Wikipedia:井戸端/subj/卒業論文は信頼できる情報源として使用可能か

卒業論文は信頼できる情報源として使用可能か 編集

記事「グッチ」を編集しています。このページのグッチの歴史は、本文中でリンクされている北海道大学の学生の卒業論文にかなり依拠しているようです。本文中には「関連:グッチ盛衰記」としてpdfへの外部リンクが貼ってあります(下記の問題が解決すれば、将来的に脚注なり参考文献なりに移そうと思っています)。そこで気になっているのは、学生の卒業論文を信頼できる情報源として扱い、これを出典とすることに問題がないのかという点です。論文を見る限りはまじめな考察と思われますし、指導教員も実在の人物、参考文献も適切に挙げられており、論文自体も当該ゼミの公式サイトから辿りつくことができるため、記載されている内容は十分信頼できる、かつ検証可能なものと思われます。ただ、卒業論文という性質上、どこまで外部に公表する目的で書かれたものなのか不明な点と、非常に言い方が悪くて申し訳ないのですが「一般学生の書いた論文が本当に信頼できると言えるのか(あるいは、Wikipediaコミュニティが「信頼できる」と扱ってくれるのか)」という点が気になっています。単に私が卒業論文を出典とする記事編集をしたことがないために違和感を感じているだけなのかもしれません。もし見識をお持ちの方がいらっしゃれば回答をお願いします。出典として使用することに問題ないということであれば出典範囲を明確にする編集を行いますし、不適当と言うことであれば要高次出典ということになると思います。私自身がこの卒論に挙げられている元の参考文献まであたって執筆しようとまでは考えていません。--Suz-b会話2013年4月3日 (水) 16:03 (UTC)[返信]

ありじゃないですかね。大学のウェブサイトにPDFがあるということは、一般に閲覧することを前提にしているということでしょう。それで、指導教官によるチェックを経てますから、WP:RSとみなしてもよいかなと思います。
それで、WP:VWP:CITEの基本的な考え方は、記述の基となった文献を挙げるということです。もしも、当該セクションの記述の基になったのがこの卒業論文なのであれば参考文献として残さなければなりません。この卒業論文には何らかの問題があり、WP:RSとはみなせないとなれば、別の出典を探してくるか、記述自体を取り除くべきです。一般学生の書いた論文が本当に信頼できると言えるのかに関しては、他の、それこそこの卒業論文で引用されている文献と比べて信頼性は劣るとは思うので、他の、それこそこの卒業論文で引用されている文献で置き換えるのがベストだと思います。実際、出典をいちいち挙げているという点においてこの卒業論文はよく書けているので、その作業はさほど難しくないと思います。
それで、実は英語版では孫引きもありとなっていて、それに関するガイドラインもあります。この書式に習って、この卒業論文で引用されている論文を出典として明記して、それはこの卒業論文の中で読んだ、ということが分かるように書いておいてもいいんじゃないですかね。後で元の参考文献まで当たれる編集者が出てきたら、その人に内容を確認してもらえばいいかなと。--Bugandhoney会話2013年4月3日 (水) 16:40 (UTC)[返信]
大学の教育水準や分野に依るのでしょうけれども、例えば生物学では卒論と peer-review を経た投稿論文とでは、内容に雲泥の差があります。従って個人的には卒論を信頼できる情報源とは考えません。例示されている卒論は内容・公開の形態共に好ましい例ですが、これを以て卒論一般の性質を推測するのは危険です。
また良くできた卒論は、学生が院に進学し、もしくは別の学生がテーマを引き継いで内容を充実させ、あるいはそのまま、投稿論文まで持っていくのが普通です。査読付き国際誌が無理でも、国内学会の和文誌や紀要程度には載るでしょう。それを待つ/探すのがWP:RSの理念に沿うものと思います。- NEON会話2013年4月4日 (木) 00:29 (UTC)[返信]
◆Bugandhoneyさんのおっしゃるとおり、今回の例ではありだと思いますが、一般化するのが危険だというNEONさんのご意見は傾聴に値します。まあ、文系と理系でも卒業論文の重みは違うでしょうが(文系では院に進む率が低い、国際誌への投稿も少ない等)、ケース・バイ・ケースで判断するよりないと思います。--ろう(Law soma) 2013年4月4日 (木) 00:46 (UTC)[返信]
理系で大学院に行くのは、学部の授業だけでは積み残しが多すぎるからで、修士までは日本の場合は通常学部の延長でございましょう。理系の就職組は、研究職の場合は企業で自分の研究の継続を行う例が大半でございます。既に目的が定まった方で、自活能力のない場合を除けば、海外の至れり尽くせりの研究施設に行くのが通例でございましょう。卒論自体存在しない学部学科もあるわけでして、学部論文はないのが大学通常と考えるなら、一般投稿者の独自研究となんら変わりはございません。--HASIDATE会話2013年4月9日 (火) 00:56 (UTC)[返信]

