反発を買ってしまう可能性も考えておかなくてはなりません。Penn Stationさんが下で提案されている「月間新記事・強化記事賞を受賞した記事は良質な記事の選考に推薦枠と無関係に推薦できる」という案ですが、議論に巻き込まれたくない執筆者を想定した場合、いい案かもしれません。この案ですと基準を満たさないと思われる記事はそもそも良質な記事と関わるを持つことがない(選出も推薦もされない)わけですから、執筆者が議論に巻き込まれることがありません。-- 2009年11月4日 (水) 00:30 (UTC)
どんな記事でも誰でも推薦できる以上、新着かどうかに関わらずこういう企画に関わりたくない利用者を巻き込む可能性は孕んでいると思います。議論(評価)する場所が再選考か、選考かで、意味が違うということなのであれば、積極的反対はいたしません。--R.Lucy 2009年11月4日 (水) 00:57 (UTC)
確かにそうなんですけど、同じ巻き込むにしても「加筆しないと良質な記事から除去されてしまう」というところからスタートすると「加筆をすれば良質な記事になる可能性がある」というところからスタートするのとでは巻き込まれる側が受ける印象が違うような気がします。
私は2009年11月3日 (火) 09:40 (UTC)のコメントを書いたあたりでは、再選考にあたり執筆者に働きかけを行うことをあまり強く想定していなかったのですが、議論をしつつ記事の向上を図る方向で制度を運用するのであれば執筆者と連携する必要性がかなり高くなると感じました。そうであれば執筆者が良質な記事という制度に好印象を抱きやすい形でコンタクトを取るほうが制度のためにもいいと思います。(制度運用に対する認識が変わったことで、当初よりもややPenn Stationさん寄りの意見になっています)ただ自動的な選出を一律でなくす必要はないと思います。執筆コンテストは入賞しなかった記事でも次々と選考を通過しているようにかなりレベルが高いので大丈夫でしょう。月間新記事賞もまず大丈夫ではないかと。ただ、月間強化記事賞には不安があります。-- 2009年11月4日 (水) 09:33 (UTC)
(インデント戻します)上記廉さんのコメントと一部重なりますが、以下はR.Lucyさんに最もお聞きしたいことです:「GAである可能性が高い記事が自動的にGAになる」、確かにその可能性は高いのかもしれません。ですが実際にGA基準を満たさない記事が(誰かが推薦した訳でもなく)自動的にGAとなり、さらに再選考の対象となった場合、その執筆者は果たしてポジティブに捉えることができるでしょうか?「執筆意欲向上」につながるでしょうか?誰かに推薦されたのであればまだ話し合う余地もあるでしょうが、自動的に選定されてしまってはその機会もありません。「可能性が高いから自動的にGAにする」のは、効率的にGAの数を増やすには便利かもしれません。しかしその一方で、例え少数と言えども、(いわば効率性の犠牲となる形で)GA自動選定・再選考プロセスに不信感を抱いてしまう執筆者が出てくる可能性が少しでもあるのなら、それはR.Lucyさん仰るGAの目的に合致しない、多い少ないの問題ではない、と私は思うのですが、この点についていかがお考えででしょうか。--Penn Station 2009年11月5日 (木) 13:11 (UTC)
繰返しになりますが、「自動的にGAに選出され、再選考において問題点が指摘され、除去に至る過程」と「執筆者以外からGAに推薦され、選考において問題点が指摘され、見送りに至る過程」に私は違いがあるとは思っていません。当然、通過する場合も同様で、「自動的にGAに選出され、再選考において問題点が指摘され、対応することで現状維持に至る過程」と「執筆者以外からGAに推薦され、選考において問題点が指摘され、対応することで選出に至る過程」に違いがあるとは思いません。こうした共同作業を行う場では、どのような形であろうと、自分の執筆した記事が批判されると不愉快に感じる方は少なからずいるでしょうし、それは選考の場による違いで解消できるものでは無いと思っています。
多い少ないに限らずそうした利用者が出てしまうことについてどうしても気になり、それをシステム的になんらかの対応をするのであれば、自薦以外の推薦を禁止する、他薦する場合は事前に執筆者に了承を得ることを必須とする、推薦者がオピニオンリーダーとして責任を持って対応することを義務付ける、などといった縛りをいれるしかないでしょうと思います。
私は、Penn Stationさんが懸念されている事情はシステム的な不備ではなく、コミュニケーションの問題であると考えていますので、先に回答した「積極的反対はいたしません」以上の応えは持ち合わせていません。--R.Lucy 2009年11月5日 (木) 13:50 (UTC)
(提案)R.Lucyさんも現行の自動的な選出を推薦枠と無関係の推薦に置き換える案について反対はされていないですし、ひとまず月間強化記事賞についてシステムを変えてみるということで合意形成を図りませんか?-- 2009年11月6日 (金) 00:14 (UTC)
私はシステム的な不備ではないかと捉えて疑問点を述べさせていただきましたが、R.Lucyさんのご納得は得られないようですので、この場でこれ以上繰り返すのは止めておきます。併せて、下記でも触れましたが、自動的にGAとしてしまうことによって他の選考に暗に影響を与えてしまう恐れがある、という点も改めて指摘しておきたいと思います。
それはそれとして、私も月間強化記事賞については廉さんと同様の印象を抱いています。とりあえず月間強化記事賞についてその案を導入してみることに賛成です。ルール改訂になるので改めて節を分けた方がいいかも?--Penn Station 2009年11月7日 (土) 02:56 (UTC)
#月間強化記事賞を受賞した記事に関するルール改定案の節を新たに設けてルール改定を提案しました。-- 2009年11月7日 (土) 15:03 (UTC)
  コメント新記事賞と強化記事賞についてコメントします。新記事賞や強化記事賞は投票における相対的な得票数の多寡によって選出されるのに対し、良質な記事は解釈の余地があるとはいえ一定の水準をクリアしているかという個別審査を経て選出や除去が決まるものなので、その性質は基本的には全くの別物といえるでしょう。新記事賞や強化記事賞はその月にエントリーした記事のレベルによってどうしても選出される記事のレベルにバラツキが出ます。新記事賞や強化記事賞に選ばれた記事を自動的に良質な記事とするのは、それらの賞に選ばれるのであれば良質な記事の基準をクリアしている可能性が高いだろうという推測に基づくものなのでしょう。私個人はその考え方に賛同します。推測はあくまでも推測であって、前述の理由から必ずしも良質な記事の基準を満たさない記事が選出されてしまうこともあるということは否定できませんが、それでも(「最近」という限定はつくかもしれませんが)月間新・強化記事賞に選ばれた記事が良質な記事の基準を満たしている可能性は高く、月間新・強化記事賞に選ばれた記事を自動的に良質な記事とするというルールには合理性があると感じています。また、執筆意欲の問題についてですが、月間新・強化記事賞に選ばれた記事が再選考にかけられ良質な記事でなくなったとしても、月間新・強化記事賞に選出されたこと自体が否定されるわけではないのですから、さほど深刻に考える必要はないのでは、とも思います。-- 2009年11月3日 (火) 09:40 (UTC)
可能性で言えば確かにそうかもしれません。ただ私はどちらかというとその「必ずしも良質な記事の基準を満たさない記事が選出されてしまうこともある」点を気にしています。例えば新着記事については、何しろ新着な訳ですから、今後への期待を込めて、主題選定の着眼点や切り口の斬新さ等の観点から評価されることも多いかと思います。検証可能性がまだ不十分であることも十分あり得ます。なのに自動的に選定された上で、「再選考」の形で良質な記事の基準で評価されるのはなんとも腑に落ちない、と感じるのは私だけでしょうか?例えば[4]このようなご意見もありますし、もしかしたらKsさんやY tambeさんも同じような思いをされたのかもしれません…。逆に、新着投票の際に良質な記事の基準が暗に圧し掛かってくるとするなら、それこそ望ましいことではないと思います。例えば、月間新記事・強化記事賞を受賞した記事は良質な記事の選考推薦枠と無関係に推薦できる、という程度であれば、納得性は高まると思うのですが。--Penn Station 2009年11月3日 (火) 14:25 (UTC)
うーん、実際新着投票では参考文献の明示以上の形で検証可能性を担保していない記事が新着記事に選出される可能性はものすごく低くなっていますし、月間新記事賞に選出されることはまずないと断言していいくらいだと思う(因果関係はともかく、すでに良質な記事の基準に準じた基準が暗に圧し掛かっているのでしょう)のですが、月間強化記事の方はそうとも言えない感じがしますね。忌憚のない言い方をしてしまうと、投票者数が少ない上に「常連」メンバーがほぼ固定されているため、ある属性を持った記事が選出されやすい土壌があって、その属性を持つだけで参考文献が全く上がっていない記事でも強化記事に選ばれてしまう可能性はかなりあると思います。-- 2009年11月3日 (火) 14:39 (UTC)

