佐藤寅太郎
佐藤 寅太郎(さとう とらたろう、慶応元年12月5日[1](1866年1月21日) - 昭和18年(1943年)9月21日[2])は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。教育者。
経歴
編集信濃国佐久郡長土呂村[3](現在の長野県佐久市)出身。長野県師範学校を卒業。同級生に河野齢蔵や矢澤米三郎がいた。明治43年(1910年)に長野県視学に就任し、同理事官、同視学官、同学務課長を歴任した。その後、信濃教育会副会長、同会長に選出された。県の教育行政の中枢にあって、上田女子師範学校の廃校や旧制長野工業専門学校の設立を主導した。
大正8年(1919年)の戸倉事件では長野県議会において、白樺派教師の懲戒処分に同調する答弁を行った。同9年(1920年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。同13年(1924年)以降は旧制岩村田中学(現長野県岩村田高等学校)の校長を務めた。