Wikipedia:井戸端/subj/「脚注形式で出典を提示する必要はない」というのは本当か

「脚注形式で出典を提示する必要はない」というのは本当か 編集

【注釈】111.188.85.156、べたべーたがんまんま、は全て同一人物です。(すみません、せっかくアカウントとったのに、パスワード忘れてしまいました。お恥ずかしい限りです)--がんまんま 2010年11月22日 (月) 09:51 (UTC)[返信]

「『脚注形式で出典を提示しなければならない』とする方針文書を存じません」と主張し、出典を提示することを拒否する人物がいます。具体的にはあるふぁるふぁを名乗るユーザなのですが。論文などを思い浮かべればわかるとおり、実験結果やアンケート結果、何らかの統計など、論文中に取り上げる数字は何らかの典拠を示すべきだし、他人の研究結果や何らかの分析や考察を取り上げる場合もその典拠を示すべきだと思います。しかし、「『検証可能性』は『検証容易性』ではないと理解しております」などと主張し、かたくなに拒むのですが。常識で考えれば本のタイトルやページ数くらい典拠として明記するのは当然だと思うのですが。複数の書籍のタイトルを参考文献に挙げただけでは、どの書籍からこの数字を持ってきたのかわからないですから、ふつうは本のタイトルとページ数くらいは明記して脚注に書くと思うのですが、それは異端の考え方ですか?--以上の署名のないコメントは、111.188.85.156会話/Whois)さんが 2010年11月20日 (土) 14:48(UTC) に投稿したものです(パタゴニアによる付記)。

いいえ、私も 111.188.85.156のIPさんと同意見ですよ。その記述は、どの出典のどの部分からの物か提示してこそ出典です。--パタゴニア 2010年11月20日 (土) 14:59 (UTC)[返信]
(小生の考えの補足)どう考えてもアルファルファを名乗る人物の主張はおかしい。「『検証可能性』は『検証容易性』ではないと理解しております」などと主張しているが、あえて検証しにくくする必要性はないはずで、百害あって一利なし。たとえば参考文献に①から⑤まで5つの文献が挙げてあったとする。その場合、本文中に数字を記載するときはどの文献のどの頁から持ってきた値なのか明記するのが当然。「①、××頁。」とか「①の著者名、yyyy年、pp.××~××」とか「①の著者名、①のタイトル、yyyy年、××~××頁。」とか・・・形式はともかくも、出典元の頁の明記が当たり前。そうしないと、①から⑤のどの文献の何ページが典拠なのか判別できない。アルファルファを名乗る人物は『検証容易性』を低くしよう低くしようと企てているようだが、それに何の意味があるのか。他人に検証されにくくする、というのは「他人に検証されては都合が悪い」「出典元を聞かれても回答できない理由がある」ということでしょうか? 私にはパタゴニア様のご意見こそが正しいと思える。如何か--以上の署名のないコメントは、111.188.85.156会話/Whois)さんが 2010年11月20日 (土) 15:02(UTC) に投稿したものです(パタゴニアによる付記)。
出典に関しては、貴方の意見が正しいと思うけど、出典提示と同じくサインするのもルールです。--パタゴニア 2010年11月20日 (土) 15:09 (UTC)[返信]
  コメント ご指摘ありがとうございます。不慣れだったので、ノートの書き方についてちょっと勉強してきました。IPだとわかりにくいのでアカウントなるものを取るべしとのことだったので、取ってみました。サインはこれでよいでしょうか→--べたべーた 2010年11月20日 (土) 22:51 (UTC)[返信]
基本的には 111.188.85.156さんと同意見ですが、議論が行われている場所のリンクが無いので相手の方の意見や背景が不明です。単に「必要はない」という言葉の問題ではないでしょうか。Wikipedia:出典を明記するでは、「本文に注釈を挿入する」や「必要があれば(中略)ページ数も記す」などと記載があり、検証容易性上も、一般論でも、その方が望ましいと思います。ただし当ガイドは冒頭に記載のように、推奨であり公式ではなく、「末尾に記載」やページ数を書かない場合が一律禁止されているのでもなく、従って『脚注形式で出典を提示しなければならない』とのガイドは存在しない、との主張自体は間違いではありません。つまり「ガイドで決まっている」ではなく、冷静かつ建設的に「確かに一律禁止ではないが、推奨で、実際にも記事の改善に役立つのでご協力を」との説明が必要に思えます。ただ、それらの説明をした上で平行線なのかは、上記情報だけでは不明です。なお署名もお願いします。--Rabit gti 2010年11月20日 (土) 15:32 (UTC)[返信]
一般論として。最悪なケースはとしては、著者名、文献名等のみいくつかを記事末尾「参考文献」として挙げている場合であり、目的の記述がどの書籍なのか、何ページなのかもわからず、検証時に数千ページめくらされる如きが考えられますね。そして結局見付からないとか・・・。生産性と読みやすさが過度に低下しない範囲で、検証は容易であった方が良い事は論を待ちません。義務とするのは難しいかもしれませんが、頑なに拒まれる人の意図が全くわかりません。既にご本人がお忘れなら仕方ないですが。ガイドラインを「場合に応じて脚注方式を用いる事が好ましい」くらいに踏み込めないものか、といつも思ってございます。
  • 一般的な(教科書的な)記述、分野において常識的な記述には脚注が必須とは言えない。
  • 文節とまでは言わないが、節(セクション)ごとには出来るだけ脚注で出典をつける。
  • レアな記述、証言、具体的数値などは出来るだけピンポイントの脚注で、可能なら(覚えていれば)ページ数も。
私はこの様に心がけています。私はマニアックな記事をアレすることが多い為、結構脚注で挿入することが多いです。しかし最近は、文献内部では「nページ」ではなく「n章」と手を抜いてしまうことも多いです(笑)。これですと<ref name = "hoge">が使える意味もございまして。--Hman 2010年11月20日 (土) 15:46 (UTC)[返信]
出典に関しては、貴方の意見が正しいと思うけど、出典提示と同じくサインするのもルールです。--パタゴニア 2010年11月20日 (土) 15:09 (UTC)[返信]
  コメント記述は出典を示して行うべきです。 それは基本理念であって、どんな言い逃れも新発想も許されません。(全く自明なものは除外です。 それと、出典がないからどんどん消せというのとは別です。) ただし今回の話は、出典は下に参考文献として示すけれど、絶対に脚注形式を取る義務はあるかというものかと思われます。 これは絶対的な義務ではありませんが、強く推奨されているものです。 強く推奨されているのにあえてやらないというのは、コミュニティー全体の意見をあえて無視しようという行為であって、それだけでルールの悪用に近いと思われます。(知らないでやってるのと、注意されてあえて守らないのとの違いです。) サインの件は義務ですよ。あえて無視すると、こんな些細なことでも投稿ブロックの対象です。--Gyulfox 2010年11月20日 (土) 15:49 (UTC)[返信]