立ち上げお疲れ様です。同じく疑問なのですが、なぜ選考に賛成/反対といった票が存在しているのでしょうか。この票システムは要らないのでは?英語版でいう「良質な記事」とはそもそも減点方式であって、日本語版でいう「良質な記事の目安」となっている部分を独自研究/中立的観点/スタイルマニュアルのような形で満たされているべきカテゴリ毎に節で区切り(en:Template:GAN)、内容に異議がある利用者は満たされていない点について具体的に指摘するという運用システムであるはずで、賛同票は本来不要なはずです。そもそもあの基準は日本語版が掲げているような「目安」ではなく「必須」事項であるはずではありませんか。

>良質な記事の基準は複数人の参加者による査読が行われ、認められた記事を基本とします。

この文章と現在の賛成/反対票を投じて決めるという運用には違和感を覚えます。そのような選考の仕方はFAのみで十分だと思います。このシステム-良質な記事は秀逸な記事のための、いわば秀逸な記事の踏み台として一歩手前で問題点を指摘するためのシステムであって、現在のようにただ熱心にリストすることを目的にしているわけではないと思います。執筆意欲向上を目的とするのならば、en:Wikipedia:Version 1.0 Editorial Team/Assessment日本語版導入の方がよっぽど向いています。何のための良質な記事なのか、リストすることを目的とするのならばWikipedia:おすすめ記事があります。付与を前提とした現在の運用には異を唱えます。称号は結果としてついてくるものであって、目的ではありません。--Tsukamoto 2009年11月15日 (日) 10:21 (UTC)