一律使用不可とすべきです。ただし文系は、出版されたもの、学術論文に引用されたもの、理系は、新規性がある場合(一旦新規性ありとして学内秘とされたもの)、出版されたもの、学術論文に引用されたものの条件をつければ例外とする。京大原子炉実験所のHPに掲載された文書を「いまいち」と評価する方もいるので、北海道大学の学生の卒業論文などは到底無理でございましょう。--HASIDATE会話2013年4月9日 (火) 00:37 (UTC)[返信]

「京大原子炉実験所のHPに掲載された文書」を出典に使うような記事主題とグッチでは、おのずと出典に使う文献が違ってくるのではないですかね。「京大原子炉実験所のHPに掲載された文書」を出典に使うような記事主題で一般化して基準を定めても仕方ないでしょう。--Bugandhoney会話2013年4月9日 (火) 12:38 (UTC)[返信]

議論に参加いただいた皆様、ありがとうございました。皆さんの意見を踏まえて、出典が卒業論文の場合は、分野や論文の内容と形式、公開形態などを総合判断してケースバイケースで判断するということにさせていただこうと思います。それで、今回の場合ですが、分野が人文系であること、内容や参考文献の提示が適切かつ検証可能、ウェブ公開の方式も問題ないと思われることから、出典とすることは可能であると判断したいと思います。ただし、あくまで学生の卒業論文であり、できればより適切な出典を求めたい旨はノートに記しておきます。また孫引きに関しては慎重にしたいと思いますので、こちらもノートに記録を残す形にします。さらに、この井戸端の議論もノートにリンクを張っておく形とさせていただきます。--Suz-b会話) 2013年4月17日 (水) 16:31 (UTC)--Suz-b会話2013年4月20日 (土) 14:17 (UTC)(一部取り消し)[返信]

卒業論文ではなく、Suz-bさまのご提案は学士卒業認定の科目単位の内容でございまして、それは大学内の一教育課程にすぎません。客体を曖昧化して一般化する態度は全く容認できかねます。また今後就職活動などの自身の論文を引用するなどの行為も頻発する可能性があり、これらについてなんら言及されていないことから、その点にも別途大きな問題があるとの意見をつけさせていただきます。失礼ながら、まとめを自己都合へ整合させる態度は全く容認できないと申し上げさせていただきます。--HASIDATE会話2013年4月20日 (土) 03:26 (UTC)[返信]