  コメント理念としてはIP利用者さんの方がどちらかといえば望ましいと思いますが、現状ではそれぞれの記述において、逐一記載する必要はないとされています。しかしながら、ある記述に付与した情報源について、その記述に疑念がある他者から具体的なページ数などの要望があれば、それを提示することは実施するべきでしょう。
私は今回名前が挙がっている方ではなく、他の方が同種の主張をしているものを読んだことがありますが、私としてはその方は「手元に書籍を置かず、曖昧な記憶でウィキペディア日本語版の記述に情報源を付与している」か「その情報源にかかれていないことを、あたかもその情報源に書かれているかのようにして情報源を提示する」のどちらかだと考えています。そして、そのどちらであったとしても、やるべきではないことであると考えています。--iwaim 2010年11月20日 (土) 16:07 (UTC)[返信]
 本当ですが、提示は推奨ではあると思います。en:Wikipedia:Scientific citation guidelines#When not to use in-line referencesという指針が英語版にはあります。記事内容の正確性の検証にあたって、ページ番号が明示されていなくても、どの文献がどこの検証資料であるのか明示されていなくても、検証が十分・容易にできるような短い記事等であれば、必ずしもページ番号を明示する必要はないし(した方がいいけど)、個別参照(inline citation)である必要もないでしょう(望ましいけど)。体裁として脚注形式であるかどうかはただの方法論であり、「結果として記事が正確であるかどうか・読者が検証できる状態になっているかどうか」が肝心であり、検証可能性方針の目的であるということを付記しておきます。111.188.85.156さんが、該当する項目の検証可能性が不足していると感じるのであれば、他の利用者を非難したり、正確性に問題のなさそうな記述の除去を訴えたりするのではなく、検証可能性を向上させる活動(論拠となる文献参照の追加)に労力を傾けていただければと思います。--114.48.153.246 2010年11月20日 (土) 21:32 (UTC)[返信]
  コメント「『結果として記事が正確であるかどうか・読者が検証できる状態になっているかどうか』が肝心であり、検証可能性方針の目的である」を支持します。Uryah 2010年11月23日 (火) 09:10 (UTC)[返信]

  コメント具体的事例でない側に入れておきます。

  1. ページ数を極少数の複数ページ数(例えば雑誌特集の5ページ程度)で表記していれば充分検証容易性は上げられるし、それで見栄えも整理できるなら、それは有効な1手法だと思う(参考)。
  2. 段落ないしは節単位程度でまとめる形での出典記載は、その段落に他の執筆者が加筆されると、困ったことになりそうな気がします(参考)。加筆者が、出典付与された文章に配慮して加筆していただけると言えるならいいのですが、全執筆者がそうとは言いきれないと思います(私も他の出典つき文章を崩すように編集してしまっているかもしれない)。
  3. 記述の大半が特定の書籍なり雑誌なりで検証できるものについて、本当に全部の文に出典をつけるのがよいのかという点に対して考えがまとまっていません。例えば私が過去に修正したものなんかはまさしくそうで、既に出典付与されていた2文と、私が要出典を付与した1文の計3文以外はすべて、その参考文献に挙げたもの(追悼特集記事2ページ)で検証可能だった記憶があります(一部は私が加筆していますが、元々あった文章も検証可能だった記憶がある)。はたしてこの場合にそれら全ての20程度の文章全てに、参考文献に挙げているものを出典の形で挙げるのがよいのだろうかと(節単位で挙げれば良いのではないかという話に対しては前項参照)。
  4. 後で{{要ページ番号}}や{{出典無効}}に類する疑義(見たけどどこに書いてあるか判らない、出典に書かれていることから文脈が変わっている、といった疑義)がノートなりで指摘された場合、出典が記されていないにしろ、出典が大まかに(数ページ程度の範囲として)/詳細に(ページ数付きで)記載されているにしろ、執筆者としては説明責任があるのでしょうか?そうすると、参考にした文献は手元に残しておかないといけないのだろうか?また、図書館で借りた本ベースで執筆されている執筆者さん、その図書館に行くのが大変な執筆者さんは大変だと思う次第。

といったあたりが気になりました。後、「Category:井戸端の話題/出典」に、Wikipedia:井戸端/subj/参考文献及び出典明記方法等の質問」などのように関連する話題がありそうな様子です。--NISYAN 2010年11月21日 (日) 02:49 (UTC)[返信]

  コメント出典が記されていないにしろ、出典が大まかに(数ページ程度の範囲として)/詳細に(ページ数付きで)記載されているにしろ、執筆者としては説明責任があるのでしょうか?そうすると、参考にした文献は手元に残しておかないといけないのだろうか?また、図書館で借りた本ベースで執筆されている執筆者さん、その図書館に行くのが大変な執筆者さんは大変だと思う次第」とのご意見、たしかにそうですね。ただ、ページ数がきちんと明記されている場合、執筆者に質問する前に自己解決できるような気がします。いったい何を典拠としているのか明記されていないと、執筆者に質問する以外の方法がありません。聞かれる度に回答するのも大変な労力でしょうから、執筆するときに詳細に出典を書いた方が、執筆者にとっても閲覧者(質問者)にとっても労力を軽減させるよい方法だろうと。Hman氏のおっしゃるように<ref name = "hoge">を使えばある程度は纏められるし、あまり煩雑にもならないんじゃないかと。--べたべーた 2010年11月21日 (日) 03:22 (UTC)[返信]
  コメント 4.「出典が記されていないにしろ、出典が大まかに(数ページ程度の範囲として)/詳細に(ページ数付きで)記載されているにしろ、執筆者としては説明責任があるのでしょうか?そうすると、参考にした文献は手元に残しておかないといけないのだろうか?また、図書館で借りた本ベースで執筆されている執筆者さん、その図書館に行くのが大変な執筆者さんは大変だと思う次第」については、普通に「覚えていれば対応するが、忘れていれば仕方ない」と運用するしかないでしょう・・・全て覚えておくことも所有しておくことも不可能です。ただし、ある程度で良いので執筆時にページ数まで明記しておけば、そもそもそんな質問を受けること自体が少なくなるはずです。いずれに致しましても「完璧な」検証容易性までは求められていないでしょう。ただ、執筆時にちょっとだけ、ほんのちょっとだけで良いので手間をかければ、検証容易性、場合によっては後の第三者の手による加筆時の手間が、掛け値無しに桁違いに向上すると言うのは往々にして事実ですから、何とか方針、ガイドラインを、義務化でなくとも「強く推奨」と明記する所まで持って行って頂きたいな、と、私は考えております。尚、私は予算と部屋の広さの都合上、ほぼ完全なる図書館原理主義者で、バイクにノーパソで県内を駆け回っております。--Hman 2010年11月21日 (日) 04:06 (UTC)[返信]