月間強化記事賞を受賞した記事に関するルール改定案 編集

現在良質な記事の基準のひとつに「月間強化記事賞を受賞した記事」があり、月間強化記事賞に選出された記事は自動的に良質な記事に選出されるルールとなっています。しかし#「良質な記事の基準」に関する疑問の中で、必ずしも良質な記事の基準を満たさない記事が選出される可能性が無視できない程度にあるのではないかという議論が持ち上がり、月間強化記事賞を受賞した記事について自動的な選出ではなく「良質な記事の選考に推薦枠と無関係に推薦できる」とルールを改定する案が浮上しています。この案について、新たな節を設けて賛否を問いたいと思います。-- 2009年11月7日 (土) 15:03 (UTC)

  賛成 #「良質な記事の基準」に関する疑問の中で表明したように、改定案に賛成です。-- 2009年11月7日 (土) 15:03 (UTC)
  賛成 節分け・ご提案ありがとうございます。基本的な理由は同じく#「良質な記事の基準」に関する疑問で示した通りですが、「月間強化記事賞」は現状特に参加者が少ないことから偏りやWP:GA選定基準を満たさない可能性も比較的高いのではないかと思います。--Penn Station 2009年11月7日 (土) 16:13 (UTC)

提案から2か月以上が経過しましたが、賛成意見は私とPenn Stationさんで反対はなしという状況です。合意形成ができたと言えるかどうか微妙に感じること、Wikipedia‐ノート:メインページ新着投票所/新しい項目候補#記事の大幅加筆・全面改稿をメインページ掲載対象にする提案の議論次第で月間強化記事賞のあり方が大きく変わる可能性が出てきたことから、提案者としては異論が出ないようであればひとまず結論を出さずに終了として、しばらく事の推移を見守りたいと思います。-- 2010年1月16日 (土) 17:57 (UTC)

選考方法変更の提案 編集

お世話になります。現在Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考で行われている選考方法について、現在の賛成票/反対票の加減方式から賛成票の積上げ方式へと変更を提案します。具体例をこちらにサンプルとして作ってみましたので、ご確認ください。大きな変更を伴うため、具体的ルールに関しては変更するという合意が得られた後に詰めていきたいと思います。

提案に至った背景や理由はいくつかあるのですが、良質な記事という企画へ、より参加しやすくすることを主たる目的とした提案になります。現在行われている選考方法のメリット・デメリットをふまえ、検討していきたいと思いますので、ご意見の程よろしくお願いします。--R.Lucy 2009年12月5日 (土) 08:54 (UTC)