HASIDATE様から反論がございましたので、再反論ということではなく、いくつか確認させてください。
  • 「卒業論文ではなく」、「学士卒業認定の科目単位の内容」=「大学内の一教育課程」ということですが、私は最初から卒業論文=大学内の一教育課程という前提です(Bugandhoney様、NEON様、ろう(Law soma)様も同じ考え方でしょうか?)。つまり「大学内の一教育課程である卒業論文」が信頼できる情報源に値するかが心配だったのでこの議論を始めています。私は文系の出身なので、卒業論文というのは当然そういう性質(大学内の一教育課程)のものであると思っていたのですが、理系学部では異なるということなのでしょうか?この点については大学ごとの違いもあると思いますが、純粋にわからないので教えてください。
  • それから、「今後就職活動などの自身の論文を引用するなどの行為も頻発する可能性」とのことですが、こちらに関してはWikipedia:信頼できる情報源#オンラインや自己公表された情報源の利用Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源Wikipedia:自著作物の持ち込みで規定済みだと思います。問題視されているのは、「信頼できる資料に公表した自身の論文を、自分自身でWikipedia内に引用する行為」ということでしょうか。となると、これは卒業論文に限った問題ではなくなりますので、別の場所で議論をする必要があると思います(あるいはその規定は既にどこかにあるのでしょうか?)。とはいえ、信頼できる資料に公表されていれば、投稿者が匿名である以上、Wikipediaへ書いたのがその論文の著者なのか全くの別人なのかはわかりようがありません。
--Suz-b会話2013年4月20日 (土) 10:30 (UTC)[返信]
検証可能性は、掲載、不掲載を決断するべき時にも使用されます。
権威のございます雑誌の投稿論文と学部卒業論文に、同一の仮説に対して相反する論証がなされた場合でも、対等の立場で掲載することが可能になることになります。よって一概に(全ての場合で)検証可能性のある資料として学部論文は認めるべきではないというのがわたくしの論旨でございます。Suz-bさまはそのページで問題の解決をお望みではなく、あえて井戸端という公聴会的な場で問題提起をなされまして「卒業論文は信頼できる情報源として使用可能か」との表題で一般論的議論をお求めになっておられるようにお見受け致しました。一般的な問題といたしましては、多くの方が異をとなえてらっしゃる事柄について、個別具体的な問題として「出典とすることは可能である」と判断したと宣言されておられます。しかし、NEONさまとHASIDATEは反対との立場のはずです。Law somaさまも中立的と見受けられます。よって、Suz-bさまの宣言は読み違いとしか申し上げられません。
ご質問の件は、論文の発表はなんであれ新規性の喪失のみが社会に対する問題となりまして、文系学士論文でもビジネスモデルの研究でございましたら、許容国での特許出願の問題がある点で理系との違いはございません。それ以外の場合は、理系であれ文系であれ、学内の教育過程はその学校と学生さんとの関係における独自のものでございまして、社会が評価するものでも何か影響を与えるものでもございません。--HASIDATE会話2013年4月20日 (土) 12:42 (UTC)[返信]
まず、先程のまとめの部分の後段に関しましては、確かに私が問題提起した一般論的議論からは外れるので当該部分は打ち消しにしておきます。どちらかというと「この卒業論文は信頼できる情報源として使用可能か」の方が私の意図に近い表題でした。当該記事のノートで議論を提起してコメント依頼する手法の方が適切だったかと今にして思うところです。
ただし読み違いと言われてしまうのは少々納得がいきません。確かにHASIDATE様が強く反対されていることは認識しております。しかしBugandhoney様は「あり」「WP:RSとみなしてもよい」との立場、NEON様は反対のお立場ではありますが「大学の教育水準や分野に依る」と最初に言及があり、かつ「例示されている卒論は内容・公開の形態共に好ましい」とされています。ろう(Law soma)様は「今回の例ではありだと思います」とした上で「ケース・バイ・ケースで判断するよりない」とされています。全部の中間を取って、というわけでもないですが、結局のところ、今回の例を含めてケースバイケースとせざるを得ないのではないか、と考えたものです。もっとも、同じ文を読んでも、私が賛成寄りのバイアスから解釈し、HASIDATE様は反対寄りのバイアスから解釈されているので、そこに食い違いが生じてしまっているものと思いますが。--Suz-b会話2013年4月20日 (土) 14:17 (UTC)[返信]
一部例外を除いて制限字数まで極めて限定される学部卒論に学問的価値はほとんどございません。通常紀要論文でさえ院生の単独執筆件を認めていない位ですから、問題の論文に学問的価値も資料的価値もございません。理由は学内での成績評価のための内部文書に過ぎず、試験答案の一種であるからでございます。テストの答案やレポートと同一の価値しかもたないということでございます。また、大学側が卒論を作成させる目的は教育的なものでしかなく、推論と立証の方法、資料の収集整理、発表の方法などを総合的に体得させるための学内単位の一つにしか過ぎません。よってかかる論文は結論ではなく作成の過程や取り組み方が主な評価の対象でございます。個人のホーム・ページにでも優れた研究や論証はございますが、検証可能性のうち信頼性という点で通常認められておりません。ここでのおそらく論文の作成などにかかわった事のない論者の知見に頼って、公刊論文でもない論文を例外事項として認定させる事はできぬ相談でございます。ご自身がこの卒論に挙げられている元の参考文献まであたって執筆されれば、全く問題のない事でございましょう。もし優れたもので評価が高ければ、本人が改作増補してどこかに投稿していることでございましょうが…、内容は歴然とした違い(成長)がございます。--HASIDATE会話2013年4月20日 (土) 17:55 (UTC)[返信]

信頼度には程度の差があり、卒業論文はその中で下のほうに入ることは事実でしょうが、歴史や地理のような分野では一律に退けるべきではないと考えます。ウィキペディアが引こうとする箇所が、その論文が新奇に主張している理論や解釈であるならば、掲載しないほうがいいでしょう。しかしこの「グッチ」のケースのような、他の信頼できる文献のまとめにあたるようなもの、事実の陳述にあたるようなものならば、いちおう使用可能だと思います。その上で、置き換えがベターという点は異存ありません。

理系分野の経験にもとづくピアレビュー重視は、歴史や地理のような分野にはあてはまりません。そうした分野で資料的な価値がある知識は、いくつかの雑誌でカバーできるような量ではないのです。歴史学では、立派な学者の研究で参照されるという形で、卒論に価値が認められることも(もちろんごく珍しいことですが)あります。埋もれていた資料を初めて掘り起こしたり光を当てたりするようなことをすれば、そうなるのです。