ところで、べたべーたさんご自身はwikipediaに記事を書かれたことはあるのですか?出典をつけろと言うのは正しいけど、ご自分がしていない場合としている場合では、wikipediaに多大な貢献をしているあるふぁるふぁさんへの提言の仕方は同じでいいとも思いません。--パタゴニア 2010年11月21日 (日) 04:11 (UTC)[返信]
  コメント脚注形式がいいのかどうかというのは、記事や記述の性質、用いられている情報源に拠ります。また、ページ数まで示すとしても、脚注にするか、文中にするかというのは、別の議論です。
なお「最悪のケース」は、「情報源が一切示されていない」ですね。検証時に数千ページめくらされるとしても、挙げられている本だけに限定されるならば、かなりマシです。
執筆者としての説明責任は、検証しやすいように情報源を示すところまで、でしょう。
どの程度詳細に書くのかというのは、分野によって、また記述と情報源の記述の関係によっても変わってきます。きちんと記事や節、まとまった記述と対応関係にある、信頼できる包括的な情報源を使うときには、必ずしもいちいちページ数を示す必要はない。NOR的な観点から言えば、包括的に記述されている情報源のまとまりを示すことも大事だったりしますね。--Ks aka 98 2010年11月21日 (日) 08:15 (UTC)[返信]

具体的な事例: 記事「国際高齢者年」について 編集

さて、利用者名が挙がっていたので具体例を探してみましたが、たぶんこれですね。国際高齢者年の初版やノート:国際高齢者年#脚注ゼロとか言語道断での議論において、あるふぁるふぁさんの言動に、現在のウィキペディア日本語版の方針などを踏まえた上では、問題はみうけられませんでした。むしろ、IP利用者さんの方が「Wikipedia:出典を明記する」を理解していないと判断します。もう読んでいるんだとは思うんですが、もう一度読んでみてください。そして、改定が必要だと思えば提案などの実施をお願いします。--iwaim 2010年11月20日 (土) 16:16 (UTC)[返信]

  質問 つまり、「今現在のウィキペディアのルールでは問題ないから、出典の提示は不要である」ということでしょうか。小生が明らかに問題だと思うのは、あるふぁるふぁ氏の初版で「国際高齢者年にあたる1999年(平成11年)に、国際連合が主催する高齢者に関する国際会議が開催されなかったことから、国際婦人年(1975年(昭和50年))や国際障害者年(1981年(昭和56年))などと比べて認知度は低く、盛り上がりに欠けたとする意見もある」との記述です。これは駄目でしょう。あるふぁるふぁ氏の個人的な独自研究なのか、何らかの典拠があるのか、全く判別がつきません。参考文献には複数の書籍が挙げてあり、どれを典拠にした分析かはわかりませんし、あるふぁるふぁ氏の個人的な独自研究かもしれません。Wikipedia:言葉を濁さないにも抵触する行為だと思います。
あるふぁるふぁ氏は「『検証可能性』は『検証容易性』ではないと理解しております。(中略)個々の文で出典が必要だと思われるものがありましたら、具体的にご指摘ください」などと主張しているので、いくらなんでも「認知度は低く、盛り上がりに欠けたとする意見もある」と主張しているのは誰なのか典拠を明記しないのはおかしいだろうと指摘しました(なぜ個々の文に対して具体的に指摘されるまでこの文章の問題点に気づかないのか、小生には理解しがたいですが)。
「国際高齢者年にあたる1999年(平成11年)に、国際連合が主催する高齢者に関する国際会議が開催されなかったことから、国際婦人年(1975年(昭和50年))や国際障害者年(1981年(昭和56年))などと比べて認知度は低く、盛り上がりに欠けたとする意見もある<ref>○○『□□』△△、yyyy年、nn頁。</ref>」として、何が典拠なのか明確にすべきでしょう(脚注のスタイルはぶんやによってさまざまだと思いますので、ここでは議論しませんが)。もしくはどうしても嫌だ嫌だというなら、せめて「○○大学○○学部教授の○○によれば、国際高齢者年にあたる1999年(平成11年)に、国際連合が主催する高齢者に関する国際会議が開催されなかったことから、国際婦人年(1975年(昭和50年))や国際障害者年(1981年(昭和56年))などと比べて認知度は低く、盛り上がりに欠けたと指摘している」とする必要があるのではないでしょうか。小生には、なぜ典拠をあえて秘匿しようとするのかが理解できない。ノートで指摘せず、「国際婦人年(1975年(昭和50年))や国際障害者年(1981年(昭和56年))などと比べて認知度は低く、盛り上がりに欠けたとする意見もある[誰?]」というようにテンプレートでも貼ればよかったのだろうか……? --べたべーた 2010年11月20日 (土) 22:51 (UTC)[返信]
  報告 上記はあくまで一例であり、あるふぁるふぁ氏の独自研究なのか何らかの典拠があるのか不明な箇所が多数ある。そのため、独自研究の塊のように見える。なお、ノートであるふぁるふぁ氏に指摘したところ、あるふぁるふぁ氏から「鬱陶しい」と言われてしまいました。典拠を明記するようお願いしただけで、ここまで言われるとは……小生の指摘は、もしかして「してはいけないこと」なのでしょうか。--べたべーた 2010年11月20日 (土) 23:06 (UTC)[返信]
そりゃ、現状のルールで認められている記載に対してあんなこと言ったら鬱陶しいと思われるんじゃないでしょうか。正直言って、私はあるふぁるふぁさんが絡まれているなあ、と思いましたよ。第三者ですらそう思う人もいるのですから、当人にとってはそりゃもう……。べたべーたさんにはそのつもりはなかったのかも知れないけれども。--iwaim 2010年11月20日 (土) 23:11 (UTC)[返信]
  コメント 脚注方式が義務でないことは理解しました。別にあるふぁるふぁ氏と絡み合う意図はないのですが……。しかし、「現状のルールで認められている記載」とのことですが、Wikipedia:言葉を濁さないTemplate:誰を読む限り、あるふぁるふぁ氏の初版のような「発言者が誰なのか秘匿すような書き方」は認められていないと考えます。あるふぁるふぁ氏のあの初版では、ウィキペディアのルール(Wikipedia:言葉を濁さないはルールじゃないのでしょうか?)が求める水準に達していない記事だと思います。あるふぁるふぁ氏は、それで何一つ問題点を感じていないようですが、それはおかしいだろうと。--べたべーた 2010年11月21日 (日) 03:34 (UTC)[返信]
今一度初版を読んでみました。私の感覚では「Wikipedia:言葉を濁さない」に該当したり「Template:誰」を付与する必要があったりする箇所はありませんでした。しかしながら、閾値は人それぞれだと思いますので、べたべーたさんの解釈ではそういう箇所があるのかもしれません。そういう場合にどうすればいいのかといえば、それはその箇所をノートなどで具体的に提示し、何故それが「Wikipedia:言葉を濁さない」などに抵触すると考えたのかという理由を述べてみればいいのです。--iwaim 2010年11月21日 (日) 05:22 (UTC)[返信]
