ケルン

ドイツの都市

ケルン(ドイツ語: Köln [kœln] ( 音声ファイル)ケルン語: Kölle [ˈkœɫə] ( 音声ファイル)英語: Cologne [kəˈloʊn])はドイツではベルリンハンブルクミュンヘンに次いで4番目に大きな都市である。ノルトライン=ヴェストファーレン州とヨーロッパでは1,000万人以上が住む大都市圏の一つであるライン=ルール大都市圏英語版内では最大の都市である。ケルン市街地はライン川の両岸にまたがる。市内にはケルン大聖堂 (Kölner Dom) があり、カトリック教会ケルン大司教の拠点がある。ケルン大学(Universität zu Köln) は欧州でも最古で最大の大学の1つである[2]

ケルン

Köln
ケルン大聖堂とホーエンツォレルン橋
ケルンの旗
ケルンの紋章
紋章
ケルンの位置(ドイツ内)
ケルン
ケルン
北緯50度57分0秒 東経6度58分0秒 / 北緯50.95000度 東経6.96667度 / 50.95000; 6.96667
ドイツの旗 ドイツ
ノルトライン=ヴェストファーレン州
行政管区 ケルン行政管区
地域連合 ラインラント地域連合
郡独立市
行政
 • 市長 ヘンリエッテ・レーカードイツ語版
面積
 • 合計 405.16km2
最高標高
118.4m
最低標高
37.5m
人口
(2019年12月31日)[1]
 • 合計 1,087,863人
郵便番号
50441 – 51149(旧:5000)
市外局番 0221、02203、02232、02233、02234、02236
ナンバープレート K
市コード 05 3 15 000
ウェブサイト stadt-koeln.de

概要編集

ケルンは1世紀にローマのコロニアとしてウビイ英語版の領域に創建された[3]ゲルマニア・インフェリオルの州都として462年にフランク王国によって占領されるまで、地域の軍の司令部が置かれていた。中世、東西ヨーロッパを結ぶ重要な交易路の一つとして繁栄した。ケルンはハンザ同盟の主要なメンバーの一員で、中世ルネサンス期にはアルプス以北では最大の都市であった。

第二次世界大戦まで、ケルンは他にもフランスやまたイギリスの支配を幾度か経験している。第二次世界大戦中、ドイツの都市の中でも最も多くの空襲を受けた都市の一つでイギリス空軍(RAF)によって34,711トンの爆弾が都市に落とされた[4]。この空襲の影響でケルンの人口は主に住民の避難によって95%減少し、市街のほとんどが破壊された。出来るだけ多くの歴史的建築物を復元することを意図して、再建の結果として非常に混じり合った独特の都市景観を呈している。

ケルンはラインラントの主要な文化の中心で、30以上の博物館と100以上の美術館を擁している。古代ローマの遺跡から、現代の絵画や彫刻など展示も幅広い。ケルンメッセではアートケルン英語版immケルン英語版ゲームズコムフォトキナなど多くの見本市が開催されている。

ケルンはまた、マインツデュッセルドルフとともにカーニヴァルを盛大に祝う都市としても有名である[5]

地理編集

ライン川の河畔に位置しており、古代以来陸上、水上交通の要衝である。重工業が発展する一方で、オーデコロンの生産地でもある。近隣の都市としては、約25キロ南にボン、10キロ北にレーヴァークーゼン、35キロ北にデュッセルドルフが位置する。空港はケルン・ボン空港西ドイツ首都だったボンと共用している。

歴史編集

古代編集

紀元前39年、ローマとの合意に基づき、親ローマのゲルマニア人部族ウビイイ族がライン川の西岸に入植した。その入植地オッピドゥム・ウビオールムラテン語: Oppidum Ubiorum, ウビイイ人の町)またはアラ・ウビオールムラテン語: Ara Ubiorum)は、ローマ軍宿営地となり、ゲルマニア州におけるローマの拠点となった。

紀元50年、皇帝クラウディウスの妻アグリッピナは、自分の出生地オッピドゥム・ウビオールムをローマ植民市(コロニア)に格上げするよう、要望した。こうしてコロニア・クラウディア・アラ・アグリッピネンシス(ラテン語: Colonia Claudia Ara Agrippinensium)またはコロニア・アグリッピネンシスラテン語: Colonia Agrippinensis)がおかれた[6]。後にこの地名はアグリッピネンシスの部分は省略されるようになりコロニアと呼ばれ現名の語源となった。