反対票をなくすことで、良質な記事の基準に関する見解の相違に基づく衝突が回避される効果が得られると思われます。一方、多重アカウントを駆使した賛成票の積み上げが行われる可能性があります。実際に過去の秀逸な記事の選考において、ソックパペットを利用した賛成票の水増しが行われた可能性が指摘されています(Wikipedia:投稿ブロック依頼/G-love他およびWikipedia‐ノート:投稿ブロック依頼/G-love他を参照)。明らかにおかしいと思われる投票があったとしても反対票による足止めがきかないことのリスクについては十分に検討しなければならないでしょう。-- 2009年12月5日 (土) 09:41 (UTC)
ご意見ありがとうございます。変更をするとなった際には、詳細検討時にソックパペットによる投票の予防について対策方法があるかどうか、検討したいと思います。ほかの方の意見も伺ってみたいので、コメント依頼へ依頼してみました。--R.Lucy 2009年12月8日 (火) 13:44 (UTC)
僕の意見としては、消極的賛成(変更するならば反対はしない)といったところです。良質な記事という制度を盛り上げていく上で、反対票をなくすことによる見解の相違による衝突回避、そして良記事への参加を促す効果はあると思われます。すでにWikipedia:良質な記事/良質な記事の再選考もあるので、反対票を廃止したとしても「反対意見の封殺である」という批判には当たらないのではないかと考えます。一方、デメリットとして考えられる多重アカウントによる賛成票の水増しについてですが、現状の制度でも厳密にはその可能性を排除できないのではないでしょうか? この点については制度変更への決め手とはならないと思います。また、同様にデメリットとして反対票という形での、批評と記事の品質の向上が得られなくなるかもしれません (これは衝突回避の効果とのトレードオフでしょう)。 この点についてはみなさんが「良質な記事」をどう考えているのかについてよく議論されるべきだと思います。 --yghwtrrl 2009年12月8日 (火) 14:42 (UTC)
ご提案の賛成票の積上げ方式には強く反対します。むしろ、廃止すべきは賛成票―それ以前に現行の賛成/反対票制度それ自体の方でしょう。良質な記事制度の本質はFAを前に選考の基準に照らし合わせて、各観点から記事に含まれる問題点を洗い出しチェックすることであって、そもそも単に「満たしていると思う」といって賛成票を積み重ねたり、賛成/反対と票を戦わせることではありません。サンプルにあるような記事を読んだ感想を述べる場でもありません。根底から間違っています。--Tsukamoto 2009年12月9日 (水) 09:00 (UTC)
ご意見ありがとうございます。ご提案の減点方式は、日本語版に馴染み辛いイメージがあります。現状の反対票が投じられた時と同じような衝突が生まれないでしょうか。具体的解決策があればご教示いただけたらと思います。よろしくお願いします。--R.Lucy 2009年12月9日 (水) 11:35 (UTC)
英語版のようにレビュー方式を取り入れることはできませんか?わたしもTsukamotoさんの意見には賛成です。--Afaz 2009年12月10日 (木) 15:31 (UTC)
個人的な意見を表明しておきますと、どのような方式をとるにせよ、指摘された問題点が全て解決されない限り選出されないという性質の制度には反対です。そういった厳しい(改変や説得、合意形成などに推薦者・主執筆者が要する負担が大きい)選考は秀逸な記事の選考だけで十分だと思います。せめて良質な記事はもっと負担の少ない制度にすべきであって、この観点から現行の方式と賛成票積み上げ方式がもたらす効果にあまり大きな差はないような気がします。-- 2009年12月10日 (木) 16:15 (UTC)
ウィキペディアの目的を見失っていませんか。GAはあくまで結果であって、目的ではありません。ウィキペディアの目的は「質量ともに史上最大の百科事典を、共同作業で創り上げる」ことです。ウィキペディアの掲げる目的よりも執筆者の都合が優先されるというのはおかしくないですか。本末転倒です。GAはバーンスター騎士団ではありません。本質を見失い、GAという称号を付与することを前提としてしまえば過去の前例からいえばこの制度は「遊び」ということになってしまいます。--Tsukamoto 2009年12月13日 (日) 02:59 (UTC)
まず、英語版でいうレビュー方式での指摘は「反対」を意味しないし、ネガティブな意味も持ちません。ただ「基準を満たしていないこと」を意味するだけです。逆に全てが満たされていればこのように「満たされている」問題なしとしてチェックされる―そういったことも可能です。もし上のリンクのように異議なしで通過したことに疑問を持ち、記事に問題があると考えるならば具体的に問題点をして指摘して再選考にかけることもできます。一方、記事がGAに達していないことを確かめるためにノミネーターによって選考にかけられる場合もあります。この場合の本質は、具体的にどの観点、箇所が満たされていないのかを項目の執筆者に示してあげることで記事の問題点を明確にするということです。逆に言えば、その問題点さえ解消すればGAになることができ、更にFAにも近づくというウィキペディアの目的を見失わない一種の方法論です。en:Wikipedia:Good article criteriaにGAとは何かということが示されています。en:Template:GAListen:Template:GAList2などを用い英語版を踏襲という形が一番よいのではないかと思います。--Tsukamoto 2009年12月13日 (日) 02:59 (UTC)
それを反対ととらえようがとらえまいが、「この条件を満たす必要がある」という意見が選出を妨げるのであれば効果面では同じだと思います。英語版でいうレビュー方式での指摘は……「基準を満たしていないこと」を意味するだけです。とおっしゃいますが、それは違いと思います。そのような指摘はその利用者による、「『基準を満たしていない」と思われる」という表明に過ぎないのではないでしょうか。「基準を満たしているかいないか」という判断において、基準の解釈に個人差があるというのは過去の選考を見ればわかることです。とくに選考の基準のひとつ「項目に記述されるべきトピックがある程度網羅され、」については表現が「ある程度」と曖昧なものになっていることから、利用者によってどの程度が「ある程度」であるのか、解釈に差が出ることは不可避と言ってよいでしょう。私は「ある程度」の解釈について少数派の意見に過度に拘束されるような制度設計は行うべきではないと考えます。私は基準の解釈に幅があるという認識のもとに一定以上の支持を得ればよいという制度が妥当であると思いますし、その利用者が感じる「ある程度」がどの程度であってもクリアできる状態、言い換えれば網羅度の判断において反対する者がいない状態を目指すべきだというのであれば、結局のところそれは秀逸な記事の基準(「百科事典において必ず説明されるべきことが全て説明されている」)に限りなく近い網羅度が要求されることになり、良質な記事の選考は秀逸な記事の選考と大差のないものになってしまうのではないかという懸念を覚えます。-- 2009年12月13日 (日) 04:02 (UTC)