  コメント 初版には「国際高齢者年にあたる1999年(平成11年)に、国際連合が主催する高齢者に関する国際会議が開催されなかったことから、国際婦人年(1975年(昭和50年))や国際障害者年(1981年(昭和56年))などと比べて認知度は低く、盛り上がりに欠けたとする意見もある」との記述があるなど、「いったい誰の意見だよ!?」と突っ込まれること間違いなしの文章が散見されます(これは「Template:誰」を貼り付けるべき文章の代表例のように見えますが…人によって感じ方が違うといわれれば仕方ないが)。ノートでそれを指摘したのですが、初版執筆者から「鬱陶しい」といわれる始末です。--べたべーた 2010年11月21日 (日) 07:14 (UTC)[返信]
《つまり、「今現在のウィキペディアのルールでは問題ないから、出典の提示は不要である」ということでしょうか》についてはその通りです。「Wikipedia:出典を明記する」をご覧ください。《参考文献には複数の書籍が挙げてあり、どれを典拠にした分析かはわかりませんし、あるふぁるふぁ氏の個人的な独自研究かもしれません》については、どれを典拠としたものか判らないということは記事末尾に参考文献を記載する方式が持ちうる問題点です。しかしながら、(何度も書きますが)「Wikipedia:出典を明記する」で認められている方式です。私見では、in-line citation形式の方が望ましいと考えていますが。もちろん、特定の箇所で独自研究が疑われる場合などは「参考文献」セクションがあったとしても、個別にノートなどで解決していけば良いことです。
さて、べたべーたさんの議論手順についてコメントします。べたべーたさんは、(先のIP利用者と同一人物と解釈しますが) ノート:国際高齢者年#脚注ゼロとか言語道断では、具体的にどの記述に対する出典を明確化せずに、『「参考文献」セクションでの出典の提示は認められていない』という主張をなさっているだけでした。これはさすがに現状の「Wikipedia:出典を明記する」との齟齬があるわけです。例えば、独自研究が疑われる記述やその他の理由で特に情報源を明確化しておくべき理由があるのであれば、その具体的な箇所の指摘とその理由を提示すればよかったのです。あるいは、本当に『「参考文献」セクションでの出典の提示は認められていない』と主張するのであれば、まずは「Wikipedia:出典を明記する」の改定からはじめないことには……。--iwaim 2010年11月20日 (土) 23:11 (UTC)[返信]
  質問 そもそも論ですが、小生は脚注も附加するよう要望しましたが、参考文献を除去せよなどとは一言も言っていないつもりです。誤解を与えてしまったのでしたら申し訳ありません。iwaim氏は「『「参考文献」セクションでの出典の提示は認められていない』という主張をなさっているだけでした」と主張されていますが、よろしければ後学のため、小生がいつ誰に対してそのような発言をしたのか、明確にご教示いただければと思います。--べたべーた 2010年11月21日 (日) 04:03 (UTC)[返信]
ええと、私はべたべーたさんが「参考文献を除去せよ」と述べたとは言っていません。で、ご質問の箇所に答えます。べたべーたさんが「ノート:国際高齢者年」2010-11-20T13:03:22 (UTC) の版にて、その時点での唯一の編集者である あるふぁるふぁさんに対して述べた発言差分、及び「国際高齢者年」2010-11-20T13:00:02 (UTC) の版での要約欄での発言差分がそのように解釈できるということです。当時の版には「参考文献」セクションが存在していましたが、それでもなお、あのような発言をしている場合は「『「参考文献」セクションでの出典の提示は認められていない』という主張をなさっているだけでした」と解釈されても仕方ないと判断します。--iwaim 2010年11月21日 (日) 05:13 (UTC)[返信]
  コメント 誤解させてしまったらな申し訳ありませんが、小生は脚注形式でもページ等を明記すべきではないかと指摘したつもりです。iwaim氏が指摘している編集にて、小生が貼り付けたテンプレートには「出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明示してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします」と書かれています。これが全てかと思います。--べたべーた 2010年11月21日 (日) 07:14 (UTC)[返信]
  コメント 《小生は脚注形式でもページ等を明記すべきではないかと指摘したつもりです》ということであれば、それはべたべーたさんの言動に問題があるんだと思います。私はそうは受けとりませんでした。言葉遣いや選択する言葉や表現を含め、ご自身で考えてみるとよいと思います。--iwaim 2010年11月21日 (日) 21:00 (UTC)[返信]
  コメント 脚注の作法として「ハーバード方式」を採用する場合、「脚注」セクションと「参考文献」セクションをセットにすることが前提のはずです。脚注方式で出典を提示する場合、参考文献でまず出典を提示することが必須となるはずです。したがって、脚注方式での出典提示を求める者が、参考文献セクションによる出典の提示を認めないことなどありえないでしょう。これ以上問うことはしませんが、勘違いをなされていたのであれば、その点お認めになった方がよろしいのではないでしょうか。--がんまんま 2010年11月23日 (火) 19:02 (UTC)[返信]
脚注の作法として「ハーバード方式」を採用する場合があるということは、同方式を採用しない場合もあるのですから、「脚注方式で出典を提示する場合、参考文献でまず出典を提示することが必須となるはずです。」ということはありません。それゆえ「したがって」以下の結論は導かれません。脚注内で直接出典を提示する場合もあることは、Wikipedia:出典を明記する#出典の示し方の例示を読めば明らかです。--Jms 2010年11月23日 (火) 19:52 (UTC)[返信]
  質問《参考文献には複数の書籍が挙げてあり、どれを典拠にした分析かはわかりませんし、あるふぁるふぁ氏の個人的な独自研究かもしれません》については、どれを典拠としたものか判らないということは記事末尾に参考文献を記載する方式が持ちうる問題点です。しかしながら、(何度も書きますが)「Wikipedia:出典を明記する」で認められている方式です」とのことですが、これは「参考文献のみしか挙げられていないと独自研究なのか否かが判然としないが、Wikipedia:出典を明記するで認められているから我慢して受け入れよ!」ということでしょうか。「①誰かの発言や考察、具体的数値についての典拠が不明確」→「②独自研究なのか否かが判別できない」→「③脚注にて適切な典拠を提示する」という発想がふつうだとおもうのですが。iwaim氏がおっしゃるように脚注形式が義務でないというのであれば、「①誰かの発言や考察、具体的数値についての典拠が不明確」→「②独自研究なのか否かが判別できない」→「③しかし、脚注形式は義務ではない」→「④脚注形式は使わないものの、本文にて誰の考察なのかを明記する」と考えるのがふつうではないでしょうか。「①誰かの発言や考察、具体的数値についての典拠が不明確」→「②独自研究なのか否かが判別できない」→「③しかし、脚注形式は義務ではない」→「④義務じゃないんだから典拠は明記しない。独自研究か否か判別できないけど、閲覧者たちは我慢してろ」というかのような考え方は、閲覧者に対してあまりに不遜な発想だと思いますが。--べたべーた 2010年11月21日 (日) 04:03 (UTC)[返信]