アウグスタ・トレヴェロールム(ラテン語: Augusta Treverorum、現トリーア)に次ぎ、ローマ帝国のゲルマニア支配の拠点として重要な地位を占めたケルンには、多くのローマ遺跡が見られる。80年には水道橋が建設された。1世紀末には、アグリッピネンシスは属州下ゲルマニアの首都となった。この当時の人口は4万5千人ほどであった。

355年から、サリー・フランク族フランク族に属するサリ族)が10年の間ケルンを包囲した。455年リプアリウス・フランク族英語版は最終的にケルンを落とし、これを首都とした。481年クロヴィス1世がフランク族を統一し、メロヴィング朝フランク王国が成立、首都はトゥルナカム(ラテン語: Tornacum, 現トゥルネー)。フランク王国 メロヴィング朝においてケルンは、「王の居所として際立った都市」の一つであり、その場合、ローマの軍団本営プレトリウム(Praetorium)が利用された[7]

中世編集

 
30年戦争でスウェーデン軍の攻撃を受ける

ローマからはキリスト教も早くから伝播した。ケルンには4世紀(313年?)[8]に司教座がおかれ、のち8世紀末には大司教座が置かれることとなる[9]。6世紀末から13世紀末までケルン司教(ケルン大司教)はフランク王国・東フランク王国・神聖ローマ帝国の宮廷と密接な関係を維持した[10]

10/11世紀、ドイツ西部の貿易の中心地ケルンの商人は、ゾーストドルトムントを起点とし、エルベ川流域のバルドヴィーク(de:Bardowick)やマクデブルクに通じる「ヘルヴェーク」(de:Hellweg)とよばれる貿易ルートにおいて活躍した[11]

大司教座の置かれたケルン一帯は、ケルン大司教に帰属する宗教領邦となった。大司教座附属学校(Domschule)がおかれたケルンは、政治のみならず文化の中心となる。特にドミニコ会がおいたケルン大司教管区の神学大学(studium generale et solemne;1248年設立)ではアルベルトゥス・マグヌスマイスター・エックハルトなど中世の重要な思想家が講義し、スコラ学最大の神学者となるトマス・アクィナスなどが学んだ。マイスター・エックハルトによってケルンはドイツ神秘主義思想の発展に大きくかかわることとなる。上記両校を母体に1388年には市のイニシアティブでケルン大学が創立された[12]

市と大司教の間の関係は常に良好であったわけではなく、1074年には両者の間に発生した衝突により、大司教は市から逃亡せざるをえない事態に陥っている[13]。一方、市としてはその自立性の確立を目指し、都市印章(Stadtsiegel)を制定し(最も古い使用例1149年)、市の上層部が市の統治のために使用する施設(Bürgerhaus)を設立した(1130年ころの文書)[14]。そして、 13世紀に入ると両者間の緊張関係は先鋭化し、1288年のヴォリンゲン(Worringen)の戦闘でケルン大司教が敗北すると、ケルン市は大司教の「優位」(Vormachtstellung)を最終的に排除し、大司教は拠点都市としてのケルンを失い、 ボンとブリュールが拠点都市としての機能を不十分ながら果たすことになった[15] 。1475年には自由帝国都市(Freie Reichsstadt)と認められた[16]

ケルンで政治的・社会的に指導的役割を果たしたのが、ドイツ最古にして最強の門閥組合(Patriziergesellschaft)たるケルンの「リーヒャー・ツェッヒェ」(Richerzeche=A.Glierによると、文字通りには>Bruderschaft der Reichen<[17]、邦語では「富者兄弟団、富者クラブ」ほどの意味)である。「それはすでに12世紀に成立し、14世紀末まで一時は突出した権勢を誇っていた。すなわち市長、参事会員、参審人をメンバーに擁し、そのことにより参事会・参審人団を牛耳り、都市役人の人事を決定した」[18]。しかし、中世末期1369年以降この門閥組合も、門閥間の争いを繰り返すうち次第に勢力を失い[19]、ついに1396年には参事会員が22個のガッフェル(Gaffel)によって選ばれる状態になった。ガッフェルは本来商人の組合(Kaufleutekorporation)であったが、のちにツンフト(Zunft)や自由な会員もその構成員となった[20]