ウィキペディアの記事の質を上げる(が上がる)ことを考えれば、それは当然のこととして受け入れられるべきではないでしょうか。そういった厳しい選考に耐えた記事こそを秀逸な記事と呼ぶべきで、そしてそれこそがすなわち秀逸な記事に求められるレベルの質を意味するのではないでしょうか。ウィキペディアの記事に所有権はないわけで、必ずしも同じ人物がひとりで選考に耐え抜く必要も、また一度で通過する必要性もありません。少数派という呼び名でネガティブに捉えられているようですが、これは言い換えれば記事に含まれる問題点を指摘し、記事の改善に貢献してくれる善良な利用者でもあるわけです。勿論、それがWP:POINTにあたるのであればその場合はお引取り願わなければならないということもあると思います。お言葉を返すようですが、「基準を満たしていない」と思われるがそうであるのならば、逆を言えば賛成票の積上げ方式も「基準を満たしている」と思われると呼べるわけですよね。皆、楽をしたいんです。前者と後者を比べた時、当然後者のほうが楽に通過でき更にGAという称号、お墨付きも得られるわけですから。楽をしてぬるま湯に浸かるのは簡単です。しかし、それは果たしてウィキペディアの記事にとって最善の選択でしょうか。優先すべきは利用者の都合ではなく、あくまで記事です。--Tsukamoto 2009年12月18日 (金) 04:17 (UTC)
秀逸な記事の選考が厳しいものであることに反対はしません。私が懸念しているのは、良質な記事の選考が秀逸な記事の選考並みに厳しくなることについてです。Tsukamotoさんのコメントを拝見していますと現在の方法は生ぬるい、良質な記事の選考を秀逸な記事の選考並みに厳しいものにすべきと感じておられるのではないかと思われてなりません。しかしそれではわざわざ秀逸な記事とは別の、ワンランク下の制度を作った意味がないと思います。誤解を恐れずに言いますが、秀逸な記事の選考と比べた場合、良質な記事の選考は当然甘いものであるべきなのです。#良質な記事の位置づけについてと関連しますが、私は良質な記事を「高い質を保ち、あと一歩で秀逸な記事へとなりそうな記事群」と定義すること(私が見たところ、良質な記事をこのように定義することには合意が形成されていません。立ち上げの議論は「「秀逸な記事」と「普通の記事」の間に「良質な記事」というカテゴリを設けましょうという提案です。」というところからスタートしたはずです)にも反対なのです。ワンランク下の制度である良質な記事には秀逸な記事ほどの厳しさも権威も必要ない、「秀逸な記事には及ばないが普通の記事よりも上(ある程度優れている)」以上の水準にある記事をピックアップし、同時にある程度以上の記事を書けているということを執筆者に認識して頂き、執筆意欲を高めて頂くことができればそれでよい、そのことによってWikipediaにとって有益な効果を十分にもたらすことができるというのが私の意見です。Tsukamotoさんは2009年12月9日 (水) 09:00 (UTC) のコメントで「良質な記事制度の本質はFAを前に」、2009年12月13日 (日) 02:59 (UTC) のコメントで「更にFAにも近づく」と述べておられますが、秀逸な記事を意識し過ぎではないでしょうか。両者は別の制度なのですから、良質な記事の選考において記事の質を秀逸な記事に近づけることを意識する必然性は感じません。秀逸な記事へ向けたブラッシュアップを図りたいのであれば、別途査読依頼に出せばよい話です。良質な記事のレベルを秀逸な記事のレベルに過度に近づけることにも、良質な記事の選考を秀逸な記事の選考に向けた査読依頼と位置付けることにも私は反対です。さらに言えば、良質な記事を秀逸な記事と過度に関連付けることにも反対です。
以下は個別の反論です。ウィキペディアの記事に所有権はないわけで、必ずしも同じ人物がひとりで選考に耐え抜く必要も、また一度で通過する必要性もありません。については、秀逸な記事の選考の現実をご存じないのでは、と思わざるを得ません。過去の選考を見れば、秀逸な記事形式の選考で反対票が投じられた場合、現実には主執筆者がひとりで頑張らなければどうしようもないケースが非常に多いと思われます。「基準を満たしていない」と思われるがそうであるのならば、逆を言えば賛成票の積上げ方式も「基準を満たしている」と思われると呼べるわけですよね。についてですが、「1人でも反対している者がいる限り選出できない」という制度において、賛成票と反対票とではもたらす効果がまったく異なります。多数の賛同を得られない理由付けがされた票が投じられたとして、それが賛成票の場合は選出要件の何分の一かを満たすに過ぎません。一方、反対票は無効にならない限りその1票だけで選出を絶対的に阻止することができるのです。そのような反対票を説得するにせよやむを得ず排除するにせよ、当事者、特に推薦者と主執筆者は大変なエネルギーを要します。秀逸な記事の選考はともかく良質な記事の選考をそこまで過酷なものにすべきではないと思います。
Tsukamotoさんのコメントについて全般的に思うことですが、良質な記事において、全く別の制度である秀逸な記事を意識し過ぎるのはやめませんか?-- 2009年12月18日 (金) 08:49 (UTC)
(追記)「良質な記事制度の本質はFAを前に選考の基準に照らし合わせて、各観点から記事に含まれる問題点を洗い出しチェックすることである」というTsukamotoさんのお考えには先に述べたように反対ですが、「秀逸な記事を見据え、選考を前に基準に照らし合わせて、各観点から記事に含まれる問題点を洗い出しチェックする」ことは査読依頼の一形態として推奨されるべきものであると思います。秀逸な記事の選考に出すことを前提にした査読依頼において問題点が指摘されなかった、または指摘を全て解決したと認められた記事には「秀逸な記事候補」という評価を与えてもよいのかもしれません。Tsukamotoさんの問題意識はむしろ今仮に想定した「秀逸な記事候補」に近いものではないかと思います。そのような意識を良質な記事に持ち込むことには反対ですが、秀逸な記事の選考を前提にした査読をベースに良質な記事よりも上の、限りなく秀逸な記事に近い記事を選出する制度を創設するということであれば全く反対はいたしません。-- 2009年12月18日 (金) 09:12 (UTC)