《これは「参考文献のみしか挙げられていないと独自研究なのか否かが判然としないが、Wikipedia:出典を明記するで認められているから我慢して受け入れよ!」ということでしょうか》についてはそう解釈する人もいるでしょうし、その解釈が間違っているとも思いません。ただ、2点ほど指摘する点があります。1つめは、我慢して受け入れる必要はなくて、「Wikipedia:出典を明記する」を改定する提案を行うことは誰にでもできます。2つめは、「独自研究」か否かは1文1文にrefタグを付与して根拠とした出典を記載している場合であっても、その事実だけで『「独自研究」ではない』と鵜呑みにするのは浅はかとまではいわないけども素直すぎるんじゃないかと思います。「独自研究」ではなさそうな箇所については鵜呑みにするということはもちろん問題はないかもしれませんが、「独自研究」っぽい記述についてはrefタグにて出典が付与されていた場合にその情報源を調査してみないと実際のところはわからないわけで。
それでまあ、1から4の流れのところについては、先の発言にも似たようなことを書いたと思うのですが、「参考文献」セクションにて出典が示されてあるであろう記事に対して、「独自研究」の疑いがあると判断する箇所などについては、その箇所を具体的に挙げて、ノートなどで質問してみてください。大抵の執筆者はその呼びかけに答えてくれるんじゃないかと思います。--iwaim 2010年11月21日 (日) 05:13 (UTC)[返信]
  コメント ノートで指摘したところ、初版執筆者から「鬱陶しい」といわれる始末です……。--べたべーた 2010年11月21日 (日) 07:14 (UTC)[返信]
  コメント そりゃ、現状のウィキペディア日本語版で広く認められている方法で出典を提示している記事に対して、乱暴な言葉で「出典がない」と書くからですよ。--iwaim 2010年11月21日 (日) 20:54 (UTC)[返信]
  コメント現状のウィキペディア日本語版で広く認められている方法」とは到底思えませんが。初版を確認する限り「国際婦人年(1975年(昭和50年))や国際障害者年(1981年(昭和56年))などと比べて認知度は低く、盛り上がりに欠けたとする意見もある」との記述があるなど、誰の意見なのかを明確にせずぼかした表現で記述している箇所が多々あります。「Wikipedia:言葉を濁さない」をひくまでもなく、このような記述は避けるべきだというのがおおよその共通認識でしょう。初版を見る限り、参考文献は挙げてあるものの、どの書籍にこのような意見が載っていたのかはまったく明記されていません。脚注形式を採っていませんから、誰の意見なのかは不明確な状態でした。また、仮に本文中に明記されていたのであれば、脚注形式をとらなくても何の問題もないのでしょうが、そのような記述はありません。このような記述のやり方が「現状のウィキペディア日本語版で広く認められている方法」とは思えませんが。たしかに参考文献セクションのみの出典の提示の仕方は認められていますが、他方、言葉を濁さず誰の意見なのかを明瞭にするよう記述することも求められているはずです。そのための出典の提示なのではないですか?--がんまんま 2010年11月23日 (火) 19:02 (UTC)[返信]
iwaimさん、それは、貴方の解釈が間違っています。Wikipedia:出典を明記するを読み違えてますよ。「出典の出し方」節で、まず冒頭に「参考文献節に書誌情報を書き、本文や脚注から、文献の著者姓・発行年や参照順番号で文献を指し示します。詳細は/個別参照法をご覧ください」とあります。つまり、最初に(1)本文中に注釈を挿入する、そして出典が参考文献の節(後述で説明)に記載されている文献である場合は(2)記事末尾に参考文献を記載する のです。なぜ、「出典の出し方」節の冒頭文を無視するのですか?--パタゴニア 2010年11月20日 (土) 23:52 (UTC)[返信]
横からすみません。話の観点がずれていると思います。(a)「本文中に注釈を挿入する」方が望ましい事は、iwaimさんや私を含め、誰も否定していません。(b)しかし「Wikipedia:出典を明記する#記事末尾に参考文献を記載する」の方法が、禁止されているかというと、禁止はされていません。ここを冷静に見てください。繰り返しますが当ガイドは冒頭に「従うことが推奨されますが、公式な方針ではありません」と掲示されています。「推奨」と「必須」は違います。そして 実際の経緯を ノート:国際高齢者年#脚注ゼロとか言語道断を見る限りでは、iwaimさんの指摘の方に同意します。繰り返しますが「本文中に注釈を挿入する事が望ましいのに、なぜ否定するのか」という議論ではありません。--Rabit gti 2010年11月21日 (日) 00:08 (UTC)[返信]
  コメント おおっと、すみません。パタゴニアさんご指摘ありがとうございます。2010-10-24T03:07:55 (UTC) の版差分でそういうものが追記されていたのですね。Wikipedia‐ノート:出典を明記する#個別参照手順追録提案での提案により追記されたようですが、これは、この議論だけで追加するのはまずいんじゃないかなあ。--iwaim 2010年11月21日 (日) 00:14 (UTC)[返信]
  コメント前述された「鬱陶しい」という編集については、一目見て頭が下がりました。本来はJWPではこれぐらいを基準にして丁度良いくらいであると思います。 読みにくいのはおそらくカチンときての事からであろうと想像します。 現状で悪いという事ではありませんけれども、整理方法としては、同じ文献内であれば、よほど異質でないものは『出典ABC』50-70項などのように10~20ページ程度をひとまとめにできるし、全ての句点ごとに一々脚注をつけるのが煩雑になるようであれば、1段落の最後の句点の直前に該当脚注をまとめて列記させて、多少見やすくする事は可能です。--Gyulfox 2010年11月21日 (日) 00:49 (UTC)[返信]
  コメント インデントの場所が謎だけど、それはさておき。《全ての句点ごとに一々脚注をつけるのが煩雑になるようであれば、1段落の最後の句点の直前に該当脚注をまとめて列記させて、多少見やすくする事は可能です》については共通認識がないので、ウィキペディア日本語版編集者の間でもその出典がどの範囲のものであるのかという解釈に揺れがでるはずです。ウィキペディア日本語版編集者の間でもそうなるとすれば、読者にとってはもうさっぱりわからないんじゃないかな。--iwaim 2010年11月21日 (日) 01:01 (UTC)[返信]