HASIDATEさんは、権威ある雑誌の投稿論文と、卒業論文が対立したときに、対等の立場で掲載することが可能になるという懸念をあげました。もちろん、対等に掲載する余地などありません。しかしそもそも、絶対に禁止するか、絶対に掲載するか、という二分法にする必要はないのだと思うのです。権威ある雑誌の投稿論文の中に書かれていることでも、収録すべきでない傍論はあるでしょう。記事のテーマが大きければ、主題としてとりあげたことであっても瑣末事として除去しなけれぱならないことも出てくるはずです。そうしますと、信頼できる情報源と認めることは、その内容を必ず掲載しなければならないという話に直結するわけではありません。Wikipedia:信頼できる情報源の筆頭としてあげるような、権威ある雑誌に掲載された論文でも、ウィキペディアに載せるのは一部にすぎません。卒業論文となればごくごく一部でしょうが、小さなテーマでは、そして良質なものであれば、採録の余地があると思います。そんなふうに相対的に考えればよいのではないでしょうか。

私は精進川を卒業論文を参考に書きました。ここでは3つの参考文献をあげていますが、このうち山田秀三『アイヌ語地名の研究』は第一級の研究者の手になるものです。「地域社会と川づくり」が卒業論文、『郷土誌すみかわ』は地元の人が作った冊子です。ピアレビューを経ていないという理由で山田秀三を退けようとするなら、それはどうしようもなく阿呆な事です。後二者についても使い方を間違えたという気はしません。--Kinori会話2013年4月21日 (日) 09:14 (UTC)[返信]

大変申し訳ございませんが、お話が錯綜してございます。ルールの適用とルールを作ることは別のお話でございます。ここでは、学部の卒論を「信頼できる情報源として使用可能か」という話題に関しまして、できるか否かというお話でございます。ご例示の卒業論文は執筆者様が「川について実際に関わっている人達の(主観的な)意見、実感を基にしての論文構成」であるところからして、ただの論説文にしかすぎません(学術論文とは趣旨が違います)。一般の方の非常に優秀なHPを参考文献とできないのと同様、信頼できる情報源ではございません。すなわち、もしどなた様かが「要出典」として資料の要求をなされて、その記述を裏付ける資料が出せなければ、削除されても異議をはさめないだろうということでございます。余の事は、Kinoriさまとわたくしも同意見かとおもわれます(文系の研究者の論文が日本で認められることが如何に大変かは、Kinoriさまもご存知のことと思われますが…)。--HASIDATE会話2013年4月25日 (木) 10:54 (UTC)[返信]
ええと、精進川で卒業論文が出典になっているのは河畔林の売却をめぐる揉め事の箇所ですよね。経緯を記述しているだけで、これは論説の類とはちがうと思いますけど。こういうのをネタに学位論文や学術論文を書く人いますかね...。地元紙に報道があるかも知れないですし、市議会が要請を行ったということは議事録なんかにも言及があるかもしれないですけど、出典をそれらで置き換えたとしても記述の信頼性が格段に高まるとは思えないです。卒業論文が出典になっているという点だけから除去するのはやりすぎだと思います。あと、卒業論文と優秀なHPは同列に語ることはできないでしょう。前者は指導教官という専門家によるチェックという一種のPeer reviewを経ているのに対して、後者は誰にもチェックされていない完全な自己公表物なので。--Bugandhoney会話2013年4月25日 (木) 13:30 (UTC)[返信]

学部の卒論の採点にも作法はございまして、バックグラウンドから引用文献の表示方法まで、ひとつひとつが序列化するための試験である以上、教授の指導により通常点数化されております。さらに、発表の態度そのほかにもチェック項目がぎっしりでございまして、それらによってA~Dまで点数化するのが、大学というものでございます。もっとも、とりあえず提出すれば単位が授与される大学などもございますが…。教官という専門家によるチェックは単位習得の適否のみでございますが、これも通常は院生が教授の点数表を元に採点いたしまして、それは全くのPeer reviewなどではございません。したがいまして、学生の答案(卒論)など資料になどなり得ません。ウィキペディアはいろいろな方が意見をのべられますが、その方々の水準もまちまちでございまして、ある方にはすばらしい論文でも、ある方にはかわいらしい作文かも知れません。従いまして、内容をそれぞれが、その場で判断というわけにはなかなかゆかぬものでございます。「信頼できる情報源」を議論して削除は通常できぬことでございますゆえ。--HASIDATE会話2013年4月26日 (金) 15:58 (UTC)[返信]