ケルンは繊維工業、皮革工業、金属加工業の中心地であった。繊維製品では、絹織物や毛織物、金属加工では、刀剣、胸甲等を生産し、1395年には122人もの金細工師・金箔師がいた[21]。金属加工業における関連職種の細分化は著しく、「12世紀の段階で約70あった職種のうち12種、14世紀末には約170種のなかで40近くを占めていた」[22]。そのうち、都市当局が公認していたツンフトは61職種であった[23]。金属加工品は東欧へも輸出していた[24]。中世末期ケルンは4万人の人口を擁するドイツ最大の都市であり、女性も産業・商業の分野で大いに活躍した[25]中世末期ケルンの輸出ヒット商品は絹であったが、中国から大量に輸入された生糸を高級な生地に織ったのは女性のツンフト(職人組合)であった[26]。その石像が今日ケルン市庁舎の塔を飾っているde:Fygen Lutzenkirchenは、そのような成功した女性ツンフトの象徴的存在である [27]

15世紀中頃、人文学者エネア・シルヴィオ(Enea Silvio de’ Piccolomini 1405-1464;1458年からローマ教皇ピウス2世)は神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世(在位1440-1493)の政治顧問としてドイツに滞在中、ケルン等の諸都市を見学し、その「経済活動の活発さや市民生活の繁栄」に驚いている[28]。中世の「都市には、都市年代記に関心を寄せる、読み書きのできる広範な読者層が誕生した。この文学的な興味を満たすものに、例えばケルンのいわゆる『ケールホフ年代記』があった」[29]

ローマ軍営都市としてのケルンは、帝政末期にローマ軍の撤退とともに衰亡し、中世都市ケルンは司教座教会を中心に成立するが、その周辺に市民集落が生まれるのは9世紀ごろで旧ローマ城壁内の半分の地域を占めていた。10世紀には旧ローマ城壁内の全域とライン川沿いの地域にまでそれが広がったが、後者の地に居住する商人は市民相手の商売ではなく北洋商業に活躍していた。対外商業の発展に伴い、市民集落は焼いた餅のように膨張し、12世紀初めにそれを囲む第1次中世城壁(周壁環)の建設が行われた。さらに12世紀末にはそれの外側に第2の城壁(周壁環)が建設され、そこに含まれる面積(400ヘクタール)[30]は旧ローマ市域の4,5倍となった。この市域は18世紀までさしたる発展はなかった[31]

ケルンの画家の優秀さを示唆する記述が、13世紀初めに活躍したヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの叙事詩『パルチヴァール』にみられるが[32]、とくに14-15世紀には、優れた美術作品(今日においても教会や美術館で鑑賞できる)が生まれ、なかでもシュテファン・ロッホナー(Stephan Lochner)はドイツゴシック絵画の最高傑作を産み出したと言われる[33]

ケルンはまた、東欧と接触する西欧側の中心地のひとつとして東欧との文化交流において大きな役割を果たした[34]

ベルギーブリュージュ等に現存する旧居が世界遺産に登録されていることからも知られているベギン会は俗人と同じように生活し、戒律による共住生活を送ることのない、半聖半俗の修道士・修道女の集まりであったが、「ケルンでは13世紀から14世紀にかけて100前後の宿舎が建てられており、すくなくとも1000人の未婚女性の収容能力があった」[35]

近世編集

三十年戦争後、一時期衰微をみたケルンであったが、その後次第に復興し、19世紀にはケルン大聖堂の増築と完成を見るに到る。ケルン大聖堂の完成の大きな要因はヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテも関係した[36]ゴシック様式の見直し、いわゆるゴシック・リヴァイヴァルである。しかしこの動きは必ずしも宗教的権力の強化を意味しない。フランス革命後の世俗化傾向は、選帝侯制度の廃止のみならず、宗教領邦としてのケルン大司教座領の廃止に帰着する。以後ケルンは、ライン川流域の一世俗都市として、商業の中心地として繁栄していく。

1794年、ケルンはフランスに占領され、1801年のリュネヴィルの和約で正式に併合された。しかし、1815年のパリ条約でケルンはプロイセンに割譲された。

近代編集

 
第二次世界大戦による荒廃

1848年、エンゲルスマルクスはケルンで急進的な新聞『新ライン新聞』(Neue Rheinische Zeitung) を発刊した。1880年にケルン大聖堂が完成した。第一次世界大戦の後、1926年までイギリス陸軍ライン軍団に占領された。ヴェルサイユ条約ラインラントの非武装化が定められたため、1917年からケルン市長になったコンラート・アデナウアーは古い城壁を取り払って緑地帯にし、ケルン大学を再建、フォードシトロエンなど外国企業を誘致し、メッセやドイツ最初のアウトバーンを建設してケルンをドイツ一の産業都市として振興した。