私は極端に読みにくくなった時の事を言っているだけです。編集スタイルについては、ゆれは許容されています。これらは考慮すべきガイドラインであって守るべきですが、いき過ぎた共通認識は全く必要ありません。例文では読点の直前に脚注を置いていますが、文章内の全ての読点の後に脚注をとまでは言っていません。また何々式にしなさいとも言っていません。iwaimさんは何か規制を他人に強要しようという方向へ走っていらっしゃるのでしょうか?それなら私は大反対の立場ですが。--Gyulfox 2010年11月21日 (日) 02:18 (UTC)[返信]
極端に読みにくくなったときに、ちゃんとコミュニティで前向きに検討すればいいだけの話だと思っています。--iwaim 2010年11月21日 (日) 02:29 (UTC)[返信]
  コメント Gyulfox氏の「前述された『鬱陶しい』という編集については、一目見て頭が下がりました。本来はJWPではこれぐらいを基準にして丁度良いくらいであると思います」とのご意見に同意します。本来、最初からこれくらいきちんと書かないといけないと思います。脚注形式が義務でないというのであれば、少なくとも誰の分析・発言・考察なのかは明記するのは当然でしょう。脚注形式にしないのであれば、本文に組み入れるなりして明確にしないといけないと思います。--べたべーた 2010年11月21日 (日) 03:22 (UTC)[返信]
  報告 「Wikipedia:出典を明記する」の該当箇所の提案と追記を行ったAkanijiさんがたまたまTwitterでつぶやいていたので連絡してみたところ[1]修正していただけました差分。あの箇所の意図はこういうことのようです。--iwaim 2010年11月21日 (日) 01:01 (UTC)[返信]
iwaimさん、修正は確認しました。議論なしで変えてしまうのもどうかと思いますが、それは別に議論するとして。ぺタペータさんが問題提起された辞点では、私が指摘した冒頭文があったので、すくなくともぺタペータさんに対しての発言「そりゃ、現状のルールで認められている記載に対してあんなこと言ったら鬱陶しいと思われるんじゃないでしょうか。正直言って、私はあるふぁるふぁさんが絡まれているなあ、と思いましたよ。第三者ですらそう思う人もいるのですから、当人にとってはそりゃもう……。べたべーたさんにはそのつもりはなかったのかも知れないけれども。」は撤回されたほうが良いと思います。--パタゴニア 2010年11月21日 (日) 01:27 (UTC)[返信]
  コメント うーむ、「Wikipedia‐ノート:出典を明記する#個別参照手順追録提案ででの議論結果をWikipedia:出典を明記するに反映すること」は問題視されるのに、それに対して、「ツイッターで直接コンタクトして、議論を経ないでいきなりWikipedia:出典を明記するを変更すること」はセーフなのか……そのあたりの感覚が難しいですね……もう少しヘヴィーユーザにならないと、この辺の感覚は身につかないのかも……。--べたべーた 2010年11月21日 (日) 07:14 (UTC)[返信]
セーフじゃないと思えば、ノートで再度もとに戻すことを提案することもできますよ。経緯も大事。結果としてどういう状態になっているかというのも大事。--Ks aka 98 2010年11月21日 (日) 08:17 (UTC)[返信]
  質問 ウィキペディアにおける投票というのは、考え方としては「全権委任法」とか「白紙委任状」に近いと理解すればよいのでしょうか。つまり、ルールの改正が提案され、それが可決されたとしても、改正の提案者なら後から自由自在に改変してよい、ということ?
私は、当初、法案の採決のようなものを想定してたのですが、イタリアンマフィアのドンを決めるようなもの、という感じですかね。つまり、法案審議なら「提案されたルール(すなわち法案。ウィキペディアならガイドライン?)の文章について審議→採決を行う→可決されれば、その文章は正式な法律となる」という流れかと思っていたのですが、「ドン候補の器について審議→採決を行う→当選すれば、その人物は正式なドンとなる→一度ドンに就任した以上、ドンの決定には投票者らも従わねばならない」という流れでしょうか。つまり、文面だけを審議するのではなく、文面とその文面の提案者についても包括的に審議しているということ? やや属人的な部分もあるということでしょうかね。(裏を返せば、すばらしい提案であっても、提案者がうさんくさい場合は否決もやむなし、といったことになりますから、案外筋が通っているのかも。採決後にあまりにもむちゃくちゃな改変をするような人物が提案者だったら、そもそも可決しませんからね。ただ、後出しじゃんけんやり放題のような気がするので、危うい制度のような気もします。)--がんまんま 2010年11月22日 (月) 10:28 (UTC)[返信]
  コメント Wikipedia‐ノート:即時削除の方針#「記事1」の解釈の揺れに関してに関して厳しい御発言をされる方が、新参者の私にとって重要なWikipedia:出典を明記するについて議論も経ずにツイッターですか、iwaim様クラスの古参の方ともなるとずいぶんとなさりようが自由自在でいらっしゃるようですね。とても新参者ではマネのできない芸当と思料する次第です。そのようななさりようはとてもフェアな方法とはどうしても思えず(誤植の修正であっても明示的な依頼をなさった方がよろしいのではないかと)コメントさせていただく次第であります。(コメント依頼を行なう勇気もありませんので、このコメントだけにとどめます。)--Pseudoanas 2010年11月21日 (日) 08:49 (UTC)[返信]
  コメント この件に関して、Akanijiさんと私に対するコメント依頼を私の方から提出してみる予定です。--iwaim 2010年11月21日 (日) 20:36 (UTC)[返信]
  コメント国際高齢者年の初版は、検証可能ではあるけれど、検証容易ではないと思います。べたべーたさんの指摘も理解できるけれど、あるふぁるふぁさんの言い分に問題があるとも言えない。まあ、たしかに、数字などはわかりやすく対応させるのが好ましいですし、挙げられている参考文献は、記事ときちんと対応しているわけではなさそうです。
そういう場合には、自分でよりよい形に編集すればいいのですし、あいてにその作業をお願いするならば、丁寧な振る舞いをしなければならないでしょう。Wikipedia:礼儀を忘れないも、大事な方針です。対立するのではなく、相手に、なぜ、ここでは脚注で示す必要があるのかということを示し、それだけではなく、それを受け入れてもらうことを考えましょう。
より詳細に情報源を示すというのは、基本的には重要なことですけど、労力を必要としますし、とても負担になるような場合もある。で、その労力を読者や加筆者に負担させるよりは、執筆者が負担することが好ましいとは言えます。でも、そこまで労力をかけるよりも、一定の検証可能性を担保した上で、他の記事を書くことを優先させたいと:いう執筆者に、強制するほどものでもないと思う。--Ks aka 98 2010年11月21日 (日) 08:15 (UTC)[返信]
