野坂 一郎(のざか いちろう、明治45年(1912年6月20日 - 没年不明)は、日本の無線技師実業家作家。元ラジオ山陰(現山陰放送常務[1]

右から野坂康久2代目坂口平兵衛青砥喜三郎高松宮宣仁親王青砥昇織田収、野坂一郎、伊坂定吉野坂寛治1954年ラジオ山陰開局)

鳥取県米子市長・野坂康夫伯父洋食レストランおよびレコード、楽器店を営んだ野坂康久(“十字屋”経営主)の長男。

経歴

編集

鳥取県西伯郡米子町(現米子市)出身。康久の長男[1]

昭和7年(1932年無線電信講習所本科卒業[1]大阪商船外国航路通信士[1]。上海華中電気通信股份有限公司日立造船各勤務を経て[1]、昭和29年(1954年)3月ラジオ山陰(現山陰放送)に弟陞三と勤める[2]

その間昭和13年(1938年サンデー毎日大衆文芸第一席に当選[1]。週刊朝日小説に三席入賞以後作品約十五発表[1]

人物像

編集

ラジオ山陰(現山陰放送)について、甥の野坂康夫によれば「戦前に無線技師をしていた経験を持つおじ(野坂)が発案し、祖父(康久)がこれを強力に支援し、父(陞三)と3人が協力し、たくさんのかたがたの参画、支援を得て、開局に至ったものだった[2]。」という。

趣味は文学書写真[1]宗教仏教[1]。住所は鳥取県米子市角盤町[1]

家族・親族

編集

野坂家

編集
鳥取県米子市法勝寺町、米子市東倉吉町、米子市角盤町、米子市錦町、米子市義方町
野坂家は米子・法勝寺町商家だった。屋号屋。米子での取り扱い業者としては唐櫛屋(益尾)、山形屋(上田)、油屋(野坂)などが有名であった[3]
慶応2年(1866年)9月 - 没
  • 父・康久(実業家、政治家)
明治22年(1889年)6月生 - 没
文久元年(1861年)2月生 - 大正12年(1923年)5月没
  • 大叔父・康二(実業家)
明治10年(1877年)4月生 - 没

出典

編集
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 第廿一版 人事興信録 昭和36年(1961年)、の八
  2. ^ a b 少年時代の思い出/「米子市ホームページ」
  3. ^ 『米子商業史』 23頁
  4. ^ 『人事興信録. 第8版』(昭和3年)ノ七
  5. ^ a b 『島根鳥取名士列伝、上』七十八
  6. ^ 『人事興信録. 6版』(大正10年)の二〇