現代編集

第二次世界大戦に際しては、激しい空爆を受けてケルン市内の9割の建造物が破壊された。1945年3月からは市内に立て篭もって抵抗を続けるドイツ軍アメリカ合衆国軍との間で激しい市街戦となり、3月5日陥落した。しかし、ケルン大聖堂だけは奇跡的にも完全には崩壊せず、絶望の淵に陥っていた市民に希望を持たせた。その後ケルンは復興を果たし、今日へと至る。2015年にはケルン大晦日集団性暴行事件が起きドイツに衝撃を与えた[37][38]

交通編集

 
ケルン中央駅
 
ケルン・ボン空港

鉄道編集

航空編集

この他、ドイツ最大手の航空会社であるルフトハンザドイツ航空は本社をケルンに置いている。

観光名所編集

 
ケルン 2013年

ケルン市内中央部は、第二次大戦の空爆と市街戦によりほとんどの建物が破壊されたため、市街地は1950年代に戦前の通りの名や建物を受け継いで再興された。いくつかの戦前の建物も残っており、市内の名所となっている。

  • ケルン大聖堂 (Kölner Dom): 1248年に着工し宗教改革で中断、500年以上の年月を経て1880年に完成した、ケルンの町のシンボル。ユネスコ世界遺産にも登録されている。
  • ロマネスク教会 (St. Gereon, St. Pantaleon, St. Maria im Kapitol, Groß St. Martin, St. Aposteln)[39]
  • ケルン・メッセ
  • ヴァルラフ=リヒャルツ美術館 (Wallraf-Richartz-Museum)
  • ローマ・ゲルマン博物館 (Römisch-Germanisches Museum):酒神ディオニュソスを描くモザイクの床をもつローマ人の館の上に建設。紀元30-40年頃の高さ15メートルと大きな墓碑等の展示品はもちろん、酒神のモザイク画も必見[40]
  • チョコレートミュージアム (Schokoladenmuseum):「Imhoff-Stollwerck-Museum」が公式の名。
  • ホーエ通り (Hohe Straße): 市内中央部のショッピングストリート。
  • ローマ人の塔 (Römerturm): 紀元50年にローマ人が築いたケルン市壁の見張りの塔。完全な形で残っている。

宗教編集

 
パウル・ゲルハルト教会(福音主義教会)
 
ケルン・(ユダヤ教)シナゴーグ、2006年
 
ケルン中央モスク

ケルンではラインラント地方と同様に歴史的にローマ・カトリック教会が多数派である。ラインラント地方のベルギッシュラントの一部とニーダーラインの一部の都市デュースブルクメールスドイツ福音主義教会(EKD)に加盟しているラインラント福音主義教会が多数派である。2014年末の統計によると、ケルン市民の36,3%(約420.000人-ケルン市のみ)がローマ・カトリック教徒であり、15,9%(約299.000人-ケルン市と周辺を含む) がラインラント福音主義教会に属し、47,8%がイスラム教ユダヤ教等のキリスト教以外の宗教、もしくは無宗教無神論者である。

1933年には約18.000人のユダヤ教徒のケルン市民がいたが、ナチス政権時代において約8000人が殺害された。今日、ケルン市内のユダヤ教シナゴーグには4850人超のユダヤ教徒が属している。

イスラム教徒はケルン市内に約120.000人(約11%)に居住しており、モスク(イスラム礼拝所)が45か所ある。さらに巨大なイスラム礼拝所ケルン中央モスクドイツ語版が2017年に完成した。

ドイツの他の大都市と同様に、ローマ・カトリック教会大聖堂があるケルンにおいてもキリスト教離れが進行し、宗教多元化状況が生じており、もはやキリスト教は絶対的な存在ではない。なお、ケルンで福音主義信徒が市民権を完全な形で認められたのは1797年であった。

文化編集

学術編集

スポーツ編集

美術編集

 
東洋美術館。現在の建物は前川国男の設計。
  • ルートヴィヒ美術館 20世紀美術のコレクションが豊富なことで知られる美術館で、世界最大級のピカソコレクションが収蔵されている。
  • ヴァルラフ・リヒャルツ美術館
  • ケルン市立東洋美術館(Museum für Ostasiatische Kunst) - 美術収集家のアドルフ・フィッシャー(初代館長)と妻フリーダのコレクションをもとに1913年に作られた。アドルフは1892年に世界旅行で初来日し、1897年には新婚旅行でインド・香港・台湾経由で再来日、以降二人とも10年にわたり幾度か日本を訪れ、ケルン市の援助で美術館を設立した。当初は二人が集めた日本美術がほとんどだったが、徐々に朝鮮と中国の作品も加えられた。夫婦とも『明治日本印象記―オーストリア人の見た百年前の日本』、『明治日本美術紀行 ドイツ人女性美術史家の日記 』の邦訳著書がある。