新規参入者は損のような不満が残ってはいけませんので、Wikipedia:出典を明記するをリバートしました。 編集の手順について、悪い火種は残すべきじゃないでしょう。 ツィッターはノート代わりにはならないと思いますので、面倒臭いかも知れませんが、文句の出ない正式な手順でお願いします。--Gyulfox 2010年11月21日 (日) 10:07 (UTC)[返信]
Gyulfoxさん、ありがとうございます。初心者としては、こんな重要な事柄を議論無しでいきなり変えられるのか!とびっくりしていたところです。--パタゴニア 2010年11月21日 (日) 11:34 (UTC)[返信]
ええと。「重要な事柄を議論無しでいきなり変えられる」のは、そもそもが、ノートでの合意に対して適切な本文改変ではなかった、というのが前提です。ここでの議論の中で、以前の文書を知る人が、本文改変を知り、経緯を確認したところ、適切ではないと考えた。元の提案者であり、改変を実行した人に確認をとったところ、その考えに同意が得られた。場所がツイッターだったのは、ウィキブレイクを宣言しているから会話ページで問いかけるよりも、効果的だと考えられたから。
記事だろうが方針だろうが、ごく一部を除き、重要な事柄であっても、大胆に改変がなされることもあります。長期にわたって、それが修正されないならば、受け入れられたとみなすべきこともあります。では、修正があり、しばらく経った後に、ノートでの合意と異なると気づいたときに、どういう対応を取るのがよいか。合意が得られていない本文について、それをそのまま受け取る「初心者」がいるのならば、いったん戻すか、提案と議論に沿った本文に修正するという考えは、自然な対応の一つでしょう。合意の得られていない方針が拡散することを防ぐことができます。もちろん、一定期間方針として示されていたことを重視するという立場もあろうかと思います。それならば、方針の内容として、また表現として、どうするのがよいかを話しあえば良いですよね。--Ks aka 98 2010年11月21日 (日) 12:11 (UTC)[返信]
なんで?皆さん、出典付けないことに必死になるのだろ?きちんとどの記述はどの文献のどこを参照しましたって書けば誰からも突こっまれることは無いのにね。出典緩和に必死になるとは本郷氏と同じですね。私なら出典つけることに必死になるけどね--パタゴニア 2010年11月21日 (日) 12:47 (UTC)[返信]
ここで話題となっているのは、情報源をどこまで詳細に付けるか、あるいは、誰もが編集に参加できるという条件下で、情報源を示しながら書くことに不慣れな人、情報源を示すことの意義を理解できていない人に、執筆意欲を損なわせないで、情報源を示すことに慣れてもらい、重要さを理解してもらうにはどうすればいいか、また情報源の扱いについては分野ごとの事情や慣習、詳細であることの必要性が異なるため、相互の理解を促しつつ、ウィキペディア内でどう折り合いをつけていくか、というようなことであって、出典付けないことに必死になっている人はいないと思いますが、いかがでしょう。--Ks aka 98 2010年11月21日 (日) 13:20 (UTC)[返信]
なにも権威ある学術書しか認められない訳でなく、分野によっては新聞や週刊誌でも出典として使えるのですから。「どの記述はどの文献のどこを参照しました」が基本であることを認められなくて、指摘された瞬間にWikipedia:出典を明記するを変更(経緯はどうあれ、私が突っ込んだからバタバタ書き直したのですよね)したのは「出典をつけないこと」に必死になってるように見えますけどね。見方は主観的なものだからKs aka 98さんの見解も否定はしませんけどね。この話は繰り返しても不毛なのでKs aka 98さんに異議が無ければ終わりにしましょう--パタゴニア 2010年11月21日 (日) 13:50 (UTC)[返信]
  コメント 画像提供が得意な人、冒頭の定義が得意な人、カテゴライズが得意な人、著作権侵害記事を見つけるのが得意な人、出典元の調査が得意な人、いろいろな人が協力し合ってできているのがウィキペディアです。ですので、なかには「本文を書くことはできるが、出典の提示についてあまり意識していない人」「ひじょうに専門知識が豊富だが、パソコンなどを苦手としており、<ref>の使い方に不慣れな人」という方々もいらっしゃるはずです。そのような方々に「執筆意欲を損なわせないで、情報源を示すことに慣れてもらい、重要さを理解してもらう」ことはひじょうに重要なことだと思いますし、もしそれが実現できれば優良ユーザの増加に繋がると思います。ですので、Ks aka 98氏がおっしゃる「執筆意欲を損なわせないで、情報源を示すことに慣れてもらい、重要さを理解してもらう」という観点は重要だと思います。
ただ、今回のあるふぁるふぁ氏の場合、活動歴も長いようですし「情報源を示しながら書くことに不慣れな人、情報源を示すことの意義を理解できていない人」とは言えないように思います。小生から指摘されたらすぐ脚注形式で出典元を提示したことからもわかるように、<ref>の使い方にも習熟されているようです。とすれば、「活動歴も長く、情報源を示しながら書くことに慣れているにもかかわらず、情報源を示すことに消極的な人」といえるでしょう。ウィキペディアの記事は、本文がメインなのはもちろんですが、脚注セクションや参考文献セクションも記事を構成する大事な要素のはずです。本文だけきちんと書けても、出典元が提示できないというのでは記事として片手落ちの不完全な状態です。活動歴が長いにもかかわらず不完全な記事しか書けず、それが一向に改まる気配がないのであれば、記事を執筆する能力そのものに疑念があるということだろうと思います。
いろんな人の協力で成り立っているのがウィキペディアですし、情報源を精査し出典元を付けるのが得意な人も存在するでしょうが、「本文のみ執筆するのが得意で情報源を示すのが苦手な人」をの尻拭いを別の人がする場合、多大な労力をつぎ込むことになり、生産的とはいえないでしょう。ですので、本文を書く人が出典元も同時に提示してくれるのが、一番望ましいのではないかと思います。--がんまんま 2010年11月23日 (火) 19:02 (UTC)[返信]
末尾に参考文献が列記してある方式の場合、読者が独自研究を疑った部分について、2、3箇所要出典タグ(範囲指定)を付けて、ノートに脚注表示の方が推奨されいることを案内された場合、列記式で掲載している事を理由に改善なしにタグを剥がしてしまう行為はどうなるのでしょうか?--Gyulfox 2010年11月22日 (月) 00:46 (UTC)[返信]
参考文献を確認もせず、疑いだけで要出典をつけるのが、まず問題行動であろう。確認の労を惜しむなら余計なツッコミ(要出典タグ付け)はするな、ということ。--219.67.171.131 2010年11月22日 (月) 02:45 (UTC)[返信]
なにが余計な突っ込みなのか?疑われたら疑いを晴らすのは執筆者の方の義務です。「どの記述はどの文献の何ページからの物か」キチンと書いておけば突っ込まれることも無いものを出典を明示せずにタグはがししたらますます疑われるだけでしょう。--パタゴニア 2010年11月22日 (月) 03:02 (UTC)[返信]