意味が分かんないです。グッチ精進川というような記事主題に関して、いわゆるPeer reviewを経た学術論文だけで執筆できると考えている時点で変です。WP:RSの精神は、記事主題や記述しようとしている内容に関して個別に信頼性を評価せよ、ということでしょ?出典に使おうとしている文献の内容や性質をそれぞれがその場で判断しようとするのは正しいことだと思いますよ。
優秀なHPが出典に使えないのは、卒業論文と違って、そういう第三者(専門家)による様々なチェックを経てないからでしょ?第三者(専門家)によるチェックを受けているかどうかは文献の信頼性の評価に密接に関わってきますよ。--Bugandhoney会話2013年4月26日 (金) 16:22 (UTC)[返信]
その大学で、その「そういう第三者(専門家)による」その「様々なチェック」を経ているという、そのは全てBugandhoneyさまのご想像にしかすぎません。60点の論文か100点の論文かもわかりません。もし60点の論文なら-40点は、どの箇所でございましょう?
その論文の講評でもあるのでございましょうか?学部の卒論などその大学が、その学生に単位を与えるか否かの、その学生が作成した、ただの答案でございます。淀川について学部生の卒論などは全く資料にはなり得ません。理由は、多くの研究者の論文や書籍が既に存在するからでございます。そしてどこかの川やデザイナーの「記事主題に対応する資料がない」であるなら書けない、もしくは「信頼できる情報源」には基づかない不正確かもしれない記事との指摘をうけるかもしれません。Bugandhoneyさまは、それを「信頼できる情報源」に基づいた記事であるとされるおつもりのようでございますが、それを判断するのが、その水準さえ不明なただの投稿者であることから、それらの投稿者に判断させないという趣旨がこの「信頼できる情報源」でございましょう。
「パトリツィアによるたくらみとグッチ一族の崩壊、暗殺事件」などは企業や個人の名誉への問題があり、参照文献の執筆者様のご確認はやはり必要でございましょう。
Bugandhoneyさまの基本的な態度は理解できましたが、私の考えとは違うようでございます。--HASIDATE会話2013年4月27日 (土) 05:52 (UTC)[返信]
他に文献があれば別にそれで置き換えればいいと思いますよ。グッチ#パトリツィアによるたくらみとグッチ一族の崩壊、暗殺事件は節見出しからして中立的ではないと思います。ただ、これは出典の問題ではなくて書き方の問題でしょう。マウリツィオ殺害事件に関しては、卒業論文には2段落だけを使って手短に言及しているだけなので、この節の出典となっているわけではないと思います(卒論はあくまでも「関連」文献なのでは)。卒論でこの部分の出典となっているのは、中村雅人『グッチ家・失われたブランド イタリア名門の栄光と没落』となっていて、同文献はウィキペディア記事でも参考文献に挙げられているので、これが出典なのかもしれないです。「精進川」の卒論に関しては、北海道大学宮内泰介教授が、このページでは、私が担当した学生たちの卒業論文を掲載しています。(中略)中にはたいへん貴重な研究もありますので、どうぞご覧ください[1]と紹介していて、「グッチ」の卒論に関しては、北海道大学高井哲彦教授のホームページで、2001年度、北洋銀行懸賞論文佳作[2]と紹介されているので、60点の論文だとは考えにくいです。--Bugandhoney会話2013年4月29日 (月) 17:44 (UTC)[返信]
銀行は営利企業でなんら学術機関ではございません(論題が「イスラム銀行のすすめ」では超優秀論文でも佳作も無理でございましょう)。佳作だから60点とは考えにくいとは、Bugandhoneyさまが単に「考えにくい」とのご感想をお持ちなだけでございましょう。Bugandhoneyさまは当初、学部卒論でも「前者は指導教官という専門家によるチェックという一種のPeer reviewを経ている」からOKだとされていました。ところが、今度は北洋銀行懸賞論文佳作だから信頼できる情報だとされてらっしゃるわけでしょうか?ならば何故、当初よりそう仰らなかったのでしょう?大変不思議なお話ではございませんか?例えば、これ[3]でございますが、この論文の要旨では論者が何を根拠にしているか全く不明であることから、博士論文に合格しているとはいえ「女院における口向の役割は、禁裏においても当てはまったと推測される。」とされていても仮にこれをもって「女院へも口向役人が介入した」や「介入の可能性があった」とは書けません。しかし、この方が博士として同様の論旨を発表なさっている場合は「女院へも口向役人が介入した」や「介入の可能性があった」とこれを「信頼できる情報源」書く事にそれほど問題ございません。--HASIDATE会話2013年4月30日 (火) 17:36 (UTC)[返信]
Bugandhoneyさんについてはまともに相手をするに値しないことがこれまでの言動であきらかなはずですので、HASIDATEさんもお構いにならぬようお勧めします。発言をすればするほど矛盾を露呈し、その文だけ支離滅裂な矛盾の取り繕いに狂奔するので、時間の無駄です。有益な議論に資さないことを自覚して黙ってほしいものです。--ikedat76会話2013年4月30日 (火) 17:49 (UTC)[返信]
  コメント?北洋銀行は懸賞金を出しているだけで、審査には関わってないと思いますよ。2001年の北海道大学でどういうふうに審査されたかは分からなかったのですが、小樽商科大学にも似たような企画があって、この実施綱領[4]によると、北洋銀行の支援の下、23名の審査員(たぶん教授です)で審査したとのこと。ある情報源が信頼できるかどうかに関して、卒論であることと懸賞論文で佳作に選ばれたことは二律背反というわけでもないと思いますけど。「グッチ」の卒論に関しては、指導教官による審査+別の審査を通ったということです。今持ち出したのは不思議でもなんでもなくて、いろいろ調べているうちに単にさっき気付いただけです。--Bugandhoney会話2013年4月30日 (火) 18:15 (UTC)[返信]