音楽編集

 
ケルン歌劇場

デュッセルドルフとの関係編集

ノルトライン=ヴェストファーレン州の州都であるデュッセルドルフとケルンの間には激しい地域の対抗心があると言われている[41]。対抗意識にはカーニバルのパレードやサッカー、ビールなどがある[41]。ケルンの人々はケルシュを好むが、デュッセルドルフの人々はアルトビールを好んでいる。ケルンでアルトを、デュッセルドルフでケルシュを注文すると、軽蔑や嘲笑を受ける[41]。このライバル関係は愛憎関係として表現されている[41]

その他編集

聖ウルズラ(St. Ursula)は、「ケルンにおいて聖地ローマ巡礼の帰路に11000人の侍女たちと共に殉教したとされる」聖女であり、彼女のために建てられた教会が聖ウルズラ教会である。[42]なお、市の紋章の、いわゆる東方の三博士を表わす3個の王冠の下に描かれた11個の黒い点は、この殉教の処女たちに因むものと言われている。

ハインツェルメンヒェンde:Heinzelmännchen)は、グリム兄弟編『ドイツ伝説集』伝説150番≫Die Füße der Zwerge≪ 等と似たグリム童話「小人に仕事をやってもらった靴屋の話」(Von dem Schußter, dem sie die Arbeit gemacht.) [43]をもとにde: Ernst Weyden (1805–1869) がケルンを舞台にする話を作り、それをさらにde: August Kopisch (1799–1853)がバラードにした小人の話である。夜分、人に見られない間に仕事をしてくれるケルンの小人の話はドイツ人なら誰でも知っている。ローマ・ゲルマン博物館の近くに「ハインツェルメンヒェン噴水」がある。マインツから放送されるドイツの公共放送 ZDF(第2ドイツテレビ)の人気キャラクター「マインツェルメンヒェン」(Mainzelmännchen)はケルンの「ハインツェルメンヒェン」を踏まえたものである。

気候編集

ケッペンの気候区分では西岸海洋性気候(Cfb)に属する。

ケルン・ボン空港(1981-2010年、極値1981年-)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C (°F) 16.2
(61.2)
20.7
(69.3)
25.0
(77)
29.0
(84.2)
34.4
(93.9)
36.8
(98.2)
37.3
(99.1)
38.8
(101.8)
33.1
(91.6)
27.6
(81.7)
20.2
(68.4)
16.6
(61.9)
38.8
(101.8)
平均最高気温 °C (°F) 5.4
(41.7)
6.7
(44.1)
10.9
(51.6)
15.1
(59.2)
19.3
(66.7)
21.9
(71.4)
24.4
(75.9)
24.0
(75.2)
19.9
(67.8)
15.1
(59.2)
9.5
(49.1)
5.9
(42.6)
14.8
(58.6)
日平均気温 °C (°F) 2.6
(36.7)
2.9
(37.2)
6.3
(43.3)
9.7
(49.5)
14.0
(57.2)
16.6
(61.9)
18.8
(65.8)
18.1
(64.6)
14.5
(58.1)
10.6
(51.1)
6.3
(43.3)
3.3
(37.9)
10.3
(50.5)
平均最低気温 °C (°F) −0.6
(30.9)
−0.7
(30.7)
2.0
(35.6)
4.2
(39.6)
8.1
(46.6)
11.0
(51.8)
13.2
(55.8)
12.6
(54.7)
9.8
(49.6)
6.7
(44.1)
3.1
(37.6)
0.4
(32.7)
5.8
(42.4)
最低気温記録 °C (°F) −23.4
(−10.1)
−19.2
(−2.6)
−12.0
(10.4)
−8.8
(16.2)
−2.2
(28)
1.4
(34.5)
2.9
(37.2)
1.9
(35.4)
0.2
(32.4)
−6.0
(21.2)
−10.4
(13.3)
−16.0
(3.2)
−23.4
(−10.1)
降水量 mm (inch) 62.1
(2.445)
54.2
(2.134)
64.6
(2.543)
53.9
(2.122)
72.2
(2.843)
90.7
(3.571)
85.8
(3.378)
75.0
(2.953)
74.9
(2.949)
67.1
(2.642)
67.0
(2.638)
71.1
(2.799)
838.6
(33.016)
平均月間日照時間 54.0 78.8 120.3 167.2 193.0 193.6 209.7 194.2 141.5 109.2 60.7 45.3 1,567.5
出典: Data derived from Deutscher Wetterdienst[44][45]

