古賀善次
古賀 善次(こが ぜんじ、1893年(明治26年)4月19日[1] - 1978年(昭和53年)3月5日)は、日本の実業家、沖縄県多額納税者[2]。古賀商店社長。尖閣諸島所有者。
経歴
編集福岡県人、海産物商・古賀辰四郎の長男[1][3]。1918年、家督を相続した[1][2]。海産物輸移出商[注 1]としてほとんど全県下に取引網を有した[1]。時世の進運に伴い、組織を株式会社に変更し、自ら其社長となり、家業堅実に益々隆盛の一途を辿った[1]。
なお業務の傍ら那覇無尽の監査役であった[1]。その他那覇市水産会代議員、同評議員、那覇鰹節商同業組合、財団法人沖縄奨学会、沖縄県体育協会、那覇市体育協会等の各評議員として多方面に重きをなした[1]。
1972年、南小島と北小島を埼玉県大宮の栗原國起に譲渡[4]。1978年3月、死去。古賀善次とその妻花子の墓は、埼玉県大宮の曹洞宗大成山普門院栗原家代々の墓所にある[4]。
人物
編集資性温恭であり実直、しかも明朗闊達な反面があり、スポーツに趣味を有した[1]。古賀善次について栗原弘行によれば「生活ぶりはかなり質素だったと聞いている。家は雨露さえしのげれば良いという人だったようだ。石垣島の地主で金持ちのはずだが、ほとんどのお金を八重山のスポーツ振興に充てていた」という[4]。住所は沖縄県那覇市西本町[1][2]。
家族
編集- 古賀家
父・辰四郎は筑後国上妻郡山内村(現・福岡県八女市山内)出身である。八女地方はお茶の産地として知られ、古賀家も茶栽培を主とする農家だった。古賀家の三男だった辰四郎は、1879年、沖縄に茶の販売にきた。商売は順調に伸び、以後辰四郎は那覇に居を構えることになった。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 読売新聞社編『明治・大正・昭和日本徳行録 下巻』読売新聞社、1929年。
- 沖縄朝日新聞社編『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社、1937年。
- 栗原弘行『尖閣諸島売ります』廣済堂出版、2012年。