(インデント戻し)廉さんの仰るとおり、良質な記事を秀逸な記事に近づける必要はなく、選考基準は甘いものであるべきです。ですから良質に推薦された記事の執筆者は推薦されて反対を付けられたからといってことさら頑張る必要はありませんし、inline citationでないからといって落とされるいわれもありません。--КОЛЯ 会話 2009年12月18日 (金) 15:58 (UTC)

КОЛЯさんの言わんとされていることは私なりに理解しました。出典の示し方については私自身、厳しい基準を掲げていた時期があります。しかしいくつかの選考を経験する過程で、ガイドラインを最低限満たしているのであれば少なくとも反対はするべきでないと考えを改めました。この点に関しては私自身が秀逸な記事の選考におけるやり方に引きずられていたことは否めません。その原因の一つにWikipedia:良質な記事冒頭に書かれている定義(高い質を保ち、あと一歩で秀逸な記事へとなりそうな記事群)があります。この定義は制度スタートへ向けた議論では出てこなかったはずで、だからこそ「「秀逸な記事」と「普通の記事」の間」という定義の下で設計された制度とズレが生じるのでしょう。個人的にはWikipedia:良質な記事冒頭の定義は早々に修正するべきと考えます。-- 2009年12月18日 (金) 17:11 (UTC)