姉妹都市編集

 
ケルン市の姉妹都市である京都市に寄贈された大聖堂飾り破風、京都市左京区岡崎公園

他の市町村との合併を通じて、ケルン市は以下の都市とも姉妹都市関係にある。

出身の有名人編集

参考文献編集

  • Lexikon des Mittelalters. Bd. V. München/Zürich: Artemis & Winkler 1991 (ISBN 3-8508-8905-X), Sp. 1254-1269.
  • Gerhard Köbler: Historisches Lexikon der deutschen Länder, 6. Aufl. München: Beck 1988 = Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1999, S. 316-317.
  • Baedeker: Deutschland. Ostfildern: Karl Baedeker 2005 (ISBN 3-8297-1079-8), S. 650-667.
  • Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6).
  • Michael Imhof / Stephan Kemperdick: Der Rhein. Kunst und Kultur von der Quelle bis zur Mündung. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2004 (ISBN 3-534-17215-9).
  • フリードリヒ・フォン・ラウマー『騎士の時代 ドイツ中世の王家の興亡』(柳井尚子訳)法政大学出版局 1992 (叢書・ウニベルシタス 386)(ISBN 4-588-00386-0)
  • エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 『ヨーロッパの中世都市』岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X)
  • 坂井栄八郎『ドイツ歴史の旅 増補』朝日新聞社 1997(12刷)(朝日選書 312)(ISBN 4-02-259412-8
  • ゲオルク・フォルスター著・船越克己訳『ニーダーラインの光景』大阪公立大学共同出版会 2012 (ISBN 978-4-901409-86-5)
  • 笹本駿二『ライン河物語』岩波新書、1974年 (ISBN 9784004151012

