エミリア・ファン・ナッサウ
オランダ総督・オラニエ公ウィレム1世の娘 (1569-1629)
エミリア・ファン・ナッサウ(Emilia van Nassau, 1569年4月10日 - 1629年3月16日)は、オランダ総督・オラニエ公ウィレム1世と2度目の妃アンナ・ファン・サクセンの末娘。ケルンで生まれた。
エミリア・ファン・ナッサウ Emilia van Nassau | |
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エミリアの肖像、ダニエル・ファン・デン・クエボルン(Daniël van den Queborn)画 | |
出生 |
1569年4月10日 神聖ローマ帝国、ケルン |
死去 |
1629年3月16日(59歳没) ジュネーヴ共和国、ジュネーヴ |
配偶者 | マヌエル・デ・ポルトゥガル |
子女 | 一覧参照 |
家名 | オラニエ=ナッサウ家 |
父親 | オランダ総督オラニエ公ウィレム1世 |
母親 | アンナ・ファン・サクセン |
宗教 | キリスト教プロテスタント→カトリック→プロテスタント |
生涯
編集母アンナの不貞が明るみに出ると、姉アンナや兄マウリッツらとともに母から引き離され、父方の叔父ナッサウ=ディレンブルク伯ヨハンにディレンブルク(現在のドイツ・ヘッセン州)で養育された。のち、デルフトで父と暮らしたり、姉アンナとフリースラントに住んだ。
父の死後、兄マウリッツが総督を務める宮廷でエミリアは女主人となった。そこで、フェリペ2世に敗れたポルトガル王位請求者ドン・アントニオの庶子ドン・マヌエルと出会った。彼女は1597年にマヌエルと秘密裡に結婚し、カトリックに改宗した。マウリッツは妹の結婚に強固に反対し、妹を10年間宮廷から追放した。2人が和解したのは、マウリッツが死の床についてからであった。
エミリアはマヌエルとの間に10子をもうけた。2人は、エミリアがプロテスタントに回帰したため、のちに別居した。エミリアはジュネーヴで死んだ。
子女
編集夫マヌエルとの間に2男8女の計10人の子女をもうけた(子供たちの名前はオランダ語で表記する)。
- 長女(1598年 - 1602年)
- マリア・ベルヒカ(1598年 - 1647年) - 1629年にスイス人貴族のジャン・テオドール・クロル・ド・プランジャン男爵(? - 1647年)と結婚。夫はパルマ公オドアルド1世に仕える海軍大佐、艦長。
- エマヌエル・アントン(1600年 - 1666年) - ベージャ公、ポルトガル公、オランジュ公領総督。1646年にヨハンナ・フォン・ハーナウ=ミュンツェンベルクと結婚し、4人の娘をもうける。
- 三女(1602年 - 1603年)
- エミリア・ルイーゼ(1603年 - 1670年)
- ローデウェイク・ウィレム・クリストフェル(1604年 - 1660年) - トランコーゾ侯爵、オラニエ公マウリッツの近衛隊長。1631年にナポリ貴族の娘アンナ・マリーア・ディ・カペチェ=ガレオッティと結婚し、2人の息子をもうける。
- アンナ・ルイーゼ・フリージア(1605年 - 1669年)
- ユリアナ・カタリーナ(1607年 - 1680年)
- マウリティア・エレオノーラ(1609年 - 1674年) - 1647年にナッサウ=ジーゲン侯ゲオルク・フリードリヒと結婚。
- サビーナ・デルフィカ(1612年 - 1670年)