瑞子女王

日本の鎌倉時代の皇族・女院。後宇多天皇の後宮

瑞子女王(ずいしじょおう、文永9年(1272年) - 元徳元年8月29日1329年9月22日))は、鎌倉時代女院宗尊親王の王女。後嵯峨天皇の孫。後宇多天皇の後宮。院号永嘉門院。母は堀川具教の娘で、堀川通具の孫女。土御門姫君とも称した。

瑞子女王

全名 瑞子(ずいし)
称号 永嘉門院
身位 女王准三宮女院
出生 文永9年(1272年
死去 元徳元年8月29日1329年9月22日)(享年58)
配偶者 後宇多天皇
子女 (養子)邦良親王
父親 宗尊親王
母親 堀川具教
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略歴

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文永9年(1272年)誕生。文永11年(1274年)父の宗尊親王は死去。

正安2年(1300年)、室町院が死去した際、かつて宗尊親王がその遺領を受け継ぐ取決めになっていたため、その娘の瑞子が所領を相続することとなった。室町院領は、後高倉院から式乾門院、室町院と相承されたもので、金剛勝院領・六条院領・七条院領・後高倉院法華堂領等を含む100余ヵ所からなる規模の大きいものであった。正安3年(1301年)、幕府により、瑞子はそのうち50余ヵ所を相続し、残りを大覚寺統亀山上皇)と持明院統伏見上皇)で折半するよう取り決められた。

翌正安4年(1302年)1月20日、瑞子は准三宮となり、院号の宣下を受けた(永嘉門院)。亀山上皇の猶子となってのことであるが、后妃でなく、皇女(内親王)でない孫女王への女院号宣下は異例の事であった[1]。さらに、瑞子は後宇多上皇後宮に入ったため、その所領は大覚寺統(亀山上皇・後宇多上皇)の管轄するところとなった。しかし、これに持明院統(伏見上皇)が反発し、幕府に異議を申し立て、瑞子が相続した室町院領も両統で折半することに決定した。20年を経た元亨3年(1323年)、永嘉門院は幕府に対し使者を送って所領に対する訴訟を起こしたが、結局訴えは退けられた。

所領のこともあってか、後宇多上皇からは重んじた扱いを受けた[2]。子女はなし。後二条天皇の皇子・邦良親王を養子とした[3][4]

元亨4年(1324年)6月、後宇多上皇が没したため、7月29日に落飾。法名を妙法智とした。元徳元年(1329年)死去。享年58。

脚注

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  1. ^ 「先故中務卿宗尊親王女瑞子三十歳。後嵯峨院皇孫。母堀川故大納言通具孫女。有准三宮宣下。加賜五百戸于本封外。次有院号定。無立親王及叙品等。凡皇孫女院号無先蹤。是為一院御猶子故云。号永嘉門院。」『続史愚抄』乾元元年一月二十日
  2. ^ 「中務の宮(宗尊親王)の御女もおしなべたらぬさまにもてなし聞え給ふ。すぐれたる御おぼえにはあらねど、御姉宮(掄子女王)の、故院(亀山院)に渡らせ給ひしよりは、いと重々しう思しかしづきて、後には院号ありき。永嘉門院と申し侍りし御事なり。」『増鏡』巻十二「浦千鳥」
  3. ^ 邦良親王の父・後二条天皇の生母は、堀河具守の娘・西華門院基子であり、瑞子女王の母とは同門の縁戚である。また、邦良親王の正妃崇明門院は、瑞子女王の姪にあたる。なお、崇明門院も瑞子女王の養女であったとする説もある(秋山喜代子「永嘉門院」『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年) ISBN 978-4-02-340052-8 P253.)。
  4. ^ 瑞子女王への女院宣下も彼女に邦良親王の後見・養育を任せるためにそれに相応しい身位を与える目的であったとする説もある(菊池大樹「宗尊親王の王孫と大覚寺統の諸段階」『歴史学研究』747号、2001年。)。

参考文献

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  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年
  • 「卜部兼好と周縁の人々:『兼好法師家集』207番「これとしの朝臣の家にて」を視座として」(『金沢大学大学院人間社会環境研究』23号、上島眞智子、p85-71、2012年)