(インデント戻ス:Tsukamotoさんに対して)「優先すべきは利用者の都合ではなく、あくまで記事です」とのことですが、私は、執筆者がいなければ記事は無いと考えます。本制度は「執筆者の執筆意欲向上」を主たる目的として掲げて検討していったうえで企画したものです(こちら)。そういう意味ではTsukamotoさんが考える「良質な記事」という制度の目的とは異なるかもしれません。この目的部分の合意が得られないのであれば、本企画を廃止し、新しく立案し直した方が早いかと思います。--R.Lucy 2009年12月19日 (土) 08:15 (UTC)

(下の位置づけの節とどちらに書こうか迷いましたが、一応こちらの方がホットイシューっぽいので)「優先すべきは利用者の都合ではなく、あくまで記事」というのは建前論としては大いに結構と思いますが、実際問題として、記事への愛着を考えると、他人が主執筆した記事を良質・秀逸まで育成しようというのはよほど記事内容自体にこだわりでもない限り難しい気がします。R.Lucyさんの仰る通り、「良質な記事」自体、執筆意欲向上を目的として創設された制度であるならば、そういった属人的な要素も重視されるべきで、英語版のGAの制度を過度に意識する必要はないように思えます。
個人的な話になりますが、私の場合この制度の立ち上げ時の経緯は全く知らず、ある日突然「良質な記事」というものができたので「これはいいものができたな」と思い、いくつかの記事に賛成票を投じてきました。私の場合経緯を存じていなかったこともあり「良質」という日本語から直感的に想起される「内容の良い」記事を基準に選考されるものだと思っていました。しかしある程度時間が経つと「結局、秀逸な記事の選考と同じなのか…」という思いを強くして熱が冷め、投票時のコメントも「基準を満たした記事だと思います」という(対象記事には失礼ながら)ぞんざいなものとなり、徐々に投票自体から遠ざかってしまいました。
冷めてしまった理由は、良質記事が秀逸選考と同様、脚注・出典の有無が記事内容よりも最優先されているように思えたからです。私自身、WPにおける検証可能性の重要性は理解しているつもりですし、それを満たしていない記事に反対意見が出ること自体は分かるのですが、それにしても記事の文章の構成や着眼点、文の巧拙、リンクの充実…など、中身の話題そっちのけで脚注についてのみ議論が交わされているように見える(もちろん審査者の側はそんなつもりは無いと仰るかもしれませんが)のはどうも釈然としません。譬えて言えば、料理コンクールで、審査員たちが「食材は中国産か」「無農薬か」「遺伝子組み換え素材か」などのあまり本質的でない部分を最優先して判定しているようなもので、料理人や観客としては、盛りつけの見た目や香り、肝心の味や食感、他のメニューとのバランスなど、料理自身の中身は判定してくれないのか、という思いになります。もちろん食べる側としては食品の安全性(=検証可能性)自体は重要な要素であり、十分に担保されているべきものではありますが、それが料理としての良し悪しを選考する上での最優先基準になっているというのは、どうも違うように思えます。
それゆえに私としては「Wikipediaのすべての記事は秀逸を目指すべき」という方向性にも(現在の秀逸選考の状況を見る限り)素直に賛同できません。そして秀逸と同様の基準で良質を選ぶのであれば、わざわざ新しい制度を設けた必要性が感じられないと思います。特に今回の良質記事の場合、選出の基準が全く異なる月間記事賞をベースとしていたため、特に自分が推薦した訳でもないのに、いつの間にか良質に選ばれておきながら、再選考の方で脚注不足やinline citationになっていないと判定されて除外されてしまう記事があり、そういった記事の執筆者から見れば「頼んだ訳でもないのに勝手に良質と持ち上げておいて、その後よってたかって貶めるとは何事か」と自分の書いた記事が何やら晒し者にされた印象を与え、無用な混乱を生んでしまった面は否めません。
現在、良質な記事の位置づけ自体、問い直されていますが、私としては上記のような思いから、検証可能性を最優先基準とする秀逸な記事とは違った方向性で真に「良質」な記事を選ぶ制度になって欲しいな、と思います(念のため繰り返しますが、私は脚注(検証可能性)自体を重視しなくてよいというつもりは全くありません。それが記事が良質かどうか判定する上で最優先の基準になっていることが疑問なのです)。以上、長々とすみません。--トホホ川 2009年12月19日 (土) 23:13 (UTC)
「いつの間にか勝手に良質に選ばれ、再選考で貶められる」これがこの選考での問題点ではありますね。選考過程をより簡略なものにしても「再選考」制度があるのでいつでも論争の種はあるわけです(レビュー方式なら先にレビューアーによってチェックされるので再選考で貶められるようなことはありません)。ただ検証可能性は「良質」な記事の最低要件だと思います。たとえ内容が面白くても参考文献が一つもないものはさすがにダメです。あるかないかで判断できるでそんなに議論になる点だとは思えないのですが。脚注方法でハーバート方式を強硬に主張する人がいましたが、それは初期段階での意見のすり合わせだったと思います。--Afaz 2009年12月20日 (日) 05:43 (UTC)
う~ん…難しい問題ですが「良質な記事」の選考に顔を出している者の一人として意見を表明いたします。まず皆さんが意見表明されているように、現状では良質な記事にしろ秀逸な記事にしろ、『ほぼ独力で』選考関門を通過するための努力をしており、『必ずしも同じ人物がひとりで選考に耐え抜く必要も、また一度で通過する必要性もありません』という状況にないことは明らかです。これはWikipedia日本語版執筆者の層の薄さが一つの原因なのではないかと考えられ、構造的な問題が絡んでいるので選考基準を変えたところでどうこうなるものでないでしょう。ただ言えることは、執筆者層が薄いのでレビュー方式を採用しても上手く機能しないのではないかと思います。
脚注の問題は難しいですね~バランスの問題もあるとは思いますが、私としては脚注はかなり優先度が高い項目と思っています。例えば私が主に執筆した龍角寺古墳群では、少し古いですが千葉県立房総のむら編で参考文献リストが作成されています。リストに掲載されている龍角寺古墳群の文献はなんと278、本来的にはこれを全部読んで記事を書くのが理想だと思います。ただそこまで行うのは非常に困難なので、「主要な文献」と思われるものを選び、記事を書いたわけです。278ある文献の中でどれが「主要な文献」なのかを判断したのかというとそれは記事の主執筆者である私です(笑)。そしてもう一つの問題としては、記事によっては専門家同士で激しい論争が行われているものもあります。文献を読む中でつくづく難しいな~と感じるのは、例え専門家でも自説を主張する中で、都合の悪い部分について明らかに過小評価をしていたり、ひどい場合には「あえて触れない」こともあります。資料を集め記事を書いていく中でそんな状況にぶつかった私は、記事の検証をしてもらうためにも脚注は多く付けるべきと考えるようになりました。ですから脚注が付いていない、または少ない記事を見ると不安ですね。
また「私としては記事の参考文献の状況などから「良質な記事」にはなり得ても、「秀逸な記事」にはハードルが高い項目も多いと考えており、そのためにも良質な記事は秀逸な記事と違った位置づけである必要があるため、良質な記事は秀逸な記事選考の前に問題点の洗い出しを行う段階とすべき」との位置づけには反対です。
まとめますと、良質な記事制度はWikipedia日本語版の現状に即した運用が行われるのが望ましく、今の段階で英語版の運用に従う必要は薄いのではないかと考えます。あと脚注は良質な記事と言う以上、やはり優先度が高いもの(最優先とまでは主張しませんが)と判断します。--のりまき 2009年12月21日 (月) 01:17 (UTC)