HASIDATEさんの発言の最後の博士論文のくだりがよく分かりませんでした。博士論文に合格している論文は信頼できる情報源ではないが、発表(何の?)をしていれば信頼できるという趣旨でしょうか?--ikedat76会話2013年4月30日 (火) 17:49 (UTC)[返信]

発表とは「雑誌」や「単行本」への掲載の事ではないでしょうか?私は、学士でも修士でも博士でもその他の研究論文でも、その手のモノへ掲載されて初めてウィキペディアの出典として使えるという認識ですが。出版物とならず研究機関のサイトのみで閲覧できる論文は、独自研究の域を出ないということではないでしょうか?
ただ「卒論が出典に使えないのはレベルが低いから」という考えには賛成できません。一般向けの著作物は卒論レベル以下の物が溢れているにもかかわらず、(少なくても文系の分野では)ウィキペディアでは出典として使われています。卒論は単に出版物に掲載される機会が少ないので、ウィキペディアの出典として使えるものも少ない、という事になると思います。--114.148.138.213 2013年5月3日 (金) 10:02 (UTC)[返信]
卒論はおいといても、博士の学位論文は学術論文でも引用されることはありますから、一般論としてウィキペディアで出典には使えないというのは無茶でしょう。ただし、検証するのはかなり面倒くさいです。東大文学部の場合、基本的にそこまで出かけることになるでしょうが、国会図書館にも一部行っているはずですし、外部サービスを利用すれば購入可能です。日本史学科は知らないですが、他の学科では内規で博士の要件に査読のある雑誌での論文掲載を課しているところがあるので、博士論文の研究の一部はそういう、その手のモノへ掲載された形でも確認することはできます。--Bugandhoney会話2013年5月3日 (金) 14:12 (UTC)[返信]
学位規則第5章第9条では博士号取得者はその博士論文を公刊することが実質的に義務付けられています([5])。ですから、博士論文は要約版ですら公刊された形で利用できないということは、普通ありえません。「内規」とか「課しているところがある」とか、さも限定的なケースであるかのように、適当なことをおっしゃるべきではないでしょう。--Sumaru会話2013年5月4日 (土) 03:04 (UTC)[返信]
博士論文の印刷公表が法で義務づけられているとは知りませんでした。でも、これで博論はウィキペディアの出典として使えるのに、卒論は必ずしもそうでないかの根拠が明確になったと思います。決して博士が学士より偉い(専門性が高い)とか、査読のレベルが高いとか、そういうアナログ的な理由ではなく、印刷公表されるかどうかの差と考えていいと思います(もちろん間接的には博士の方が「偉い」からそのような義務が生じるわけですが)。
後ついでですが、修論は卒論と同様に公刊されていないものは基本的に不可ということでいいですよね。1991年以前なら、学士は学位ではなかったので修士とは明確な差がありましたが、現在では短大学士も立派な?学位です。修論・卒論・短大卒論の間に明確な線引きはできませんから。--124.84.95.64 2013年5月4日 (土) 06:06 (UTC)[返信]
さも事情通のように事実と異なることを断言していった方のコメントがないようなので代わりにコメントしておきます。
>修論・卒論・短大卒論の間に明確な線引きはできませんから。
とのことですが、大学の卒業要件が在学年数と取得単位しか定められていない(大学設置基準第32条[6])のに対し、修士課程はそれに加えて修士論文の審査と試験(口頭試問)が定められています(大学院設置基準第16条[7])。ですので、公的に学位取得の必須要件とされているか否かという違いがありますし、卒論はどのような審査を経ているのかが上記議論のようにケース・バイ・ケースで推測交じりにならざるを得ないのに対し、修論はそれが通ったという時点で、論文の審査と口頭試問という教員たちによる二段階のチェックをクリアしていることが確実に分かるという点で異なります。
修論を「研究業績」としてカウントできるかどうかはうろ覚えなので断言しかねますが、とりあえず東京農業大学の場合、教員採用の研究業績のうち、修士論文は「学術論文」に含めていいようですね。
もちろん、アクセシビリティの観点から、公刊されていない修士論文はできる限り使用しないほうが望ましいというのは事実でしょうけれど、線引きができないからという理由には異議を唱えておきます。--Sumaru会話2013年5月7日 (火) 03:14 (UTC)[返信]