関連項目編集

脚注編集

  1. ^ Bevölkerung der Gemeinden Nordrhein-Westfalens am 31. Dezember 2019 – Fortschreibung des Bevölkerungsstandes auf Basis des Zensus vom 9. Mai 2011
  2. ^ Economy”. KölnTourismus. 2011年4月18日閲覧。
  3. ^ From Ubii village to metropolis”. City of Cologne. 2011年4月16日閲覧。
  4. ^ http://www.flightglobal.com/pdfarchive/view/1945/1945%20-%201571.html
  5. ^ Baedeker: Deutschland. 8.Aufl. 2005 (ISBN 3-8297-1079-8), S. 664-665.
  6. ^ タキトゥス著 国原吉之助訳 『年代記』(下)岩波文庫、1981年、77頁。
  7. ^ ハンス・K・シュルツェ『西欧中世史事典―国制と社会組織―』(千葉徳夫他訳)[MINERVA西洋史ライブラリー㉒]ミネルヴァ書房 1997年 ISBN 4-623-02779-1)、246頁。
  8. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. V. München/Zürich: Artemis & Winkler 1991 (ISBN 3-8508-8905-X), Sp. 1261.
  9. ^ カール大帝は司教の熱心な宮廷奉仕に報いて794/5年に「大司教」の称号を授けた。- Lexikon des Mittelalters. Bd. V. München/Zürich: Artemis & Winkler 1991 (ISBN 3-8508-8905-X), Sp. 1261/2.
  10. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. V. München/Zürich: Artemis & Winkler 1991 (ISBN 3-8508-8905-X), Sp. 1261.
  11. ^ Geffrey Barraclough(ジェフリー・バラクロウ)編『新しいヨーロッパ像の試み―中世における東欧と西欧―』(宮島直機訳)刀水書房 1979 165頁(マイケル・ポスタン執筆)。
  12. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. V. München/Zürich: Artemis & Winkler 1991 (ISBN 3-8508-8905-X), Sp. 1259.
  13. ^ 今来陸郎『都市と農民――中世のヨーロッパ』至誠堂 1973、8-82頁。- Gert Althoff, Hans-Werner Goetz, Ernst Schubert : Menschen im Schatten der Kathedrale. Neuigkeiten aus dem Mittelalter. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1998, S. 91-93.
  14. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. V. München/Zürich: Artemis & Winkler 1991 (ISBN 3-8508-8905-X), Sp. 1258.- 一方、今野國雄『NHK大学講座 西欧中世世界の展開』NHKサービスセンター 1981、117-118頁やハンス・K・シュルツェ『西欧中世史事典―国制と社会組織―』(千葉徳夫他訳)[MINERVA西洋史ライブラリー㉒]ミネルヴァ書房 1997 (ISBN 4-623-02779-1)、253頁において紹介されている説、1112年に市民は都市領主たる大司教に対抗する「自由のための誓約団体」(coniuratio pro libertate)を結成し、自治都市となったとする説には、今日疑問が出されていると上記事典Lexikon des Mittelaltersは指摘している。
  15. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. V. München/Zürich: Artemis & Winkler 1991 (ISBN 3-8508-8905-X), Sp. 1263 und 1267.
  16. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. V. München/Zürich: Artemis & Winkler 1991 (ISBN 3-8508-8905-X), Sp. 1259.
  17. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. VII. München: LexMA 1995 (ISBN 3-7608-8907-7), Sp. 831. - de:Duden. Etymolgie. (Duden Band 7: Herkuntswörterbuch der deutschen Sprache) Bearbeitet von Günther Drosdowski, Paul Grebe und weiteren Mitarbeitern der Dudenredaktion. Bibliographisches Institut Mannheim/Wien/Zürich Dudenverlag 1963 (ISBN 3-411-00907-1), S. 776. - 河原温_(歴史学者) 『都市の創造力』(「ヨーロッパの中世」2)岩波書店 2009(ISBN 978-4-00-026324-5)、106頁。
  18. ^ ハンス・K・シュルツェ『西欧中世史事典―国制と社会組織―』(千葉徳夫他訳)[MINERVA西洋史ライブラリー㉒]ミネルヴァ書房 1997 (ISBN 4-623-02779-1)、289頁。 - Lexikon des Mittelalters. Bd. VII. München: LexMA 1995 (ISBN 3-7608-8907-7), Sp. 831. (A.Glier: >Richerzeche<).
  19. ^ エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 『ヨーロッパの中世都市』岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X)、209頁。
  20. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. V. München/Zürich: Artemis & Winkler 1991 (ISBN 3-8508-8905-X), Sp. 1258-1259.
  21. ^ エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 『ヨーロッパの中世都市』岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X)、207頁。
  22. ^ 堀越宏一『ものと技術の弁証法』(「ヨーロッパの中世」5)岩波書店 2009(ISBN 978-4-00-026324-5)、148-149頁。
  23. ^ 堀越宏一『ものと技術の弁証法』(「ヨーロッパの中世」5)岩波書店 2009(ISBN 978-4-00-026324-5)、256頁。
  24. ^ Geffrey Barraclough(ジェフリー・バラクロウ)編『新しいヨーロッパ像の試み―中世における東欧と西欧―』(宮島直機訳)刀水書房 1979 182頁(マイケル・ポスタン執筆)。
  25. ^ de:Edith Ennen : Die Frau in der mittelalterlichen Stadt. In : Bernd Herrmann (Hrsg.): Mensch und Umwelt im Mittelalter. Stuttgart: Deutsche Verlags-Anstalt 1986 (Lizenzausgabe für die Wissenschaftliche Buchgesellschaft, Darmstadt), S. 44-47.