  - 様々なご意見をいただきましたが、制度の変更はもう少し時期が経過してからでも良いと判断いたしました。現状の制度においても問題点はいくつか指摘されておりますので、別途検討を行いつつ様子を見たいと思います。一旦提案は取り下げます。たくさんのご意見をありがとうございました。--R.Lucy 2010年1月16日 (土) 17:43 (UTC)

推薦前に査読プロセスを 編集

Wikipedia:良質な記事によれば、GAとは「良質な記事の基準は複数人の参加者による査読が行われ、認められた記事を基本とします。」とされています。しかし、現在の選考プロセスでは査読がどのくらいなされているのか明確ではありません。その分野の基本的な知識の無い人が出典に当たることも無くただ単に読んだだけの状態を「査読」されたとみなすのには無理があります。そこで、GA推薦前に、PJによる査読もしくはWikipedia:査読依頼を通すことにするよう提案します。--miya 2009年12月21日 (月) 07:16 (UTC)

  コメント「良質な記事の水準を満たしているかどうか確証が持てない場合にが査読を通すこともお考えください」ということならともかく、必要的な要件にすることには反対です。査読依頼については現状では活発に十分に機能していないのではという懸念がありますし、PJによる査読などは現状では絵に描いた餅ではないでしょうか(それができるくらいならPJの審査によって良質な記事に選出される記事が複数出ていてもおかしくないはずです)。残念ながら手間がかかるだけという結果に終わる可能性が高いのではないでしょうか。-- 2009年12月21日 (月) 08:25 (UTC)
  コメント現状で果たして選考前査読が機能しますかね?私が主に執筆した記事の例ばかりで恐縮ですが、実際、浅間山古墳 (栄町)では査読依頼を先行してそれから良質な記事の選考にかけましたが、結局査読依頼では全くコメントがつかないまま良質な記事選考にかけることになりました(厳密には査読期間が終了した後に、貴重なコメントを頂いたので査読依頼自体には意味がありましたが)。どうしてそうなったのかと原因を考えてみたのですが、やはり執筆者の層が薄く査読依頼でコメントをする人材が十分でないことが最大の原因だと思います。本音を言わせてもらえば、査読を行い記事のスタイルから内容面について、様々な意見が出される中で良質な記事が選ばれていくのは理想だと思います。しかし実際に行ってみたところで十分に機能せず、制度を複雑化させるだけになると思います。ただし蛇足になりますが、秀逸な記事選考の場合はやはり事前の査読の必要性は高いと考えています。--のりまき 2009年12月21日 (月) 09:16 (UTC)
(反対)ハッキリ言ってしまえば、現実的でない提案だと思われます。故に反対します。メインカルチャー系の記事ではどの分野でも執筆者・編集者の層そのものが薄く、一方、サブカルチャー系の記事では執筆者・編集者の数は多くても査読ができるほどの知識と検証能力を持った人が少なく、いずれにせよ、査読依頼を通したところで、のりまき様の仰る通り満足な結果は得られないであろう、いや、それどころか「複数人による査読」すら満たせないのではないかというのが、お寒い話ではありますが、日本語版の現状なのではないかと考えます。PJという査読ルートを設けたところで、PJに参加資格があるわけではありませんので、結果としてはまぁ似たり寄ったりなのではないかと考えます。そもそも全ての分野にPJがあるわけではありませんし、PJがあっても、その分野の主たる執筆者が参加していないなんてこともあります(かく言う私もWikipedia:ウィキプロジェクト アメリカ合衆国には参加していませんが)。なお、廉様の仰るように、「必須」ではなく「推奨」とする分には、私は反対しません。Yassie 2009年12月25日 (金) 23:19 (UTC)
  反対 PJによる査読あるいは査読依頼を経由しなければならないということに関してははっきりと反対を申し上げます。理由は以下の通りです。
仮に地理・歴史分野の記事を良質な記事で選考しようとした場合、すべての地域でPJが立ち上がっていない。ラテンアメリカ、東南アジア、オセアニアといった地域にはPJがありません。でも、こういった地域からでもGAは出てきているわけでして、逆に縛りがあるとGAが出てこなくなる可能性があります。
クロスマッピングに関しては、出来るだけ多くのPJを巻き込みたいのが私の意図としてありますけれども、当然、それぞれのPJの意見を尊重すべきだと考えています。分野によっては時期尚早と判断されるPJもあることでしょう。
査読をしてくれる読者と執筆する側の絶対数の不足及びミスマッチ。これはのりまきさんもおっしゃっている通り、ウィキペディアに参加している参加者の関心のベクトルはてんでばらばらです。Yassieさんの意見には首肯できるものがあります。薬学や医学系の記事がGA選考に出されても文系の私には到底判断できませんが、歴史形であれば何とかコメント残そうと考えて参加していらっしゃる方もいるかと思います。その逆もしかりです。
したがって、PJによる査読あるいは査読依頼を必須とすることは反対を申し上げます。PJ:SLMで独自のGA選考ルールを設けていないのは、屋上屋を架すようなことをしたくないからだという点はご考慮ください。ただ、Yassieさんのおっしゃるとおり、推奨はされてもいいことだと思います。ただ、査読依頼を経由して、いい記事であったとすれば、GA選考をスキップしてFA選考にかけたほうがいいのかもしれませんね。--Tantal 2009年12月25日 (金) 23:45 (UTC)

(終了)本件は合意が得られませんでしたので、提案者であるmiyaさん了承のもと[5]、一旦見送りとします。--R.Lucy 2010年1月16日 (土) 17:43 (UTC)

「Wikipedia:良質な記事の基準」導入の提案 編集

Wikipedia:良質な記事によれば、GAとは「良質な記事の基準は複数人の参加者による査読が行われ、認められた記事を基本とします。」とされています。しかし、具体的な「基準」は今のところWikipedia:良質な記事/良質な記事の選考#良質な記事の目安に漠然と示されているだけです。これを英語版のen:Wikipedia:Good article criteria(良質な記事の基準:参考訳 Wikipedia:Good article criteria)を導入して、基準を明確にするよう提案します。英語版のWikipedia:Good article criteria は細かく書かれていますが、読んでいただければお分かりのように、決して厳しすぎるものではありません。それに基準として明解です。反対意見にしろ、賛成意見にしろ、この一定の基準に基づいて表明されるならば、言われた執筆者も冷静に受け止め対処できるでしょう。--miya 2009年12月21日 (月) 07:20 (UTC)

  反対 2009年12月21日 (月) 01:17 (UTC)のコメントでのりまきさんがおっしゃるように、、Wikipedia日本語版の現状を無視して英語版の運用に従う意義が見いだせません。また、良質な記事とは何か、秀逸な記事やAクラスBクラスの記事との違いは何かということを定めないまま制度だけ変えたところで基準の解釈や「良質な記事観」の相違が原因となって選考が紛糾する可能性は消えないと思われます。#良質な記事の位置づけについてにコメントを付けることもなくいきなりこのような提案をされること自体に反対を表明します。-- 2009年12月21日 (月) 08:25 (UTC)
(コメント)「良質な記事の基準」と「良質な記事の選考の基準」が異なるものであることを明確にした上で、良質な記事の基準に厳格な基準を設けることについては反対します。理由は、選出のためのルートが複数存在しており、PJ毎に詳細な基準を設ける必要性もあることから、ある程度の揺れ幅を残しておく必要性を感じるためです。良質な記事の選考の基準をより明確な形に修正する提案であるならば特に反対はしませんが、miyaさんがどちらを指しているのかわかりかねるため、現段階ではご提案内容の是非についてはコメントしません。--R.Lucy 2009年12月21日 (月) 09:28 (UTC)

(終了)本件は合意が得られませんでしたので、提案者であるmiyaさん了承のもと[6]、一旦見送りとします。--R.Lucy 2010年1月16日 (土) 17:43 (UTC)

プロジェクトページ「良質な記事/過去ログ2」に戻る。