補足どうもです。前の投稿で説明しましたとおり、提出する博士論文のうち、一部は国会図書館に行きますので、そこまで出かければ全国から寄せられた博士論文を確認することはできます[8]。「内規」というのはそのことを指しているのではなくて、課程博士の場合、博士論文の審査などに加えて、外部の雑誌に論文が受理されていることを課す場合があるということです。何本以上とか、英語じゃなきゃいけないとか、筆頭著者じゃなきゃいけないとか。理系の場合、研究室に入って研究等に従事することになると思いますが、その際論文を執筆して投稿するというようなことも通常経験します。アクセシビリティの観点で言うと、博士論文ではなくてそういう外部の雑誌に発表された、要するにその手のモノへ掲載された論文を参照するほうが便利だと思います。日本史学のようなところがどうしてるのかは知らないです。
今まで挙がった卒論に関しては、PDFになっていて大学のホームページにホストとされているというのが信頼できる情報源として検討する際にプラスにはたらいていると思います。印刷物としてしかないとか、個人のホームページにあるとか、という場合は、出典として使うのは難しいと思います。--Bugandhoney会話2013年5月7日 (火) 12:25 (UTC)[返信]
>アクセシビリティの観点で言うと、博士論文ではなくてそういう外部の雑誌に発表された、要するにその手のモノへ掲載された論文を参照するほうが便利だと思います。
ですから、アクセシビリティを重視するなら、博士論文そのものを書籍化したものや、博論を要約した論文を使えばいいでしょ、という話です(学位規則に従って、普通そういうものが作成されるのですから)。「日本史学のようなところがどうしてるのかは知らない」なんていうあやふやな「内規」に頼って、博士論文提出以前の論文を優先する必然性がどこにあるのですか。
なお、文系だろうと博論以前に複数の論文を発表しているのはむしろ当たり前でしょう。いきなり一発で博論を書けなんて指導する教員がいたら、そちらのほうがよほど変じゃないかと思います。あくまでも院生時代の体験に基づく印象論であって、断言はしかねますが。--Sumaru会話2013年5月7日 (火) 13:43 (UTC)[返信]
「博論を要約した論文」って何ですか?HASHIDATEさんが挙げていた「論文要旨」のことだとしたら、HASHIDATEさんの言うとおり、出典には使いにくいかなと思います。100ページとか200ページの内容を圧縮したものなので。学術論文で言えば、Summaryだけを読んで、ウィキペディアの出典に使うのは無茶でしょう。--Bugandhoney会話2013年5月7日 (火) 14:08 (UTC)[返信]
マニアックな例になりますが、ユージン・パーカーという学者が1920年にノストラダムスの研究でハーバード大の博士号を取得した後、1923年にそれを要約した数十ページの論文を学術誌に載せました。私は当然、論文を要約したものを印刷公表するとは、そのような様態を指すものと認識していましたから、「博論を要約した論文」と申し上げました。論文要旨を「論文」呼ばわりする学術研究者を、少なくとも私は見たことがありません。
もちろん、日本での「要約」もそのような例のみであるということに確証はありません(知り合いで博士号をとった人はみな本を出していた)ので、学位規則の条項が論文要旨のようなものを指しているのだとすれば、それを使えないのはもちろんでしょう。
ですが、いずれにしても優先順位は、博士論文の書籍>以前に発表していた論文、なのは明らかで、アクセシビリティについて論じる方が、私が学位規則を指摘したあとでさえも、一貫して書籍化された博論に一言も言及しようとしないのは不可解というほかありません。
なお、今調べなおしていてはじめて知ったのですが、今年から学位規則が改正されて、今後の博士論文は全文インターネット公開が基本になるようです([9])。先にあげた外部リンクが古い条文のままだったので気づきませんでしたが。--Sumaru会話) 2013年5月7日 (火) 14:50 (UTC)少し追記--Sumaru会話2013年5月7日 (火) 15:34 (UTC)[返信]
「書籍化された博論」というのは、要するに出版社から出た書籍ということですよね。私が国会図書館に送られると言っていたのは自分で印刷して自分で製本したもののことなので(普通は製本業者に頼むと思いますが)。そのお知り合いの方が本を出したのは大学院生の時ではなくて、教授なりのポジションに就いてからのことではないですか。そうだとすると、それはいわゆる論文博士のことで、順序は逆です。博士論文は書かずに博士課程を退学した後も研究を続けて、それが本にまとまったら、それを基に博士の学位を申請するということなので。例に挙がった東大文学部(人文社会系研究科)を例に取ると、こんな感じです[10]。「論文博士」にカテゴリされている方たちに関しては、仰るとおり、Amazonなどで探せば同名の書籍が手に入ります。論文博士のことを意図的に無視しようとしたわけではないのですが、成り行き上、もっぱら課程博士の話をしていました。ちなみに、数としてはまるまる一冊の本を出さないまま博士号を取得する課程博士のほうが論文博士よりも多いです。課程博士で大学院生のうちに本を出すというのは、例外的に優秀な人ではないですかね。理系だったらBook chapterを書くということはあるかもしれないですけど。--Bugandhoney会話2013年5月7日 (火) 17:01 (UTC)[返信]