  26. ^ 堀越宏一『ものと技術の弁証法』(「ヨーロッパの中世」5)岩波書店 2009(ISBN 978-4-00-026324-5)、137頁。
  27. ^ de:Der Spiegel Geschichte, Januar 2015: Die Menschen im Mittelalter. Herrscher, Ketzer, Minnesänger. Hamburg: SPIEGEL-Verlag 2015, S. 94.
  28. ^ 今来陸郎『都市と農民――中世のヨーロッパ』至誠堂 1973、58頁。
  29. ^ エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 『ヨーロッパの中世都市』岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X) 、305頁。
  30. ^ エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 『ヨーロッパの中世都市』岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X) 、275頁。
  31. ^ 今来陸郎『都市と農民――中世のヨーロッパ』至誠堂 1973、67-69頁。- Cord Meckseper: Kleine Kunstgeschichte der deutschen Stadt im Mittelalter. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1982 (ISBN 3-534-08579-5), S. 98.
  32. ^ ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハ『パルチヴァール』(加倉井粛之、伊東泰治、馬場勝弥、小栗友一訳) 郁文堂 1974年 ISBN 4-261-07118-5。改訂第5刷 1998年。82頁下。
  33. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. V. München/Zürich: Artemis & Winkler 1991 (ISBN 3-8508-8905-X), Sp. 2064-2065 (F.G.Zehnder). - Alfred Stange: Deutsche Gotische Malerei 1300-1430. Königstein im Taunus: Karl Robert Langewiesche Nachfolger Hans Köster 1964, S. 3. - Alfred Stange: Deutsche Spätgotische Malerei 1430-1500. Königstein im Taunus: Karl Robert Langewiesche Nachfolger Hans Köster 1965, S. 4-5.
  34. ^ Geffrey Barraclough(ジェフリー・バラクロウ)編『新しいヨーロッパ像の試み―中世における東欧と西欧―』(宮島直機訳)刀水書房 1979 197頁(アレクサンデル・ギェイシトル執筆)。
  35. ^ 今来陸郎『都市と農民――中世のヨーロッパ』至誠堂 1973、125頁。
  36. ^ ゲーテは1772年公刊の「ドイツの建築」(Von deutscher Baukunst)と題する評論において、ゴシック建築の傑作、シュトラースブルク(ストラスブール)の大聖堂とその建築家エルヴィン・フォン・シュタインバハを賛美している。― 菊池栄一訳「評論集」〔菊池栄一他訳『ゲーテ全集』第11巻、人文書院、1961、18-26頁〕。
  37. ^ “Germany shocked by Cologne New Year gang assaults on women”. BBC. (2016年1月5日). http://www.bbc.com/news/world-europe-35231046 
  38. ^ 川口マーン惠美『そしてドイツは理想を見失った』KADOKAWA、2018年、146頁。ISBN 978-4-04-082217-4
  39. ^ Michael Imhof / Stephan Kemperdick: Der Rhein. Kunst und Kultur von der Quelle bis zur Mündung. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2004 (ISBN 3-534-17215-9), S. 135-140.- なお、ハンス・K・シュルツェ『西欧中世史事典―国制と社会組織―』(千葉徳夫他訳)[MINERVA西洋史ライブラリー㉒]ミネルヴァ書房 1997 (ISBN 4-623-02779-1)、246頁によると、聖ゲレオン教会は「古代キリスト教の殉教者教会に起源を発する」。
  40. ^ Ulrich Boelicke u.a.: Römisch-Germanisches Museum Köln. Braunschweig: Westermann. 7.Aufl. 1995.
  41. ^ a b c d “Giving beer a home in the Rhineland”. The Local. (2011年7月28日). http://www.thelocal.de/society/20110728-36597.html 2011年7月28日閲覧。 
  42. ^ 秋山聰『聖遺物崇敬の心性史 西洋中世の聖性と造形』 講談社 2009、6-9頁。– Erhard Gorys : Lexikon der Heiligen. München: Deutscher Taschenbuch Verlag (ISBN 3-423-34149-1), 6. Aufl. 2005, S. 328. ここの記述では、今日では、殉教者はウルズラと10人の伴であった、とされている。 – Hiltgart L. Keller: Reclams Lexikon der Heiligen und der biblischen Gestalten. Stuttgart: Reclam 1968, S. 492-494. - 西欧中世のベストセラー、ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』151章「一万一千童貞殉教女」(1987年人文書院刊・前田敬作, 山中知子訳 第4巻所収;1994年新泉社刊・藤代幸一の抄訳では同じ章に「聖ウルスラ」の題が与えられている。)
  43. ^ 初版39番「小人たちの話」(Von den Wichtelmännern)の第1話。この話は、決定版でも39番であるが、そこでは「一番目の話」(Erstes Märchen)とのみあって、初版に記された「靴屋」のことは題名に示されていない。- Brüder Grimm: Kinder- und Hausmärchen. Bd. 4: Nachweise und Kommentare, Literaturverzeichnis. Nach der großen Ausgabe von 1857, textkritisch revidiert, kommentiert und durch Register erschlossen. Herausgegeben von Hans-Jörg Uther. München: Diederichs (ISBN 3-424-01339-0), 1996, S. 80-83.
  44. ^ Ausgabe der Klimadaten: Monatswerte”. 2017年4月27日閲覧。
  45. ^ Klimastatistik Köln-Wahn”. 2017年4月27日閲覧。
  46. ^ Kirsten Bolm Athlete Profile”. BYU Athletics. 2013年9月22日閲覧。

外部リンク編集

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