一般論のお話の様ですので一般論で申し上げますが、末尾一括方式では、末尾で挙げられている参考文献を隅から隅まで完全に読破しなければ、各々の部分の真偽、妥当性、その他諸々、全く判断できません。これはパタゴニアさんの曰く所の出典を伴わない記述の跋扈を助長することになりますし、規模や内容のヘヴィさが一定以上なら、私も114.48.194.174さんと同じ感想を抱きます[2]。試しに拙作のヘヴィ記事の幾つかを末尾方式にしてプレビューしてみましたが、恐ろしいことになってしまいました。検証容易性は軽く1/5000以下と言った状態です。Gyulfoxさんがお示しの事例の場合、例え記述が虚偽であったとしても、「参考文献を隅々まで読んでみたがどこにも記述がみられなかったので、もしよろしければ具体的なページ番号、せめて章だけでも是非ともお示しください(ただしこれは義務ではありません)」という事になってしまいます。私も他の方に似たような事を申し上げた事がございますが、もの凄く不毛でございました。具体的には数百ページある文献のページ番号が全く不明だったのでございますが、めくれどもめくれども記述が見付からない。しかしご本人は記述自体は存在していると主張しつつ、ページ番号は頑として示さない・・・。上でパタゴニアさんが仰っているのは少々キツすぎかもしれませんが、せめて大体でも示されていれば、そもそも問われる事自体が少なくなります。Wikipedia:善意にとるには抵触するかもしれませんが、比較的巨大な記事でもの凄く検証困難な状況を作りつつ自説に都合の良い出鱈目な記述を行い、JAWPに半永久的に残すことなど、簡単なことなのです。その様な危険性があるのであれば、是非とも予防致しましょう。
私の見た所、多くの方は脚注方式を強く推奨、末尾方式は分量や内容の複雑さと相談して許容、との感覚をお持ちであると思います。この場所での議論の推移を見守り、多くの方がそうお考えであるのであれば、運用で解決する様な不安定な状況を続けるのではなく、是非とも方針文書を改訂すべきです。ただしサイズや内容によってはかなり端折っても十分な検証容易性が残る場合もございますので、ガチガチすぎて執筆者の負担になる、逃げ出す方が出ると言う可能性も考えますと、あくまで義務化ではなく強く推奨にとどめるべきであるとも思いますし、ページ番号に関しましては推奨「提示を求められれば可能な限り応じる」にとどめるべきでしょう(4ページのペラペラの文献などもあるのですから)。ただし、「ページ番号や章などを示すことで、検証容易性をあげることが好ましい」くらいは書いておくものではないかと思います。せめてこう書いておかないと、末尾方式原理主義者がそこら中の記事の脚注出典を「末尾の参考文献一覧で示してあるので不要」と、除去して回る様な事件が、いつか発生しかねません。また、・・・私は2ちゃんねるのWikipediaスレなどで良く皆様の忌憚なきご意見を目にするのですが・・・脚注方式は脚注方式でも、どの程度が理想か、妥当かの辺りは、個々人のスタイルや好みに因るところが大きく、仮に最終的に相応に細かいガイドラインを設けるにしても、まずは実際に脚注方式そのものを強く推奨として運用してみた結果のフィードバックが必要でしょう。--Hman 2010年11月22日 (月) 03:08 (UTC)[返信]
検証可能性の基本を忘れたまま形式にこだわった質問をされてもナンセンスですね。検証可能性とは記述の信頼性を出典に委ねようそのためには出典を明示しよう、閲覧側は記述の正確性に疑問があったら出典に当たって確認しよう、執筆側も閲覧者が該当箇所を見つけやすいように脚注やページ数を付けた方が望ましい、これが基本です。その上でGyulfoxさんの質問に答えるなら、その他の条件、例えば独自研究を疑った方がちゃんと出典を確認しているのかどうか、疑うべき正当な根拠が有りそれを示しているのか、あるいは参考文献に10冊も20冊も出典が並べられた状態なのかそれとも論文1本提示されているだけなのか、出典がそこらの図書館に行けば難なく見つかるものなのかそれとも入手困難で国会図書館から取り寄せなければならないようなものなのか、などなど、他の諸条件で結論が変わってくるでしょう。ですからこれが正解というものはありません。ケースバイケースで判断することになるでしょう。--219.114.178.167 2010年11月22日 (月) 03:39 (UTC)[返信]
こういうことには、正解のようなものはないかと思います。皆さんならどう評価するか参考までに聞いているだけです。 個人的な意見ですが、全くブレイクしておらず、3箇所程度であるなら、質問されたらページ数は無理でも少なくとも、協力的な態度で「○×出典の△△の章だったと思うが再度確認します。」くらいは言えないと、疑うべき正当な理由になりかねないと思います。--Gyulfox 2010年11月22日 (月) 13:21 (UTC) [返信]
それでは、もう少し具体的な例を想定してお聞きします。 列記された出典が3つで、1冊は読破したが記述がなくて、残り2冊が入手困難でしたとノートに書いてあったという場合です。 出典は列記してあるんだとばかり、改善なく要出典タグ(範囲指定)を取ってしまった。その後、相手はリバートして更にTemplate:参照方法を追加してきた。 そこで要出典タグを除去して、Template:参照方法のみにしてしまった、この行為はどう評価しますか?(生々しいけれど、どこのページという事ではありませんよ)--Gyulfox 2010年11月22日 (月) 13:21 (UTC)[返信]
記事の性質や粒度にも拠るし、その資料の性質にも拠るし、入手困難の程度にも拠る。そもそも要出典タグを貼る必要がないのかもしれないし、参照方法が適切なのかもしれないし、参照方法すらいらないのかもしれない。ただし、確認したけどなかったのなら、執筆者は応えなければならない。それは、執筆者を疑うとかいう話ではなくて、その情報源が単純に間違いなので読者が困るから。返事がなく、記述がないことに自信があるなら、「記述が確認できなかった参考文献を除去する」のがよいと思います。--Ks aka 98 2010年11月22日 (月) 13:31 (UTC)[返信]
◆他者指摘があったときに、≪○×出典の△△の章だったと思うが≫までは言えても≪再度確認します≫とは言いづらく、(上に挙げた具体ケースおよびバリエーションですが)「その書籍は以前書籍整理をしたときに売ってしまったので手元にない」「図書館で借りた本ですが、県内の図書館には蔵書がなく、隣の県まで出かけて借りた本なので、そう簡単には確認できない」というような場合もあるでしょうね。そういう場合に、指摘する側も≪執筆者を疑う≫ようなスタンスであってほしくないし、そう誤解させる指摘の仕方であってほしくもないです。また、指摘された側も文献に準じて書いたはずだが書き間違いもあるかもしれないという前提で受け答えしてほしいし、知っている限りで検証困難な記事状況を改善できる受け答えをしてほしいところです。--NISYAN 2010年11月23日 (火) 01:23 (UTC)[返信]