課程博士と論文博士の違いだとか、国会図書館に所蔵されている博論の形態なんて、あなたから説明されなくとも百も承知です。
>課程博士で大学院生のうちに本を出す
学位規則の条文を読んでいますか? 課程博士か論文博士かに関わらず、博士号をとったらその論文を印刷公表しないといけないのです(私の知り合いには課程博士になったあと、専任講師時代にそれを本にした人とか普通にいますけど)。なんで院生時代(つまり博士号をとる前)に本を出したかどうかという話になるのでしょうか。根本的な話の筋が分かっていないとしか思えません。--Sumaru会話2013年5月8日 (水) 02:07 (UTC)[返信]
(追記)またはぐらかされてもいやなので、上と同じサイトから旧第9条を引用します。
第九条  博士の学位を授与された者は、当該学位を授与された日から一年以内に、その論文を印刷公表するものとする。ただし、当該学位を授与される前に既に印刷公表したときは、この限りでない。
この「ただし」のあとは、論文博士が事前に公刊していた場合などが含まれるはずです。では、前半は何ですか?--Sumaru会話2013年5月8日 (水) 03:18 (UTC)[返信]
えーと、何が問題になっているのかよく分からないのですが、印刷公表しなければならないから、自分で印刷製本して大学の図書館に収めてもらったり、国会図書館に送ったりしているのではないでしょうか。東大文学部だと2012年度だけで50近い論文がありますが、これが全部そのうちどこかの出版社から出版されるとでも仰るのでしょうか。博士号を取った後に大学教授などに就けばそういうこともあるかとは思いますが、そういうのは少数だと思います。必ずしも出版社から利用可能になるわけではないので、オンデマンド印刷などという外部サービスで提供されてたりもします。--Bugandhoney会話2013年5月8日 (水) 15:45 (UTC)(追記)文科省の資料にも「印刷公表」というのが何を指しているのか書いてありました。[返信]
実態としては、学位授与大学の図書館等において保管・閲覧させるほか、国会図書館での保管・閲覧をもって、「印刷公表」としている例が多い。[11]--Bugandhoney会話2013年5月8日 (水) 16:04 (UTC)[返信]
これ以上あなたが発言するとノイズが増えて情報量が減ります。もう黙ってください。あなたは誤っている、と指摘されていると言う以上でも以下でもありません。知ったかぶりはもう不要です。一切返信不要。--ikedat76会話2013年5月8日 (水) 15:49 (UTC)[返信]
予想の範囲内の呆れたご返答でしたので、以降はノートのほうに書きます。本来の主題の卒論からは話が離れていますし、Bugandhoneyさんがこれ以上知ったかぶりを重ねても、本題の議論に資するものではないでしょうから。--Sumaru会話2013年5月9日 (木) 01:58 (UTC)[返信]

(インデント戻します)話し合いが本題からずれていって、何か書きにくかったので追記していなかったのですが、一段落してノートに話題が移動したようですので、ちょっと追記します。私の基本的スタンスはKinoriさんに近いです。要は、卒論レベルは(その内容によるものの)信頼性のある出典としては不十分だが、より信頼性のある出典が付されるまでの間、緊急避難的に出典として利用しても「可」というものです。ですので私の意見に対するHASIDATEさんの評価(中立的)もSuz-bさんの評価(ケースバイケース)も間違った捉え方ではありません。--ろう(Law soma) 2013年5月13日 (月) 06:14 (UTC)[返信]

ひとつ言えるとすれば、各専門分野において何を専門的に適切な文献と見なすかは、大きなブレがあります。知らないことに容喙しない、自分の知っている領域のことを他の領域に押し付けないという類のつつしみも、多様なバックグラウンドを持った人があつまるウィキペディアのような場所では必要だとも考えます。何も知らないのに思い込みだけで云々するのは論外ですが。--ikedat76会話2013年5月16日 (木) 16:41 (UTC)[返信]